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街についた時のこと
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居間に入ると、トリシャがなぜかハインリヒさんの顔をじっと見つめていて、いったいこれは何の遊びなんだろうかと思った。声を掛けると、驚いたようにこちらを振り返る。どうも深い考え事をしていたらしい。そのような時は決まって、周りのことが全く見えなくなってしまうから、不意に意識の外から呼びかけられるとは考えもつかないらしい。トリシャは余りにも意表を突かれたのか、ほんの少し呆然として、そしてようやくぼくが起きて居間に来たことを分かったらしい。宝石のように澄んだ金色の目が、今度ははっきりとぼくを見とめる。
「おはよう、トリシャ。」
「おはよう。」
トリシャの挨拶からは、ぎこちなさはすっかり消えていた。考え事をしていたのか、と問うと、ええ、と返ってきた。トリシャはよくハインリヒさんのことを不用心だと笑うけれど、彼女の方だってハインリヒさんに引けを取らないほど、ものを考えている時は周りが見えていない。トリシャはそういうことには気づかないようで、たまに指摘してやると変にそれを意識するようになる。自分自身に対して興味がないのだろう。金色の長い髪は腰まで届こうとしているが、彼女はそれに見向きもしない。多分、塔の中で四年間も飽きるほどに自分の姿を見続けてきたからかもしれない。それに加えて、彼女は塔の頂上から見えるわずかな景色に長い間心を惹かれ、また妬んできた。外の世界というものは自分にはないものばかりで満ちているからいっそう輝いて見えると、街に降りたその日、石畳を軽やかに歩きながらトリシャは嬉しそうに言った。
街に降りたその日のことは忘れてはならないだろう。ぼくらは竜に乗ってこの街を訪れた。竜は言葉を話し、名前はレーゲと言った。ハインリヒさんが旅の途中に知り合ったのだという。銀色の鱗に包まれたレーゲは見てくれこそ綺麗だが、吐く言葉は乱暴ですぐ癇癪を起こす。ぼくが何か指示しようとすると、問答無用で火を吹きかけようとする。ハインリヒさんにはよく突っかかって、毛むくじゃらと馬鹿にする。一方でトリシャに対しては普通に話しているから不思議だ。
この街に降りたいと言ったのはトリシャだった。森を越え、草原を越えて茶色いレンガの集まりが見えたとき、あそこに行きたいと指差したのだ。レーゲはそれに従って街に向かって降りていった。茶色い塊のようだった街は近づくにつれ、その中に引かれた街道や部屋が積み重なったような建物に、人々がひしめくようにして暮らしていることがありありと見えてきた。トリシャは目を輝かせてそれに見入っていたが、見る人見る人がすぐに建物の中に姿を隠してしまうことを疑問に思っていた。
その疑問はすぐに晴れた。レーゲが時折痛い痛いとわめき始めたのだ。レーゲの背に乗っているぼくたちは、レーゲが痛みに体を震わせる度に何度も落ちそうになってその度にハインリヒさんに腕や手を掴んでもらいなんとか堪えた。どうやら街に駐屯している衛兵たちが突然現れた竜に向かって弓矢をもって応戦してきているらしく、レーゲの足元では街の人々がちょっとした狂乱を起こしていた。レーゲは人間の攻撃で痛みを覚えることにひどく怒って、街路に向かって炎を吐こうとする。それを何とか三人でなだめつつ、矢の届かない中空まで浮上すると、追ってくる衛兵たちから逃げるためにぼくらはハインリヒさんの案に従って一度、森に向かって飛び去った。レーゲは森を越えてその先の平原に降りようと思っていたらしいのだが、新緑の森を抜ける最中に、翼を羽ばたかせる力はみるみる弱くなり、高度は下がっていった。
白銀の竜は両翼を広げた体勢のまま、森の木々に衝突する。枝葉だけでなく幹までもがけたたましい叫び声をあげながら薙ぎ倒されてゆく。飛び散る枝葉が頬を掠めて、傷を増やしてゆく。ぼくらはそれらの枝葉が目などの急所に当たらないように、各々で身を守ることしか出来なかった。
しばらくしていくつもの幹が折り重なった残骸の上で、ようやく竜の動きは止まった。始めに竜の体から降りたのはトリシャだった。彼女は竜の体が止まると背中から降り、竜の顔に向かってたまらず駆け寄っていた。トリシャはひどく興奮した声で、伏した白銀の竜に呼びかける。彼女の言葉から伝わる必死さはレーゲの怪我の責任の重さに耐えているうめきから出ているように思えた。トリシャの声に気がついたのか、ぼくとハインリヒさんが足場の悪い残骸の上に降りた時に、レーゲはうめき声を漏らした。レーゲは銀の鱗の目蓋を薄く上げ、その赤い眼を薄く見せる。心配そうに覗き込むトリシャをレーゲは責めもしなければ、その誤解を晴らそうともしなかった。ただ、してやられた、という言葉を忌々しげに呟いたのだ。
