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3.
公爵領への薬草支援は半月続いた。
エリスは症状別の処方をまとめ、追加の薬草を手配し、輸送計画を組み直した。ディートリヒは何度も報告の手紙をくれた。
『あなたの指示書のおかげで、村の薬師たちが迷わず動けました』 『昨日、熱が下がった子どもが、母親と一緒にあなたへ礼を言っていました』 『リュン殿にもよろしくお伝えください。前回は彼の庭を騒がせました』 『どうか無理をなさらないでください。あなたの代わりはおりません』
あなたの代わりはおりません。
その一文を読んだ夜、エリスは手紙を胸に当てて泣いた。
悲しい涙ではなかった。
自分が自分でいてもよいのだと、誰かに許されたような涙だった。
離縁の書類は、予想どおり難航した。
アルベルトは最初、署名を拒んだ。
『一時の感情で家を出たことは不問にする。戻ってこい』
謝罪でも、懇願でもない。
命令だった。
エリスは短く返事を書いた。
『私は戻りません。離縁に応じてください』
たとえアルベルトが署名を拒み続けても、証拠を揃えれば法律院に申し立てることはできる。だが、長引けば実家にも迷惑がかかる。
翌週、アルベルト本人がレーヴェン子爵邸を訪ねてきた。
応接室に通された彼は、少し痩せて見えた。いつも整えられていた金の髪には疲れがにじみ、目の下には薄い影がある。
「エリス。帰ってきてほしい」
「お断りします」
即答すると、彼は傷ついたような顔をした。
「私は君を蔑ろにするつもりはなかった」
「つもりがなくても、結果は同じです」
「セシリアの父上は私の父の恩人だ。死の床の彼に頼まれたんだ、娘を頼むと。だから放っておけなかった」
「それで妻の私は、放っておいてもよかったのですか?」
アルベルトは黙った。
「君は、いつも落ち着いていた。だから理解してくれていると思った」
「落ち着いているように振る舞っていただけです」
「泣かなかった」
「泣く場所をいただけませんでした」
アルベルトの指が震えた。
「……すまなかった」
その言葉を、三年間待っていた。
なのに、聞いても心は動かなかった。
「謝罪は受け取ります。けれど、離縁してください」
「どうしてだ。私はやり直したい」
「私はやり直したくありません。ずっとセシリア、セシリアで、私のことなんか見てこなかったくせに」
エリスは彼の目を見た。
「あなたは私との夫婦生活をやり直したいわけではありません。都合よく耐え、都合よく許し、都合よく屋敷を整える妻がいなくなって困っているだけです」
「違う!」
「では、私の好きな花をご存じですか」
アルベルトは口を閉じた。
「私が眠れない夜に飲んでいたお茶は? 父が倒れた時、私があなたに何通手紙を書いたかは? 結婚一周年の夜、私がどんなドレスを着て待っていたかは?」
一つも答えは返ってこなかった。
「私はあなたの隣にいたのに、あなたは私を見ていませんでした」
アルベルトは両手で顔を覆った。
「頼む。もう一度だけ機会をくれ」
「いいえ」
拒絶は静かだった。
「私はもう、自分を大切にしない人のために、自分を粗末にしません」
その時、扉が叩かれた。
「お嬢様、これからグランツ公爵閣下がお見えになると早馬がありました。緊急のご相談とのことです」
アルベルトの顔が険しくなる。
「グランツ公爵?」
「失礼いたします。お話は以上です」
「待て、なぜ公爵が君を訪ねる」
「仕事です。とにかくお引き取りください」
アルベルトは怒りとも悲しみとも焦りともつかない表情を浮かべていた。今まで見たことがない顔だ。
何とか彼を追い返し、しばらくするとディートリヒが訪ねてきた。外套が雨に濡れている。
ディートリヒはエリスを見るなり、深く頭を下げた。
「突然申し訳ありません。王都からの輸送路で薬草を積んだ荷車が足止めされています。代替路について、あなたの意見を伺いたい」
意見を伺いたい。
ただ呼びつけるのではなく、命じるのでもなく。わざわざ自分でここまで来られるなんて。
エリスは背筋を伸ばした。
「地図をお持ちですか」
