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起章
起章 第一部 第一節
しおりを挟む「聞こえちゃいねえよ」
告げる。
が、むこうからの呼びかけは、やはり酷い雑音で潰れたまま繰り返されるだけだった。
―――っちの……す……、こっ…きこ……ますか……
(聞こえちゃいねえっつの)
お互い様だけどな、と今度は胸中へ、舌打ちもろとも吐き捨てる。
そして苛立ちまぎれに、自分の左耳に押し付けていた石を、更に耳朶へと押し付けた。が、こんなことをしたところで、ここから伝達されてくる声は相手の肉声ではない以上、聞こえがよくならないことは分かっていた―――声が聞こえなくなったら石か使う人が壊れきった時、聞こえにくかったら使う人の心か体が壊れかかっている時、聞こえるならいずれも壊れていない時。ゼラは確か、この石をくれる時に、そんな事を言っていたか。
再度、舌を打つことを止められない。
(ったく、さすがは練成魔士……いざとならなきゃ的確にならねぇたとえ話をよこしやがって。つまりは今こうやって声が聞こえにくいのは、俺の、通信への集中心が壊れてるってことだろ? ああそうだよ畜生、シゾーの話に集中できやしねえ)
ついでに、こんな事も言っていた。いいですか。声が聞こえることすら知らない人にとっては、これはただの石でしかありません。トランプの束のように平たく研磨されていて、よく見れば模様が彫られている、そういった気持ち悪い赤い石。そんなものに話しかけるなんて変態です。くれぐれも警察から、お縄を頂戴されないように。
(あんにゃろ)
余計な事まで思い出して、一段と現実の声が遠ざかった。
それを石の向こう側の相手に知らせるために、赤い石を持っている指先ではじき出していたリズムを変える。石の表面を爪先で叩く自分の信号は、相手の声を『受信』しているが『不鮮明』だ、と伝えていた。声は心境に左右されて通信が不安定となりがちだが、叩打音はテンポさえ守ればほぼ送受信できるので、こうして状況を暗喩するにはもってこいの手法だった。実際今も、あいかわらず相手の声はへしゃげているくせに、そこに混ざってこちらへ届くリズムだけは明瞭である―――こちらの『受信』『不鮮明』とは逆の、延々と『送信』『鮮明』の旋律が。つまり、声を出しているシゾーの方は、研磨石も集中心も壊れていないということだ。
苛々と、空いている方の手で額を掻く。髪が触れてかゆかった。もとは赤茶けていたこの髪は、長年さらされた悔踏区域の空気のせいで傷んで色が抜けてしまい、金色じみてぼさぼさに跳ねている―――適当に巻いたターバンと黒革の頭帯とでなんとか押し込めているが、お世辞にもきちんと纏められているとはいいがたかった。おかげで好き勝手にあちこちから飛び出した毛先が、風に吹かれるたびに肌をちくちくと刺激してやまない。
(いつもは気にもなんねえってのに。やっぱ、集中心を乱す原因をどうにかするっきゃねえな……)
ため息をつき、指ではじき出すリズムを変えて、こちらが喋り始めることを相手に伝える。
シゾーの声がやみ、先ほどまでこちらが叩いていた『受信』のテンポがそちら側から送られるようになるのを待ってから、正直にそれを告げた。
「いーから聞け。シゾー。悪ぃが今、お前の声はほとんど聞こえない。俺のこころそこにあらずってやつでな。何でかっつーと、」
と、視線を下げる。足元をこえて、その更に下まで。
「俺の足の下に人質がいる」
自分の立つこの家屋の屋根の真下で、子どもが冴えない中年の人質になってから、事態は一向に膠着したままだった。
