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転章
転章 2
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「ち……っ……!」
うなり、あえぐ。苦しい。苦しんでも越えられない。越えられないなら耐えられない。そして。
「ち―――ちくわっ!?」
「いや。知らんし」
がっと起き上がる勢いもはなはだしく、上体だけの力で寝床から跳ね上がる。胡乱げな半目を寄越してくるザーニーイに答える余裕もなく、シャイズナは鎖骨の下をさすった。夢の衝撃に強打されて、異常な動悸に内臓が痺れている。夢の―――
「夢!?」
「知らんて」
「夢でよかった……あやうく、百歩譲って言っても、蛇蝎の如くちくわを嫌いになるとこだった……!」
「百歩譲って言っても!?」
安堵を抱きすくめるように背中を丸めたシャイズナへ叫んで、びびったようにザーニーイが後ずさる。とはいえ、反対向きにした椅子に腰を落としている彼がろくろく動けるはずもなく、目に見えたものと言えば、背もたれの上で組んでいた腕のたじろぎくらいだったが。
心拍がおさまるにつれて、狂乱するような動揺も凪いでいった。抱えていた頭をはなして、部屋を見渡す。姉が言っていた通り、確かにザーニーイの修理は、短時間で済んだようだった。彼女の姿はまだ戻っていない。
その代わりというわけではなかろうが、先程まで彼女が屈んでいたベッド際の位置に、ザーニーイが座っていた。彼はテーブルから持ってきた椅子を反転させ、それに跨がるようにして腰を落としている。椅子の背に前のめりに凭れ掛かりながら、多少距離を保ってこちらに付き添っていた。間を空けているのは、まかりまちがっても、吸殻の灰をシャイズナに落とさないためだろう。ザーニーイの示指と中指の付け根に、かなり短くなった煙草が挟まれている。先端の蛍火が赤黒く輝く様は、薄暗い家の中で、そういった宝石に彩られた指輪を右手にしているかのように見えた。
(あほくさ。連盟の練成魔士でもあるまいし)
右の中指に装飾を許されているのは、大陸連盟で認められた練成魔士に限られる……もしも違反すれば、その中指は即座に指輪ごと斬り落とされることとなる。老若男女関わらず一切妥協されたことがないこの処置は、大陸連盟という存在を恐れさせる端的な理由のひとつといえた。もうひとつ理由を挙げるとするならば、普通の人間が、右手の中指に指輪……夜欠銀の指円環と呼ばれるそれをしている誰かを見る状況というのは、大陸連盟の飼う対人殺害執行部隊―――葬送銀貨に正面から首をへし折られる瞬間くらいだという都市伝説がまかりとおっていることがあるだろうが、曖昧さで言うなら前者の指を斬るどうこうと同じようなものだ。事実シャイズナは、中指に指輪をした練成魔士どころか、葬送銀貨にも、大陸連盟によって中指だけ無くされた人間にすら出くわしたことは無かった。
「俺が起きるの、待ってたのか?」
「あいにく俺は、怪我してぶっ倒れたガキがひとりで寝込んでるのをろくすっぽ鍵もかからねえ安普請の中におっ放り出したまま家路に着くにゃあ臆病すぎてな」
憎まれ口をたたきながら、ザーニーイは煙草を唇に戻した。つまむ手の方に顔を寄せるようにしてそれを口の先に受け取って、軽くため息をついてみせる。そこにはそれなりの疲労が滲んでいたが、愛煙まじりのおかげか、雰囲気は不思議なほど和やかだった。
首の負傷を忘れず、身体ごと後ろの窓へ振り返る。すると、新旧入り混じってまだらな色合いになった、隣家の壁が見えた。ぐしょぬれの雑巾でもたたきつけたかのように、一点を中心に広がるようにして変色している……あえていうなら、残っている破壊の痕跡はそれだけであり、罅や瓦礫といったような露骨に壊れた部分は、もうどこにも無くなっていた。
「壁。もう直せたんだ」
「もうって程、すぐに済んじゃいねえよ。あのおっさん修理慣れしてるせいか、むやみやたらに目が肥えてやがって、ここぞとばかりにいちゃもんつけまくってきやがるし。お前は今までずっと寝てた分だけ時間が縮んでっから、そう感じるんだよ」
