4 / 7
転章
転章 1
しおりを挟む
「不可抗力だと思うんだけどなー」
「そうですね」
「でもそれは俺にとってそうだってだけで、おっさんとしては、隣に住んでるだけでとばっちり食うのは割に合わないもんなー」
「そうですね」
「だったら、割を合わせるために、ぶっ壊したんなら直せって言うのは、請求として真っ当だよなー。真っ当すぎて頭が下がるよなー。頭が下がると首も肩も下がるわけで、いわゆるアレだ。平身低頭。五体投地。まあ概ね嘘だが」
「そうですね」
「でも、俺としては不可抗力だったんだよなー」
「そうですね」
「つまり俺としては不可抗力だったんだから俺は不可抗力だと思うんだよなー」
「そうですね」
「ええと」
「はい」
「………………」
「…………」
先に間が保たなくなったのは、ザーニーイの方だったようである。
「いただきます」
「どうぞ。粗茶ですが。包帯で都合が悪くて、不恰好に片手で差し上げるご無礼をお許しください」
「いや、むしろそれも俺のせいだし。あれ? なんかことごとく俺に始まって俺に終わってるような」
「そうですね」
「うあ。トドメ軽やか」
そして、すすられる茶の音。
シャイズナは窓越しに聞こえてくるやり取りを、聞くともなしに聞いていた。広げてみてもみすぼらしい寝具の上に仰向けになって、目だけを傾けて窓を見詰めている。首の状態を鑑みて、枕は当てられていなかった。窓は自分の頭上で開かれたまま、いつもと同じように、隣家の薄汚れた壁を覗かせている。姉に開けられた時とも、飛び出すザーニーイの通路になった時とも変わらず、常にそこでそうしている。ただ、つい先程までは、その向こうで大工仕事らしい雑音が広がっていたのに、今はその音が失せて、ザーニーイと姉の会話にすげかわっていた。
窓は開いているというのに、二人の姿は見えなかった。二人がそこにいないというわけではない……現にこうして声はきちんと拾えるし、ザーニーイの紫煙の残滓らしい細い煙が、窓枠の下から上へと漂っては、ふわふわと壁際をさすって散っていく。おそらく、低い位置にある壁を修理していたザーニーイが、路上に屈んだまま休憩に入ったため、姉もそれに合わせてしゃがんでいるのだろう。目上の者―――この場合は客のザーニーイ―――と対話する際は、頭の高さもろとも視線を合わせるべきという礼儀作法は、父の教えの初歩だった。
日の当たらない、涼やかな窓辺。折りたたみ式の小さな寝床に詰められている安い綿は、どれだけ叩いても一向に空気を吸わず、ほとんど膨らまなかった。それに包まれていると、体温が保たれるというよりは体温が抜かれているようであったが、むしろ鈍痛にほてった身体にはありがたい。最も疼いている右頬に貼り付いた湿布と共に、高ぶった神経をじわりと鎮めてくれる。
と。
「ザーニーイさん。お聞きしたいことがございます」
「おう」
「先ほどあなたは、わたしが娶られていると勘違いされた状態で、女性は手にしていない財産を手に入れることに敏感で、男性は手にした財産が損ねられることに敏感に出来ているとおっしゃいました」
「ああ」
「女は男のものなのですか?」
意図をはかりかねたのだろう。ザーニーイは答えない。
いや―――シャイズナはしぶしぶ認めた―――単に、茶を飲み下したかっただけのことか。ずずずずず、と細く長く、濁音たけだけしい水音が聞こえる。が、むしろその騒音が決心を促したのか、続いた姉の言葉はさっきよりも流暢だった。
「わたしは既にあの男のものなのですか? いえ、夫婦ではないことは分かりきっています。しかしそれでもザーニーイさんのお言葉を思い出すにつれ、あの男の態度は、……とうに自分の手中にいるのものが、そこから損なわれるはずもないくせに、悪あがきをしていると―――」
急激に、そこから先を言いよどむ。今までのそれより、一層と感情がこもったせいだろう。思いが重量をおびているかのように、語られる音声はひどく鈍重に聞こえた。
「女のくせに、とでも……薄ら笑いを浮かべて言っているように思えてきて……わたしは……」
「女は男の財産だ」
そこで、すべての音が止む。
ザーニーイの断言の後、沈黙の中で、空へと昇る紫煙の濃さだけがわずかに増した。窓枠の木目を真似るような複雑な細波模様を、次々に中空に描いては溶けていく。その悪戯な抽象に、ぼんやりした意識を優しく撫でられて、シャイズナは目蓋を下ろしかけた。