こうやって屋上の端に立っていると、状況は一目瞭然だった。都の中心、壮麗なる王城デューバンザンガイツ―――それを取り囲んで栄える王襟街や王裾街とは違い、この辺りは未だ、八年前の戦争の疲弊を拭いきれていない。戦後、無計画に作られ乱立した家々と、家と呼ぶべきかすら判断がつきかねるみすぼらしい雑居がひしめきあい、それらに寄り添うようにして積み上げられた荷物はすすけ、腐った木箱には穴が開く。褪色した風景に同調するように、一見賑わっている人々もふとした瞬間ごとにくすみを滲ませる。そんなくたびれた猥雑を縫うように葉脈のごとく広がった隘路は、これも例に漏れず悪路でありながら、必要ならばどこにでも伸びていた―――まあつまり、追い詰められて人質を取った中年犯罪男の最後の砦として、この家の前にさえも。
子どもは顎に腕を引っ掛けられるかたちで、中年の盾にされていた。泣き叫ぶでもなく、半ばつま先立ちになりながらもがく度量を見せていたが、そこから脱出するほどの実力はないため、踵から引きずられている。中年は、当たり前だが、屋根の上にいる観察者には気づいていない。ただ前方のみを警戒してこちらに背を向け、胸に人質を抱え込んだままじりじり後退していた。数メートル前に立ちはだかる青年から、そうやって逃げる機会を図っていることは明らかだった。傍目から見る限り、その青年は上手く相手を追い詰めている―――相手の背後は壁、左右は視界が利かないクズ道―――が、人質という状況が状況だけに、手を出せないでいるらしい。その両手は腰の剣帯を離れ、臍の高さから前方へ広げられていた。どうやら、不慣れな剣は使わずに、素手で取り押さえるつもりらしい。まあ、相手も無手であろうと一見して判断できる以上は、そちらを刺激しないという意味でも、妥当な判断ではある……が、青年の、鮮やかな新緑色のバンダナを編みこんだこげ茶の髪が、せわしなく揺れていた。呼吸か、武者震いか―――どちらにせよ過度に緊張しているのが、ここからでも一瞥だけで知れる。
(このシチュエーションの対応は、エニイージーにはまだ早いか)
あの青年には今度、こういった場面を想定した教育も施さねばなるまい―――心が逸れたせいで、研磨石の通信は、更に聞き取りづらくなった。とうにせりふどころか、向こうが研磨石を巧打するリズムさえ寸断されがちになってきている。もうこれ以上は、話していられそうになかった。
「五つ。ゆっくり数えとけ。片付けてくる」
それで終えて、研磨石を頭帯のポケットにしまう。意識が石から外れればあっという間に脳裏の音声も失われ、最早邪魔者は何も無い。
再度、視線を眼下へこぼしながら、左手の手甲をはずして手掌を覆うように付けかえる。邪魔とならぬよう、腰の戦斧と剣の位置を整えれば、剣帯より下がった鍔飾りの青い羽根が、さわりと肌に触れた。
と同時に、靴底の重心を傾け、屋上から滑降する。
立っていたのは、屋根のきわだ―――踵骨が肉と靴越しに床を擦する感触は、即座についえた。そして、空中を滑る一瞬が始まる。
僅かな浮遊感に気分が高揚するでもなく、中年の背後に着地する。さすがに無音で済まず、ぽとりと子鼠が落ちたような物音が立った。緊張している中年は、些細なそれにも敏感に、オーバーな仕草で振り返ってくる。目の前の青年を牽制するために、人質の位置は前方に据えたまま、首ばかりを後方へ捻って。
自分はそれを、下から見上げていた―――屋根から飛び降りた勢いのまま、深く、低く地面にしゃがみこみ、その体勢を崩さずにいたのだから。起立した目線の高さでは、振り向いた先にいるはずの敵の姿が見つからず、動揺して震える無防備な下顎を狙うために。
ずだんっ!
