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第二章 毒
四
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冬が訪れ、春香は部屋に籠るようになった。珂雪は春香の看病に追われ、仕事以外はほとんど母に付き添うようになった。紅花が所在なさげに自室に座り込んでいるのを見かけては、その度に何も見なかったことにして通り過ぎた。また香月は冬の白さに染められたように一層美しくなり、外に連れ出す度に周囲の目を奪い続けた。
香月に婚約の話がやってきたのは、そんなある日だった。比較的暖かい日で、香月に誘われて縁側に座り込んでいて、都で買い付けた菓子を二人で食べていた。そこにどこか興奮したような、緊張した様子の珂雪がやってきて告げたのだ。香月に縁談がきたと。
「陳家の宇辰という人なのだよ」
珂雪は男の名前を言い終えるなり、大きく息を吐きだした。それから力が抜けたように縁側に座り込んでしまう。彼の表情は喜びで赤くなったり心配で青白くなったりしていて、手もまた、震えを誤魔化すように握ったり開いたりを繰り返されていた。
「陳家というのは、華藍の北を治めている一族の陳家ですか」
信じたくないと思った。たまたま名前が同じだけの別の一族であればいいと、楊家には明らかに釣り合わない身分の者であればいいと願って、聞かなくても分かることを聞いた。自分の声が震えていたとしても、喜びのせいだと、緊張のせいだと言い訳すれば良い。悲しみが表情に浮かんでいたとしても、離れるのが寂しいせいだと言い訳すれば良い。だけど自分の吐き出す言葉が相手を詰るものになりそうで不安だった。
「ああ、陳家はその陳家だよ。あの家は華藍が建てられてからずっとあの領地を治めている。信用できる方たちだね」
珂雪が静かに唾を飲むのが聞こえた。おめでとう、とその唇が動く。彼が香月を早く結婚させてあげたいとずっと言っていたのは、知っていた。結婚によって幸せを得た珂雪ならばそれを最上の幸福を考えるであろうことも、分かっていた。だけどいざ彼が婚約を苦労して取り付けてきたのだと思うと、彼のことを恨めしいとすら思ってしまう。しかし珂雪が不安と安堵を両方とも抱えているのを見ると、恨めしさは萎んで、虚しさばかりが残った。
「香月、おめでとう」
珂雪がゆっくりと息を吸って、それから香月に笑いかけた。幸せになっておくれ。そう伝えようとしているのが分かる表情だった。彼の視線に釣られて恐る恐る香月を見る。すると彼女は、まるでそれが他人事であるかのように「はい」とだけ答えた。喜んでいるとも驚いているともつかない表情にこちらが拍子抜けて、珂雪と顔を見合わせる。
「香月。結婚できるということは、とても幸せなことなのだよ」
珂雪は自分がいかに母と結ばれて幸せだったか、二人の子に恵まれて幸福かを語った。香月は珂雪と春香の幸せについては理解できるようだったが、それを自分のこととして捉えるのが難しいらしかった。珂雪はしばらくの間いかに結婚が素晴らしいかを説いていたが、やがて香月が驚きすぎて状況を飲み込めていないだけなのだと結論づけたようだった。少しそっとしてあげようと部屋に戻っていって、雪月と香月だけが残された。
「姉様、うれしくないのですか」
心臓が妙に音を立てていた。雪月が望んでいる言葉を、彼女の唇が紡いでくれるという確信があった。困ったような表情を繕っているくせに声色は妙に色づいていて、それを香月に悟られないように願うばかりだ。そんなこちらの様子と反対に、香月はただぼんやりと首を傾げるだけなのだ。それは困っているようにも見えたけれど、本当に何とも思っていないのだというようにも受け取れて、雪月は何を問うべきか迷った。しかし雪月が言葉をまとめる前に、香月は一つ息を吐くのだった。
「結婚は定めだもの。私は、お父様の言うことに従うだけよ」
それ以外に何か意味があるのかと言いたげな表情だった。そろそろ冷えるからと立ち上がって、香月は部屋に戻ろうとしてしまう。
「ね、姉様」
慌てて香月を呼び止めると、香月は普段と同じように振り返った。長い髪がその拍子に揺れて、雪月の鼻先に甘い香りが漂った。季節外れの、梅の香りだった。
