「仕方ない」には疲れました ~三年続いた白い結婚を終わらせたら、辺境公爵の溺愛が待っていました~

ゆぷしろん

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2.

 レーヴェン子爵領は、王都から馬車で三日ほど北東にある。

 山裾に広がる小さな領地で、派手さはない。だが清らかな水と肥沃な土に恵まれ、古くから薬草の栽培で知られていた。

 実家の門が見えた時、エリスは息を詰めた。

 蔦の絡まる石壁。白い小花の咲く庭。幼い頃によく腰かけた古い楡の木。

 馬車が止まるより早く、玄関扉が開いた。

「姉様!」

 弟のノアが飛び出してきた。続いて父カイル・レーヴェン子爵が現れる。病の後遺症で杖をついているが、その目は強く温かい。

「エリス」

 父の声を聞いた瞬間、三年分の我慢がほどけた。

「お父様……ただいま帰りました」

「ああ。よく帰ってきた」

 父は何も聞かなかった。

 なぜ帰ったのか。夫と何があったのか。世間体をどうするのか。

 ただ娘の背を、不器用に何度も撫でてくれた。

 足元の籠からリュンが顔を出す。

 ノアが目を丸くした。

「姉様、猫も連れてきたの?」

「ええ。私の大切な友達なの」

「じゃあ、今日からうちの家族だ」

 当然のように言われて、エリスはまた泣きそうになった。

 翌朝、食卓でノアは不満そうにパンをちぎっていた。

「あの伯爵、絶対に許さない。妻のことを何だと思っているんだ」

「ノア、口を慎みなさい」

「父上だって怒っているくせに」

 父は紅茶を一口飲み、静かに言った。

「怒っているとも。だがエリスが自分で決めたことだ。私たちは彼女を守る。彼女の代わりに人生を決めるわけではない」

 守る。

 その言葉は、こんなにも温かいものだったのか。

「ありがとう。けれど、離縁後に問題が起こるかもしれません。伯爵家と結んだ薬草取引は見直されるでしょうし、私が作った販路も……」

「それなら、ちょうど相談がある」

 父が一通の封書を差し出した。

 封蝋には、黒い翼を広げた鷹の紋章。

「グランツ公爵家……?」

 北方辺境を治める名門公爵家。王国の盾と呼ばれ、魔獣の森から国を守る一族。その当主ディートリヒ・グランツは、若くして爵位を継いだ竜騎士公爵として知られていた。

「公爵領で流行り病が出ているらしい。王都の薬師では対処が遅れていて、うちの薬草と調合師の助力を求めてきた」

「すぐに在庫を確認します」

「疲れているなら、休んでもいい」

 エリスは首を横に振った。

「休むより、役に立ちたいのです。誰かに必要とされることを、怖いことだと思いたくありません」

 父は目を細めた。

「なら、任せよう」

 その日のうちに、エリスは倉庫にこもった。

 熱冷ましの銀露草、咳止めの月桂根、滋養を補う赤蜜花。帳簿を開き、在庫と品質を確認し、薬師たちに指示を出す。

 伯爵家で覚えた領地経営の手腕は、無駄ではなかった。

 翌朝、グランツ公爵家の使者が到着した。

 使者と聞いていたのに、玄関前に立っていたのは、黒い軍服をまとった長身の男性だった。

 銀灰色の髪、冬の湖のような青い瞳。硬質な顔立ちだが、礼をする所作は驚くほど優雅だった。

「突然の訪問をお詫び申し上げます。ディートリヒ・グランツです」

 エリスは思わず固まった。

 公爵本人が来たのだ。

「領民の命に関わることです。人任せにはできません」

 ディートリヒの視線が、薬草箱の横に立つエリスへ向いた。

「あなたが、調合と輸送計画をまとめてくださった方ですね」

「エリス……いえ、エリス・レーヴェンでございます」

 エリスは実家の姓を選んだ。もう、ヴァイス伯爵夫人ではいたくなかった。

「レーヴェン嬢。礼を言います。あなたのおかげで、救える命が増えます」

 ありがとう、と言われただけだ。

 それなのに胸が詰まりそうになった。

 夫は、彼女の仕事を当然のものとして受け取った。領地帳簿を整えても、販路を開いても、屋敷を切り盛りしても、「助かる」の一言で終わった。

 けれど目の前の公爵は、彼女の手元のインク汚れまで見て、その努力に礼を述べている。

「当然のことをしただけです」

「当然のことを、当然にできる人は実はあまり多くないんですよ」

 ディートリヒは薬草箱の札を指した。

「ほら、箱ごとに症状別の札がついている。文字が読めない者にも分かるよう、色と印で分けてある。熱で混乱した現場でも、これなら間違いが減る。薬草だけでなく、扱う人間のことまで考えている」

 エリスは言葉を失った。

 誰にも気づかれなかった小さな配慮。

 それを、この人は見つけた。

 足元の植え込みからリュンが顔を出し、知らない客人に向かって低く唸った。

「リュン、大丈夫よ」

 エリスが声をかけると、ディートリヒは一歩下がった。猫を怖がらせないための動きだった。

「失礼。彼の縄張りに踏み込んでしまったようです」

「彼、ですか」

「違いましたか」

「ええ、オスです。でも、よく分かりましたね」

「ふふ。警戒の仕方が騎士のそれと似ています」

 大真面目に言われて、エリスは思わず笑った。

 ディートリヒの表情がわずかに和らぐ。

 雪解けのような微笑みだった。
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