青眼の烏と帰り待つ羊

鉄永

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6部

第一話

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 真夜中、生が帰ってきたとき、ちひろはソファで眠り込んでいた。
 またこんな所で…と思いつつ、生は近寄って覗き込む。
 近くに編み針が転がっているところを見るに、編みながら眠り込んでしまったらしい。
 生は編みかけのモチーフや毛糸、編み針を机に乗せ、寝室までの扉を開けて道を作ってから、ちひろをベッドに運んだ。
 布団の中にしまうと、ちひろは少し身じろいでから気持ちよさそうにその中に収まる。
 生はその様子に満足して、寝室から出た。
 いつものようにシャワーを浴び、リビングに戻り、ちひろの編んでいたものに目をやる。
 始めた頃は歪だった編み目は、日を追うごとに段々と揃っていっていた。
 綺麗なモチーフも歪なモチーフも繋げられ、今は大きなブランケットになっている。
 見渡せば、ブランケットだけではなく、ちひろの過ごす跡は部屋のいたるところに残っている。
 手作りのティッシュカバー、アニマル柄の食器、冷蔵庫の中で温められるのを待つミートローフ。
 この場所はあらゆる恐ろしい物事から隔絶されたように、静かで穏やかだ。
 生は目を閉じ、その場で深呼吸をする。
 生活の匂いと、寝室から聞こえる小さい寝言、寝返りを打つ気配。
 目を開き、一枚に繋がりそうな糸の波をもう一度眺める。
 ちひろ、と無声音で何度か口を動かす。
 編み針と縫いかけのパーツを手に取って、ひと針だけ縫ってみる。
 綺麗に並び始めた編み目の中では、少し大きすぎたかもしれない。
 生は少し笑い、気付かれないように、そっと針とモチーフを机の上に置いた。
 ちひろは生を何でもできる超人のように思っている節があるが、慣れないうちはこんなものなのだ。
 慣れないことは、やらないか、慣れるまで繰り返すに限る。
 けれど、慣れるつもりがないなら、これで十分だ。自分は、そういう人間だった。
 生は顔を上げ、遅い夕食を取ってから、また出かけた。