音を立てて踏み切り、それに併せて、左手を突き上げる―――途端に、右の肩口にある古傷が引きつるが、構わず一気に筋を弾けさせていく。手甲で固められた掌底の一撃に、喉の付け根から脳天をうち抜かれ、中年が声もなく仰け反った。しかし、最適とはいいがたい角度から入れた痛打だ。相手は意識を失うまでは至らないだろう。案の定、その体が脱力する気配を見せたのは、一瞬だけだった。
よって、その一瞬に右の拳で追撃し、相手のこめかみを容赦なくえぐる。
今度こそ悶絶した男は、殴打の衝撃に振り回され、半ば回転するようにして地べたに卒倒する。そしてぐったりと四肢を投げ出し、そのまま動かなくなった。
人質の子どもが、最初の一撃で中年の力が緩るんだ隙に、勝気に飛びすさっていたのは確認していた。なので視線を中年から逸らさず、腰に巻いていた縄を、手探りで取り出す。その縄目が己の所属する旗司誓を表現する結い方であるか指の腹で辿って確認しつつ相手を縛り上げ、意識がなくとも気道を保てるように体位を整えてから、やっと人心地ついて立ち上がった。
「頭領!」
振り向く。と、そこでは例の青年が、人質から解放された子供を抱きとめたまま、こちらへ歓声を上げていた。
「よお。ありがとよ、エニイージー。お前にこの男の注意が向いていたおかげで助かった」
ずらしていた装具を定位置に直しながら、そちらへと歩み寄る。手甲。剣。戦斧の鞘はひと撫でで、元の場所へと重心を落ち着けた。そうして短い距離を埋めて立ち止まる頃には、青年―――エニイージーの表情も、打って変わって暗転している。それに似合う深刻に沈んだ声音で、彼は呟いた。
「いや、……元はといえば、俺が不用意に『スリだ!』なんて、街のど真ん中で怒鳴っちまったのが悪かったんで……そのせいでこのおっさんが逃げて、追いかけてるうちに、こんな手間に……」
「…………」
返事はせずに、吐息する。
そこに、言葉を暗に肯定する響きでも嗅ぎ取ったのか、相手は更に肩を落として所在無げに首を撫でた。布を絡めて垂らした彼の髻だけが気楽に右こめかみで揺れているのが、えらく不釣合いな面相を続けている。
手を伸ばせば触れられる位置で、それでも相手には、言葉だけを届ける。その意味に十二分に注意しながら、ゆっくりと口を開いた。
「そうかもな。お前が感情任せに叫んだから、びびったおっさんが逃げて、まあこんな顛末になった。けどよ、そうだったからこそ、今は少なくとも三人は喜ぶ人間がいるんだ。そりゃいくらだって穏便に済ませることもできたろうが、別に次からでもいいんじゃねえか?」
エニイージーは、生来きょろりとしている目を、更に見開いた。髪と同じ色合いの瞳に、ぽかんとした疑問符がまたたいている。
「へ? 計算があわねえっすよ。喜ぶのは、財布を掏り取られたあのおばさんと、このガキ―――」
「と、俺だ」
そう口にして、自分の剣の鍔にあしらってある青い羽―――自分にも相手にも装飾以上の価値がある、双頭三肢の青鴉の象徴であるそれ―――を、親指で引っ掛けるようにして軽く示してから、更に告げた。
「頭領として、旗幟にお前を誇ることができる。ありがとう」
「っ……はい! こっちこそ!」
「あ」
と気づいて、続けて声に出す。
「なら、誤算だな」
「へ?」
「四人目だ。だな? エニイージー」
「は―――い! はい!」
素直に顔を輝かせて、エニイージーが頭を下げた。手をぱたつかせてそれを止めさせようとするが、しばらくは聞き入れそうにない。ため息まじりに苦笑して―――
そのかざした掌の向こうで、人質となっていた子どもがぼけっとこちらを見上げていることに気づいたのは、その時だった。年端も行かないその少年は、平民には珍しい燃えるような赤い髪を生やした頭を仰け反らせながら、まじまじと凝視を送ってきている。見た限り、その身体のどこにも負傷はない……精神的なショックのみからでも“放心”という形で自衛に徹することは珍しくないが、その瞳は自失などなくしっかりとこちらを見詰めてきていた。
