銀の髭、黄金の眼

遠影此方

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 焚き火の跡を土を混ぜ返して見えなくしてから、俺は森の中を歩き始める。木立は開けた道こそないものの、太陽の光に照らされて明るい。俺の歩くその横に、張り付くようにして、少年は歩く。冬のある日、行き倒れていた彼を拾い、私は旅をしている。行き先は分からない。ただ、あるときは生きるために、ある時は逃げるために、里を避け、村を忌み、街を睨んで通り過ぎてゆく。かつて、彼らのような人間であったのだろう。彼らを見ると、言いようのない哀愁に駆られるのだ。それが食欲でないのは、まだ救いがある。俺が人に襲い掛かるさまを思い浮かべるだけで、おぞましさに身の毛が逆立つのは、まだ喜べる。俺はまだ、獣の身で居ながら、人間の真似事をしていられるのだ。

 気がかりなのは、横を歩く少年の事だ。まだ生まれて十年も経ってはいないだろう。元気に満ち溢れてはいるが、危なっかしい。己の未熟さや、力の差を考えずにただ猛進しがちなのだ。すぐ泣く。不平や、癪に障ることを言う。怒ると暴れて、毛をむしられるか、ひげを引っ張られる。尻尾を噛まれたときはさすがに怒った。痛かったのはもちろんだが、噛むなんてことを戦いに使ってはならない。

 私と違って、猛獣ではないのだから。

 少年には、名前がない。最初に会ったときに問うてはみたが、首を横に振るばかりだった。後で聞いても、知らない、と返してきた。言葉は覚えているのに、記憶はさっぱり抜け落ちている。奇妙な事だ。まあ、こんな姿が目の前に居ては、思い出すものも思い出さないのかもしれない。

 慣れればいつか話してくれるだろう。だが、それは俺でなくとも結構だ。

 俺は迷っている。これからの行く道を、どう進んだらよいのか。このまま歩けばきっと森を抜けるだろうが、その先に村や里があれば、また迂回しなくてはならない。しかし、食料にも限りがある。この獣くさい外套で、猟師の振りをして村に入り込んで、またパンと水を手に入れなければならない。一度目は上手くいったが、それがどれほどの幸運か、またそれがどれほどの無謀であったか、後になってようやく分かった。同じことは二度とはできまい。次こそ正体は露呈し、私は村人の手で屠られるだろうからだ。言葉が通じていたとしても、それが何の意味もなさなかった事を、私はすでに知っている。記憶で憶えてはいなくとも、体が震える事で覚えているのだ。俺が人間でなくなったときの、その欠けた記憶と、この震えは、つながっているのだろう、と俺は信じている。
 では、一体どうすればよいのか。

「ハインリヒさん。」
 不意に元気な声で呼び止められて、おお、と声が漏れた。少年は背が低いからか、俺の顔を見るときは、いつも見上げる格好になる。それが彼にとって、あるときは嬉しく、あるときは不満になったりする。少年の心の変わりようは、山の天気を思い出させる。晴れたと思えば、かき曇り、雨が降ったと思えば、嵐になる。その中に居るものは振り回されるばかりだ。
「何だ。」
 すると少年はにやりと笑って、何でもない、と答える。
「暇だから、話しかけてみました。そしたら案の定驚くので。」
 この子供は面白いといいかけて口をつぐんだのはいいものの、口元の笑みはまだ消えない。そんなに変な声を出していただろうか、もしくは顔がおかしかったのか。
 何にせよ、どうやらまた新しい遊びを思いついてしまったらしい。面倒なことだ。
「ハインリヒさん。」
「何だ。」
「何でもないですよ。」
 この一連の応答が、少しの休憩を挟みつつ、何度も続いて、最初は、また驚くこともあったが、次第に慣れて、またいらいらした。いつまでこの一方的な遊びが続くのかわからないし、私はほかのことに精神を集中していたかったからだ。終いには、彼が「ハ」と言うときに、何だ、とかぶせて言うことで、封殺する方法を編み出した。少年はもう少し楽しめると思っていたのか、続きを阻害されると、驚いた後に不満そうに口をつぐんだ。

 この森は静かだ。鳥の鳴き声一つ、野兎の駆ける足音一つしない。森の中であれば今の季節なら、それらを狩ることで暮らしてゆけると思っていたが、森に入って二日が経った今でも、それらの姿はおろか、鳴き声や足跡などの痕跡すら見当たらない。住人のいない森では、木々の枝葉が風に揺れる音だけが、いやに冴えて聞こえる。ここには獣がいないのだろうか。しかし、そうであれば、少年の拾ってきた矢じりの説明がつかない。あれはまだ作られて新しく、錆は見られなかった。

 獣たちはすでに狩り尽されたところなのか、それとも、何かがあって逃げたのか。

 どちらも、考えたくはない想像ではある。前者であればここの周辺に猟師たちの町があったことになる。獲物が取れなくなったために、この森を抜けるなどして移動しないとも限らない。一団に遭遇したら、俺にはなす術がない。後者の場合、例えば森に火が放たれるなど、何らかの災いか呪いが降りかかっているかもしれない。そのような土地を歩くのは、あまりにも無謀だ。

 一人でいた時でさえ一日を生きるのに苦労するこの身で、情を捨てきれずに子供まで背負ってしまった。つくづく罪深い男だと、自分で認めているつもりだ。今横を歩く少年は、たまたま行き合ったに過ぎない縁だ。最初に出会った街を抜けた頃、やっと元気を取り戻した彼は、俺のもとから走り去るものだと、そう思っていた。人助けとは、そういうものだからだ。しかし、彼は今の俺のそばについて歩く。たぶん奇妙な風体に興味を抱いたのだろう。

 彼が望めば、相応のところへ逃がしてやろう、と少年の顔を見るたびに思う。その笑みは、俺の苦難の道のりを歩むには、あまりに無垢すぎる。俺は、きっとこの宝物を綺麗なままでは守れない。だが、せめて、この子がそばに居るうちは、俺が守ってやらなくてはならない。
 重すぎる試練だ。

「ハインリヒさん。」
 彼の声は高く澄んでいて、小鳥の歌声を思わせる。鳥かごの中で生きていた方が、はるかに安らかだろうに、なぜ、このような獣の周りを飛ぶのだろう。
「やめてくれ、きりがない。」
 少年はまだ、危険を知らない。生きる事の、そして死ぬ事の、血生臭いことを知らない。
 こいつは、初めて会ったあの時に、降りしきる雪のように音もなく死のうとしていたのだから。
 当然と言えば、当然なのか。

「ハインリヒさん!」
「何だ!」
 少年の声に気が逆立って、つい叫んでしまう。少年は、突然叫んだ俺にひるんだが、少し経ってから、あるものを俺の目の前に差し出した。
「さっき木立から音がしたと思って、そのほうの茂みに行ってみたら、こんなのがあって。」
 それは、細い木の枝の先に鉄の小さな穂先をつけたものだった。

「ハインリヒさん。これって、これって。」
 枝はそこらの木の枝そのもので、矢じりはついさっき見つけたものとひどく似ている。
 ひどく、新しい。
 まるで、ついさっき作られたばかりのようだ。
 私は悪夢でも見ているのではないかと、思ったが、悪夢らしい悪夢など、最近は見なくなっていた。しかし、現実は悪夢よりも悪夢的なのだ。
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