***


 夕方、いつも連絡が来る時間帯にメールが来ないため、ちひろはスマートフォンを開く。
 生の位置情報を調べると、随分遠いところにいた。
 移動速度を見るに、バイクで移動しているとこらしい。移動中だから連絡ができないのだろう。
 安心してそのままぼんやり移動する点を眺める。
 ちひろと生の暮らす場所とは違う、町から離れた山の中の道。すぐそばには海がある。
 試しに行き方を調べてみようと地図アプリを開く。
 住所からざっくりと行き方を調べると、車道でさえ時間がかかる上に、車の持たないちひろが公共交通機関を駆使して行くとなると、かなり時間がかかりそうだった。
 きっと生が帰ってくるのは朝方になるだろう。
 最近、生は忙しそうだった。
 いや、前から忙しそうではあったが、最近は家に居ても、ちひろが見ていない所でスマホを見ていたり、連絡が来ては外に出ていく。
 忙しいの?と聞けば「実は仕事を辞めようかと思ってるんだ」と生に打ち明けられた。退職のために引継ぎや残っている仕事を終わらせようと奔走しているのだとか。
 まだ詳しく話は聞いていないが、もう少しゆっくり休む時間の取れるように、転職したいらしい。
 ちひろはそれに関しては大賛成だった。
 そのため、文句を言えようはずもないが、もともと働きすぎるきらいのある生の身体が心配ではあった。
 地図アプリを閉じて、また位置情報を確認して、ちひろは「え」と声を漏らす。
 先ほどまであった、生の居場所を示す点が無くなっているのだ。
 電波が悪いのかと、ちひろは焦ってぐるぐる部屋を移動してみたり、スマホの電源を入れなおしてみるが、やはり点はどこにも現れない。
 こんなことは初めてだ。
 GPSとスマートフォンの設定を行いながら、生が説明してくれた話を思い出す。
 電波が悪い場所にいる時や、電池が切れたときに、位置がずれたり動かなくなる時はあると、そう言っていた。
 けれど、こんなふうに全く見えなくなるなんておかしい。
 移動中に外れて壊れてしまったのだろうかとも思ったが、生は「絶対に外れないところにつけとくから」と言っていた。
 早鐘を打つ心臓に「今までだって連絡が無い日はあったし、生は帰ってきてくれた」と言い聞かせる。
 だから、今回もちひろがわざわざ心配する必要などないのだろうけれど、酷く胸騒ぎがするのだ。
 玄関の方を見る。そこには、生と二人でしか通り抜けたことの無い、外へと続く扉がある。
 焦る気持ちを落ち着けようと、ちひろはスマホを握りしめた。
 迎えに行ったとしても、入れ違いになるかもしれない。
 それに、外に出れば生との約束を破ることになる。
 悶々と考え込むちひろの目に、編んでいたブランケットが映った。
 自分の編み方とは違う、明らかに不自然な場所に、不器用に編まれた鎖編み。
 半ば眠りながら編んでしまったからだろうと思いながらも、解く気になれず、そのまま編み進めた。
 生があれを編んだとしたら、どんな顔で、どんな気持ちで、針を持ったのだろう。
 もし、生にそれを聞けないまま、会えなくなるとしたら、それは約束を破るよりも後悔することなのではないだろうか。
 ちひろはメールアプリを起動させ、初めて生のアドレスにメールを打った。
 送信ボタンを押して一つ頷き、ちひろは外に出る準備を始めた。
 外出をしないちひろはリュックサックを持っていない。
 何に荷物を入れようかと、ごそごそと部屋のクローゼットを漁る。
 一番大きい紙袋を取り出して、中に思いつくものを片端から詰めていった。
 タオル、救急箱、スポーツ飲料、カッパ、財布、ビニール袋、おにぎり。
 最後に鍵とスマートフォンをポケットに入れて、リビングの電気を消す。
「いってきます」
 誰もいない部屋に呟いて、ちひろは外に出た。
 一人で遠出することなど久しく無かったちひろは、電車の乗り場を間違えては階段を走り、新幹線の改札を通り抜けようとしてはチケットを入れ間違えて止められる。
 そうして乗り継ぎを繰り返し、ようやく最後の乗り換えを済ませる頃には、車窓から見える外に月が浮かんでいた。


***


 身体の痛みに呻きながら。生はうっすらと目を開く。
 目の前には、無残にフレームが曲がり、横倒しになっているバイクと、投げ出された荷物が見える。
 首を回して上を見れば、鬱蒼と茂る木々の隙間から見える崖の上に、ガードレールの白がのぞいている。
 バイクで逃げている途中で、あの道路から斜面に落ちたのだ。
 落ちたのは出血が多くて意識が飛びかけたからだったが、そのおかげで上手く逃げることができたらしい。
 しかも、きちんと受け身を取って斜面を滑ったのか、無事とはいかないものの、こうして生きている。
 運がいいのか悪いのか、と笑いながら体を起こす。
 右手首は捻挫しているのか痛みと腫れがあり、弾丸の掠った右肩や、受け身の際に打ったのだろう腰も痛む。頭にも擦過傷があるのか、触れると固まりかけた血の感触とじくじくとした痛みがあった。
 立ち上がろうとすると、ぐらぐらと眩暈がして、足を踏み込む。
「っぃ、た」
 踏み込んだ足の指先に激痛が走り、あわててしゃがむ。手首や体の痛みで気が付かなかったが、足指も折れているかもしれない。ここまで動けないとなると、迎えを呼ぶしかなかった。
 大きく息をして、滲む涙と脂汗をそのままに、荷物を引き寄せる。
 痛み止めを唾液で飲み下し、応急手当をしながら電話で迎えを呼ぶ。
 バッテリーの残量が少ないため、すぐに画面を落として、ひと先ず息を吐いた。
 場所が場所のため、迎えに一時間はかかるはずだ。
 ぼんやりと瞬きをすると、左の瞼が動きにくい。顔に手をやると、衝撃で外れてしまったのか、義眼が無いことに気が付いた。
 辺りを探すと、アクリル製の義眼のかけらが見つかる。
 おそらくもう再利用できないだろうと荷物の中に放り込み、ふと思い出して、ちひろにメールを打とうとスマホを取り出す。
 実は、生の義眼にはマイクロチップタイプのGPSを埋め込んでいる。
 おそらく義眼と共に壊れてしまっているはずで、この時間まで音沙汰も無く、位置情報も消えてしまった生をちひろは心配しているだろう。
 メール画面を開くと、いつものように数件溜まった仕事のメールがある。
 しかし、見慣れたその中に、題名が空白のメールが一件あった。
 送信元を確認して、生は慌ててそのメールを開く。
 案の定、そのメールはちひろからで、内容は一言。「迎えに行きます」とあった。
 息をのんで、ちひろの居場所を確かめる。
 いつもならあの家から動かない点は、確実に生を目指して移動していた。
 しまった、とちひろのメールに返信しようとしたところで、無情にもスマートフォンの電源が落ちる。
 電池切れだった。
 小さく悪態をついて、ただの箱になったスマートフォンを荷物にしまう。
 迎えが来れば充電はできるだろうが、それからちひろに帰るように連絡するようでは、ちひろが終電に乗れない可能性がある。
 途中で合流するしかない。
 生はバイクの座席から予備の義眼と着替えを取り出した。