自分が持っているもので、子どもの興味を引きそうな対象など、これしかない―――今度は少年に対して剣帯から鍔元を持ち上げて、そこにある青い羽根を見せつけてみる。途端に、子どもの小さな口がかくんと閉じた。
「なんだお前、鳥の羽根を見るのは初めて―――」
「兄ちゃん、綺麗だなぁ!」
こちらを遮ってあがった小声の歓声に、悪気はない。が……
言われ、多少の落胆は禁じえない。剣を元に戻し、げんなりと自分の面の皮を撫でた。思わず呻く。
「せめてこういった場面では、強いとかカッコいいとか言ってほしいぜ」
と、ふと気づいて、顔を上げる。ぐるりと見渡してみても、そこには自分たち以外誰もいなかった。いくら街の人間たちが物見高いとはいえ、こういった騒ぎは避けて通るに越したことはない……と言うか、いつだって避けて逃げれる場所から高みの見物をすべきことぐらい知っているらしい。えらく遠くからの不躾な視線はねちっこく感じるが、そこから近寄ってくるような物好きはいなかった。
「そういや、それ言われたさに、こういった場面では必ずといっていいほど飛び出てくるって評判のゼラは、今回はどうしたんだ?」
「そんな毎回都合よく登場してたら、逆に怪しいじゃないっすか。今日は元々現地集合の予定だから、こんなとこにいなくて自然だし……大体、あの人はいつもピンチのとこに助太刀しにいくだけで、別に褒め言葉を狙ってるわけじゃねえと思うんですけど」
「まあそりゃそうなんだけどよ。シゾーに言わせりゃ、ありゃ絶対に獅子は我が子を千尋の谷へと蹴り落として云々っつう名目で窮地に陥るまでほっとくくせに、最後にゃそのお株を奪うのを楽しんでる性悪に違いねぇって―――げ」
至極正直に呻いて、頭を……正確には、研磨石を挟み込んでいる頭帯を、頭ごと抱える。急激な偏頭痛に―――というよりも、シゾーのことを考えた瞬間に脳裏へとなだれ込んできた絶え間ない悪口雑言による偏頭痛以上の不快感に、そうせざるを得ない。シゾーが、通信に雑念が混じってノイズだらけにしないように、ぼろぼろと思いつく先から文句を垂れ流しているらしい。
「やっべ! シゾーのこと忘れてた!」
「俺が警察に説明して、全部いつも通り処理しときますから、頭領は連絡に集中してください」
「ああ。すまねぇが任せた。お前の旗幟を信じてるぜ。背に二十重ある祝福を」
「はい! 背に二十重ある祝福を!」
頭蓋の内側を念仏のように流れる悪罵に悪酔いしそうになりながらも、エニイージーの快活な了承と敬礼を確認し、ようやっと微笑むだけのことはできた。
そしてほぼ同時に、こちらはとるものもとりあえず頭帯とターバンの間を指で探り、エニイージーは少年を促して動き出す。が、そのどれもが、少年の不意の大声に引き止められた。
「待てよ! 俺、なんにも礼してねえじゃん! 助けられたのに!」
あまりに意外な言葉に、歩き出そうとしていたつま先をとどめ、思わず自分の下にある赤毛頭を見つめてしまう。エニイージーも、きょとんとしてその少年を見下ろしていた。侮られたとでもと思っているのか、子どもは肩を怒らせて、仁王立ちでこちらを睨みすえてきているが。
とりあえず、尋ねてみる。
「あのな。確認するが。お前は、今回の騒動の被害者だぞ。被害者って分かるか?」
「分かるよそんくらい」
少年の濃くなる仏頂面に、うんうんと頷く。
「オーケイ。だったら、被害者は、害を起こした野郎に文句を言うことができるってのも分かるな。今回の騒動の発端は、あそこのぶっ倒れてるおっさんが濃ゆい目めの馬鹿だったせいだが、」
「濃ゆい目の馬鹿って」
「だったせいだが」
