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結章
結章 第一部 第五節
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「これは……?」
「調理係が縫ってった」
返事があったこと。それにまずは驚いた。
続いて、耳が聞こえたこと。のみならず、聞き取れるような呟きを発していたことに驚いて―――だからこその返事があったのだと、知覚の堂々巡りを終える頃には、目を開いている。そのまま下を見やると、指の腹で探っていた腹筋上の刺傷部に、蝕知した通りの状態の傷跡があった。縫合痕。折り布を当てられた上から包帯が巻かれているようで、直視できたわけではないにせよ、触れ心地から……ついでに痛覚から分かる。
(調理係か。そうか―――騎獣の動脈の結紮までやれるんだから、朝飯前だよな。あいつらなら。そう言えば、こういった医療系の学から雑学まで入れ知恵したのも、元はと言えば俺か。四方山話ついでだったから、忘れてたな)
ゆっくりとシゾーは、浮かせていた頭を寝台に戻した。目を閉じて、吸気を肺腑に沈める。そして、確認を始めた。
まずは状態。呼吸、心機、思考、頗る平静。右手で左手首を取れば、脈拍にも乱れはない。姿勢は仰向けで、ズボンのポケットには赤い研磨石と財布が入ったまま。上半身は裸で手袋もバンダナもしておらず、リングピアスの感触だけが左耳朶にあり、板きれにシーツを敷いただけの寝台に寝かされていた……ただし背丈が合わなかったようで、膝から下は台より下げられ、靴底が床に投げ出されている。その感触がする。圧縮煉瓦の―――床だ。
再度、目蓋を退かす。
仰臥しているのだから、見えてくるのは天井だ。見慣れた圧縮煉瓦製の―――ただし、見慣れない天井。発作の都度閉じ込めていた例の隠し部屋に似ていたが、ここの容積はその半分も無い。上部に採光穴の開く最奥の壁際に寄せられた寝台に、自分が寝かされていた。壁の反対側―――長方形の部屋を二分する鉄格子を見やれば、それに凭れるようにしてエニイージーが座り込んでいる。施錠された格子扉がある右端ではなく左隅に寄り、足元に転がる鞘の無い短剣にも短剣に結ばれた鍵にも目もくれず、片膝を抱えていた―――もとより丸腰だったのは自分だが、エニイージーも見た限り武装解除されている。取り押さえられた際に負ったものか、顔面のあちこちに青痣を作って口の端まで切っていたが、顔つきそのものはただとにかく流暢に此処で会ったが百年目とシゾーへ独白するだけで、それ以上の情動は読み取れなかった。それ以上の情動―――
(俺にも無いけどな)
ただただ、身体が熱い。それが、物思いを干乾げてくれたのか―――落涙もろとも。そう思わないことも無い。
(どうやらそんなポエムに血迷えるくらい、血が残ってくれていたか)
それもまた確認に過ぎないのだが。奇跡にしたって奇跡的である。
刺傷が、肝臓や腎臓などの重要臓器を避けていたことそのものもそうだが、出血量とてそうだ。人間の身体において急所とならない部位は毛髪くらいで、全身のどこであろうが切れたなら出血しない箇所はないし、出血が続けばいずれ死ぬ。いわゆる急所を狙うという手管は、人体における神経系・呼吸器系・循環器系のどれかを大破することによる致死的ダメージを指すことが多いが、後者ふたつは言うなれば脳を破壊することを目的として次手ながら酸素の廻りを断っているのである―――酸素を取り込むのが呼吸器系であり、酸素を運ぶのが循環器系だが、そもそもの根幹を成すのが血液だ。一滴でも零せば一滴分であれ息が上がり、体力を落とし、精神も麻痺する。自分はそうなっていない。こうして考える余力まで残ってくれている。
顎を撫でる……無精髭の感触から目算するに、三日か四日は人事不省だったといったところか。それなのに、舌先でなぞってみた唇は切れてもいない。やや脱水には違いないだろうが、悔踏区域外輪にいながらこれで済んだのであれば、支払いにしたって釣りがくる。膀胱に尿意も感じない。
(意識がないのに、朦朧としてる浮き沈み具合を計りながら、出来る限りの飲み食いから下まで世話してくれていたのか。ひと肌脱いでくれたにしても、ありがたいな。入れ知恵した話にしたって、こんな風に世話になるつもりで話したわけじゃないのにな―――嬉しそうに聞いてくれるから喋っただけなのにな)
おそらくは術式に入る前に創部を洗浄し、術後には蒸留酒でも使って消毒してくれたのだろう。熱いながら、体感温度も感染症を起こした熱っぽさではなかった……少なくとも、十五歳の終わりに味わった奈落のどん底とは違う。どうやら、腹膜炎も起こしていないらしい。刺される前から飲食することを忘れていた手前、腸の内容物も空に近かったのだろうが、こんなところまで奇跡的だ―――その安堵に、ただひたすらに息を吐くしかない。
独りごちる。
「……翻る旗を待つ、か」
「言うまでもねえ」
それに、エニイージーが吐き捨て返してきた。床に座したまま、色褪せたみどり色のバンダナを編み込んだ髻の奥から、半眼を際どくして。
無視してもよかったのだろうが。げんなりとシゾーは、会話を継いだ。
「ひとつしか専用牢が無いにしたって、なんで俺とお前がごちゃまぜに」
「最初は俺が地下牢に入れられたんだけど、具合悪くなったから、こっちに移されただけだ」
「……どっちかと言えば、容疑的に怪しまれそうな俺の方が地下牢送りになりそうな気がするけどな」
「知るか。入れた奴に訊けよ」
「そうだな。お前には、ほかに訊たいことがあった」
眼差しだけではなく顔までもそちらに傾け、顎をしゃくって短剣を仄めかす。エニイージーの足元に放置された、まるで鍔飾りのように鍵と結ばれた白刃を。
「そいつで俺にとどめをくれてやろうとは思わなかったのか?」
「蜂じゃあるまいし。泣きっ面なんか刺せるか」
ぴた、とシゾーは固まった。
エニイージーと見合ったまま―――点になった目すら、固まった。
「…………」
「……………………」
無言の時が降り積もる。
「……………………」
「………………………………」
「…………………………………………」
「……………………………………………………」
それはもうずんずんと、もっさり積雪を増す。しつこくまったりと標高を堆くする。
こうなっては、ぎくしゃくと目を背けるにも遅すぎた。きりっと目付きを引き締めて、断言するしかない。
「これは汗だ」
「そうかよ」
「まあ確かに、心の冷や汗も混じってはいる」
「そうですかよ」
「少しだ。ちょっぴりだ。じゃっかんだ」
「そーですかよってば」
「……言いふらしたら、未来永劫に渡って後悔させてやりますからね」
「どれをですか。泣きっ面ですか汗って言い逃れですか心の汗って言っときゃ陳腐なだけで済んだものを心の冷や汗なんて半端に半ひねり失敗した(笑)のことですか。どれであれ俺の将来的ハッピー全部と引き換えって単価高すぎませんか」
欝々とキレていくシゾーに負けじとばかり、粛々と逆ギレしていくエニイージーだったが。