それを阻んだのは、聴覚の刺激である。声だ―――ザーニーイの。そして、姉の。
「なあ嬢ちゃん。そこの地面に置いてある工具箱、持てるか?」
「え?」
「さっき修理の為に借りたんだけどよ。あのおっさんやたら貧乏性みてぇで、トンカチとか道具一式のみならず、バラした鉄屑から木の板まで、しっちゃかめっちゃかに突っ込んでやがる。十キロはいくだろ。持てるか?」
「踏ん張ばれば、多分―――」
「十ヶ月」
「じゅっ……!?」
「最初から十キロは無いにせよ、とんでもない耐久レースだよな、十月十日。そんで挙句に行き着く先は、半日かけての股裂きだぞ」
絶句する姉を放置して、ザーニーイが呟いた。その顔はげんなりした呆れ顔なのだろうと容易に想像できる調子で、ひとりごちる。
「おっかねぇったらありゃしねぇな。ひと山越えたところで、ざっと十年はソフトに拘束されるだろ。世話とか子育てとか、そーいったフィジカル的な意味に限られた話じゃない。メンタルの一喜一憂まで軟禁だぞ? 男女平等とか言う奴がいるが、そんな奴だってこんだけ女に拷問を強いつつ誕生アンド成長してきたんだよなーとか考えると、ひたすらに納得できない心境に駆られるんだよな。どう考えたって不平等だろ。男なんざ、最初の小一時間でお役御免じゃねぇか。趣味にもよるだろうが、別に重くも痛くもねぇし」
そして、ぴたりとそれを止める。
独り言の余韻が消え去るのを、そうやって、待ったのだろう。続く言葉は、確かに、誰かに伝えられるべくして伝えられたような……そんな、気がした。
「こいつが財産じゃなくて、なにが男だ」
そこで、会話が終わる。
いや、終わらない。
「同じ様に、男だって女の財産だ。自分の生死を賭けてもいい値があるかどうか、そいつを見極めにゃならん。洒落で済ませたらマジでおっ死ぬ。まあ男だろうが女だろうが、自分を財産に他人を勘定しなきゃならないって意味じゃ、人間みんなおんなじだ」
「―――と、いうと?」
姉が聞き返したのは、相手の語り口が、自分に答えてくれると思える程度に滑らかだったからだろう。とはいえ、ザーニーイはそういった話に慣れているというよりも、単に思ったことを思ったように表現しているだけのようで、あけすけな言い方は変わらなかった。
「相手が自分にとっての財産なら、相手の相手である自分も同じように財産としてカウントしとかねえと、帳尻があわなくなっちまうからな。嬢ちゃんも俺も、ひとつの財産だ。シャイズナだってそうさ。だがシャイズナは、俺からすりゃあ行きずりのガキでしかないが、あんたにとっちゃ、そう表現されるのも大層ムカつく大事な弟だろう。モノは同じだってのに、なんでこうも勘定が違ってくるのか? 楽な話さ。俺と嬢ちゃんじゃ、財産につける値札が―――価値観が違うんだから。違うんなら、見極めにゃならん」
「見極める……」
「おうよ。個人っつー財産が寄せ集まって出来た社会っつー財山から、えっちらおっちら宝探しだ」
それからまたしても、しばらくの間、空へたゆたう煙の量が増した。
その、紫煙の描く柔軟なリズムをやわらかに貫いて、告げられる言葉がある。
「自分も含めたあまねく価値の中から、生涯を投じて、よりよい財を選べ。選べる、選べない、選ばれる、選ばれない、じゃない。選べ。怠れば腐るぞ。例外は無い」
ザーニーイはそれから、いつの間にやら生じた堅苦しさを笑うように、伸びでもしてみせたらしかった。もちろんその仕草が見えたわけではないが、長い一拍を挟んでからこぼされた声は、欠伸を終えたかのように間延びしている。
「ま。こいつを無責任な減らず口って思うんなら、それが嬢ちゃんの値札だ。無視する、馬鹿にする、笑い飛ばす―――なんでも選べばいい。湯呑みかえすぜ。ありがとよ」
「いえ」
と。姉の姿が、すっと窓の向こうに生えた。どうやら、ちょうどその下あたりに腰を下ろしていたらしい。小ぶりの湯呑みを胸元に携え、一度しっかりと直立してから、右の方へ向けて深々と頭を下げてみせる。
「感謝します」
(あれ……座ってる客に一礼する時って、立ってするんだっけ? 客を見下ろすことになるじゃんか。でも、姿勢が恰好悪くなるから、むしろ立たなくちゃいけないんだっけ……?)