「ずっとなんか寝てねぇよ。うつらうつらしてただけ」
「おいおい。ンなガキの時分から、逐一こまっしゃくれるもんじゃねえぞ。反抗期ってのは、出し惜しみしてこそなんぼのもんだ」
「わけ分かんないし」
と、相手は明らかに駄々っ子を諌める仕草で、両手をぱたつかせてみせた。
「安心しろ。言い合いなんざしなくても、こんな妙な時間までぐーすか寝コケてたことは、お前自身がこれから身をもって実感することになるさ。多分お前ギンギンに目ぇ覚めちまって、今夜は眠れねぇだろからな」
「妙な時間?」
「日暮れまで一時間切ったぞ。そんな空気だ」
雪膚というにはあまりにも俗世慣れし過ぎている相好を上向かせ、ザーニーイが窓の外を見やった。そうしたところで、この窓からは夕日などろくに見えないはずだが、彼はその動作で確信を得たかのように、目元に浮かんだ沈着を一層に深める。ぴこぴこと咥え煙草の先を揺らして、頬杖をつきながら。
触れる空気が、急にぬめったような。肌に染み入ろうとする得体の知れない錯覚を拒絶し、シャイズナは呻いた。
「そんな……だって、だったら姉ちゃんが帰ってないはずないだろ」
「話が長引いてるんじゃないか? お前が殴られたことを皮切りに、色々まとめてどうにかできないか、どこぞの法律事務所に相談しに行くとか言ってたからな」
愕然と、呼吸を失う。
「俺が修理終わらせたら弟負ぶって付いてってやっから待ってろっつったんだが、客にそこまでさせるわけにはいかないし、今日見たとおりアデュバは自分に対しては絶対に強引なことは出来ないからっつって―――って、おい。シャイズナ?」
「ザーニーイの間抜け!」
話を遮って、怒鳴りつける。シャイズナは寝台からずりおちて、座ったままのザーニーイへ詰め寄った。彼の真紅の襟巻きに掴みかかったのは、荒らいだ感情に裏付けられての事だったが、ザーニーイには掴まり立ちの支えを欲してと見えたに違いない。無礼な行動への批難ではなく、こちらを視診する雰囲気ばかり濃縮していく眼差しを、シャイズナは睨みつけた。
「俺、さっき言ったじゃないか! 今じゃ丸ごと丸め込まれちまって、身内だろが外様だろうが、ひとっこひとり味方しちゃくれないって! 法律事務所? どこを何回訪ねても居留守を決め込んでた連中が、今更になって姉ちゃんを相手してくれるはずがあるかよ! 畜生、姉ちゃん―――!」
語るにつれ、ザーニーイの表情が化ばけた。軽薄な色が失せ、それに比例するように、眉根と口の端に襞が浮かび―――
そこから先の変化を見届けることは出来なかった。自分の大声に酔って、床にへたり込んでしまう。シャイズナは、椅子に頭蓋をなすり付けるように身体を折りながら、引きつって震える肺を胸郭ごとかきむしった。
シャイズナが掛けた体重と入れ替わるように、椅子が軽くなる。ザーニーイが席を立って、その足が卓へと向いたからだ。剣と戦斧が腰間で揺れ、そしてその揺れが歩調と同調しだす間もなく立ち止まり、卓に置き去られたままだった薄い手紙を取り上げる。彼がそれを読んでいないことは明白だった……誰に向けられているのか分からない手紙を、誰の許可もなく覗き見る気がしなかったのだろう。
「……ザーニーイ様へ。ワーフェン族アウフ家ザイエインが第一子、シャンシャッタの今生を以って、お願い申し上げます。わたしの弟―――」
不意に力んだ指先が、便箋を歪ませた。粗悪な紙は、読み上げられる内に更に力に負けて、無様に潰れる。
「シャイズナ・ワーフェン・アウフを、お預かりください」
挟んだ沈思は短く、ザーニーイは読了を急いだ。
「わたしはアデュバ・アロンビの元へ行きます。彼は今まで暗ににおわせはすれど、決して力に訴えてきたことはありませんでした。しかしそれが覆された以上、危険が及ぶのは弟です。わたしがこうする以外、その回避は望めないでしょう。これは、彼に示唆された、父の思いでもあるのです。ワーエラウフと、シャイズナを守ること……そのどちらもが、わたしが彼の元へ行きさえすれば、解決が図れることと考えます」