その歯の根が合っていないことに、その頃にはシゾーも勘付いていた。相手の顔色の変化も、牢の中に差し込む日当たりに左右されてのものではなさそうである……この檻は便所まで作られている特別仕様で要塞の三階に設えてあり、採光穴からの陽光には恵まれている。ともあれ、こうして日中であれば―――気温から推し量るに、早朝とは言い難い午前のどこかか―――、視診に障りを起こすほど暗くない。なまじ知識があると首を突っ込まずにはおれず、観察眼を研いでしまう。
「お前は寒そうだな」
「ああ。でこっぱちも熱っぽい」
「ほかに症状は?」
「喉が……痛え」
「じゃあ風邪だろう。ふたつ以上の部位に症状が渡る場合、感冒のケースが多い。なら治る。寝てろ」
「あんたは―――暑そうだな。本当に汗もかいてる」
「単なる術後の熱発だ。このまま炎症でも起こさずに済むなら、そのうち治まる。まあ治まる頃には、死刑台かも知れないが」
「しけ?」
「ああ。拷問が先か? 気晴らしに吊し上げられるだけ、まだるっこしいな。気が晴れるのもいつになるのやら」
がっと顔を跳ね上げたエニイージーが、拳を作って床を殴りつけた―――それが左手でよかった。右手ならば、そちら側に置きっぱなしの短剣に触れたついでに、今度こそ刺殺を試してくれたろう。それが邪推ではないと思える程度の剣幕で、がなり立ててくる。
「そんなことするか! 武装犯罪者とは違う―――ここは<彼に凝立する聖杯>だぞ!」
「お前にこうして刺し傷こさえられてさえなきゃあ、それも信じる論拠になったろうにな?」
せせら笑うと、目に見えてエニイージーは血色を上限まで上げた。シゾーも気性の激しい自覚はあったが、エニイージーとて相当なものである……むしろ立場がないだけ我慢した経験に乏しいのか。冷静にそんなことを考えていられたのは―――
わらっていたからだ。
(ああオカしい)
相手を可笑しく思う、自分がおかしいのか。それが分からずとも、わらえていた。
それは、そうだろう。いつだって、わらえていたのだから。こんな時でさえ、わらえる。それだけだ。
「裏切り者のくせに、なにを―――堂々と!」
エニイージーが、ただただ唾棄してくる。身の程知らずが指を差す。狂っているのはお前の方だと、愚かしくも信じて疑わず、賢いつもりでいる。
その姿を、シゾーは知っていた―――おそらくそれは、三年以上前から。三年前からは、確実に。
「裏切り者? 俺が? はっ」
腹圧のかけ方に注意しつつ、寝台から身を起こす。どれだけ横になっていたのか実際のところは知る由もないにせよ、背中に褥瘡を起こした風も無かった。よって安心して素裸の肩から腕からほぐしながら、エニイージーに対面する形で壁を背に、寝台上にて端座位を取る。
刺された脾腹を押さえつつ、シゾーは憫笑をくれてやった。とうに裏切られていた裏切り者へと。
「どこから裏だった? いつから表になっていた? お前はそれを知っているのか? エニイージー」
「なんだと?」
「表とは、裏の裏なんじゃないのか? だとしたら、裏切り者は―――ザーニーイその人だ」
「てっめえ!!」
激昂した刹那に、呼吸を腹に溜める―――そのタイムラグを見越して、機先を奪う。
「あいつが―――もう嫌だ、死にたい、たすけて、どうかゆるして、こんな自分なんて大っ嫌いだと、奥歯ガタガタ鳴らすくらい震えて みっともなく泣きじゃくりながら地べたで ひーひー喚いているのを、それと知らず見聞きしてしまったことはあるか?」
矢先。
エニイージーは確かに、殴りかかってこようとしたのだろう。実際、身構えも心構えも、激発したように見えた。出し抜けのシゾーのせりふに、どちらもはぐらかされたと感じたなら、むしろその逆上を煽り立てていたに違いない―――のだが。どれもこれも失ってしまって、ぽかんと呆ける。そして、
「はあ?」
心の底から見下げ果てた様子で、蔑んできた。
「頭領に限って、そんなことあるはずないだろ。霹靂だぞ? 嘘をつくなら、もっと騙せそうな出来にしてから、おととい来やがれってんだ」
「だからだ。俺はお前が羨ましい」
「なんだって?」
「俺はあの時、聞かなかった振りすら出来なかったよ。月経血にまみれた下穿きを脱ぎ捨てて腰を抜かしている姿に逃げ出して、ただ祈ることしか出来なかった」
「げっけ―――?」
「ザーニーイ―――あいつの本名は、シヴツェイア・ザーニーイ。先代シザジアフ・ザーニーイの連れ子で―――子どもの頃から知ってるが、今となっちゃあ……さしずめ楽園障害者だ」
「楽園障害者? 旅団ツェラビゾの?」
「ザーニーイなのに、女に生まれついてしまった。これ以上の先天的な欠陥があるか? だからこそ女だと直視させられるたび―――月経が来る都度、荒れ狂って死にかける。発作を起こす」
「持病があるって噂は……噂だろ?」
「事実として持病だろ。楽園障害だ。ザーニーイなのに女なんだから」
「女? 頭領が? なんで?」
「なんでもへっても糞もあるか。女は女だ」
こうなっては隠す気も起らず、シゾーは白状し続けた。どっちみち、これほど おあつらえ向きの舞台もなかろう。興味をそそられた聞き手がいると打ち明けやすいのは四方山話だけではないし、打ち明け話の聞き手としても、無自覚な当事者というのは絶好の憂さ晴らしになる―――本当に自覚していないが、エニイージーは当事者だ。シゾーの身からするならば―――これ以上ない当事者だった。
だからシゾーは、それを続行した。身を浮かせかけたまま、固まっている相手へと。
「しかも、俺は男だった。だのに、シゾー・イェスカザとして、ここに連れて来られてしまった。子どもだったせいで間違われて、子どもだったから契約してしまった。ゼラ・イェスカザと」
「契約?」
「シザジアフ・ザーニーイを超えろ。そう言われた」
「翁を?」
「そうだ。彼は旗司誓にいるうちに、それなりの役目を担うようになってしまった。となると、どうしても我が子だけを守備範囲に入れておけなくなる。俺は、彼の後継者として連れてこられたんだ。シヴツェイア・ザーニーイを死守する……それだけに収まらない役を担えるまでに、育てと。結局は、こうして連れて来られた止まりだったと見限られてしまったけどな。三年より前から筺底に転がり落ちて、三年前にここに戻って、今回もこのまま逃げ場所に居着けばいいと―――養父サマサマの声がするぜ」
「死守って―――なんでそこまで手厚く守護する必要が?」
「秘密があったからに決まっている。シヴツェイア・ザーニーイは後継第一階梯だ」
「…………はあ?」
さすがに、わけが分からなかったらしい。完全に話し向きに呑まれたエニイージーが、ぼてっと尻もちを崩して、完全に聞き入る体勢に座り直してしまった。分かりやすいように、言い直してやる。
「キルル・ア・ルーゼの腹違いの姉で、現国王ヴェリザハーの長子にあたる。殺されたはずのジヴィンの娘で、羽かぶり。【血肉の約定】で話題沸騰中の、本人その人だよ」
「その人? 頭領が? なんで?」
「だぁから。なんでもへっても糞もあるか」
「じゃあ、なんで<彼に凝立する聖杯>に?」