ふとエニイージーが漏らした声を無視して強調し、次を続けた。
「発端の時点で潰せずに、騒動にしちまったのは俺たちだ。俺たちに対するお前のこの立場は、これからエニイージーと一緒に行くことになる警察の一連の捜査で、殊更に確約されるだろう……まあ、警察は司右翼の管轄だからな。その赤毛はどうあれ、お前のフルネーム次第では、門前払いを喰らう可能性も否定できんが―――って、ああ、ええとだ」
少年の利発な様子につけ込むようにして、並べる単語がだんだんと難解になっていっていることに気付き、いったん言葉をおさめる。じわじわと険しい顔を深めていた幼顔に対して軽い咳払いで仕切りなおしてから、がりがりと頭をかいて再開した。
「つまりだ。お前は今、俺たちに向かって、自分を巻き込んでくれやがったなっつって、文句言うなり怒ったりするのが当たり前なんだよ。助けられたってプラスは騒ぎに巻き込まれたってマイナスを鑑みると差し引きゼロだし、騒ぎが無けりゃ助けられる必要も無かったと考えるなら、そもそもが本末転倒だからな。それに子どもだし。泣いても許すぞ」
「ふざけんな! 当たり前なのは、助けられたら感謝することだろ!」
思わず、頭をかいていた手が止まる。目をまるくしたこちらのそれなどつゆ知らず、少年は感情任せに怒鳴り続けた。
「巻き込まれたってのはたまたま俺がそこにいた偶然だし、たまたま騒動が俺の傍で起きた偶然だ! 偶然なんかにいちいち文句いってられるか! でも、助けられたのは、兄ちゃんたちが俺を助けようって頑張ってくれたからだろ! だったら、それに礼をするのが当たり前じゃないか! 子どもだからってなめたマネすんな!」
「お前……」
驚くまま、呼びかけていた。
その呟きの静けさが、激しい感情に水を注したらしい。少年ははっと表情を曇らせ、居心地悪そうに視線を足元にさ迷わせた。口をとがらせて、しぶしぶと言葉を口に出す。
「……そりゃ子どもだから、俺、なんにも持ってねえけどさ……」
「ちょうど良かった。これ以上もらっちゃ、さすがに忍びねぇからな」
「え?」
「箱庭で、こうまで晴れた気分になれるたぁ思わなかった。助けることができたのが、お前だったからだ。ありがとよ」
と言って、低いところにある赤い髪に手をやり、軽くかき混ぜる。
一瞬呆けた顔を見せた少年だったが、指が頭から離れた頃には、それは高揚した笑顔へとすり替わっていた。今度こそ立ち去ろうとして、とうに歩みを再開させていたこちらの背に、トーンの高い声を投げかけてくる。
「お……俺は、さ! 俺、お前って名前じゃなくて、シギスァっていうんだ! こっちの兄ちゃんがエニイージーなんだろ。兄ちゃんだって、兄ちゃんじゃなくてさ、名前なんて言うんだ!?」
興奮についていけない幼い舌先がもつれる様子に、こそばゆい笑いを誘われた。自然と口の端を弛るませながら立ち止まって、そちらへ向かって振り返る。そして少年のために、短いながらも名乗りを上げた。
「ザーニーイ」
□ ■ □ ■ □ ■ □
「ああ全くどうしてあのあんぽんたんは筋金どころか鉄骨が背筋に貫通した馬鹿なんでしょうかねえ苛々するったらありゃしないしこのムカつきのせいでこっちがあっちの声を聞き取れなくなったらどうしてくれるってんでしょう疑問ですね謎ですね何であの人がこんなでっかい旗司誓の親玉で崩壊しないんでしょうね不思議ですね分かんないですね世の中の懐って広いですけど広大無辺すぎて轍鮒の急も盤根錯節も清濁合わせて飲み込むのはいかがかと思いますのは鯨飲馬食もほどほどにしとかないとお腹壊すと叱られますでしょうしねっはっはっはっは……」
長々とした独り言は、最後には横隔膜を痙攣させるような、暗い笑い声へと収束していく。彼は喉を震わせながら、体温が移ってぬるくなった研磨石と、己の左耳のリングピアスが触れ合う硬い感触を要にして、どうにか通信相手への集中を保っていた。