そこでまたしても頭をもたげた沈黙は、今度こそそのまま静寂まで誘うかと思われた。だがザーニーイは、その誘惑にのろのろと抵抗を示すように、どことなく減速させた口調で後を継いだ―――その遅さは、文面を噛み締める時間が欲しかったためか、文面を噛み締めて生じたいくらかの何かをどうにかする猶予が欲しかったためか。それは分からないが。理解せずとも、朗読は続いた。
「ザーニーイさんにとってすれば、ふってわいた厄介な申し出であることでしょう。しかし、お人柄が信頼するに足りると、言葉を交わすうちに知るにつれ、このお人ならばシャイズナを健やかに―――云々、か。くそ。弟どころか、死んでる親父を一番に勘定するたぁ思わなかったな。無責任な減らず口って思われるより、よっぽどしち面倒臭ぇことになっちまった。どうしたもんか……」
「決まってるだろ! 姉ちゃんを取り返す! 姉ちゃんを生け贄にしてのうのうと生きながらえるなんて、絶対に嫌だ!」
当然のことでも、あえて声に出せば身体が奮い立つのも早かった。立ち上がって、頬に貼られたままだった湿布を剥ぎ取る……弱点に目印をつけたまま、敵陣に乗り込む気にはなれなかった。武器になりそうなものを、視線を走らせて物色する。とりあえず、薬箱は論外だ……姉がそこに戻したのだろう。黒い箱は床の定位置に戻されている。姉が。
目の奥に違和感を覚え、シャイズナはそれを眼窩にとどめておくべく、手の付け根で目蓋を押さえつけた。箱から顔を背けた直後、ザーニーイの呼びかけがうなじに落ちてくる。
「大丈夫か?」
「アデュバの一味は、さっき来た八人で全員のはずだ! しかも今さっき、二人ぶっ倒した! 俺の怪我を差し引いたとしても、きっと勝てる―――!」
「お前で大丈夫か?」
それは、こちらを無視されて発された言葉だというのに、こちらの無視を妨げる。
そのことに不快感を覚えなかったといえば嘘になるが、声を中断した原因がその不快感そのものではないということも悟ってはいた。躊躇いがなかったといえば嘘になるが、それでもシャイズナは息をついて、告白を遂げた。
「アデュバとのことは、俺と姉ちゃんの問題だったんだ。……だから俺、霹靂に、どうにかしてもらおうと思えたんだ。けど、……だけど」
頬を押さえる。先ほど、他にどうしようもなく殴り飛ばされた横面は、まだ熱をもって震えていた。いや。
震えているのは、かみ締めた奥歯だ。それを、意地だけでこじ開ける。
「今、姉ちゃんが問題にしてるのは、アデュバじゃない。俺と父様だ。だから、父様がいない今は、俺だけでも行かなきゃ―――俺が行かなくちゃいけないんだ」
ザーニーイは―――
首を振った。横に。二度。
「そうじゃない。今のお前は嬢ちゃん自身の生き写しだって分かってるのに、あえてその嬢ちゃんの選択を拒絶する意味が、お前に背負えるのかって聞いてるんだ」
怪訝さを黙殺できなくなり、ようやっとまともに、そちらを向く。
彼もまた、こちらを見詰めていた。ザーニーイ。用済みになった手紙を指先で弾くようにしてテーブルへ返しつつ、こちらを見つめてくるその碧眼は、見えない奥底の存在をにおわせる。質の悪い紙片が花弁でも気取るかのように空中を滑り、ひらりと回ってから元通りの卓上へ着地する間も、シャイズナから目を逸らすことはない。
「お前の姉ちゃんは、弟まで生け贄にして生きながらえるのが嫌だったから、こうやってひとりで行ったはずだ。お前がこいつを撥ねつける意味は、お前が庇われた立場である以上は、でかすぎる。全部ひっくるめて背負ってった嬢ちゃんを、丸ごとお前が背負い返すってことだからだ。その意味を、一生担いでいけるのか?」
こめかみが疼いた。頭痛によってではない。
「こんな時に! 俺を! 試すなァ!」
明確な怒りが生んだ血管のざわめきに、シャイズナは咆哮した。
眩暈を覚えたが、さっきと違って座り込むほどではない。着実に回復しているようだが、全開とは言いがたい状態にとっては、乱れた感情は明らかに重荷だった。それでも、シャイズナは感情を押し殺そうとせず、歯をむきながら、ザーニーイに見えない位置で掌を固めた。荒事慣れした旗司誓に一撃を与えるためには、怒気の助太刀はあるだけありがたい。