香月が他人の好意に興味がないことは、分かっていた。婚約の話に動揺すらしないであろうことだって分からなかったわけじゃないのに、どうして嫌がってくれないのだと苛立っている自分がいる。それが自分勝手な願いで、彼女に知られてはいけない部分だと理解してはいるけれど、どうして気が付いてくれないのだと嘆く自分がいる。
「雪月?」
「いえ、いえ。何でも、ありません」
言葉が霞んでいく。普段と変わらない調子で話そうと努めたのに、零れたものに悲しみは隠しきれていなかった。
香月の縁談は順調にまとまり、雪月も結婚の日取りを決めるために陳家に出入りすることが増えて、その度に苛立ちや悲しみをどう隠すか悩むことになった。
「雪月殿は随分としゃんとしているのだなあ」
陳家の当主は会うたびに雪月を褒めてくる。そして横にいる息子を指さして、我が家の未来が不安だと零すのが常だった。その息子はもうすぐ香月の夫になるのだ。いくら謙遜であっても、そんなものを聞かされては苛立ちも増す。しかも宇辰と話せば話すほど、なよなよとした頼りない印象を受けるのだから、いつまで笑顔の仮面を張り付けていられるか自信がなくなってくるのだった。
「雪月殿、その、香月殿の好きなものを教えていただきたいのですが」
彼はいつも香月の話をする時にだらしなく笑う。香月の好きなものを尋ね、好む菓子を聞き、衣服の色を探り、望む答えが得られると顔を赤くする。しかしそれは照れたような顔の赤さではなく、酒に酔ったときのような赤さで、彼は恋に酔っているのだと思った。
「あなたは姉様のどこを好きになったのですか」
揶揄うような調子で尋ねれば、彼は一層顔を赤くして、一目惚れしたのだと返してきた。
一目惚れ。彼もまた香月が漂わせる甘い毒に冒されたというわけか。それ自体は珍しいことではないのだけれど、ただそれだけでさしたる交流もない相手を嫁に迎えようとする理屈になるとは思えなかった。それに容姿に惚れ込んだだけであれば、香月が歳を取れば取るほど心が離れていくに違いない。彼女の人柄を知ってもなお恋に酔い続ける保証もないし、香月が振り向くこともないと知ればどうなるかは分からない。それでも良いと言って愛し続けることができる人なぞ多くはないだろうし、他に愛してくれる女を向かえ入れて、香月をぞんざいに扱うことだってあり得る。そう考えると、どうしてこんな男に香月をとられなければならないのだと思ってしまう。自分の方がよっぽど香月を想っているのにと、心の奥が痛みを訴えて涙を流すのだ。
「あれほど美しいひとは見たことがありません」
「弟の私ですらそう思います」
あなたは幸せ者ですね。そう微笑みかけこそしたが、その表情が彼にどう見えているのかは分からなかった。
香月に婚約の話がやってきたのは、そんなある日だった。比較的暖かい日で、香月に誘われて縁側に座り込んでいて、都で買い付けた菓子を二人で食べていた。そこにどこか興奮したような、緊張した様子の珂雪がやってきて告げたのだ。香月に縁談がきたと。
「陳家の宇辰という人なのだよ」
珂雪は男の名前を言い終えるなり、大きく息を吐きだした。それから力が抜けたように縁側に座り込んでしまう。彼の表情は喜びで赤くなったり心配で青白くなったりしていて、手もまた、震えを誤魔化すように握ったり開いたりを繰り返されていた。
「陳家というのは、華藍の北を治めている一族の陳家ですか」
信じたくないと思った。たまたま名前が同じだけの別の一族であればいいと、楊家には明らかに釣り合わない身分の者であればいいと願って、聞かなくても分かることを聞いた。自分の声が震えていたとしても、喜びのせいだと、緊張のせいだと言い訳すれば良い。悲しみが表情に浮かんでいたとしても、離れるのが寂しいせいだと言い訳すれば良い。だけど自分の吐き出す言葉が相手を詰るものになりそうで不安だった。
「ああ、陳家はその陳家だよ。あの家は華藍が建てられてからずっとあの領地を治めている。信用できる方たちだね」
珂雪が静かに唾を飲むのが聞こえた。おめでとう、とその唇が動く。彼が香月を早く結婚させてあげたいとずっと言っていたのは、知っていた。結婚によって幸せを得た珂雪ならばそれを最上の幸福を考えるであろうことも、分かっていた。だけどいざ彼が婚約を苦労して取り付けてきたのだと思うと、彼のことを恨めしいとすら思ってしまう。しかし珂雪が不安と安堵を両方とも抱えているのを見ると、恨めしさは萎んで、虚しさばかりが残った。
「香月、おめでとう」
