されど誰(た)が為の恋は続く ー番外編―

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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不可抗力ふかこうりょくだと思うんだけどなー」

「そうですね」

「でもそれは俺にとってそうだってだけで、おっさんとしては、隣に住んでるだけでとばっちり食うのは割に合わないもんなー」

「そうですね」

「だったら、割を合わせるために、ぶっ壊したんなら直せって言うのは、請求として真っ当まっとうだよなー。真っ当すぎて頭が下がるよなー。頭が下がると首も肩も下がるわけで、いわゆるアレだ。平身低頭。五体投地。まあおおむね嘘だが」

「そうですね」

「でも、俺としては不可抗力だったんだよなー」

「そうですね」

「つまり俺としては不可抗力だったんだから俺は不可抗力だと思うんだよなー」

「そうですね」

「ええと」

「はい」

「………………」

「…………」

 先に間がたなくなったのは、ザーニーイの方だったようである。

「いただきます」

「どうぞ。粗茶そちゃですが。包帯で都合が悪くて、不恰好ぶかっこうに片手で差し上げるご無礼をお許しください」

「いや、むしろそれも俺のせいだし。あれ? なんかことごとく俺に始まって俺に終わってるような」

「そうですね」

「うあ。トドメ軽やか」

 そして、すすられる茶の音。

 シャイズナは窓越しに聞こえてくるやり取りを、聞くともなしに聞いていた。広げてみてもみすぼらしい寝具の上に仰向あおむけになって、目だけをかたむけて窓を見詰めている。首の状態をかんがみて、枕は当てられていなかった。窓は自分の頭上で開かれたまま、いつもと同じように、隣家の薄汚れた壁をのぞかせている。姉に開けられた時とも、飛び出すザーニーイの通路になった時とも変わらず、常にそこでそうしている。ただ、つい先程までは、その向こうで大工仕事らしい雑音が広がっていたのに、今はその音が失せて、ザーニーイと姉の会話にすげかわっていた。

 窓は開いているというのに、二人の姿は見えなかった。二人がそこにいないというわけではない……現にこうして声はきちんと拾えるし、ザーニーイの紫煙しえん残滓ざんしらしい細い煙が、窓枠まどわくの下から上へと漂っては、ふわふわと壁際をさすって散っていく。おそらく、低い位置にある壁を修理していたザーニーイが、路上にかがんだまま休憩に入ったため、姉もそれに合わせてしゃがんでいるのだろう。目上の者―――この場合は客のザーニーイ―――と対話する際は、頭の高さもろとも視線を合わせるべきという礼儀作法は、父の教えの初歩だった。

 日の当たらない、すずやかな窓辺。折りたたみ式の小さな寝床に詰められている安い綿は、どれだけたたいても一向に空気を吸わず、ほとんど膨らまなかった。それに包まれていると、体温が保たれるというよりは体温が抜かれているようであったが、むしろ鈍痛どんつうにほてった身体にはありがたい。最もうずいている右頬みぎほおに貼り付いた湿布と共に、高ぶった神経をじわりとしずめてくれる。

 と。

「ザーニーイさん。お聞きしたいことがございます」

「おう」

「先ほどあなたは、わたしがめとられていると勘違いされた状態で、女性は手にしていない財産を手に入れることに敏感で、男性は手にした財産が損ねられることに敏感に出来ているとおっしゃいました」

「ああ」

「女は男のものなのですか?」

 意図をはかりかねたのだろう。ザーニーイは答えない。

 いや―――シャイズナはしぶしぶ認めた―――単に、茶を飲み下したかっただけのことか。ずずずずず、と細く長く、濁音だくおんたけだけしい水音が聞こえる。が、むしろその騒音が決心を促したのか、続いた姉の言葉はさっきよりも流暢りゅうちょうだった。

「わたしは既にあの男のものなのですか? いえ、夫婦ではないことは分かりきっています。しかしそれでもザーニーイさんのお言葉を思い出すにつれ、あの男の態度は、……とうに自分の手中にいるのものが、そこから損なわれるはずもないくせに、悪あがきをしていると―――」

 急激に、そこから先を言いよどむ。今までのそれより、一層と感情がこもったせいだろう。思いが重量をおびているかのように、語られる音声はひどく鈍重に聞こえた。

「女のくせに、とでも……薄ら笑いを浮かべて言っているように思えてきて……わたしは……」

「女は男の財産だ」

 そこで、すべての音がむ。

 ザーニーイの断言の後、沈黙の中で、空へとのぼ紫煙しえんの濃さだけがわずかに増した。窓枠の木目を真似まねるような複雑な細波さざなみ模様を、次々に中空に描いては溶けていく。その悪戯いたずらな抽象に、ぼんやりした意識を優しくでられて、シャイズナは目蓋まぶたを下ろしかけた。

 それをはばんだのは、聴覚の刺激である。声だ―――ザーニーイの。そして、姉の。

「なあじょうちゃん。そこの地面に置いてある工具箱、持てるか?」

「え?」

「さっき修理の為に借りたんだけどよ。あのおっさんやたら貧乏性みてぇで、トンカチとか道具一式のみならず、バラした鉄屑てつくずから木の板まで、しっちゃかめっちゃかに突っ込んでやがる。十キロはいくだろ。持てるか?」