そのシャイズナの全てを、ザーニーイが見逃したはずはなかろう。敵愾心がちらつく眼球、筋の強張り、より効果的に全力を発揮すべく撓まされた四肢―――こちらの観察を済ませた時、相手の脳裏には、もっと多くのものが羅列されていたはずだ。例えば、こちらを叩きのめすのに最も有効な拳打の繰り出し方や、そういったものが。だが、数秒を経てからザーニーイがしたのは、口の端の変形だけだった。いや、変形させる前準備に、ほんの少し、力を通わせただけ。そんな程度だったのだろう。実際は。
ただ、正直言って、そこでわずかばかり動揺を覚えざるをえなかったのは……その張り詰めた口元が、泣き出すのを堪える子どもをイメージさせたからだった。
場違いなひらめきは、すぐに過ぎ去った。ザーニーイがすぐさま、明らかな笑みの形へと唇を押し広げ終える。そして。
「オーケイシャイズナ。最高だ」
言われたところで特に愉快でもない。目先で打ちのめすべき敵はいなくなったのは幸運かもしれないが、―――寸前の思いつきのせいもあって―――笑う気にはなれず、シャイズナは無言のままで視線を引き戻した。家の風景と、今日一日に見聞きした情景を反芻しながら、その中に映る、人間を脅やかす道具を数え上げていく。ちんぴらどもの持つ小道具、旗司誓の携えた剣と斧、姉が自分の首に向けた包丁―――
「そいつはやめとけ。俺がいる」
ザーニーイが、すっと前に割り込んできた。台所に向かいかけたシャイズナの意図を読んだのだろう。彼はその場で立ちふさがったまま、こちらにあえて示すために手斧の柄に触れ、返すその手で剣を持ち上げてみせた。そして親指で鍔を押すようにして、そこにある青い羽根を強調してくる。意味は分からないが、意味がある行為らしく、それをする指先は力強い。
「一方的な申し入れとはいえ、一応はてめぇを預かった身だ。双頭三肢の青鴉にかけて、嬢ちゃんに身柄を引き渡すまでは、保護者役をさせてもらう」
実際は、その発声のために呼吸しただけなのだろうが。それでも、そこに込められた意思を代弁するかのように、咥える煙草の火の赤味が燃え上がる。
「……好きにしろよ」
吐き捨てて、シャイズナはきびすを返した。ザーニーイは恐らく刃物について譲ることはないし、どれだけ求めたところで必ず拒絶するだろう―――直感にしたがって、目星をつけていた、最後のひとつがある方向へと向かう。
家の隅まで駆け寄って、立てかけられていた箒に飛びつく。毛羽立った枝を束ねてある先端を足で踏んで引っこ抜くと、肩ほどまでの高さの棒が残った。柄拵が無いのは欠点だったが、どうにか木剣として使えなくはない。貴族の嗜みとして……というか、いずれ交易に出向く息子の自衛手段のひとつとして、剣の扱いについては、父から一通り聞き及んでいる。聞き及んでいるとはつまり、まだまともに振るったことなどないという裏返しだった。自分でも心許ないと言わざるを得ないが、背に腹はかえられない。
そうしてシャイズナが棒の握りを確かめている間にも、なにやらずっと、ザーニーイが話しかけてきていた。それどころではなかったため気にも留めていなかったが、さすがに話が長すぎると勘付いて、そちらへ振り返る。すると彼は、どこからか取り出した赤い石を自分の横面に押し付けて、声を上げていた。
「―――じゃ、そーゆうことで。背に二十重ある祝福を」
それを最後に、片耳朶から石を離す。
そしてその石を、くるりと片手で回してから、頭帯にしまいこんだ。石は角の無い長方形で、大きさは掌大ほどであり、そうやって弄んでも支障ないらしい。
独り言ではなさそうだったが、独り言でないとなると言動が不可解すぎる。それについて尋ねることも出来ただろうが、シャイズナは彼に横目をくれるにとどめ、家を飛び出した。棒を携えた反対側に併走するようにして、ザーニーイもこちらに追随してくる。
彼の唇からは、煙草が失せていた。ただし、新しく取り出す気配もない。シャイズナは悟った。自分は、これからの時間が紫煙を楽しむには相応しくないと、暗に囁かれているのだと。