茫漠と、そんなことを思う。
物思いは結論を得る前に霧散したが、どうでもいいことではあった。いつも以上に足音を潜めて、玄関をくぐった姉が家の中へと戻ってくる。まるで凝視すると壊れると信じているかのように、そっとこちらへ視線を触れさせて―――シャイズナが目を開けていることに、胸を撫で下ろした。実際彼女は鎖骨の下を押さえるようにしていた右手を下げながら近寄ってきて、おずおずとのぞきこんでくる。
「シャイズナ。まだ痛い? 大事をとって、もう少し横におなりなさい」
「うん……あ、姉ちゃん、どっか行くの?」
家にひとつしかない卓へと近寄っていく細い背中に、呼びかける。例え誰かに言付けていたとしても、出かける際に家人へ向けた手紙を残すのは、姉の習慣だった。
頬が痛む上、貼られた布で満足な発音とはならなかったが。それでもちゃんと聞き取って、湯呑みを置いた姉が答えてくる。
「お隣に、改めて謝ってまいります。壊したのはザーニーイさんでも、元凶はわたしなのだから、わたしの誠意も示さなければね」
「姉ちゃんだけじゃないよ。俺も行くよ」
「その顔で? およしなさい。逆に、お相手を困らせてしまうだけ」
自分が気絶している間に、文章は考えていたのだろう。部屋の隅から持ち出してきた紙に、同じくそこから持ってきた文房具で何事かを書き連ね、それを卓上に添えるまで、数分も要しなかったように感じる。そして姉は、使った物品を片付けてから、シャイズナの元へやってきた。まあ、広くもない一間の家である上、今はシャイズナの寝床がそこを席巻しているのだから、やってきたといっても、こちらへ反転してしゃがんだ程度だが。
「……ザーニーイさんは、なんていうかとても……損な方ね」
唐突に、そんなことを言う。
シャイズナの耳元で呟く姉は、ひどく小声だった。それは、壁の向こうにいる当人に悟られないようにとの配慮であるというよりは、誰かに聞かれることに意味を求めない繰言のようだった。
「わたしからそう見えるのは、本当に彼が損をしているのからなのかしら。それとも、彼が損をしているのではなくて、彼以外の誰もかもが、彼よりもあざとく阿漕でいるだけなのかしら―――」
「どしたの?」
「さあ。ただ、そう思ってしまったの。どうしたのかしらね?」
そのあたりでようやっと、大工仕事の音が再開しだす。
壁越しに響くそれは、随分と些細になっていた。細かな仕上げに入っているのか、それとは別に凝り性でも発揮しているのかは分からないが、断続的な物音がごそごそと続く。
音は見えない。あおむけの視界に映えるは雲際。さまざまな建築の影に隔てられて、晴れることを忘れた灰色の空はひたすらに狭く、この地上よりはるかに遠い。
ただ、間近でたなびく煙草の残り香まじりの雲烟が、雲がかる天を間近に感じさせる。それだけだ。
「馬鹿なだけだよ、あいつ。多分」
言い終え―――
終えていないことなど、とうに自覚していた。不承不承、付け加える。
「馬鹿正直なだけなんだよ、あいつ。多分」
シャイズナは、誰にもばれない程度に吐息した。器用貧乏な性分。品性。過去に父が言っていたそれらが本当に示していた意味を、自分が汲み取れた自信はない。損な方。彼よりも、あざとく阿漕。今ほど姉がもたらした囁きは、こちらどころか言った当人さえ本意を見失っているのだから、自分までがそうであったとしても理に適っている。
つまり姉だって、シャイズナがどうしてこんなことを言ったのか、理解できるはずがないのだ。だというのに―――
「そうね」
言って、彼女は、ささやかに笑む。
つられて笑い……途端に頬が痛んで、それをひっこめる。姉は、まさしく腫れ物を扱うかのようにびくりとして身を引きかけたが、軟化した雰囲気そのものは暗転していないことを感じたらしい。その場にとどまったまま、心地よい空気を愛撫するかのように、シャイズナの髪にやわらかく触れる。相当にぼさぼさのようで、きちんと頭髪に分け目をつけるように、遠慮がちにこちらの毛先を押してきた。
