青眼の烏と帰り待つ羊

鉄永

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5部

第三話

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 頭の中が霞がかるような眠気に、ちひろは顔を上げて、持っていた毛糸と編み棒を机の上に置く。
 時計の針はとうに草木も眠るような時間だ。
 最近では、玄関で待つちひろを見かねて、遅くなる時はメールで一報を入れてくれるようになったのだが、今日はその連絡すらない。
 仕事用の連絡先だから、ちひろからメールはしないでほしいと言われているが、現状ちひろと生が連絡を取れる唯一のアドレスに、ちひろは何度もメールを打とうとしては、思い直して下書きを消す。
 溜息をついて、落ち着かない気持ちを紛らわせるようにちひろは掃除を始めた。
 あわよくば生が出かけた先を知れる手掛かりがないかと、普段は触らないエアコンの上や冷蔵庫の裏を拭き上げ、ベッドの下を覗いたところで、ちひろはベッドの裏側にガムテープで布の包みがくっつけられているのを見つけた。
 床に頬をこすりつけながらガムテープを剥がし、包みを取る。
 中に入っていたのは大量の鍵と、見慣れない二つ折りの携帯、何かの書類、そして何冊かの通帳だった。
 明らかに貴重品らしきそれらに驚きながら、少しためらいつつ、通帳を開いてみる。
 思っていたよりもゼロの多い金額に、いちじゅうひゃく…と何度も桁を数え、そっと閉じる。
 そういえば、いつか礼のお墓の場所に家を建てたいと言ったとき、生は「できるよ」と何でもないことのように頷いていた。
 ちひろはよく知らないが、地面にも値段はあるし、家を建てるのもお金が沢山必要だろうと思っていたので、軽く返される言葉をあまり本気にはしなかったけれど、生はきっと本気で言っていたのだ。
 包みを元に戻そうとして、ちひろは違和感を感じてもう一度通帳を開く。
 口座の名義は、生の名前ではなく、ちひろの名前だった。
 どの通帳を開いても、ちひろの名前で登録されている。
 嫌な予感がした。
 包みの中身をもう一度確認する。
 書類はこの家の売買契約書や住民票などで、それらもすべてちひろ名義だ。
 鍵はご丁寧に「玄関」や「シャッター」などのタグが付いている。
 この一式があれば、ちひろはこの家で〝ひとりで”暮らせてしまう。
 ぞっとした。
 生は、もしかして、黙ってこの家から出ていくつもりだったのではないだろうか。
 もしかしたら、今日がその日だったのではないだろうか。
 膨らんでいく不安に喉が詰まる。
 その時、机に置いたスマホの画面に通知を知らせる明かりがつき、ちひろは慌ててスマホを手に取る。
『連絡が遅れてごめん。急な仕事が入っていました。帰れる時間の目途が付けばもう一度連絡します』
 メールの文面に長く息を吐いて、ちひろはその場に座り込み、膝を抱えた。
 良かったという安堵と、消えない不安。
 もしかすると、あの『その日のうちに帰ってきてほしい』という約束が、生にとって大きな負担になっているのかもしれない。
 膝に乗せた頭を動かし、包みを眺める。
 今の生活を続けていたいとは思っているけれど、生の生活を奪いたいわけではなかった。
 けれど、生の優しさに甘えて、結果的にそうなってしまっていたのかもしれない。
 のろのろと立ち上がり、中身を元通りに詰め直して、ベッドの下に貼りなおす。
 生に包みのことを問いただした方がいい気はしたけれど、「実は出ていくつもりだったのだ」と肯定された時のショックを、ちひろは受け入れられそうになかった。