うなり、あえぐ。苦しい。苦しんでも越えられない。越えられないなら耐えられない。そして。
「ち―――ちくわっ!?」
「いや。知らんし」
がっと起き上がる勢いもはなはだしく、上体だけの力で寝床から跳ね上がる。胡乱げな半目を寄越してくるザーニーイに答える余裕もなく、シャイズナは鎖骨の下をさすった。夢の衝撃に強打されて、異常な動悸に内臓が痺れている。夢の―――
「夢!?」
「知らんて」
「夢でよかった……あやうく、百歩譲って言っても、蛇蝎の如くちくわを嫌いになるとこだった……!」
「百歩譲って言っても!?」
安堵を抱きすくめるように背中を丸めたシャイズナへ叫んで、びびったようにザーニーイが後ずさる。とはいえ、反対向きにした椅子に腰を落としている彼がろくろく動けるはずもなく、目に見えたものと言えば、背もたれの上で組んでいた腕のたじろぎくらいだったが。
心拍がおさまるにつれて、狂乱するような動揺も凪いでいった。抱えていた頭をはなして、部屋を見渡す。姉が言っていた通り、確かにザーニーイの修理は、短時間で済んだようだった。彼女の姿はまだ戻っていない。
その代わりというわけではなかろうが、先程まで彼女が屈んでいたベッド際の位置に、ザーニーイが座っていた。彼はテーブルから持ってきた椅子を反転させ、それに跨がるようにして腰を落としている。椅子の背に前のめりに凭れ掛かりながら、多少距離を保ってこちらに付き添っていた。間を空けているのは、まかりまちがっても、吸殻の灰をシャイズナに落とさないためだろう。ザーニーイの示指と中指の付け根に、かなり短くなった煙草が挟まれている。先端の蛍火が赤黒く輝く様は、薄暗い家の中で、そういった宝石に彩られた指輪を右手にしているかのように見えた。
(あほくさ。連盟の練成魔士でもあるまいし)
右の中指に装飾を許されているのは、大陸連盟で認められた練成魔士に限られる……もしも違反すれば、その中指は即座に指輪ごと斬り落とされることとなる。老若男女関わらず一切妥協されたことがないこの処置は、大陸連盟という存在を恐れさせる端的な理由のひとつといえた。もうひとつ理由を挙げるとするならば、普通の人間が、右手の中指に指輪……夜欠銀の指円環と呼ばれるそれをしている誰かを見る状況というのは、大陸連盟の飼う対人殺害執行部隊―――葬送銀貨に正面から首をへし折られる瞬間くらいだという都市伝説がまかりとおっていることがあるだろうが、曖昧さで言うなら前者の指を斬るどうこうと同じようなものだ。事実シャイズナは、中指に指輪をした練成魔士どころか、葬送銀貨にも、大陸連盟によって中指だけ無くされた人間にすら出くわしたことは無かった。
「俺が起きるの、待ってたのか?」
「あいにく俺は、怪我してぶっ倒れたガキがひとりで寝込んでるのをろくすっぽ鍵もかからねえ安普請の中におっ放り出したまま家路に着くにゃあ臆病すぎてな」
憎まれ口をたたきながら、ザーニーイは煙草を唇に戻した。つまむ手の方に顔を寄せるようにしてそれを口の先に受け取って、軽くため息をついてみせる。そこにはそれなりの疲労が滲んでいたが、愛煙まじりのおかげか、雰囲気は不思議なほど和やかだった。
首の負傷を忘れず、身体ごと後ろの窓へ振り返る。すると、新旧入り混じってまだらな色合いになった、隣家の壁が見えた。ぐしょぬれの雑巾でもたたきつけたかのように、一点を中心に広がるようにして変色している……あえていうなら、残っている破壊の痕跡はそれだけであり、罅や瓦礫といったような露骨に壊れた部分は、もうどこにも無くなっていた。
「壁。もう直せたんだ」
「もうって程、すぐに済んじゃいねえよ。あのおっさん修理慣れしてるせいか、むやみやたらに目が肥えてやがって、ここぞとばかりにいちゃもんつけまくってきやがるし。お前は今までずっと寝てた分だけ時間が縮んでっから、そう感じるんだよ」
「ずっとなんか寝てねぇよ。うつらうつらしてただけ」
「おいおい。ンなガキの時分から、逐一こまっしゃくれるもんじゃねえぞ。反抗期ってのは、出し惜しみしてこそなんぼのもんだ」
