青眼の烏と帰り待つ羊

鉄永

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4部

第四話

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 しとしとと、雨の降る音でちひろは目を覚ます。
 むむむと眠気にあらがうように伸びあがり、ベッドから降りる。
 カーテンを開けるとうっすらと暗い雲がかかっていて、そこそこ強い雨が降っていることが分かる。
 そういえば、台風になりそこねた低気圧が近付くのだと、ネットニュースのアナウンサーが言っていた。
 ほんのりいつもより冷える窓辺から遠ざかり、部屋から出る。
 いつものように顔を洗いにいこうとして、ちひろはリビングを二度見した。
 生が、リビングの窓辺で佇んでいた。
 それだけなら特に違和感は無いけれど、不思議なことに、生の前の窓は、大きく開かれているのだ。
 カーテンがばたばたと音を立て、屋根の下から入り込んだ雨水がリビングの床を濡らしている。
「生、おはよう、どうしたの?」
 ちひろはあいさつをしてみるが、反応が返ってこない。
 首を傾げながら。ちひろはそうっと生に近寄って、顔をのぞき込んでみた。
 その顔は無表情で、試しに手を前で振ってみても反応しない。
 いつからそうしていたのか、雨水でしっとりと体が濡れている。
 ちひろは不安になりながらも、リビングの水たまりをそれ以上広げまいと、窓を閉めた。
 そして、改めて生に声をかける。
「生、大丈夫?風邪引いちゃうよ」
 温めるように生の腕をさすりながら揺らすと、生の焦点がゆっくりと合い、ちひろを見た。
 痙攣するように瞬きをして首を振り、今の自分の状態を把握できたのか、「え、あ、うわ、冷た」と呟いて数歩動く。
「お、はよう。ちひろ、これ…」
「おはよう、生。起きた?」
「…寝てた?」
「そうみたい」
 ちひろはほっとする。
 試しに生の額に触れてみるが、熱はなさそうだ。
 生は目をつぶって長く息を吐いてから苦笑いをする。
「…大丈夫、多分。稀によくあるやつ」
「そうなの?」
「うん。ごめん、心配かけて」
「いいよ」
 大丈夫と言いつつ、生はそのままぼんやりとして動こうとしない。
 その場から動かすように手を引いてみると、素直についてくる。
 風呂場まで連れてくると、生は一人で中に入って、扉を閉めた。
 衣擦れの音から、着替え始めたことが分かる。
 普段は何事もスマートにこなす生が、今日は全身に鉛でもつけているかのような緩慢さだった。
 疲れているのか、体調が悪いのかは分からないが、体調の悪い時にその理由を問い詰めることは、本人の負担になりかねない。
 とにかくちひろは、こういう時こそ生がゆっくりできるようにすることが大切だとこぶしを握る。
 その日、生はほとんど眠っていた。
 ソファから長い脚をはみださせ、すやすやと眠る様子が珍しくて、ちひろはソファの前に座ってその様子を眺める。
 ほんのり湧いた悪戯心のまま、頬をつついてみるが、全く起きる様子が無い。
 ふと、今なら彼が普段見せようとしない怪我を見れるのではないかと思った。
 そっと服の裾を持ち上げ、中を覗く。
 鍛えられた滑らかな凹凸のある腹にきゅんとする前に、ちひろは目についた包帯の白色に心臓を掴まれて、裾をそっと元の位置に戻す。
 やはり疲れていたのだろう。
 ちひろは毛布を持ってきて生にかける。
 そういえば、ゆきを見送ったあの雨の夜も、生はこんなふうに寝入っていた。
 生がこんなふうに頑張らなくとも、毎日ゆっくりと眠れるようになれたらいい。
 ちひろは立ち上がって、家事に戻った。


***


 生はふっと浮上する意識のまま、身体を起こそうとして、自分の体からずり落ちそうになった布団を慌てて掴む。
 間近に感じる寝息を目線でたどれば、ソファに頭を預けながら、床に座り込んだ体勢で寝ているちひろがいた。
 腕を伸ばしてスマホを掴み、時間を確認すれば、草木も眠るような時間帯である。
 片手で顔を覆ってため息をつき、ちひろの肩を優しく叩く。
 ちひろはうっすらと目を開けて、あくびをしながら伸びあがり、「おはよ」と顔を緩ませた。
「ごめん、起こして。布団ありがとう」
「うん」
「ベッド行けそう?」
「うん。…いっぱい寝れた?」
「寝れた。ありがとう」
 むしろ寝すぎたくらいだが、長く寝たおかげか、疲れはかなり取れていた。
「あれは、急になるの?」
 ちひろの「あれ」とは、自分が丸一日眠る状態のことだろう。
 「雨が降る時だけだよ」と答えながら、生はいつからそうだったのか思い起こす。
 正直いつからなのか、どうしてなるのか正確なところは生にも分からない。
 ただ分かることは、疲れが溜まった日で天候が悪いと、高確率で意識が朦朧としてしまうということだった。
 仕事に支障が出るため、そういう日はあらかじめアラームをかけ、数時間に一回起きられるようにしていたのだが、今回は完全に油断していた。
 布団を軽くたたんでソファから立ち上がろうとした生は、ちひろに押しとどめられた。
 そのまま頭を抱きこまれ、驚いて首をすくめる。
「ゆきの、おはか」
 久々に聞いた自分の妹の名前に、覚め切っていなかった生の脳が一気に覚醒する。
「お墓参り、できてないの。だから、雨が止んだら、一緒に行こう」
 思ってもみなかった提案に、生は息をのむ。
 ちひろがどうして急に墓参りに行きたいと言い出したのか、どうして自分をこうして抱きしめるのか、分からない。
 もし普段の状態で言われたら、なにかしら理由を付けて「今は無理だ」と押しとどめたかもしれない。
 けれど、生はゆっくりと体の力を抜き、ちひろの体に頭を預けた。
「…うん」
 なぜか、今の自分とちひろにとって、それは必要なことだと感じたのだ。
 


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