ん張ばれば、多分―――」

「十ヶ月」

「じゅっ……!?」

「最初から十キロは無いにせよ、とんでもない耐久レースだよな、十月十日とつきとおか。そんで挙句に行き着く先は、半日かけての股裂またざきだぞ」

 絶句する姉を放置して、ザーニーイがつぶやいた。その顔はげんなりしたあきれ顔なのだろうと容易に想像できる調子で、ひとりごちる。

「おっかねぇったらありゃしねぇな。ひと山越えたところで、ざっと十年はソフトに拘束されるだろ。世話とか子育てとか、そーいったフィジカル的な意味に限られた話じゃない。メンタルの一喜一憂いっきいちゆうまで軟禁だぞ? 男女平等とか言う奴がいるが、そんな奴だってこんだけ女に拷問を強いつつ誕生アンド成長してきたんだよなーとか考えると、ひたすらに納得できない心境に駆られるんだよな。どう考えたって不平等だろ。男なんざ、最初の小一時間こいちじかんでお役御免ごめんじゃねぇか。趣味にもよるだろうが、別に重くも痛くもねぇし」

 そして、ぴたりとそれを止める。

 ひとり言の余韻よいんが消え去るのを、そうやって、待ったのだろう。続く言葉は、確かに、誰かに伝えられるべくして伝えられたような……そんな、気がした。

「こいつが財産じゃなくて、なにが男だ」

 そこで、会話が終わる。

 いや、終わらない。

「同じ様に、男だって女の財産だ。自分の生死をけてもいい値があるかどうか、そいつを見極めにゃならん。洒落しゃれで済ませたらマジでおっぬ。まあ男だろうが女だろうが、自分を財産に他人を勘定しなきゃならないって意味じゃ、人間みんなおんなじだ」

「―――と、いうと?」

 姉が聞き返したのは、相手の語り口が、自分に答えてくれると思える程度になめらかだったからだろう。とはいえ、ザーニーイはそういった話に慣れているというよりも、単に思ったことを思ったように表現しているだけのようで、あけすけな言い方は変わらなかった。

「相手が自分にとっての財産なら、相手の相手である自分も同じように財産としてカウントしとかねえと、帳尻ちょうじりがあわなくなっちまうからな。嬢ちゃんも俺も、ひとつの財産だ。シャイズナだってそうさ。だがシャイズナは、俺からすりゃあ行きずりのガキでしかないが、あんたにとっちゃ、そう表現されるのも大層ムカつく大事な弟だろう。モノは同じだってのに、なんでこうも勘定が違ってくるのか? 楽な話さ。俺と嬢ちゃんじゃ、財産につける値札が―――価値観が違うんだから。違うんなら、見極めにゃならん」

「見極める……」

「おうよ。個人っつー財産ざいさんが寄せ集まって出来た社会っつー財山ざいさんから、えっちらおっちら宝探しだ」

 それからまたしても、しばらくの間、空へたゆたう煙の量が増した。

 その、紫煙の描く柔軟なリズムをやわらかに貫いて、告げられる言葉がある。

「自分もふくめたあまねく価値の中から、生涯しょうがいを投じて、よりよい財を選べ。選べる、選べない、選ばれる、選ばれない、じゃない。選べ。おこたればくさるぞ。例外は無い」

 ザーニーイはそれから、いつの間にやら生じた堅苦かたくるしさを笑うように、伸びでもしてみせたらしかった。もちろんその仕草が見えたわけではないが、長い一拍を挟んでからこぼされた声は、欠伸あくびを終えたかのように間延まのびしている。

「ま。こいつを無責任な減らず口って思うんなら、それが嬢ちゃんの値札だ。無視する、馬鹿にする、笑い飛ばす―――なんでも選べばいい。湯呑ゆのみかえすぜ。ありがとよ」

「いえ」

 と。姉の姿が、すっと窓の向こうに生えた。どうやら、ちょうどその下あたりに腰を下ろしていたらしい。小ぶりの湯呑みを胸元にたずさえ、一度しっかりと直立してから、右の方へ向けて深々と頭を下げてみせる。

「感謝します」

(あれ……座ってる客に一礼する時って、立ってするんだっけ? 客を見下ろすことになるじゃんか。でも、姿勢が恰好かっこう悪くなるから、むしろ立たなくちゃいけないんだっけ……?)