「わけ分かんないし」
と、相手は明らかに駄々っ子を諌める仕草で、両手をぱたつかせてみせた。
「安心しろ。言い合いなんざしなくても、こんな妙な時間までぐーすか寝コケてたことは、お前自身がこれから身をもって実感することになるさ。多分お前ギンギンに目ぇ覚めちまって、今夜は眠れねぇだろからな」
「妙な時間?」
「日暮れまで一時間切ったぞ。そんな空気だ」
雪膚というにはあまりにも俗世慣れし過ぎている相好を上向かせ、ザーニーイが窓の外を見やった。そうしたところで、この窓からは夕日などろくに見えないはずだが、彼はその動作で確信を得たかのように、目元に浮かんだ沈着を一層に深める。ぴこぴこと咥え煙草の先を揺らして、頬杖をつきながら。
触れる空気が、急にぬめったような。肌に染み入ろうとする得体の知れない錯覚を拒絶し、シャイズナは呻いた。
「そんな……だって、だったら姉ちゃんが帰ってないはずないだろ」
「話が長引いてるんじゃないか? お前が殴られたことを皮切りに、色々まとめてどうにかできないか、どこぞの法律事務所に相談しに行くとか言ってたからな」
愕然と、呼吸を失う。
「俺が修理終わらせたら弟負ぶって付いてってやっから待ってろっつったんだが、客にそこまでさせるわけにはいかないし、今日見たとおりアデュバは自分に対しては絶対に強引なことは出来ないからっつって―――って、おい。シャイズナ?」
「ザーニーイの間抜け!」
話を遮って、怒鳴りつける。シャイズナは寝台からずりおちて、座ったままのザーニーイへ詰め寄った。彼の真紅の襟巻きに掴みかかったのは、荒らいだ感情に裏付けられての事だったが、ザーニーイには掴まり立ちの支えを欲してと見えたに違いない。無礼な行動への批難ではなく、こちらを視診する雰囲気ばかり濃縮していく眼差しを、シャイズナは睨みつけた。
「俺、さっき言ったじゃないか! 今じゃ丸ごと丸め込まれちまって、身内だろが外様だろうが、ひとっこひとり味方しちゃくれないって! 法律事務所? どこを何回訪ねても居留守を決め込んでた連中が、今更になって姉ちゃんを相手してくれるはずがあるかよ! 畜生、姉ちゃん―――!」
語るにつれ、ザーニーイの表情が化ばけた。軽薄な色が失せ、それに比例するように、眉根と口の端に襞が浮かび―――
そこから先の変化を見届けることは出来なかった。自分の大声に酔って、床にへたり込んでしまう。シャイズナは、椅子に頭蓋をなすり付けるように身体を折りながら、引きつって震える肺を胸郭ごとかきむしった。
シャイズナが掛けた体重と入れ替わるように、椅子が軽くなる。ザーニーイが席を立って、その足が卓へと向いたからだ。剣と戦斧が腰間で揺れ、そしてその揺れが歩調と同調しだす間もなく立ち止まり、卓に置き去られたままだった薄い手紙を取り上げる。彼がそれを読んでいないことは明白だった……誰に向けられているのか分からない手紙を、誰の許可もなく覗き見る気がしなかったのだろう。
「……ザーニーイ様へ。ワーフェン族アウフ家ザイエインが第一子、シャンシャッタの今生を以って、お願い申し上げます。わたしの弟―――」
不意に力んだ指先が、便箋を歪ませた。粗悪な紙は、読み上げられる内に更に力に負けて、無様に潰れる。
「シャイズナ・ワーフェン・アウフを、お預かりください」
挟んだ沈思は短く、ザーニーイは読了を急いだ。
「わたしはアデュバ・アロンビの元へ行きます。彼は今まで暗ににおわせはすれど、決して力に訴えてきたことはありませんでした。しかしそれが覆された以上、危険が及ぶのは弟です。わたしがこうする以外、その回避は望めないでしょう。これは、彼に示唆された、父の思いでもあるのです。ワーエラウフと、シャイズナを守ること……そのどちらもが、わたしが彼の元へ行きさえすれば、解決が図れることと考えます」