時折、隙間風が黒髪をなぶる。無駄に広いこの仕事部屋は、机椅子ともども相当の年季が入った代物で、廊下と密閉しきれていなかった。誰かが通りすがりでもしたら、そこからもれ聞こえたこの声を聞いて、不気味がるかもしれない。あるいは、こうやって心労の募りが絶えない副頭領へ同情するだろうか? いや、大の男が振り回されている再三の光景に、もう何の反応も見せはすまい……
机に着いたまま、険悪な気配に満ちた視線をどこともなくふらつかせ―――途端、右手の中ではじけた鋭い感触に、それを奪われる。見てみれば、どうということもない。無意味に握り締めていた湯飲みが、ついに握力に負けて掌の中で砕けただけだ。ただし、これ以上ないほどタイミング悪く。
更なる苛立ちが理性を齧る感触よりも、手袋越しに食い込んでくる破片の手触りが勝り、彼は正気を深めようと深呼吸を繰り返した。怪我もしなかった手を開いて、ざりざりと悲鳴を上げる陶器の残骸を適当に放り出す。まあいい、これはどうせ廃品で、そろそろ罅割れも目に余るようになってきていた。こうして適当にペン立てにしておくのも、限界だろうと考えていたところだ。交換できる理由ができて、よかったじゃないか―――むしろ自分は、こんな機会を待っていたのかもしれない……
―――よぉシゾー。待てたか?
と、そんな風に唐突に、本当に待ちわびていた声が響いた。
思わず立ち上がった拍子に、蹴飛ばした机はずれ、腰掛けていた椅子は後ろにぶっ飛んだが、無視する。石を叩くリズムを必死に相手に迎合させながら、彼―――シゾーは懸命に、その会話をつないでいった。
「っの馬鹿……!!」
―――お、何だお前キレてんのか? 前から短気だけは直せっつってんだろが。たかだか五つゆっくり数える程度の我慢もできねえのかよ。同じイェスカザっつう家名のくせして、どうしてこうゼラとは正反対だかなぁ、てめえは。
あんただって頭領を名乗るなら名前の自覚を―――という買い言葉を、呑み込む程度の理知は残っていた。吐けば逆鱗に触れるだろう……そしてすべてが滞る。私情で何一つ採算の取れない事態を生むなど、くだらない以外のなんでもない。
相手の声は、さっきと違って、まったくあっけらかんとしていた。こちらとのやり取りもはっきりとして、支障なくなっている。足の下の人質とやらは解決し、研磨石も、それを使っている当人も無事なのだろう。そのことにとりあえずの満足をもぎとって、シゾーは口調をどうにか敬語に取り繕い、返事をささやかな嫌味まで圧殺することに成功した。
「そりゃ悪かったですね、こちとら無理やりイェスカザに組み込まれたものですから、未だに自覚に欠けてまして。そっちこそ、五ってちゃんと数えてんですか? なにが五つゆっくり、ですか。五百はとっくに過ぎましたよ。いい加減にしてください」
―――ちょうど五つだったぜ? 主観では。
「客観的に計算が合わないってのに、なに威風堂々と正解ヅラしてんですか!? いつもいつもあんたは―――!!」
とうとう飛び出した吼え声を中断して、彼はげんなりと吐息した。駄目だ。埒が明かない言葉の応酬を続けていては、物事そのものまで埒が明かない事態になりかねない。
「じゃあもう、今はこれだけ伝えます。しっかり念頭に入れて、【血肉の約定】に行ってください」
急に覚えた脱力感に、シゾーは半身を返して机に腰を落とした。飛びぬけた背丈につり合わない痩身であるとはいえ、それなりの体重を受けとめて、尻の下から軋む音がする。ぎしり。ぎしりと、まるで現在の彼の感情を、擬音したかのように。
「アーギルシャイアの臍帯を確認しました」
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