「ザーニーイさんの修理はもうすぐ終わりそうだから、そうなったら、騒動に巻き込んでしまったことをちゃんとお詫びして、お見送りなさい。わたしから一筆したためて卓に置いておきましたから、忘れずにお渡しするようにね」
「ん」
了解の意で、喉から音を鳴らす。上の空で。
(このままあいつを帰すもんか。あいつが本物の旗司誓なら、そのつてで、霹靂に直談判できるかもしれない。俺に剣がなくても、なんとかなるかも―――)
ふっ、と―――
髪に触れていた指の腹が、それを越え、額まで届く。
「姉ちゃ―――?」
心地よさに、疑問を乗せた声も、ゆっくりとほどかされていった。
質量の大きい空気のように、その感触はひやりと軽く、しなやかだった。額にあてがわれる姉の左手を今も守るのは、ザーニーイによって施された包帯。その布は人肌の湿気と温もりを吸って優しく、それが皮膚に伝えてくるぬるい快感に、覚めていたはずの意識が急激に眠気を澱ませていく。抗いきれず、シャイズナは目を閉じた。思考の一抹さえも、眠りへと沈めながら。
「そうですね」
「でもそれは俺にとってそうだってだけで、おっさんとしては、隣に住んでるだけでとばっちり食うのは割に合わないもんなー」
「そうですね」
「だったら、割を合わせるために、ぶっ壊したんなら直せって言うのは、請求として真っ当だよなー。真っ当すぎて頭が下がるよなー。頭が下がると首も肩も下がるわけで、いわゆるアレだ。平身低頭。五体投地。まあ概ね嘘だが」
「そうですね」
「でも、俺としては不可抗力だったんだよなー」
「そうですね」
「つまり俺としては不可抗力だったんだから俺は不可抗力だと思うんだよなー」
「そうですね」
「ええと」
「はい」
「………………」
「…………」
先に間が保たなくなったのは、ザーニーイの方だったようである。
「いただきます」
「どうぞ。粗茶ですが。包帯で都合が悪くて、不恰好に片手で差し上げるご無礼をお許しください」
「いや、むしろそれも俺のせいだし。あれ? なんかことごとく俺に始まって俺に終わってるような」
「そうですね」
「うあ。トドメ軽やか」
そして、すすられる茶の音。
シャイズナは窓越しに聞こえてくるやり取りを、聞くともなしに聞いていた。広げてみてもみすぼらしい寝具の上に仰向けになって、目だけを傾けて窓を見詰めている。首の状態を鑑みて、枕は当てられていなかった。窓は自分の頭上で開かれたまま、いつもと同じように、隣家の薄汚れた壁を覗かせている。姉に開けられた時とも、飛び出すザーニーイの通路になった時とも変わらず、常にそこでそうしている。ただ、つい先程までは、その向こうで大工仕事らしい雑音が広がっていたのに、今はその音が失せて、ザーニーイと姉の会話にすげかわっていた。
窓は開いているというのに、二人の姿は見えなかった。二人がそこにいないというわけではない……現にこうして声はきちんと拾えるし、ザーニーイの紫煙の残滓らしい細い煙が、窓枠の下から上へと漂っては、ふわふわと壁際をさすって散っていく。おそらく、低い位置にある壁を修理していたザーニーイが、路上に屈んだまま休憩に入ったため、姉もそれに合わせてしゃがんでいるのだろう。目上の者―――この場合は客のザーニーイ―――と対話する際は、頭の高さもろとも視線を合わせるべきという礼儀作法は、父の教えの初歩だった。
日の当たらない、涼やかな窓辺。折りたたみ式の小さな寝床に詰められている安い綿は、どれだけ叩いても一向に空気を吸わず、ほとんど膨らまなかった。それに包まれていると、体温が保たれるというよりは体温が抜かれているようであったが、むしろ鈍痛にほてった身体にはありがたい。最も疼いている右頬に貼り付いた湿布と共に、高ぶった神経をじわりと鎮めてくれる。
と。
「ザーニーイさん。お聞きしたいことがございます」
「おう」
「先ほどあなたは、わたしが娶られていると勘違いされた状態で、女性は手にしていない財産を手に入れることに敏感で、男性は手にした財産が損ねられることに敏感に出来ているとおっしゃいました」
「ああ」
「女は男のものなのですか?」
意図をはかりかねたのだろう。ザーニーイは答えない。