そこでまたしても頭をもたげた沈黙は、今度こそそのまま静寂まで誘うかと思われた。だがザーニーイは、その誘惑にのろのろと抵抗を示すように、どことなく減速させた口調で後を継いだ―――その遅さは、文面を噛み締める時間が欲しかったためか、文面を噛み締めて生じたいくらかの何かをどうにかする猶予が欲しかったためか。それは分からないが。理解せずとも、朗読は続いた。
「ザーニーイさんにとってすれば、ふってわいた厄介な申し出であることでしょう。しかし、お人柄が信頼するに足りると、言葉を交わすうちに知るにつれ、このお人ならばシャイズナを健やかに―――云々、か。くそ。弟どころか、死んでる親父を一番に勘定するたぁ思わなかったな。無責任な減らず口って思われるより、よっぽどしち面倒臭ぇことになっちまった。どうしたもんか……」
「決まってるだろ! 姉ちゃんを取り返す! 姉ちゃんを生け贄にしてのうのうと生きながらえるなんて、絶対に嫌だ!」
当然のことでも、あえて声に出せば身体が奮い立つのも早かった。立ち上がって、頬に貼られたままだった湿布を剥ぎ取る……弱点に目印をつけたまま、敵陣に乗り込む気にはなれなかった。武器になりそうなものを、視線を走らせて物色する。とりあえず、薬箱は論外だ……姉がそこに戻したのだろう。黒い箱は床の定位置に戻されている。姉が。
目の奥に違和感を覚え、シャイズナはそれを眼窩にとどめておくべく、手の付け根で目蓋を押さえつけた。箱から顔を背けた直後、ザーニーイの呼びかけがうなじに落ちてくる。
「大丈夫か?」
「アデュバの一味は、さっき来た八人で全員のはずだ! しかも今さっき、二人ぶっ倒した! 俺の怪我を差し引いたとしても、きっと勝てる―――!」
「お前で大丈夫か?」
それは、こちらを無視されて発された言葉だというのに、こちらの無視を妨げる。
そのことに不快感を覚えなかったといえば嘘になるが、声を中断した原因がその不快感そのものではないということも悟ってはいた。躊躇いがなかったといえば嘘になるが、それでもシャイズナは息をついて、告白を遂げた。
「アデュバとのことは、俺と姉ちゃんの問題だったんだ。……だから俺、霹靂に、どうにかしてもらおうと思えたんだ。けど、……だけど」
頬を押さえる。先ほど、他にどうしようもなく殴り飛ばされた横面は、まだ熱をもって震えていた。いや。
震えているのは、かみ締めた奥歯だ。それを、意地だけでこじ開ける。
「今、姉ちゃんが問題にしてるのは、アデュバじゃない。俺と父様だ。だから、父様がいない今は、俺だけでも行かなきゃ―――俺が行かなくちゃいけないんだ」
ザーニーイは―――
首を振った。横に。二度。
「そうじゃない。今のお前は嬢ちゃん自身の生き写しだって分かってるのに、あえてその嬢ちゃんの選択を拒絶する意味が、お前に背負えるのかって聞いてるんだ」
怪訝さを黙殺できなくなり、ようやっとまともに、そちらを向く。
彼もまた、こちらを見詰めていた。ザーニーイ。用済みになった手紙を指先で弾くようにしてテーブルへ返しつつ、こちらを見つめてくるその碧眼は、見えない奥底の存在をにおわせる。質の悪い紙片が花弁でも気取るかのように空中を滑り、ひらりと回ってから元通りの卓上へ着地する間も、シャイズナから目を逸らすことはない。
「お前の姉ちゃんは、弟まで生け贄にして生きながらえるのが嫌だったから、こうやってひとりで行ったはずだ。お前がこいつを撥ねつける意味は、お前が庇われた立場である以上は、でかすぎる。全部ひっくるめて背負ってった嬢ちゃんを、丸ごとお前が背負い返すってことだからだ。その意味を、一生担いでいけるのか?」
こめかみが疼いた。頭痛によってではない。
「こんな時に! 俺を! 試すなァ!」
明確な怒りが生んだ血管のざわめきに、シャイズナは咆哮した。
眩暈を覚えたが、さっきと違って座り込むほどではない。着実に回復しているようだが、全開とは言いがたい状態にとっては、乱れた感情は明らかに重荷だった。それでも、シャイズナは感情を押し殺そうとせず、歯をむきながら、ザーニーイに見えない位置で掌を固めた。荒事慣れした旗司誓に一撃を与えるためには、怒気の助太刀はあるだけありがたい。