「シザジアフ・ザーニーイにしてみたら、市街じゃ暮らすうちに羽が生えてきてしまうし、なにより人の世を忍んでおくに越したことは無かったから、悔踏区域の風が届く外輪で旗司誓するのが一挙両得だったんだろ。しかも旗司誓は混血者や赤毛者も多く、血縁に頓着しない。どれもこれも、うってつけの隠れ蓑じゃないか。性別を隠したのは、念のためだろ。ただでさえ見られる顔をしているんだから、付け入れられる要素は減らしといた方がいい」
「ザーニーイは……頭領の名前だ」
「そうとも。そして、シザジアフのそれでもある。シヴツェイアとシザジアフを繋ぐために……超えるために名付けられた存在だ。ザーニーイ―――真なる意味で、唯一の……超人だ」
実際、族名はもとより家名ですら無かろう。族名は血族を、家名は継承財を証すために国へ登録される籍である。あの親子関係が義理なのは確実であるし、シザジアフが国のどこかに不動産を有していたところで、後継第一階梯が発見される危険性を侵犯してまでシヴツェイアに譲渡する意味があるとも思えない。
エニイージーが素直に動揺して、見開いた目を瞬いた。
「じゃあ、頭領が死んだっていうのは……」
「【血肉の約定】に乗っかって、彼女がシヴツェイア・ア・ルーゼでございと、後継第二階梯ごと引き渡したんだろうな。ゼラ・イェスカザが」
「あんたが、そうしたんじゃなかったのか?」
「そうしたってのは、どういう意味について言っている? あいつを王城に献納してやったことか? それとも頭領を死なせたかってことか? 前者ならノゥだし、後者ならイエスだろうな」
刹那。
着々と冷めてきていた百年の恋を ねちっこく再燃させかけたエニイージーの双眸に、シゾーは目を眇めた。鼻先で片手を振って―――こんなところまで清拭してくれたのか指紋にすら血の欠片もない―――、話の矛先をすっぱ抜く。
「単細胞な早合点してんなよ熱血ボケ。俺は別に、頭領に成り上がろうとザーニーイその人の暗殺を企たことはない。三年以上前の武装犯罪者の急襲と絡めて、盛り上がり任せに好き勝手言ってくれてる野郎もいるようだが、それとも俺は無関係だ。筺底で初めて知らされた。俺が<彼に凝立する聖杯>に帰ってきた時には、三頭政治をしてくれていたアタマ三つとも一気に失くしてオロオロうろつくしかなくなった烏合の衆しか残されていなかったさ。言ってみれば―――そうだな。いい迷惑だ」
「でも、頭領がそのあと殺されそうになったのは、確かだ。霹靂を相手に、稲妻の咬み痕を残してくれやがった……」
エニイージーは歯軋り混じりに、眦を吊り上げた。そして、口唇を裂いている生傷のように血をにじませた抗弁を、こちらへ差し向けてくる。
「それだけじゃねえ。俺は、革命を控えた晩に、頭領と逢ったんだ。ひどく疲れた様子で、偶然を装ってゼラさんを探してた。あんたに違いないんだ……あんた、三年前も、あの日も、頭領に何をしやがった?」
「女扱いして迫った」
絶句した。まあ、そんなもんだろう。
予想外でもなかったので、シゾーとしても想定内の推論を吐露するしかない。
「あいつは、革命について俺を説得したかっただけだろうけどな。疲れただろうな―――でも、俺だって疲れたさ。どこまでも平行線だと分かっていても、それでも話さずにおれないのは。ゼラ・イェスカザを捜していたのは……まあ、あの昔から変わらない童顔でも見て安心したかったんじゃないか。でもって、どうかしましたかザーニーイとでも呼びかけてもらって、子供騙しであれ自分がザーニーイであることを確かめようとでもしたんだろ。はからずも、お前が来ちまったみたいだが」
「おんなあつかい?」
「だぁから女扱いして迫ったんだよ。具体例を聞かされてギラつける童貞でもねぇだろうから省くが……色恋物語にしたって三文芝居もいいとこの、くっだらねえ駆け引きだ。隙を見ては、三年間ずっと繰り返してきた。あいつは、ここ最近じゃシカト一徹だったけどな。あいつは―――」
わらう。わらえてしまう。
―――こうなっては、なにもかもが、どこまでも、おかしい。それでも。はじまってしまった―――それを知っている。シゾーだから、わらえる。
「まったく、ひっでぇ外道さながらの醜女だよ。女なら婀娜っぽく科でもつくってりゃ得三昧できるものを、ザーニーイだからってだけで損づくしなまでにふてぶてしく身勝手で自分本位で自意識過剰で。そうやって自縄自縛の雁字搦めになるから息詰まって、毎月のように発作を起こしては死にかかりやがるんだ。また稲妻の咬み痕なんざ作られちゃ目も当てられないから、せっかく俺が絡まってるのを解くついでに真珠から女まで手ほどきしてやろうってのに、けんもほろろで見向きもしねえ」
「てめ―――!」
完全に堪忍袋の緒が切れた険相で、エニイージーが声色を迫り上げさせた―――純心さながら、純粋に。滑稽なことに。滑稽だ。
咽喉の奥底から煮沸してくるような笑殺の衝動に、シゾーは笑って嗤って哂って咲い続ける。欣幸の至りに狂い咲く本能があまりにも心地よく、上背を逸らすまま孤高から下界へ睥睨を向けた。
「なんだよエニイージー、お前マジで童貞か? どーせ旗司誓やってるうちの飛んだり跳ねたりで処女膜破れてんだ。気持ちよく使えるようになっときゃ損はない。俺だって中出ししたい時もあるしな。三年前から身嫌いが悪化したことから推察するに、武装犯罪者どもに輪姦されてたのかも分からねえが、使用済みなら使用済みらしく使い込み方を仕込むまでだ。小便漏らして気絶するまでイカせてやる。楽器弾くみてぇに簡単だ。コツさえ押さえりゃあっさり音階上げて嬌声垂らすぜ」
「この……糞野郎がア! それ以上―――!」
「それ以上―――なんだ? 喋るな、あいつを口汚く扱うなってか? ハッハァ、くっだらねえ。俺が言うまでもなく、あいつこそ汚物そのものなんだよ―――あいつ自身、これ以上なく覚えありきになア!」
沸騰しゆく意馬心猿が、せりふそのものにまで波及する。エニイージーのそれを押し返し、押し流しても、奔流は横溢し止まらない。
「頭帯とターバンで羽を覆い、厚着と襟巻きで身体中ぐるぐる巻きに隠して、口先ですら臆病者だと抜かしながら、逃れ果せたつもりでいやがって! そのすべてを知る俺に……三年前、自殺するほど追い詰められておきながら、それでも俺がいなければザーニーイでいられない! 幼馴染みで、ひよっこで、面倒を見ていられる弟分で―――俺がそれ以外の化け物だと気付いてしまえば、自分まで化けてしまっていたことに気付かずにおれないから! もう女でしかないんだと!」
―――と。
いつまでも他人面の抜けないエニイージーの幼顔に、指摘をくれてやる。腹の負傷を押さえていない膝の上の片手から、ぴっと一本指を差し伸ばしてまで。
「エニイージー。そうやって怒り狂っている以上、お前だって俺と同じだよ」
「なんだと?」
「俺は、あいつに裏切られた。三年前。信じたのに、自殺したんだ……俺が男だった、ただそれだけで、この世もろとも見捨ててくれた。お前は、あいつがザーニーイじゃなかったことに裏切られたから、それを実感させてくる俺に盾突いている。ひと皮剥けばこの様だ―――この醜さに差なんてない!」
そしてシゾーは、その指先を翻した。己の臍の横、そこを貫通した傷口へと。
「俺が生き物をぶった斬って中身を見るのを好きなのはな―――そのことが、手っ取り早く実感できるからさ。馬も山羊も牛も人も、引っ繰り返して混ぜ合わせれば見分けなんざつきやしない。生ぬるい臓物に生臭い汁をびちゃつかせて、糞尿になるまで後生大事に反吐を抱え込んでいるくせに、皮一枚突っ張りさえすれば隠し果せた気になって、見栄までハリボテのように張り出した挙句、あいつよりマシだの野郎よりイイだの抜かしやがる! ああそうだとも、それを馬鹿に出来るものか……それっくらい、とんだ馬鹿ばかりじゃねえか―――お前も俺も誰も彼も、馬と鹿ほどにも変わりやしねえ!」
そこまできて―――
さすがに疲労を覚えて、前のめりに姿勢を崩した。そのまま猫背になりかかるのを堪えて、呻く。
「エニイージー。腹を切れよ。聖水でも出て来るなら聞く耳を持ってやる」
当の相手とくれば、なにやら死にかけた金魚のように、ぱくぱくと空気を噛んでいた。面皮を膨らませていた熱気ごと、すっかり顔色を失って、息絶え絶えに呻吟してくる。
「ふざけんな……なんでここまで裏切ってくれていたあんたが、ここぞとばかりに正義面してんだよ……!?」
「どうしてそれを疑える?」
「なにを―――」
「正しい・正しくないを語るのが、どうしてお前の方だと信じ込んでいるのか? お前が被害者だと……裏切られていた、騙されていたとでも? ふざけるな―――俺からすれば、騙されたのは あいつの方だ! 我らが旗司誓<彼に凝立する聖杯>……この双頭三肢の青鴉に相応しい霹靂を寄越せと―――俺たちが欲しいのは強く気高く吟遊詩人すら謳わせるザーニーイだと、この三年間あいつに笛を吹き続けたのはお前らだろうが!!」
シゾーは、咆哮した。
慟哭していたとしても。吼えた―――
「だからこそ、たかだか毛色が違う女だったと分かっただけで、霹靂でもなかったくせにザーニーイの振りをしやがって騙したなと、被害者面ひっさげながらそんな捨てぜりふを吐きやがるんだ! どいつもこいつも雁首並べて、おためごかしに ふんぞり返りやがって! お前らさえいなければ、あいつはこうまでならなかったはずなのに!!」
「違う……」
「違わないさ。だったら、俺は臆病者なんだというあいつの口癖を、お前らが鼻で笑い飛ばし続けたのは何故だ―――お前らが、ザーニーイしか要らなかったからだろうが!! 霹靂と謳われる男が、臆病であるはずがないから!!」
霹靂。紫電を閃かせ、天射貫く鞭。
その謳い名を耳にした時に覚えた、渾身からの怒りを思い出す。恨めしい。心盲いるまで怨めしい、怒りを。
―――お前まで、ひとじゃなくなるのか。蒼炎が、お前を見捨てたように。
「エニイージー。お前は俺を非難できても否定できない。お前も俺も、人間で出来ているんだからな」
じっとりと相手へ視線を篭らせて、シゾーは今まで煮込み続けてきた腹の内が伝播していくのを、目に見えるように感じていた。腹の内。ことあるごとに煮上げ、茹でこぼし、焦げつかせ―――それはもう原形を失くした泥のような産物で、うまみも臭味も汚濁しきった混沌だった。くさく臭われ堪らない―――馨わしく香られ堪らない。もう食べるしかない知恵の果実と同じだ。だとしたら、ひときわの奇跡がゆるされた暁には、この葛藤する坩堝から うまみを引き当てることもあるのかもしれない。うまみ。それは何だ。恋か? わらう。
そうだとも。きっとアーギルシャイアだって、こうしてわらっていた。無様にもどうしようもなく、きっとそうしていた。楽園と引き換えに恋をした。
その渦中へ引きずり込まれることに、エニイージーはそれでも抵抗した―――なにも知らずにいた無防備な内側に毒牙を掛けられたことを知ってしまっているのに、ただ食い破られるのを見ているしかない忘我の眼窩を晒しながら。うそざむい虚無の顔。その表情を知っている。十三歳になる頃には失ってしまった、シゾー自身の生き写しだ。
「……なんなんだよ。なんだってんだよ、あんたは……あんたが―――あんたが、こうさせて回ったくせに! 全部……全部だ! 因果応報のくせして、なんで胸を張ってるんだよ!」
こげ茶色をした両目は、まだ幻滅していない。その拠り所を守ろうとしてか、涙液まで膜を張り出しているようだが、無駄な抵抗だ―――どうせ絶望するのに。
「今の話だと……三年前! あんたがここにいたら頭領は武装犯罪者に拉致されなかったし、だったら死にかかることもなかった! なら、発作を悪くすることだって、なかったんだ! だったら革命もきっと上手くいっていたし、そしたら頭領も俺たちもなにも変わらずに―――!」
「なにも変わらず」
繰り返す。
それが息の根を止める致命傷だったとでも言わんばかりに、ぎくりと呼吸を途絶させたエニイージーに、シゾーは淡々と酷評を差し込み続けた。打ち留めるつもりで。
「お前が求めているのは結局のところザーニーイという霹靂でしかないなんて、自白にしたって今更だな。俺が散々論ったところだろう」
「違う。俺は、そんなことを言いたいんじゃない……」
「じゃあなんだ? 三年より前から変わり映えもせず、俺がとんでもない愚か者だってことか?」
一笑に伏して、畳み掛ける。
「愚かだろうさ。あいつを自殺するまで押し拉いでおきながら、それからもその怯懦と劣等感につけ込んで、肌身離さないでいられなくなるまでシゾー・イェスカザらしく振る舞って―――それでも確かにそのことに どす黒い背徳感と興奮と、快楽に愉悦を重ねるしかなかった三年間だ! 絶望しない日はなかったよ……自分自身にも、そしてすべての根源であるシヴツェイア・ザーニーイにも! それは、あいつだって同じだ―――」
―――お前まで、ひとじゃなくなるのか。蒼炎が、お前を見捨てたように。
シゾーはあの時、そのように当人へと尋ねはしなかった。そうするまでもないことだった。
「同じだった。だからこそ、霹靂になった。俺から、お前らに乗り換えようとしたんだ! 例え死刑に処されたとしてもザーニーイとしてなら上等だと、革命を実行してまで―――俺を、裏切った! あいつがいたから俺もここにいたのに! 裏切りやがった!!」
誰もが誰もを裏切っている。絶望した背約者しかいない。こうまでこの世は楽園だ。死ねばいいのに、ただ産まれ落ちただけで肉体は生きていく。油断も隙もない神も仏もない失楽園で、味も素っ気もない時間の流れに圧倒されながら、身も蓋もなく脆弱な骨と怠惰な肉を腱で繋いで汁を溜め、縁もゆかりもない他者へ痛くも痒くもないと振る舞いながら、くさいものには味噌も糞もなく蓋をする。根も葉もなく、引き金が引かれることにおびえながら……自分こそ、引き金に手をかけているかも分からないから。引き金を引く―――それを試てしまうかもしれないから。そして、心見て、心満てしまうかも分からないから。だとするなら、己こそが化け物だと知れてしまうから……隙間ある怪物領域を、こわがる。こころない未知を―――こわがる。
こころ―――
「エニイージー。覚えているか。俺はお前が、いつか殺意も無いのに人を死なすと言ったよな。心は晴れたか? 気分はどうだ? ザーニーイを殺した気分は。霹靂は死んだ。お前も殺した。あいつを殺した」
「やめろ……」
「なあ教えてくれよ。俺はそれを知ってるんだ……今日が来る日を、三年も夢見てきた気がしてるんだ。なあ、きょうだい―――こうなりゃ穴兄弟みたいなもんだろう。なあ。勝手にザーニーイさんに首っ引きの首ったけになった者同士じゃねえか。でもってこの様だ。様ァ見ろよ。あいつは頸に大穴、俺は腹に風穴、お前は―――ぽっかり心に穴が開いたか? え? 教えてくれよ……」
シゾーは、問いかけた。問いかけ続けた。さながらそれは―――こたえられるまで。
「刺してくれた時、お前は言ったよな。俺だってよかったじゃないか、あいつの隣にいるのは……って。今でも―――こころから、そう思えるか?」
返事はない。それが、こたえだ。
シゾーが三年前に、済ませた―――ただし、同質にして、同一にして、正逆の……それだ。
立ち上がる。ふと血が下がる感覚に、目玉の奥が押し付けられるような違和感を覚えるが、数秒で持ちこらえて――― 一歩を踏み出した。二歩目のために。三歩を進んで、四歩目を踏む。行く。
ぎょっと後ずさろうとしたエニイージーが、短剣を蹴った。ちゃり、とそこに結ばれた鍵が弾む。ちょうど足元まで転がってきたそれを、シゾーは床から掴み取った。鍵の方を。
「どこへ―――行く?」
「お前と違って、俺は三年前に決めたんだよ。とっくに。俺は。決めたんだ」
「なにを?」
こたえようとして、言葉に詰まる。
こたえずともよいのだ……堪えないよう、応えずとも、答えなくとも、ゆるされるのだ。ふと、そう心に過ぎる。阿呆な質問をしてくる愚か者を避けて、賢く生きていく。知恵があるのならそうして構わないし、それを選択することが悪と言うわけでもない。分かっている。
ただし、格好悪いことに気付いてしまえば選べないだけだ。シゾーだから、もう蒼炎を持ち越すつもりはない。
「決まってるでしょう。あんたには決められないことですよ」
告げる。
「がたがたと好き嫌い抜かせて、ブルーまで入ってくれるような余地のある贅沢者には……決められないことですよ」
と、やっかみまで余計に付け加えてから。
「あの人はね。肩肘張って格好つけて、調子づいて飲んだくれた次の日に煙草ふかしながら二日酔いのドタマぐらんぐらん揺らして、その脳天を僕に はたかれてコケにされてりゃいいんです。それでいいんだって、僕が決めたんです。こんなもん、たったそんだけ。だから僕は……あるんだから、居場所に行きます」
シゾーは、辿り着いた鉄棒に手を掛けた。格子のドア。開き直って、それを開ける―――
その時だった。
「はあ。はい。成る程。細かい内情はともかく、ざっくばらんながら、あらましは察しました」
そうして横槍を入れてきたのは、のんびりとした声だけではない。
ここは、奥に長い部屋の中ほどを鉄格子で区切るかたちで牢となっているのだが、その格子向こうには番人用のスペースがとられている。調書やら休憩やらを取ることが出来るように、椅子と机が―――自供しやすくするよう圧迫感を軽減するためなのか うたた寝しても勘付かれないようにするためなのかは知らないが―――牢の中からの目線を遮る、壁で仕切られた向こう側に。部屋の見通しを縦半分隠して廊下へのドアを見えなくしているその衝立じみた壁の向こうから、にょっきりと片足が出た。ついで、そのまま座っている椅子をがたがたと横着に引きずって、カニ歩きするように横滑りざま、全身が出てくる。反転させた椅子の背凭れに腕組みを乗せ、座面を跨ぐように腰掛けた、壮年がかりの旗司誓だった。
私服の足だけでは誰だか分らなかったが、腕を隠して背凭れまで垂れ下がった大ぶりのネッカチーフを見れば……正確には、その藤色がかった布地で威勢よく翼を広げる双頭三肢の青鴉の小豆色(言い表すと色合いが矛盾しているが、実際そうなのだからしょうがない)を見れば、嫌でも知れる。第一部隊だった。その次席。名を―――
「フィアビルーオ」
「の、キサーの方です。わたしは」
「弟は?」
「外です。ゴタゴタしてますもんで、部隊を分割して、とにかく体制維持に死力を尽くしているところで。ゼラ一主の問答無用の存在感と圧力が失せた反動で、第一部隊まるごと甘く見やがってくる舐めたチビスケどもに、自治と統治の価値を叩き込んでやらないと」
あっさり言われ、ふとシゾーは立ち尽くした。不意に知らされた養父の遁走については納得しかないが、そのせいで別のことが―――副頭領の悪癖であれど―――気にかかる。ついでに興ざめしたような気分にも後押しされて、つい尋ねた。
「ジャヌビダに任せていいんですか? あの直情径行型短気に。外」
「わたしの方が向いているという自認はありますが、それ以上に弟はここ向きじゃない。双子でも気構えがこうまで違うと、不公平感は否めませんね。聞き耳を立てる牢番と、手出しすることも辞さない保安官なんて、どっちみち味方から敵視を向けられるのには違いないですが、筺底の蒼炎が相手とくれば前者の方が損な役回りだと思えてならない―――と、さっきまでは信じていましたが。その顔つきを見ると、疑ってもゆるされるようだ。あ。ちなみに、あんたをこっちの檻送りにしたのは、わたしの判断です」
「……ちなみついでに。なんでですか? それ」
「素人判断ですが、怪我人なんか地下牢に入れたら、一発で病がかって死ぬでしょ。ここなら掃除もしてあるし、まだマシかと」
「まあそれでも第二部隊ほどには行き届いていないみたいですけどね。ったく、最近当番に当たった旗司誓がどこの隊なんだか知りませんが、見習ってくださいっての」
「あ。第二部隊で思い出しました。食ってください、これ」
と、席を立ち、いったんフィアビルーオが奥に引っ込んだ。そして、机の上にでも置いてあったのだろう鍋を持ち出してくる。両手持ちの寸胴鍋だ。蓋の上に、深皿とスプーンが乗せられている。器用なことに、右手の甲の上に取っ手の片方を乗せるようにして、下を向かせた五指では水を注いだコップを吊っている。
気負うでもなく、いつもどことなく眠そうな黒瞳―――この目付きで兄か弟か見分ける賭け事が流行したことがある―――をシゾーに向けながら、のそのそとフィアビルーオは歩み寄ってきた。牢の右端……要は、格子扉を挟んで、シゾーの真ん前まで。
「エニイージーはもう済みなんで、食えるだけどうぞ。あいつらからの差し入れです」
言いつつ、フィアビルーオは格子の間際に、鍋と皿を並べて置いた。右手のコップも横に置くと、スプーンごと鍋の蓋を持ち上げる。
「―――うわぁ」
知らず知らず、シゾーは歓声を上げていた。格子に取りつくようにして座り込み、笑んでいることも知らず、ただただ鍋の中身に見惚れてしまう。
角煮だった―――大好物の。ぶつ切りにした肉を丁寧に下茹でしてから、香辛料と調味料だけでなく木の実や果物まで加えて甘辛くした煮物である。糖蜜まで入れてくれたのか、とろとろとした汁がてらりと光っていた。まだ温かい。湯気が香る……あまじょっぱい あぶらの においに、溶けた果肉の花のような香味が絡んで、顎の裏が痛むほど唾が湧いた。傷の痛痒を忘れるほど、腹の虫が動くのを感じる。
「ありがたい。本当に、これは―――」
「食えそうなら、一杯目よそっちゃいますね」
顔を見れば分かったのか、えらい大盛にしてくれた深皿に、取り分けたスプーンを突っ込んで、格子扉下の食事口から入れてくれる。水を満たしたコップもだ。
その場に胡坐をかいて、短剣に付いた鍵をわきに置き、シゾーは皿を持ち上げた。赤ん坊の拳骨をぷっくり膨らませたような肉の塊は、スプーンの先で押せば崩れるほど軟らかく、いい具合に溶けた果物やナッツを纏わりつかせて色艶を溢れさせている。たまらず、すくって頬張った。うまい。文句無しに、うまい。<彼に凝立する聖杯>の規模が増すにつれ、こういった手間暇が掛かる料理は調理係の道楽と見なされることが多くなり、食べる機会が減っていたのだが。腕を落とすどころか、上げてくれていたらしい。
(ありがたい。本当に)
ひと口ひと口、ひと言ひと言、噛み締める。
消化にいいものをとの心配りもあって、揚げ物などではなく、角煮にしてくれたのだろう。だからと言ってあまりがっついても負担だろうが、それでも食欲はあるだけ止まらない。すぐに呑み下したがる胃袋を自制するべく、咀嚼する回数を三十ずつカウントしながらスプーンを運んでいると、フィアビルーオが話しかけてきた―――椅子まで戻るどころか、体勢まで先程と同じような自堕落さに落ち着けて。
「にしても。今のアレコレで納得がいきました。道理で<彼に凝立する聖杯>の土地屋敷の登記がイェスカザ家なのに、あんたが名乗ってるわけだ。先々代までは頭領職と共に継いできた記録があったのに、ここ二世代すっとばしたのが何でなんだか疑問だったんですよ……イェスカザ家は、ツェネヲリー氏から一足飛びに、あなたに渡ったんですね。あなたは正確には、ツェネヲリー・イェスカザと縁組みしたんだ」
「そうです。僕が来る直前まで存命していたと聞いています。養父は―――ゼラ・イェスカザは、その名を語っていただけで。まだ名前があるやら何やらと、当時は嘯いてくれてましたよ。呪文みたく……となえあげたら、なにが起こるのかって」
ひと段落してコップの水で口を濯ぐと、シゾーもまた多弁を積んでいく。こんな場面では漫談のようだが―――毒を食らわば皿までだ。
「いくら旗司誓とはいえ、探られたくない腹を抱えた異国の特殊技能者が、イェスカザ家の正当な後継者になろうなんて―――養子に登録されようなんて、危険な轍は踏み出せない。だから僕が契約者になりました。それも契約のうちでしたから。そのことを、ザーニーイさんは特に疑問視していなかったみたいですけど……あんたは気付きましたか」
「まあ、出発点が違いますから。頭領にとってみればイェスカザ・ファミリーは最初から義理の親子というパッケージで閉じていたから疑うも何も無かったんでしょうが、わたしのような遅れて来た外様者からすると、胡散臭いこと限りないズブズブした結託っぽかったし。着眼点となると、また別ですが」
「着眼点?」
「ええ。隊員として有り体に言うなら、ゼラ一主の立ち居は、ちぐはぐしていると思えたもので」
疑問符を転調させたシゾーの目線と入れ違いに、フィアビルーオが目を逸らした。気まずさからではなく単に自分の古い記憶を追いかけて、くすんだ黒髪の合間からどこへともなく上の方へと、似通った色合いの瞳をうろつかせる。
「第一部隊の主席でありながら、賽を振るだけの立場に徹底的に隠遁して、表向きには一切出ようとしなかった。まあ基本的に第一部隊は直接現場仕事に赴く仕事内容じゃありませんから、その辺はテキトーに納得するにしても―――対外戦力として大規模な魔術を使うなんて、見たことも無い。内政圧力として示すくらいで……でもそれなら、外政圧力として大っぴらに振るってくれたっていいじゃないですか。実際、以前はそうだったんでしょう? 急に、しかもこうまで他人の目から逃げ隠れし出したのは、何でなんだろうかと思ってましたよ」
「フラゾアイン混じりの練成魔士なんて、もともとが目立ちすぎる人ですから。可能な限り、木を隠してくれる森の中にいたかったんでしょう。魔術を使わなくなったことについては、特に……三年前からですね。後頭部を負傷した後遺症か、組織として連携した戦法が定着してからは魔術を投入することによる弊害の方が大きいと見たか、そもそも戒域綱領制定後に武装強盗旅団もいなくなり大規模戦闘そのものが撲滅傾向となったせいか……と、僕は類推していたんですが。こうなっては、三年前には企てくれていたんでしょうよ―――こういった事態を」
「もしや暗黙だった女人禁制が正式に布かれたのも、あんたらがここに居着いてからですか? それとも、噂のジンジルデッデ先翁の計らいですか?」
「だと思いますが、僕が知る限り、確立したのはシザジアフの代からと言えるでしょうね。本当に彼は、秘蔵っ子こを猫可愛がりしていましたから……ジンジルデッデの代から頭領職を手伝わせる名目で、平仕事どころか外仕事へ派遣するのも最低限に絞っていた。あの人が決闘を受ける相手ですら、確実に勝ちを拾える格下を選別していたくらいです。そりゃ、あのゲテモノ妖怪に叩き上げられたなりに、生半可なチンピラどもより腕が立つのは事実ですが―――『霹靂』の謳い名はあくまで戒域綱領に端を発しての賛美であって、それに連戦連勝記録が腕っ節まで箔を付けてくれたってのが実情なんですよ」
「イェスカザ・ファミリー。赤毛でも貴族でもないあんたらが、あとは受け継ぐ価値があるとするなら<彼に凝立する聖杯>の不動産くらいかなぁと思っていたら―――あんたらですか。翁たちの……爺ちゃん婆ちゃんの、父ちゃん母ちゃんの のこしてくれた……あんたら二人ふたりの幼馴染みですか」
「…………―――」
黙り込む。それは単に、角煮を完食した最後のひと口を味わっていた最中だったこともあるし、おかわりしても問題ないか体調に耳を澄ましていた頃合いでもあったし、そうすることで誤魔化したいせりふでもあったからだ。
どの腹積もりをどのように見積もったものか。フィアビルーオは突き放すような物言いを、冷めた目許に上乗せしてくる。
「悪いですけど。わたしは、あんたらとは心中しませんからね。おおよそ頭脳労働だけで食いつなげる給金の安定した旗司誓なんて、滅多に無い職なんです。錦を飾れた故郷の家は、今じゃ村一番の学習院だ。わたしはもう<彼に凝立する聖杯>の旗司誓以外になるつもりはない」
「悪くはないでしょう。じき三人目が産まれるって聞いてます」
「……もう産まれました。玉のような男の子で、弟が出来たと上の姉妹ふたりして喜びっぱなしだと。そのうち手土産つきで顔を見に行くつもりでいます」
えらく歯切れ悪くなった語り口に、シゾーはずっぱりと斬り込んだ。別口から。
「手土産なら買うんでしょうから言わせてもらいますけど、アンタこっそりザーニーイさんから祝い金もらってますよね。大事に使ってくれなさいよ。あれ実のところ僕のへそくりですから」
「マジですか」
「マジですよ。あの人<彼に凝立する聖杯>が軌道に乗り出した頃から出し惜しみせず使っちまうようになったから、いつだってキレイさっぱり金欠で。しかも無駄遣いしない僕がいるのを知っての確信犯。あーもーますますコンニャローウ」
余計なヒートアップまで持て余して、どんよりと半眼を崩しながら、名残惜しくしゃぶっていたスプーン―――無念ではあるが二杯目はおあずけにしておこう―――を、がちがちと噛む。
フィアビルーオも、シゾーと同じくらいには頭が痛いといった渋面で眉根を揉んでから、ため息をついてきた。
「ともかく。行くなら、<彼に凝立する聖杯>の副頭領職を辞してください。でもって―――イェスカザ家の資産を<彼に凝立する聖杯>に明け渡す手続きとか、色々なんとかしてきてください。シェッティの箱庭で」
「……フィアビルーオ?」
「それまでは、旗であれ短剣であれ、こっちで預かっときますんで」
呆けてしまう―――のだが、構わず声はやってくる。シゾーへのみならず、続けざまに、もう一人へも。
「二言を抜かしてくれるなよ、エニイージー。これは、お前のためでもあるんだ―――ここにいても構わないが、死にたがるなよ。お前の旗幟を信じているからな」
椅子から腰を上げたフィアビルーオは、こちらへ来ると、床から鍋を持ち上げた。
その頃にはシゾーも、スプーンを乗せた皿と空コップを手に、格子扉を開けて檻の外へ出ている。屈身したまま―――そうしないと通れないサイズなのだ―――その場で迷ったが、開錠してある扉だけを閉め、格子の間から鍵付きの短剣を中へ抛った。エニイージーは尻子玉でも抜かれたように呆然自失して床にへたり込んでいるだけで、視界さえ視認しているか怪しいところだが。
(絶望するだけで死ねる世界―――か)
そうだ。予てより異端の夜叉は物語る―――畢竟ここは楽園ではない。すげ替わる世界で、細胞単位で一秒一分ごとに死にながら個体として一日一年と生き延び、結果として巨人化する不死者―――ヒトという種族―――は螺旋の系譜を行く。無限の円環は開かれた。極が存在しないと言うのであれば、生と死もまた等価となった。それを禁忌としていた設定は解脱した。生と死は正逆でありながら、同質であり同一である。いつまで生きようが、どこで死のうが同じことだ―――
(ざっけんな。馬ッ鹿馬鹿しい)
シゾーは、扉とエニイージーに背を向けた。立ち上がる。
正面。それを待っていたらしいフィアビルーオが、スプーンの乗った深皿とコップを、シゾーの手から取り上げた。それらを机に置いたのと入れ違いに、畳まれた布の層を押し付けてくる。広げるまでもない―――手拭いと、シゾーの上着である。原色ではない、純然たる私服だ。探してくれたのだろう。
「汗かいてるうちは着せない方が無難だろうって、預かってました」
「ありがとうございます」
「んじゃあ、汗ふいてもらって、着たら行きますか」
と言うわけであるから、ひとしきり拭き終わったシゾーが上着に袖を通したので、行くことになった。らしい。
廊下に出れば、いつもと変哲の無い要塞の通路が、縦横に伸びている。圧縮煉瓦の無骨さ、天井の低さ―――自分にとっては―――、嵌め殺しにされている窓と、その硝子板の曇り具合。この牢は三階の最奥にあるので、このまま歩いていけば自分の部屋を通りすがることになる。誰もいない。こんな観察を済ませることが可能なくらいだから、騒動らしい騒動の殺伐さもない。
どれもこれもが疑わしく、ふとシゾーは立ち止まった。並んでいたフィアビルーオが、頭ひとつ下から見上げてくる。
「どうかしました? 歩いたから傷に響きました?」
「いや、なに―――翻る旗そのものを取り上げられて檻からお役御免になるのは、古今東西でも、俺が初めてだろうなと」
「さいですか」
どこまでも興味が無いようで、態度も合いの手も兎角すげない。
だからこそシゾーとしては、首を捻らざるを得なかった。それを正直に問うてみる。相手がいつも通りの口調なので、自分までそれに倣いながら。
「にしても、分かりませんね。僕をしばき倒したいのは、エニイージーだけじゃないでしょう? <彼に凝立する聖杯>が、どんな事態になってるのか……目が覚めたばかりの僕でも、さすがに想像できますよ?」
「どう想像してるんです?」
「どうって……」
もったいつけられたのではなかろうが、なんとなく馴染まない問答の雰囲気にひるんで、シゾーは回りくどく有耶無耶にした。
「最悪の事態です。違いますか?」
「はい。違います。ですから、わたしはあんたらとは心中しないと言いました」
「はい?」
「混乱はあります。波紋も広がりました。それでも、我々は旗司誓でいられている……暴徒と化すまでの情報が無いので停滞しているとも言えますし、第二部隊の魚心あれば水心が会心の一撃だったのもありますが。ともかく、それだけ安定性を保っているんです。保てるようになったんですよ―――たかだか、この三年で」
(魚心あれば水心? 第二部隊の?)
引っかかりはするが、フィアビルーオは都合よくシゾーのそんな顔色ばかり見落として、さっさと残りのせりふを遂げた。
「誰だって我が身が可愛いんです。旗司誓もそう―――旗司誓として、旗司誓の身分が可愛いと思えるくらいに価値を持ち、その価値観がここまで浸透した。あんたらくらい裏切ってくれたところで、平常運転可能な程度にはね」
「……―――」
「そもそも、【血肉の約定】だか【血肉の義】だか知りませんが、革命なんて大それた夢物語に現を抜かすようなヤキが回ったリーダーなんて、こっちから願い下げですよ。わたしらは旗司誓らしく暮らしていけるならそれでいいのであって、旗司誓であることに命懸けになったりしたくないし、旗司誓だからって論拠で当たり散らして断罪したくなるほど傾倒も礼賛もしていない」
そこまできて―――
つと、言い足してきた。腹の生傷を押さえているジト目のシゾーから、さっと目角を避かしつつ。
「エニイージーを除いて」
「うわ通じた」
「ですから。そのサブリーダーまで自らお払い箱になってくれるなら、これ以上の安心はありゃしません。美学や大義にリードされるのは安全圏まででいい……あくまで余興として。それが平和だ。平穏だ。掛け替えの利かない―――変わらぬ替わらぬ代わらぬ換わらぬ―――かわらぬ日常だ」
「張本人を目の前に、随分ずけずけと言ってくれますね」
廊下に立ちんぼしたまま、苦汁を呑まされる思いに眉間の幅を狭めるのだが。フィアビルーオは、今度こそ真正面から斜視を厳しくした―――後ろ暗いところもなく、あけすけに仁王立ちして。
「本音と建前に関係なく語れる懐があっちゃいけませんか? 社員なら社訓に命を捧げろって? 給料のために働いちゃいけないってんですか? 生まれちまった人生だから酸いも甘いもある分は仕方なく引き受けるにせよ、そこそこ平和で幸せに長生きしたいなーってのぞみさえ、旗司誓だったら禁止ですか?」
降参して、シゾーは軽く両手を上げた。
「いいえ。のぞむなり祈るなり、たすけるなり ゆるすなり、ご自由に。旗司誓であるなし無関係に、僕だって、いつだってそうしてきました」
「いつものように、いつもの為に?」
「―――そうですね」
ふと―――鼻白んでしまう。
言われてみれば、そうだった。言われるまで、気付きもしなかったが。
「のぞんだのも祈ったのも、たすけたのも ゆるしたのも、その為だったのかも、知れませんね……」
そして。叶ったことはあったのか?