 茫漠ぼうばくと、そんなことを思う。

 物思いは結論を得る前に霧散むさんしたが、どうでもいいことではあった。いつも以上に足音をひそめて、玄関をくぐった姉が家の中へと戻ってくる。まるで凝視すると壊れると信じているかのように、そっとこちらへ視線を触れさせて―――シャイズナが目を開けていることに、胸をで下ろした。実際彼女は鎖骨の下を押さえるようにしていた右手を下げながら近寄ってきて、おずおずとのぞきこんでくる。

「シャイズナ。まだ痛い? 大事をとって、もう少し横におなりなさい」

「うん……あ、姉ちゃん、どっか行くの?」

 家にひとつしかない卓へと近寄っていく細い背中に、呼びかける。たとえ誰かに言付けていたとしても、出かける際に家人へ向けた手紙を残すのは、姉の習慣だった。

 ほおが痛む上、られた布で満足な発音とはならなかったが。それでもちゃんと聞き取って、湯呑みを置いた姉が答えてくる。

「お隣に、改めて謝ってまいります。壊したのはザーニーイさんでも、元凶はわたしなのだから、わたしの誠意も示さなければね」

「姉ちゃんだけじゃないよ。俺も行くよ」

「その顔で? およしなさい。逆に、お相手を困らせてしまうだけ」

 自分が気絶している間に、文章は考えていたのだろう。部屋のすみから持ち出してきた紙に、同じくそこから持ってきた文房具で何事かを書きつらね、それを卓上にえるまで、数分も要しなかったように感じる。そして姉は、使った物品を片付けてから、シャイズナの元へやってきた。まあ、広くもない一間の家である上、今はシャイズナの寝床がそこを席巻せっけんしているのだから、やってきたといっても、こちらへ反転してしゃがんだ程度だが。

「……ザーニーイさんは、なんていうかとても……損な方ね」

 唐突に、そんなことを言う。

 シャイズナの耳元でつぶやく姉は、ひどく小声だった。それは、壁の向こうにいる当人に悟られないようにとの配慮であるというよりは、誰かに聞かれることに意味を求めない繰言くりごとのようだった。

「わたしからそう見えるのは、本当に彼が損をしているのからなのかしら。それとも、彼が損をしているのではなくて、彼以外の誰もかもが、彼よりもあざとく阿漕あこぎでいるだけなのかしら―――」

「どしたの?」

「さあ。ただ、そう思ってしまったの。どうしたのかしらね?」

 そのあたりでようやっと、大工仕事の音が再開しだす。

 壁越しに響くそれは、随分ずいぶん些細ささいになっていた。細かな仕上げに入っているのか、それとは別にしょうでも発揮しているのかは分からないが、断続的な物音がごそごそと続く。

 音は見えない。あおむけの視界にえるは雲際うんさい。さまざまな建築の影にへだてられて、晴れることを忘れた灰色の空はひたすらに狭く、この地上よりはるかに遠い。

 ただ、間近でたなびく煙草たばこの残り香まじりの雲烟うんえんが、雲がかるあまを間近に感じさせる。それだけだ。

「馬鹿なだけだよ、あいつ。多分」

 言い終え―――

 終えていないことなど、とうに自覚していた。不承不承ふしょうぶしょう、付け加える。

「馬鹿正直なだけなんだよ、あいつ。多分」

 シャイズナは、誰にもばれない程度に吐息した。器用貧乏な性分。品性。過去に父が言っていたそれらが本当に示していた意味を、自分がみ取れた自信はない。損な方。彼よりも、あざとく阿漕あこぎ。今ほど姉がもたらしたささやきは、こちらどころか言った当人さえ本意を見失っているのだから、自分までがそうであったとしてもかなっている。

 つまり姉だって、シャイズナがどうしてこんなことを言ったのか、理解できるはずがないのだ。だというのに―――

「そうね」

 言って、彼女は、ささやかに笑む。

 つられて笑い……途端とたんほおが痛んで、それをひっこめる。姉は、まさしく腫れ物を扱うかのようにびくりとして身を引きかけたが、軟化した雰囲気そのものは暗転していないことを感じたらしい。その場にとどまったまま、心地よい空気を愛撫あいぶするかのように、シャイズナの髪にやわらかく触れる。相当にぼさぼさのようで、きちんと頭髪に分け目をつけるように、遠慮がちにこちらの毛先を押してきた。

「ザーニーイさんの修理はもうすぐ終わりそうだから、そうなったら、騒動に巻き込んでしまったことをちゃんとおびして、お見送りなさい。わたしから一筆したためて卓に置いておきましたから、忘れずにお渡しするようにね」

「ん」

 了解の意で、のどから音を鳴らす。うわの空で。

(このままあいつを帰すもんか。あいつが本物の旗司誓きしせいなら、そのつてで、霹靂へきれきに直談判できるかもしれない。俺に剣がなくても、なんとかなるかも―――)

 ふっ、と―――

 髪に触れていた指の腹が、それを越え、ひたいまで届く。

「姉ちゃ―――?」

 心地よさに、疑問を乗せた声も、ゆっくりとほどかされていった。

 質量の大きい空気のように、その感触はひやりと軽く、しなやかだった。額にあてがわれる姉の左手を今も守るのは、ザーニーイによってほどこされた包帯。その布は人肌の湿気と温もりを吸って優しく、それが皮膚に伝えてくるぬるい快感に、覚めていたはずの意識が急激に眠気をよどませていく。抗いきれず、シャイズナは目を閉じた。思考の一抹いちまつさえも、眠りへと沈めながら。
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