そのシャイズナの全てを、ザーニーイが見逃したはずはなかろう。敵愾心がちらつく眼球、筋の強張り、より効果的に全力を発揮すべく撓まされた四肢―――こちらの観察を済ませた時、相手の脳裏には、もっと多くのものが羅列されていたはずだ。例えば、こちらを叩きのめすのに最も有効な拳打の繰り出し方や、そういったものが。だが、数秒を経てからザーニーイがしたのは、口の端の変形だけだった。いや、変形させる前準備に、ほんの少し、力を通わせただけ。そんな程度だったのだろう。実際は。
ただ、正直言って、そこでわずかばかり動揺を覚えざるをえなかったのは……その張り詰めた口元が、泣き出すのを堪える子どもをイメージさせたからだった。
場違いなひらめきは、すぐに過ぎ去った。ザーニーイがすぐさま、明らかな笑みの形へと唇を押し広げ終える。そして。
「オーケイシャイズナ。最高だ」
言われたところで特に愉快でもない。目先で打ちのめすべき敵はいなくなったのは幸運かもしれないが、―――寸前の思いつきのせいもあって―――笑う気にはなれず、シャイズナは無言のままで視線を引き戻した。家の風景と、今日一日に見聞きした情景を反芻しながら、その中に映る、人間を脅やかす道具を数え上げていく。ちんぴらどもの持つ小道具、旗司誓の携えた剣と斧、姉が自分の首に向けた包丁―――
「そいつはやめとけ。俺がいる」
ザーニーイが、すっと前に割り込んできた。台所に向かいかけたシャイズナの意図を読んだのだろう。彼はその場で立ちふさがったまま、こちらにあえて示すために手斧の柄に触れ、返すその手で剣を持ち上げてみせた。そして親指で鍔を押すようにして、そこにある青い羽根を強調してくる。意味は分からないが、意味がある行為らしく、それをする指先は力強い。
「一方的な申し入れとはいえ、一応はてめぇを預かった身だ。双頭三肢の青鴉にかけて、嬢ちゃんに身柄を引き渡すまでは、保護者役をさせてもらう」
実際は、その発声のために呼吸しただけなのだろうが。それでも、そこに込められた意思を代弁するかのように、咥える煙草の火の赤味が燃え上がる。
「……好きにしろよ」
吐き捨てて、シャイズナはきびすを返した。ザーニーイは恐らく刃物について譲ることはないし、どれだけ求めたところで必ず拒絶するだろう―――直感にしたがって、目星をつけていた、最後のひとつがある方向へと向かう。
家の隅まで駆け寄って、立てかけられていた箒に飛びつく。毛羽立った枝を束ねてある先端を足で踏んで引っこ抜くと、肩ほどまでの高さの棒が残った。柄拵が無いのは欠点だったが、どうにか木剣として使えなくはない。貴族の嗜みとして……というか、いずれ交易に出向く息子の自衛手段のひとつとして、剣の扱いについては、父から一通り聞き及んでいる。聞き及んでいるとはつまり、まだまともに振るったことなどないという裏返しだった。自分でも心許ないと言わざるを得ないが、背に腹はかえられない。
そうしてシャイズナが棒の握りを確かめている間にも、なにやらずっと、ザーニーイが話しかけてきていた。それどころではなかったため気にも留めていなかったが、さすがに話が長すぎると勘付いて、そちらへ振り返る。すると彼は、どこからか取り出した赤い石を自分の横面に押し付けて、声を上げていた。
「―――じゃ、そーゆうことで。背に二十重ある祝福を」
それを最後に、片耳朶から石を離す。
そしてその石を、くるりと片手で回してから、頭帯にしまいこんだ。石は角の無い長方形で、大きさは掌大ほどであり、そうやって弄んでも支障ないらしい。
独り言ではなさそうだったが、独り言でないとなると言動が不可解すぎる。それについて尋ねることも出来ただろうが、シャイズナは彼に横目をくれるにとどめ、家を飛び出した。棒を携えた反対側に併走するようにして、ザーニーイもこちらに追随してくる。
彼の唇からは、煙草が失せていた。ただし、新しく取り出す気配もない。シャイズナは悟った。自分は、これからの時間が紫煙を楽しむには相応しくないと、暗に囁かれているのだと。
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