いや―――シャイズナはしぶしぶ認めた―――単に、茶を飲み下したかっただけのことか。ずずずずず、と細く長く、濁音たけだけしい水音が聞こえる。が、むしろその騒音が決心を促したのか、続いた姉の言葉はさっきよりも流暢だった。
「わたしは既にあの男のものなのですか? いえ、夫婦ではないことは分かりきっています。しかしそれでもザーニーイさんのお言葉を思い出すにつれ、あの男の態度は、……とうに自分の手中にいるのものが、そこから損なわれるはずもないくせに、悪あがきをしていると―――」
急激に、そこから先を言いよどむ。今までのそれより、一層と感情がこもったせいだろう。思いが重量をおびているかのように、語られる音声はひどく鈍重に聞こえた。
「女のくせに、とでも……薄ら笑いを浮かべて言っているように思えてきて……わたしは……」
「女は男の財産だ」
そこで、すべての音が止む。
ザーニーイの断言の後、沈黙の中で、空へと昇る紫煙の濃さだけがわずかに増した。窓枠の木目を真似るような複雑な細波模様を、次々に中空に描いては溶けていく。その悪戯な抽象に、ぼんやりした意識を優しく撫でられて、シャイズナは目蓋を下ろしかけた。
それを阻んだのは、聴覚の刺激である。声だ―――ザーニーイの。そして、姉の。
「なあ嬢ちゃん。そこの地面に置いてある工具箱、持てるか?」
「え?」
「さっき修理の為に借りたんだけどよ。あのおっさんやたら貧乏性みてぇで、トンカチとか道具一式のみならず、バラした鉄屑から木の板まで、しっちゃかめっちゃかに突っ込んでやがる。十キロはいくだろ。持てるか?」
「踏ん張ばれば、多分―――」
「十ヶ月」
「じゅっ……!?」
「最初から十キロは無いにせよ、とんでもない耐久レースだよな、十月十日。そんで挙句に行き着く先は、半日かけての股裂きだぞ」
絶句する姉を放置して、ザーニーイが呟いた。その顔はげんなりした呆れ顔なのだろうと容易に想像できる調子で、ひとりごちる。
「おっかねぇったらありゃしねぇな。ひと山越えたところで、ざっと十年はソフトに拘束されるだろ。世話とか子育てとか、そーいったフィジカル的な意味に限られた話じゃない。メンタルの一喜一憂まで軟禁だぞ? 男女平等とか言う奴がいるが、そんな奴だってこんだけ女に拷問を強いつつ誕生アンド成長してきたんだよなーとか考えると、ひたすらに納得できない心境に駆られるんだよな。どう考えたって不平等だろ。男なんざ、最初の小一時間でお役御免じゃねぇか。趣味にもよるだろうが、別に重くも痛くもねぇし」
そして、ぴたりとそれを止める。
独り言の余韻が消え去るのを、そうやって、待ったのだろう。続く言葉は、確かに、誰かに伝えられるべくして伝えられたような……そんな、気がした。
「こいつが財産じゃなくて、なにが男だ」
そこで、会話が終わる。
いや、終わらない。
「同じ様に、男だって女の財産だ。自分の生死を賭けてもいい値があるかどうか、そいつを見極めにゃならん。洒落で済ませたらマジでおっ死ぬ。まあ男だろうが女だろうが、自分を財産に他人を勘定しなきゃならないって意味じゃ、人間みんなおんなじだ」
「―――と、いうと?」
姉が聞き返したのは、相手の語り口が、自分に答えてくれると思える程度に滑らかだったからだろう。とはいえ、ザーニーイはそういった話に慣れているというよりも、単に思ったことを思ったように表現しているだけのようで、あけすけな言い方は変わらなかった。
「相手が自分にとっての財産なら、相手の相手である自分も同じように財産としてカウントしとかねえと、帳尻があわなくなっちまうからな。嬢ちゃんも俺も、ひとつの財産だ。シャイズナだってそうさ。だがシャイズナは、俺からすりゃあ行きずりのガキでしかないが、あんたにとっちゃ、そう表現されるのも大層ムカつく大事な弟だろう。モノは同じだってのに、なんでこうも勘定が違ってくるのか? 楽な話さ。俺と嬢ちゃんじゃ、財産につける値札が―――価値観が違うんだから。違うんなら、見極めにゃならん」
「見極める……」