二人は書斎へ向かった。
エリスは症状別の処方をまとめ、追加の薬草を手配し、輸送計画を組み直した。ディートリヒは何度も報告の手紙をくれた。
『あなたの指示書のおかげで、村の薬師たちが迷わず動けました』 『昨日、熱が下がった子どもが、母親と一緒にあなたへ礼を言っていました』 『リュン殿にもよろしくお伝えください。前回は彼の庭を騒がせました』 『どうか無理をなさらないでください。あなたの代わりはおりません』
あなたの代わりはおりません。
その一文を読んだ夜、エリスは手紙を胸に当てて泣いた。
悲しい涙ではなかった。
自分が自分でいてもよいのだと、誰かに許されたような涙だった。
離縁の書類は、予想どおり難航した。
アルベルトは最初、署名を拒んだ。
『一時の感情で家を出たことは不問にする。戻ってこい』
謝罪でも、懇願でもない。
命令だった。
エリスは短く返事を書いた。
『私は戻りません。離縁に応じてください』
たとえアルベルトが署名を拒み続けても、証拠を揃えれば法律院に申し立てることはできる。だが、長引けば実家にも迷惑がかかる。
翌週、アルベルト本人がレーヴェン子爵邸を訪ねてきた。
応接室に通された彼は、少し痩せて見えた。いつも整えられていた金の髪には疲れがにじみ、目の下には薄い影がある。
「エリス。帰ってきてほしい」
「お断りします」
即答すると、彼は傷ついたような顔をした。
「私は君を蔑ろにするつもりはなかった」
「つもりがなくても、結果は同じです」
「セシリアの父上は私の父の恩人だ。死の床の彼に頼まれたんだ、娘を頼むと。だから放っておけなかった」
「それで妻の私は、放っておいてもよかったのですか?」
アルベルトは黙った。
「君は、いつも落ち着いていた。だから理解してくれていると思った」
「落ち着いているように振る舞っていただけです」
「泣かなかった」
「泣く場所をいただけませんでした」
アルベルトの指が震えた。
「……すまなかった」
その言葉を、三年間待っていた。
なのに、聞いても心は動かなかった。
「謝罪は受け取ります。けれど、離縁してください」
「どうしてだ。私はやり直したい」
「私はやり直したくありません。ずっとセシリア、セシリアで、私のことなんか見てこなかったくせに」
エリスは彼の目を見た。
「あなたは私との夫婦生活をやり直したいわけではありません。都合よく耐え、都合よく許し、都合よく屋敷を整える妻がいなくなって困っているだけです」
「違う!」
「では、私の好きな花をご存じですか」
アルベルトは口を閉じた。
「私が眠れない夜に飲んでいたお茶は? 父が倒れた時、私があなたに何通手紙を書いたかは? 結婚一周年の夜、私がどんなドレスを着て待っていたかは?」
一つも答えは返ってこなかった。
「私はあなたの隣にいたのに、あなたは私を見ていませんでした」
アルベルトは両手で顔を覆った。
「頼む。もう一度だけ機会をくれ」
「いいえ」
拒絶は静かだった。
「私はもう、自分を大切にしない人のために、自分を粗末にしません」
その時、扉が叩かれた。
「お嬢様、これからグランツ公爵閣下がお見えになると早馬がありました。緊急のご相談とのことです」
アルベルトの顔が険しくなる。
「グランツ公爵?」
「失礼いたします。お話は以上です」
「待て、なぜ公爵が君を訪ねる」
「仕事です。とにかくお引き取りください」
アルベルトは怒りとも悲しみとも焦りともつかない表情を浮かべていた。今まで見たことがない顔だ。
何とか彼を追い返し、しばらくするとディートリヒが訪ねてきた。外套が雨に濡れている。
ディートリヒはエリスを見るなり、深く頭を下げた。
「突然申し訳ありません。王都からの輸送路で薬草を積んだ荷車が足止めされています。代替路について、あなたの意見を伺いたい」
意見を伺いたい。
ただ呼びつけるのではなく、命じるのでもなく。わざわざ自分でここまで来られるなんて。
エリスは背筋を伸ばした。
「地図をお持ちですか」
二人は書斎へ向かった。
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