銀の髭、黄金の眼

遠影此方

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冷たい雨

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 窓から差し込む光は月光のように薄青く、吹き込む風はどこか涼しげだ。ドアはなく、間仕切りだけされた一人部屋に唯一残された机には、昨日からの読みかけの本が開いたままだ。まだ最初の三十ページも読んではいない。本が厚いせいか、昨日時間をかけて読んだはずの成果は、一見すると、表紙に同化しているように見えて成果がほとんどないかのようだ。少し気が滅入った。かといって本を閉じてしまうと、そのまま読まなくなってしまうために、本は開いたままにしている。誰かに読めと強制されたわけではない。けれど、一度手をつけたものを、そのままにするというのは、どこか後ろめたいものを感じてしまう。しかし、だからと言ってぼくが何事も最後までこなしたがる性格だろうかと言えば、そうでもない。あくまで自分の興味関心の向く範囲で、何かのっぴきならない事態のときに、そういう気持ちになるだけで、いつもはやるべき事など考えずにのんびりしていたいと思っている。ぼくは寝床から起き上がると、机の本を見て、昨日の記憶と擦り合わせながら、どこまで読んだのかを照合する。記憶を辿ると、両開きの左半分までは何とか読み終えていることが分かった。そうして、またすぐに戻ってこようと思いつつ、ぼくは部屋を出る。

 部屋を出ると、そのまま玄関の見えるリビングにつながっている。テーブルと、三つの椅子があり、後は壁際に灯の消えた暖炉があるのみだ。リビングには、一人、テーブルの上に食べかけのパンを置いた男が一人、静かに座っている。彼は、こちらの視線に気づくと、おはよう、と挨拶をする。

「おはようございます、ハヌア」

 ぼくはそう返すと、その男、ハヌアは少し不機嫌な顔をした。遠くのものを何とか目を細めてみようとするようなそのしかめ面は、普段の彼の柔和な顔つきとはかけ離れていたから、ぼくにはとても刺激的なものに映った。こらえきれずに口角が上がってしまったのか、ぼくを見るハヌアの目つきが少し緩んだ。この人は、もしかしたら、ぼくがいたずらの一つとして故意に彼の名を呼んだのではないか、と思ったのかもしれない。そして彼はいつもの、柔軟でどこか底の見えない笑みをぼくに向ける。

「父さん、と呼びなさい、ヤヌア。」

 ちょうど外に降る雨のように、慈愛に満ちた口調で、ハヌアは言う。その言葉のどこにも、そしてそれを発する彼の動作のどこにも、棘のようなものは見当たらない。けれど、ぼくはその言葉を聴くたびに、どうしても心の奥がちくりと痛むのだ。ぼくの父親であると名乗るこの男は、きっとぼくの父親なのだろうが、普通の子供たちが持つようには、ぼくはこの人と深い心の結びつきを感じることができずにいる。ハヌアと親しくなろうと近づくぼくの心のどこかで、何か見過ごせない欠けを感じるのだ。磁石を無理に近づけると、反発して退け合ってしまうように、見えない壁のようなものが、いつも彼とぼくの間にはある。それがぼくを、悲しみと憂いの小部屋へと連れてゆく。壁の向こうで、その断絶に気づいていても、なお呼びかける彼に、ぼくは向き合うことができずに、いつのまにか背を向けてしまっている。これはぼくだけの問題で、ハヌアには関係のないものだ。ただぼくが、壁の向こうを振り返る強さを持とうとせずに、身勝手な足掻きをしているだけなのだ。それで、ハヌアがなんとも思っていないはずもないことも、分かっている。ほんの数ヶ月前まで、死んだと思っていた息子が奇跡のように突然目の前に現れて、こうして生活の中で失った歳月を取り戻そうとしている。それを望む彼の目に、ぼくはどれだけ無機質に、薄情に見えていることだろう。しかし、彼は万感の思いを内に秘めて、こうして、ぼくが壁の向こうを向き直るのをじっと待っている。その悲痛ともいえる忍耐にも、いまだぼくは応えられていない。

 ぼくが何も言えずに席に着くと、ハヌアは、何も言わずに朝食と水を差し出した。黒麦のパンとベーコンが、一つずつ、それぞれ陶器の皿に乗ってぼくの前に差し出される。

 記憶が欠けていることを、不自由に思う事は、今までなかった。この村までの旅路の中で、ぼくには結局名前すら与えられなかったけれど、それを必要と感じる事さえなかったのだ。動かせる体と、命さえあれば、他には、何一つ、いらなかった。名前と、住処と、安心を、この地に来てからぼくは得た。しかし、ぼくはこの生活に、窮屈を感じずにはいられなかった。住処によってからだのあり方を縛られ、名前によって、魂が縛られている事は、ぼくにとって不自由を感じる要因でしかないのだ。名前を与えられることで、確かにぼくは、特別、になった。でも、それは、ヤヌア、という仮面をかぶる事で得られる特別であり、それまでの特別になりえなかった可能性は、その仮面をはめる事と同時に捨て去られなければならない。名前を与えられたヒトは、風のように漂う事は許されない。肉に縛られ、名に縛られながら、広大な大地の上を振り返ることなく歩いてゆかなければならない。引き返す事は、できない。足を一歩踏み出すごとに、それまで背後にあったはずの大地は音を立てて砕けて消えうせる。

 パンを裂けば、それを小さくする事ができるが、その切断面をぴったりと合わせてみたところで、パンは元に戻る事はない。パンを裂いたという事象だけが、皿の上に残る。

 ぼくはそこまで思ってから、ようやく、あることを思い出す。

「ハヌア、ハインリヒさんは、今どこにいるのでしょう。」

 やはり、ぼくはこの人の事を、自分の父親だとは感じられない。父さんという四文字を、筋肉の運動として発する事さえも、ぼくの体は拒絶している。まるで呪いだ。記憶を失う前、ぼくに何があったのか、ぼくは知らない。けれど、この体は、何か、ぼくの知らない事実を知っているのかもしれない。

 私は、暖炉の方に視線を移す。暖炉の傍には、大きな座椅子があり、そこには赤いローブが掛かっている。それは、ヤヌアを死の淵から助け出し、この村まで連れ出したある人の持ち物だ。名をハインリヒと言い、その体は獣のそれに堕ちている。その姿を、各地にはびこる魔物の噂に結びつける村人も多い。村長はこの事態を憂い、彼にその誤認を解く機会を与えた。

 同属狩り。

 海の国の魔物を殲滅することで、自らの身の潔白を示させる難行である。長老の家に通され、その提案を受けた彼は二つ返事で了承した。その間、ヤヌアを守護するという契約を条件にして。ヤヌアは、出てゆこうとする彼に追いすがったが、ヤヌアが眠った後、彼はそっとこの村を出て行った。

 彼が、その任についてから、もう一月が経つ。そう、記録している。

「もう、海の国に着いているころだろう。」

 そう言うと、待つだけなのはつまらない、とヤヌアはようやく愚痴を零した。
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