「おうよ。個人っつー財産が寄せ集まって出来た社会っつー財山から、えっちらおっちら宝探しだ」
それからまたしても、しばらくの間、空へたゆたう煙の量が増した。
その、紫煙の描く柔軟なリズムをやわらかに貫いて、告げられる言葉がある。
「自分も含めたあまねく価値の中から、生涯を投じて、よりよい財を選べ。選べる、選べない、選ばれる、選ばれない、じゃない。選べ。怠れば腐るぞ。例外は無い」
ザーニーイはそれから、いつの間にやら生じた堅苦しさを笑うように、伸びでもしてみせたらしかった。もちろんその仕草が見えたわけではないが、長い一拍を挟んでからこぼされた声は、欠伸を終えたかのように間延びしている。
「ま。こいつを無責任な減らず口って思うんなら、それが嬢ちゃんの値札だ。無視する、馬鹿にする、笑い飛ばす―――なんでも選べばいい。湯呑みかえすぜ。ありがとよ」
「いえ」
と。姉の姿が、すっと窓の向こうに生えた。どうやら、ちょうどその下あたりに腰を下ろしていたらしい。小ぶりの湯呑みを胸元に携え、一度しっかりと直立してから、右の方へ向けて深々と頭を下げてみせる。
「感謝します」
(あれ……座ってる客に一礼する時って、立ってするんだっけ? 客を見下ろすことになるじゃんか。でも、姿勢が恰好悪くなるから、むしろ立たなくちゃいけないんだっけ……?)
茫漠と、そんなことを思う。
物思いは結論を得る前に霧散したが、どうでもいいことではあった。いつも以上に足音を潜めて、玄関をくぐった姉が家の中へと戻ってくる。まるで凝視すると壊れると信じているかのように、そっとこちらへ視線を触れさせて―――シャイズナが目を開けていることに、胸を撫で下ろした。実際彼女は鎖骨の下を押さえるようにしていた右手を下げながら近寄ってきて、おずおずとのぞきこんでくる。
「シャイズナ。まだ痛い? 大事をとって、もう少し横におなりなさい」
「うん……あ、姉ちゃん、どっか行くの?」
家にひとつしかない卓へと近寄っていく細い背中に、呼びかける。例え誰かに言付けていたとしても、出かける際に家人へ向けた手紙を残すのは、姉の習慣だった。
頬が痛む上、貼られた布で満足な発音とはならなかったが。それでもちゃんと聞き取って、湯呑みを置いた姉が答えてくる。
「お隣に、改めて謝ってまいります。壊したのはザーニーイさんでも、元凶はわたしなのだから、わたしの誠意も示さなければね」
「姉ちゃんだけじゃないよ。俺も行くよ」
「その顔で? およしなさい。逆に、お相手を困らせてしまうだけ」
自分が気絶している間に、文章は考えていたのだろう。部屋の隅から持ち出してきた紙に、同じくそこから持ってきた文房具で何事かを書き連ね、それを卓上に添えるまで、数分も要しなかったように感じる。そして姉は、使った物品を片付けてから、シャイズナの元へやってきた。まあ、広くもない一間の家である上、今はシャイズナの寝床がそこを席巻しているのだから、やってきたといっても、こちらへ反転してしゃがんだ程度だが。
「……ザーニーイさんは、なんていうかとても……損な方ね」
唐突に、そんなことを言う。
シャイズナの耳元で呟く姉は、ひどく小声だった。それは、壁の向こうにいる当人に悟られないようにとの配慮であるというよりは、誰かに聞かれることに意味を求めない繰言のようだった。
「わたしからそう見えるのは、本当に彼が損をしているのからなのかしら。それとも、彼が損をしているのではなくて、彼以外の誰もかもが、彼よりもあざとく阿漕でいるだけなのかしら―――」
「どしたの?」
「さあ。ただ、そう思ってしまったの。どうしたのかしらね?」
そのあたりでようやっと、大工仕事の音が再開しだす。
壁越しに響くそれは、随分と些細になっていた。細かな仕上げに入っているのか、それとは別に凝り性でも発揮しているのかは分からないが、断続的な物音がごそごそと続く。
音は見えない。あおむけの視界に映えるは雲際。さまざまな建築の影に隔てられて、晴れることを忘れた灰色の空はひたすらに狭く、この地上よりはるかに遠い。