***


「ただいま。心配かけてほんとうにごめん」
 生は昼前にちひろの待つ家の扉を開いた。
 帰る時間を知らせるようになってから、前のように毛布を被り、船を漕ぐことは無くなったものの、やはりその日もちひろは玄関で待っていた。
「おかえりなさい。心配した。…大丈夫だった?」
「大丈夫」
 ちひろの顔を見て生はほっと息をつく。
 今回の仕事はかなり体力的に削られたため、無事に帰って来られた実感に安堵する。
「生、あのね。やっぱり、毎日帰ってくるって、大変だよね」
「ん?うん、そりゃね」
 ちひろと話しながら廊下を抜けて、部屋に入り、クローゼットを開ける。
 生の後ろでいそいそと手伝いたそうなちひろにコートとハンガーを渡しながら、コンタクトを外してゴミ箱に捨てる。
「でも、帰るのが大変って、職場で寝泊まりしたら楽って言っちゃうようなものだし、毎日帰れた方が大変だけど健全だと思うな」
「私のわがままで、無理して帰ってきてない?」
「俺は納得してるし、ちひろの一方的な我儘とかではないと思うよ」
「なっとく」
「うん。これが終われば家に帰れるってモチベーションになるし」
 ちひろに向き合って、安心させるために微笑む。
「一人暮らしの時は、まずそんなこと考えもしなかったから、いい刺激になってるよ」
 しかし、ちひろの顔は曇ったまま、生の言葉に考え込むようにどこか遠い目をしている。
 どうやら連絡をせずに待たせたせいで、余計なことを考えさせたらしい。
「ごめんな。不安にさせたよな」
 ちひろはハッとして「ううん」と首を振った。
 生はちひろの顔を覗き込む。
「うそ」
「うそじゃないよ」
「上の空だったよ」
 じ、と見つめるとちひろは気まずそうに生から目を逸らした。
「色々、かんがえごと」
「そっか」
 生はそれ以上突っ込まず、身体を離す。
「俺、暫く休むよ、仕事」
「え、」
 思わず顔を上げるちひろに、びっくりした?といたずらっぽく笑って見せる。
「なんか、俺のバイクが仕事先で壊れて」
「えっ、い、生、もしかしていっぱい怪我してきた?」
「大丈夫、高速道路で正面衝突、とか派手な感じじゃないから」
 そう、バイクが壊れたのである。
 高速道路で正面衝突はしなかったものの、トラックに引きずられたのだ。
 今回、連絡と帰りが遅くなったのはそのせいだった。
「怪我したのは、バイクだけ?」
「そうそう。それでまあ、足が無いからさ」
「足が無いの⁉」
 流れるように言葉を読み違えて、生の足を確認するちひろに生は笑う。
「ふふふ、あ、あるある…えっと、使い慣れたバイクが無いってこと」
「あ、そ、そっか」
「そうそう。だから、いつものバイクが戻ってくるまでは休み」
「バイクさんが治るまで、おやすみ?」
「そう、一週間くらいかな」
 まあ、バイク自体は用意するのに一週間もかからないのだが。
 一週間というのは、実は生の療養期間だった。
 馴染みの病院で腕を数針縫った上に腿と膝も擦り傷が酷いため、元通り動くようになるまでドクターストップをかけられてしまったため、久々に在宅勤務中心の生活を送ることにしたのである。
 ちなみにこの後、リビングでパソコンを叩いていたら「お休みしてない!」とちひろが怒ることになるのだが。
 とにもかくにも、今のちひろは仕事一辺倒の生が休みを取ると口にしたことに素直に喜んでいるようだった。
「もしかして、今日遅かったのは、バイク壊れちゃったせい?」
「そのせい」
「そ、そっかぁ。てっきり捨…」
「す?」
 ちひろは何かを言いかけて固まる。
 首を傾げて続く言葉を待てば、ちひろは手をふわふわと漂わせてから、膝を折って奇怪な動きをした。
「す、スキーーー‼に!行ってたのかなって!」
 明らかに何かを誤魔化しているような口ぶりだが、その様子がなんだかおもしろくて、生は思わず笑う。
「あはは、行ったことないな、スキー」
「わ、私は、小学校の頃に行ったよ」
 スキーと言うよりは指揮者のようにちひろは手を振る。
 そして、ふと何かを思い出したように手を下ろした。
「…ね、生」
「なぁに」
「生は、どうしてたの?」
「うーん、あんまり覚えてないな。小学校でしょ…」
 首元を撫でながら目線をさまよわせ、生は記憶をたどる。
 しかし、ちひろが聞きたいのは生の小学校の話では無いようだった。
 少し戸惑うそぶりをしてから、ちひろは生の反応を窺うようにゆっくりと口を開く。
「そうだけど、そうじゃなくて」
「ん?」
「ゆきがいなくなってから、どこに、いたの?」
 生はゆっくりと瞬きをする。
 小学校の頃よりも鮮明で、しかし夢のように所々ぼやけた中学生の時の記憶。
 あの監禁された日々に近付くほどに曖昧になっていくそれらに、さらにオブラートを被せながら生は口に出す。
「えっと、まず病院でしょ」
「うん」
「ちひろには言ってなかったけど、実は礼がいなくなる前から、母親はずっと入院しててさ。父親もいなかったし、そのまま自分は施設送りになるかと思ってたんだけど、縁のあった人に引き取ってもらえて」
 日本人にしては赤茶けた長髪に、勝気そうな瞳をしていた自分のもう一人の育て親を思い出し、生は微笑む。
「成人するまで育ててもらえて…高校まで出してもらえて、」
 彼女と出会ってからの日々はかなり鮮烈で、ある意味、生の心身が今の状態まで回復できたのは彼女のおかげだった。
 まあ彼女は「高卒検定?無駄。いる時になったら作ればいい」などとのたまう無茶苦茶な人間だったため、まともに親を務めていたかは微妙なところだが。
「あとはバイト上がりでそのまま…まんまと今の仕事につけた感じ」
 生が穏やかに話している様子で安心したのか、ちひろは緊張した表情をいくらかほぐす。
「そっか…。今のお仕事は、大変じゃない?」
「あんまり。最初は確かに大変だったよ。でも、学生の頃から働いてたから、正社員になってからもすぐに慣れたし」
 実際、生には向いていたのだろう。
 命の危険を伴おうが、倫理観が外れていようが、それに対応できる自分と、こうしてちひろを安心させたいと心を砕く自分が同時に存在することに、生は苦悩しなかった。
「あ、でも、今の仕事しかしたことないから、学生のうちにファミレスとか…他の仕事も経験しても良かったなと思ってる。楽しそうだし」
「生はなんでも上手そう」
「いらっしゃいませ、って?」
 少しおどけたように飲食店の従業員を真似れば、ちひろはころころと笑う。
「お客様、テーブル席とソファ席が空いておりますが、いかがされますか」
 リビングを示せば、ちひろは少しすました様子で生のお芝居に付き合う。
「ソファがいいです」
「かしこまりました、ご案内いたします」
 生はちひろの背に軽く手を添えながら、恭しくリビングへエスコートした。



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