珂雪がゆっくりと息を吸って、それから香月に笑いかけた。幸せになっておくれ。そう伝えようとしているのが分かる表情だった。彼の視線に釣られて恐る恐る香月を見る。すると彼女は、まるでそれが他人事であるかのように「はい」とだけ答えた。喜んでいるとも驚いているともつかない表情にこちらが拍子抜けて、珂雪と顔を見合わせる。
「香月。結婚できるということは、とても幸せなことなのだよ」
珂雪は自分がいかに母と結ばれて幸せだったか、二人の子に恵まれて幸福かを語った。香月は珂雪と春香の幸せについては理解できるようだったが、それを自分のこととして捉えるのが難しいらしかった。珂雪はしばらくの間いかに結婚が素晴らしいかを説いていたが、やがて香月が驚きすぎて状況を飲み込めていないだけなのだと結論づけたようだった。少しそっとしてあげようと部屋に戻っていって、雪月と香月だけが残された。
「姉様、うれしくないのですか」
心臓が妙に音を立てていた。雪月が望んでいる言葉を、彼女の唇が紡いでくれるという確信があった。困ったような表情を繕っているくせに声色は妙に色づいていて、それを香月に悟られないように願うばかりだ。そんなこちらの様子と反対に、香月はただぼんやりと首を傾げるだけなのだ。それは困っているようにも見えたけれど、本当に何とも思っていないのだというようにも受け取れて、雪月は何を問うべきか迷った。しかし雪月が言葉をまとめる前に、香月は一つ息を吐くのだった。
「結婚は定めだもの。私は、お父様の言うことに従うだけよ」
それ以外に何か意味があるのかと言いたげな表情だった。そろそろ冷えるからと立ち上がって、香月は部屋に戻ろうとしてしまう。
「ね、姉様」
慌てて香月を呼び止めると、香月は普段と同じように振り返った。長い髪がその拍子に揺れて、雪月の鼻先に甘い香りが漂った。季節外れの、梅の香りだった。
香月が他人の好意に興味がないことは、分かっていた。婚約の話に動揺すらしないであろうことだって分からなかったわけじゃないのに、どうして嫌がってくれないのだと苛立っている自分がいる。それが自分勝手な願いで、彼女に知られてはいけない部分だと理解してはいるけれど、どうして気が付いてくれないのだと嘆く自分がいる。
「雪月?」
「いえ、いえ。何でも、ありません」
言葉が霞んでいく。普段と変わらない調子で話そうと努めたのに、零れたものに悲しみは隠しきれていなかった。
香月の縁談は順調にまとまり、雪月も結婚の日取りを決めるために陳家に出入りすることが増えて、その度に苛立ちや悲しみをどう隠すか悩むことになった。
「雪月殿は随分としゃんとしているのだなあ」
陳家の当主は会うたびに雪月を褒めてくる。そして横にいる息子を指さして、我が家の未来が不安だと零すのが常だった。その息子はもうすぐ香月の夫になるのだ。いくら謙遜であっても、そんなものを聞かされては苛立ちも増す。しかも宇辰と話せば話すほど、なよなよとした頼りない印象を受けるのだから、いつまで笑顔の仮面を張り付けていられるか自信がなくなってくるのだった。
「雪月殿、その、香月殿の好きなものを教えていただきたいのですが」
彼はいつも香月の話をする時にだらしなく笑う。香月の好きなものを尋ね、好む菓子を聞き、衣服の色を探り、望む答えが得られると顔を赤くする。しかしそれは照れたような顔の赤さではなく、酒に酔ったときのような赤さで、彼は恋に酔っているのだと思った。
「あなたは姉様のどこを好きになったのですか」
揶揄うような調子で尋ねれば、彼は一層顔を赤くして、一目惚れしたのだと返してきた。
一目惚れ。彼もまた香月が漂わせる甘い毒に冒されたというわけか。それ自体は珍しいことではないのだけれど、ただそれだけでさしたる交流もない相手を嫁に迎えようとする理屈になるとは思えなかった。それに容姿に惚れ込んだだけであれば、香月が歳を取れば取るほど心が離れていくに違いない。彼女の人柄を知ってもなお恋に酔い続ける保証もないし、香月が振り向くこともないと知ればどうなるかは分からない。それでも良いと言って愛し続けることができる人なぞ多くはないだろうし、他に愛してくれる女を向かえ入れて、香月をぞんざいに扱うことだってあり得る。そう考えると、どうしてこんな男に香月をとられなければならないのだと思ってしまう。自分の方がよっぽど香月を想っているのにと、心の奥が痛みを訴えて涙を流すのだ。
「あれほど美しいひとは見たことがありません」
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