「おはよう、トリシャ。」
「おはよう。」
トリシャの挨拶からは、ぎこちなさはすっかり消えていた。考え事をしていたのか、と問うと、ええ、と返ってきた。トリシャはよくハインリヒさんのことを不用心だと笑うけれど、彼女の方だってハインリヒさんに引けを取らないほど、ものを考えている時は周りが見えていない。トリシャはそういうことには気づかないようで、たまに指摘してやると変にそれを意識するようになる。自分自身に対して興味がないのだろう。金色の長い髪は腰まで届こうとしているが、彼女はそれに見向きもしない。多分、塔の中で四年間も飽きるほどに自分の姿を見続けてきたからかもしれない。それに加えて、彼女は塔の頂上から見えるわずかな景色に長い間心を惹かれ、また妬んできた。外の世界というものは自分にはないものばかりで満ちているからいっそう輝いて見えると、街に降りたその日、石畳を軽やかに歩きながらトリシャは嬉しそうに言った。
街に降りたその日のことは忘れてはならないだろう。ぼくらは竜に乗ってこの街を訪れた。竜は言葉を話し、名前はレーゲと言った。ハインリヒさんが旅の途中に知り合ったのだという。銀色の鱗に包まれたレーゲは見てくれこそ綺麗だが、吐く言葉は乱暴ですぐ癇癪を起こす。ぼくが何か指示しようとすると、問答無用で火を吹きかけようとする。ハインリヒさんにはよく突っかかって、毛むくじゃらと馬鹿にする。一方でトリシャに対しては普通に話しているから不思議だ。
この街に降りたいと言ったのはトリシャだった。森を越え、草原を越えて茶色いレンガの集まりが見えたとき、あそこに行きたいと指差したのだ。レーゲはそれに従って街に向かって降りていった。茶色い塊のようだった街は近づくにつれ、その中に引かれた街道や部屋が積み重なったような建物に、人々がひしめくようにして暮らしていることがありありと見えてきた。トリシャは目を輝かせてそれに見入っていたが、見る人見る人がすぐに建物の中に姿を隠してしまうことを疑問に思っていた。
その疑問はすぐに晴れた。レーゲが時折痛い痛いとわめき始めたのだ。レーゲの背に乗っているぼくたちは、レーゲが痛みに体を震わせる度に何度も落ちそうになってその度にハインリヒさんに腕や手を掴んでもらいなんとか堪えた。どうやら街に駐屯している衛兵たちが突然現れた竜に向かって弓矢をもって応戦してきているらしく、レーゲの足元では街の人々がちょっとした狂乱を起こしていた。レーゲは人間の攻撃で痛みを覚えることにひどく怒って、街路に向かって炎を吐こうとする。それを何とか三人でなだめつつ、矢の届かない中空まで浮上すると、追ってくる衛兵たちから逃げるためにぼくらはハインリヒさんの案に従って一度、森に向かって飛び去った。レーゲは森を越えてその先の平原に降りようと思っていたらしいのだが、新緑の森を抜ける最中に、翼を羽ばたかせる力はみるみる弱くなり、高度は下がっていった。
白銀の竜は両翼を広げた体勢のまま、森の木々に衝突する。枝葉だけでなく幹までもがけたたましい叫び声をあげながら薙ぎ倒されてゆく。飛び散る枝葉が頬を掠めて、傷を増やしてゆく。ぼくらはそれらの枝葉が目などの急所に当たらないように、各々で身を守ることしか出来なかった。
しばらくしていくつもの幹が折り重なった残骸の上で、ようやく竜の動きは止まった。始めに竜の体から降りたのはトリシャだった。彼女は竜の体が止まると背中から降り、竜の顔に向かってたまらず駆け寄っていた。トリシャはひどく興奮した声で、伏した白銀の竜に呼びかける。彼女の言葉から伝わる必死さはレーゲの怪我の責任の重さに耐えているうめきから出ているように思えた。トリシャの声に気がついたのか、ぼくとハインリヒさんが足場の悪い残骸の上に降りた時に、レーゲはうめき声を漏らした。レーゲは銀の鱗の目蓋を薄く上げ、その赤い眼を薄く見せる。心配そうに覗き込むトリシャをレーゲは責めもしなければ、その誤解を晴らそうともしなかった。ただ、してやられた、という言葉を忌々しげに呟いたのだ。
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