***


 ちひろは、終電に近い車内の最後尾に乗っていた。
 外はすっかり暗く、窓から見える外は民家も少ない。
 手元のスマートフォンの通知を待ちながら、揺れる車内でちひろは俯いてスマートフォンの通知を待っていた。
 駅に着いてからはタクシーだ。
 しかし、手持ちのお金は帰りの分を引くと残りが少ないため、どこまで行けるかは分からないし、行ったとしても見つけられないかもしれない。
 けれど、ここまで連絡がないということは、やはり生は家には帰っておらず、連絡の出来ない状況であることは確かだろう。
 ちひろはスマホを持ったまま祈るように指を組む。
 長い移動時間の中、ちひろは自分の家族のことを思い出していた。
 ちひろの母は、ある日突然、外で倒れた。
 次に会えたのは病院の寝室で、その時にはもう、末期の肝臓がんだった。
 既に全身に転移しており、手の施しようが無く、半年も経たないうちに母はあっけなく亡くなった。
 葬式や通夜が淡々と終わってから、父は逃げるように職場に泊まり込むようになってしまった。
 ちひろは、変わることなく学校に通い、毎日父の帰りを待った。
 連絡の来ない携帯。冷めていく夕飯。話し声の響かないリビング。
 そうして、久しぶりに帰ってきた父を家で迎えた時、ちひろは床に引き倒されていた。
 そこまで思い出して、ちひろの記憶はまた母の倒れた日に戻る。
 最近太ったみたい、なんて笑っていた母の異変に、もっと早く気がついていたら。
 母に縋りつく私を呆然と見ていた父を、もっと支えることができていたら。
 いつもちひろは、大切な人に手が届かない。礼の時も、そしてもしかすると、今回も。
 唇を噛んで目元を擦る。今度は、間に合ってほしかった。
 はあ、と息を吐く。
 あいかわらず通知の来ないスマートフォンの暗い画面をなぞる。
 その時、ちひろの暗い顔が写る画面に影が落ちて、ちひろは顔を上げる。
「ごめん。電車間違えちゃって、」
 いつの間にいたのだろう。ちひろの前には、紺色のニットに灰色のハンチング帽を被った男性が立っていた。
 手袋だけが、黒い。
「待った?」
 親し気な男性の様子に、ちひろは人違いかと思って訝し気に眉を寄せるが、次の瞬間、すう、と大きく息を吸い、目を見開いて立ち上がる。
「やっぱり怒ってるよな」
 男は苦々しく自分の口元押さえてから、しぃ、とそのまま人差し指を軽く立てる。
 ちひろは震える手で小さく男の服の袖を引き、ぽろぽろと涙をこぼす。
 男は瞬きをしてから、微笑んだ。
「ん、ごめんな。…仕切りなおそっか」
 ちひろの手に、触れ慣れた手の感触が重なった。
「迎えに来てくれて、ありがと」




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