ただ、間近でたなびく煙草の残り香まじりの雲烟が、雲がかる天を間近に感じさせる。それだけだ。
「馬鹿なだけだよ、あいつ。多分」
言い終え―――
終えていないことなど、とうに自覚していた。不承不承、付け加える。
「馬鹿正直なだけなんだよ、あいつ。多分」
シャイズナは、誰にもばれない程度に吐息した。器用貧乏な性分。品性。過去に父が言っていたそれらが本当に示していた意味を、自分が汲み取れた自信はない。損な方。彼よりも、あざとく阿漕。今ほど姉がもたらした囁きは、こちらどころか言った当人さえ本意を見失っているのだから、自分までがそうであったとしても理に適っている。
つまり姉だって、シャイズナがどうしてこんなことを言ったのか、理解できるはずがないのだ。だというのに―――
「そうね」
言って、彼女は、ささやかに笑む。
つられて笑い……途端に頬が痛んで、それをひっこめる。姉は、まさしく腫れ物を扱うかのようにびくりとして身を引きかけたが、軟化した雰囲気そのものは暗転していないことを感じたらしい。その場にとどまったまま、心地よい空気を愛撫するかのように、シャイズナの髪にやわらかく触れる。相当にぼさぼさのようで、きちんと頭髪に分け目をつけるように、遠慮がちにこちらの毛先を押してきた。
「ザーニーイさんの修理はもうすぐ終わりそうだから、そうなったら、騒動に巻き込んでしまったことをちゃんとお詫びして、お見送りなさい。わたしから一筆したためて卓に置いておきましたから、忘れずにお渡しするようにね」
「ん」
了解の意で、喉から音を鳴らす。上の空で。
(このままあいつを帰すもんか。あいつが本物の旗司誓なら、そのつてで、霹靂に直談判できるかもしれない。俺に剣がなくても、なんとかなるかも―――)
ふっ、と―――
髪に触れていた指の腹が、それを越え、額まで届く。
「姉ちゃ―――?」
心地よさに、疑問を乗せた声も、ゆっくりとほどかされていった。
質量の大きい空気のように、その感触はひやりと軽く、しなやかだった。額にあてがわれる姉の左手を今も守るのは、ザーニーイによって施された包帯。その布は人肌の湿気と温もりを吸って優しく、それが皮膚に伝えてくるぬるい快感に、覚めていたはずの意識が急激に眠気を澱ませていく。抗いきれず、シャイズナは目を閉じた。思考の一抹さえも、眠りへと沈めながら。
0
あなたにおすすめの小説
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
婚約破棄が聞こえません
あんど もあ
ファンタジー
私は、真実の愛に目覚めた王子に王立学園の卒業パーティーで婚約破棄を宣言されたらしいです。
私には聞こえないのですが。
王子が目の前にいる? どこに?
どうやら私には王子が見えなくなったみたいです。
※「承石灰」は架空の物質です。実在の消石灰は目に入ると危険ですのでマネしないでね!
わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。
織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。
父であるアーヴェント大公に疎まれている――
噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。
悪役断罪?そもそも何かしましたか?
SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。
男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。
あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。
えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。
勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる