青眼の烏と帰り待つ羊

鉄永

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5部

第四話

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 ちひろはここ数日、何かを言いたげに生のことをちらちらと見ることが増えた。
 言おうとしてはしょんもりと口を閉じる様子から、あまり前向きな内容ではなさそうだった。
 休みの間に聞けるだろうかと思いつつ、あえて何も聞かずに、生はちひろが自分から言い出すのを待つ。
 そしてある日の夕方、二人で出かけた先で買った茶菓子をお供に休憩をして、そろそろ片付けようかというとき、ちひろは立ち上がろうとする生を引き留めて、言った。
「生、私、ずっとここで居候しちゃってるけど、窮屈じゃない?」
「え?うん」
 上げかけた腰をソファに沈ませ、生はちひろを見つめる。
「生の家にこのまま住まなくても、通いながらお手伝いもできるからね」
「…外で、暮らしたい?」
 ちひろの言葉に、生は自分の顔が強張る気配がして、努めてゆっくり口を開く。
 ちひろはソファの上に足を持ち上げて膝を抱えた。
「そうじゃなくて、私、このお家(うち)も、今の生活も好きだけど…」
「……、」
 生は続く言葉を覚悟して待った。
 何を言われたとしても動揺しないように、感情と表情を切り離す準備を整える。
 しかし、ちひろから発された言葉は、生の予想していたものでは無かった。
「生をね、このお家から追い出したいわけじゃ、ないの」
 冷静になろうと必死に保っていた無表情に、生は一拍置いて疑問符を浮かべる。
「……ん?」
 てっきりちひろがこの家を出ていきたいと言い出すのだと思っていたが、どうやら違うらしい。
「追い出す」
 ちひろの言葉を繰り返し、生は首を捻る。
「私、生みたいに色んな事ができるわけじゃないから、沢山お金を稼ぐとか、お家を買うとか、多分できない」
 ちひろは叱られるのを待つように肩をすくませて声を尻すぼみにさせていく。
 生は自分の思っていたような心配をしなくてもいいらしいと幾分か落ち着きを取り戻し、ちひろの言葉に「うん」と穏やかに頷いて続きを促した。
「でも、お金もお家も、何もしないで誰かから貰いたいわけじゃなくて、えっと、ここは生のお家で、私が買ったんじゃなくて、えっと…」
「うん」
「私のせいで生がこのお家に帰るのが嫌になっても、黙って出ていったりしないでほしいの」
「しないよ」
 生の即答が意外だったのか、ひょこ、と驚いたようにちひろは首を上げる。
「…しないの?」
「え?うん」
 生は戸惑うように苦笑してちひろを見つめる。
「元々そのつもりだったし、これからもその予定だけど…」
「うそじゃない?」
「噓じゃない」
 今一つ腑に落ちない顔をするちひろに、生は提案する。
「むしろ、ちひろが嫌なら、外で暮らせるように手配するけど…」
「ううん、私はいい」
 ちひろはなんでそんなことを聞くんだとばかりにぱちぱちと瞬きをして、生の提案にすぐさま首を振った。
「生が嫌なんじゃないかと思って」
「嫌じゃないよ」
「そっか…?」
 話の着地点が見えないまま、お互いに首を傾げあう。
 要するにちひろは「生はこの家から出ていきたいほど自分と暮らすのが嫌になっている」と考えているらしい、と生は検討をつける。
 どうしてちひろの中でそういう考えが生まれたのか全く分からない。
 逆に、生はちひろの方が窮屈だと思うだろう制限を課しているため、出ていきたいと思う可能性があるのはちひろの方だ。
 しかも、ことあるごとに「大事」だとか、「一緒に暮らしていたい」だとか口にした覚えがある。
 いや、「大事」だとは言ったが、「一緒に暮らしたい」とは言っていないな…と生は自分の意識を訂正する。
 無意識に避けているのだ。
 生は、ちひろのことをいつでも見送れるように、予防線を張った言葉しか吐けない。
「俺は、ちひろのこと大事だから、一緒に住んでる」
「…うん」
 息を吸って自分の感情の先にある一線を踏み外さないように言葉を選ぶ。
「好き好んで、一緒に住んでる。わかる?」
「すきこのんで」
「好き好んで」
 二人で見つめあい、まるで告白のワンシーンのような体制になる。
 しかしその空気は、ちひろの斜め上の言葉で破られた。
「わんちゃん的な…?」
「ワンちゃん?」
「わんちゃん」
 生の頭の中は、突如、尻尾を振ったポメラニアンに占領された。
 ちひろは、生の「好き好んで」という言葉がラブかライクか分からず、どう言えば確かめられるのだろうと考えた結果、「恋人としての好き好んで住んでる、なのか、ペットのように好き好んで住んでる、という感覚なのか教えてほしい」という考えで言葉発したわけだが、生に正しく伝えるにはあまりにも言葉が足りなかった。
「俺って犬っぽい?」
 生は自分の精一杯の気持ちを込めた言葉は、ちひろの中でなにやら誤解を生んだまま受け入れられたらしい。
 ちひろは生の言葉に真剣な表情をして考え込む素振りをした。
「…生は、犬より鳥さんっぽい。お風呂早いし、黒いし」
「鳥っていうかカラスだね」
 生は別の話にすり替わっていってく話に、なんとなく安堵しながら「ペットの鳥って犬っぽいらしいね」とスマホを取り出した。



***


 生はベッドの下の包みに開かれた形跡があるのを見つけ、ちひろが最近やたらと生との生活や家、お金のことを気にし始めたことに納得する。
 この包みは、生が仕事先で万が一のことがあったとしても、ちひろが困らないようにと用意していたものだ。
 包みに一緒に入れている携帯にメールを送信すれば、アラームで包みの場所が分かるようになっている。
 包みを一度回収して中身を確認する。通帳には丁寧に暗証番号を付箋で貼ったのだが、一円も引き出されていない。
 脱衣所からちひろが出てくる気配に、ちょうどいい、と生はちひろをリビングに呼ぶ。
 包みを見せれば、案の定ちひろは顔を曇らせた。
 やはり最近の挙動不審の原因はこれだったらしい。
 食卓に着かせ、「これは災害や緊急時のためのものであって自分たちの普段の生活や感情には関係が無い」と説明をすれば、ちひろは「そうなの?」と表情を幾分か明るくさせた。
「出ていこうと思ってたわけじゃないの?」
「うん」
「お家が私のお名前にしてあるから、もしかしたら急にいなくなるんじゃないかと思って」
「不可抗力で家に帰れない時の緊急用のお金。それで、ちひろが自由に好きな場所に引っ越しできるように、名前をちひろにしてある」
 まあ、その不可抗力とは、生が自分の死を確信した時だけの予定だったわけだが。
「…隠してたのは、なんで?」
「隠してたのは、ちひろが不安になると思って」
「か、隠してあったから、余計に不安だったよ」
 もっともな返答に、生は眉を下げる。
「それはごめん。ほら、金銭に余裕があると思うと、ついつい無駄遣いすると思って…」
 負債を抱えてぎりぎりの状態で暮らしていたちひろは、それを言われてしまうと、深く追及ができなくなる。
 むしろ後ろめたさに「うっ」と痛いところをつかれた顔で目を逸らした。
「そ、そうかも…」
「非常用に、どんな災害とか事故があっても良いようにって物だから」
 生はちひろを納得させるために言葉を重ねるが、ちひろの頭の中は既に、放たれた購買欲を抑えることに必死だった。
「ホットプレート…買っちゃうかも…」
 ネットで見た、たこ焼きも焼ける2WAYのホットプレートにちひろは思いを馳せ、ぽつりと呟く。
 その様子に、生はくすくすと笑った。
「お肉焼く?」
「ふ、フライパンあるから!」
 はっと妄想から戻り、ちひろは首を振る。
 生は「よし」と頷き、話を戻す。
「…まあ、家に居る人の名前の方が、パッと取り出して使えるし、俺も安心するから」
「うん」
「普段はダメだからね」
 正直な所、生の資産はこの包みの通帳の他にもかなりあるため、ホットプレートの一枚や二枚全く問題ないのだが、ちひろに言い聞かせるように生は真面目な顔をしてみせる。
「何事もなかったら、それで…礼のお墓、ちゃんとできるかもしれないし」
「うん」
 ちひろは生の言葉に素直に頷いてから、安心した様子で息を吐いた。
「良かった…すっきりした」
「いきなりこれ見たから、ビックリした?」
 生は手に持った通帳をひらひらと振って見せる。
「うん、した」
「俺もするかも…。ごめんね」
 確かに、生活を共にする相手の通帳が、金庫などではなくベッドの下から出てきたら不審に思うのは当然だろう。
 ちひろは自分の指先を触りながら、目を伏せた。
「それ見つけた時ね、生、帰ってくるのが遅くて…怖かったから、余計だった」
「あ~…」
 それは間の悪い、と生は苦笑する。
 最近のちひろの不審な様子の理由に納得がいった。
「このまま、私一人になるのかなって。私のわがままばっかりで、疲れたんじゃないかなって」
 ちひろに色々な心配をかけたことは申し訳ないが、全く心配される必要のない内容に、生は思わず笑う。
「疲れてないよ。…それに、ちひろの言うワガママなんて、俺が堪える我儘じゃないよ」
 共に暮らしてきた相手の要望のままに過ごすことを幼いころから続けてきた生にとって、ちひろの言うようなことは我儘のうちに入るようなことでは無かった。
 むしろ、今は生の我儘にちひろを付き合わせている自覚がある。
「でも、私どんどんワガママになってる」
「良いことだよ。余裕が出てきたってこと」
「でも、生に余裕が無くなっちゃう」
「そう見える?」
「…」
 ちひろは生のゆったりと微笑む顔を眺めてから、もじもじと「…もう少しワガママ言いたい」と呟いた。
 生はその言葉に嬉しそうに笑みを深める。
「どんなこと?」
「生のスマホ探せるやつ、オンにしたい」
「俺の?」
「生の」
「それって、俺の場所が気になるってことだよな」
「えっと、えっと…はい…」
 スマートフォンに相手の位置情報が分かる機能がついていることは、生も知っている。
 ちひろはその機能を使って生の居場所が分かるようになりたい、ということを言いたいらしい。
「こういうの、束縛?ストーカー?特集みたいなので、テレビでやってて、駄目だなと思うんだけど」
 考えるそぶりを見せる生に、ちひろは慌てて言い添える。
「ほ、ほら、どれくらいで帰るのかな~ってちょっと確認できたら便利なのになと思って…。そんなにずっと見るわけじゃないんだけど、えっと、私から生にメールできないし…」
 言葉を切ると訪れる沈黙に、ちひろは気まずそうに生を見る。
「気持ち悪い?」
「いや?当然だと思う」
「そ、そっか…」
 断られることを前提に口に出した上に、引かれるかもしれないと思っていたため、特に表情を変えずに返答する生に、ちひろはほっと息をついた。
 そして、続く言葉はちひろの願いを却下するものでは無かった。
「スマホの位置情報は難しいけど、ただのGPSなら」
「ただのじーぴーえす」
「うん。GPSならいいよ」
 予想していたよりも凄いものがきた…とちひろは目を白黒させる。
「それって、こう、アニメでシュッてスパイがつけるやつ?」
「そうそう」
「え?いいの?」
「いいよ」
 あまりにもあっさりと返される言葉に、ちひろは自分の認知を疑った。
 もしかするとちひろが知らないだけで、お互いの了承があればGPSを付けるということは一般的なことなのだろうか。
「えと、高くない?」
「あんまり」
「わたし、生から警察に相談されたりしない?」
「しないしない」
 生はくすくすと笑って手を振る。
 もし警察に相談されるとしたら、了承を得ずにちひろのスマホに位置情報を知らせる細工をしている自分の方だろうな、と生は思う。
 もちろんそんなことには全く気が付いていないちひろは「そっか…」と少し迷ってから決心したように頷く。
「じゃあ、そうしてほしい、です」
「わかった、用意しておく」
 そして、生の休暇が終わるころには、ちひろのスマホに生の居場所を確認できるアプリが搭載されていた。
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