あったのだろう。奇跡は無くとも―――それと同じ何かなら、あったと思えた。だからこそ三年前、自分は<彼に凝立する聖杯>に戻った。帰って来た。過去も行いも取り戻せないにしても、すげ替わるようにして のこされたすべてを、シゾーだから知っていた。だからこそ、今日までこれを続けてきた。誰の為にだか、そんなことさえもう分からないとしても。続けてきた―――
「―――本当に、誰の為になんでしょうね?」
手を下げてかぶりを振り、歩調を取り戻す。とぼとぼと。フィアビルーオが、それに合わせてくれた。結局どの部屋にも立ち寄らず、やっとこさ二階まで下りて、一階へと続く階段へ向かう。
抜糸もしていない縫合痕は突っ張るものの、一歩ごとに膝を折ってくれるような激痛でもない。どうやら体幹とほぼ垂直に刃先が穿孔してくれたらしく、傷の丈も親指程度で済んだようである―――考えてみれば気を失ったのも、限界まで達していた腹の底そのものをナイフで貫かれるというショックが極り手となって内面から下界をシャットアウトしてしまったのだろう。手厚い看護を受けながらの食っちゃ寝は、相当に体力を回復させてくれていた。心根まで吐き出したせいか、寝込むまえより頭もすっきりしている。
歩きながら、シゾーは口を開いた。隣り合うフィアビルーオへと。
「辞表は、副頭領の執務机の引き出しです。勝手に受理してください。三年くらい前から置きっぱなしです」
「武装は? 斬騎剣なら、誰も動かしてないと思いますが」
「あんなイカレ鍛冶師のヤケクソ極まった骨董品、副頭領でもしてなけりゃブン回す価値ないです。しかも今の状態でンな腹圧かけようものなら、ナマ肌の縫い目はじけたとこでおかしくありません。フィアビルーオ、アンタそのワタ拾って突っ込んでくれますか?」
「兄だろうが弟だろうがフィアビルーオ家総員辞退させていただきますよ、ンな役回り。エニイージーの腸ただもれ説が流れてきた当初からゲェなのに、その再現ドラマで藪医者するなんて」
「ともあれ。斬騎剣は―――置いていく。あれはイェンラズハの墓標だ」
「墓標?」
こちらと似たような苦り顔を刻んで、顎に梅干し模様を浮き上がらせていた彼だが。それを解くと同時に、不意にこちらの言葉尻を捕らえてくる。
こたえるでもないが、シゾーはそれについて、口を割った。昔語りに、自然と素の喋り方に戻りながら。
「出征する前、ジンジルデッデが……これを、星明りが当たる屋上の倉庫の上に、隠して置いていった。俺はあそこに登ったから、それを知っていた。だからこれを奪ったし、奪った日から使い込んできた。武器として―――墓標にさせてたまるかと。意地でも」
「どういうことですか?」
「基本的にこの国において埋葬されるのは、無二革命にルーツを持つ者……貴族や旗司誓だが、疫病による死者は、火葬する取り決めとなっている。イェンラズハは火葬された。遺骨も遺灰も撒かれたが、本来の意味で雹砂に帰れなかった―――翁に、なれなかったんだ。だからだと思うが、ジンジルデッデもまた、雹砂に帰らないような、冥途を行く道を選んだ。戦争に参加した。八年前になる。人員を出せとの召集令状もあったんだろうけどな」
推知が混ざることに尻すぼみになりかかるが、感情がそれを押しのけた―――暗く、静かながら、怒声を接ぐ。
「俺は、ゆるせなかったよ。そりゃあイェンラズハが宿るとしたら、空っぽの雹砂じゃなく斬騎剣だろうさ。だからって、あとはひい・ふう・みぃとやってくる流れ星を待っているだけでいいなんて余生を剣にまでくれてやるロマンに陶酔して、あいつを置き去りにしやがった、あの女が……ゆるせなかった。俺は男だ。ジンジルデッデは女だったのに、それなのに あいつを―――置いていった。イェンラズハを選んだんだ。女だから。こうまで……あいつとは、正反対なことに」
「そいつはどうなんですかね?」
「なんだと?」
面喰らわされて、自然と握りしめていた拳までも緩めてしまってから、シゾーはフィアビルーオへ振り向いた。真横にいる彼は、前を向いたまま、歩くテンポすら変えないが。
言ってくる。
「恋愛なんて所詮、性欲の美化表現じゃないですか。程度の差はあれ、我欲を直視したくないからなりの着飾りでしかないから、嘘も混ざるし、言い訳も出る。副頭領。さっき、頭領が泣きじゃくっていたって言ってたでしょう……女になったのが嫌だって。それってもしかして、女なのが嫌だった先例が身近にいたからじゃないですか?」
「―――なにが言いたいんです?」
「ジンジルデッデ先翁こそ、女である自分が嫌いだったんじゃないですかね」
そして、単純な見識だとばかりに、訥々と明かしてきた。
「だから自分のことを、デデ爺なんて呼ばせていた。女を焼き剥がされたからこそ、イェンラズハ先翁のもとに いられた。彼からジンジルデッデと呼ばれて、名付けられて、初めて―――相棒に、なれた。相棒だから、最後の最後まで、相になっていたかった。流れ星と剣でも。愛だの恋だの抜きに。そうなんじゃないですかね? 確かにロマンチシストだし、イェンラズハさんを選んだのには違いありませんが―――そりゃ太刀打ちできないでしょう。相棒なんだから。対じゃないと」
「…………」
「いえね。男と女で、よく似たふたりを知ってるんですよ」
と断ってから、フィアビルーオがやれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせる。大仰な吐息すらして前置きを終えると、ぐだぐだと駄弁ってきた。
「そいつら、毛も生えてない時分から知ってるなりの、ぎゃあぎゃあと意地を張り合いっぱなしのマブダチ同士でね。んで、女だ男だって大人たちから勝手に線引きされ始めた頃合いに、まあそんなもんかと、男の方から男らしく女だからと割り切って扱い出した。そしたら、相手はドン引きして。なんで勝手に、やり直そうとしてるんだと。ふたりでやってきた今までは、そんなもんだったのか。軽んじてくれるにしたって、めっちゃくちゃ頭にくるってね」
聞いてしまえば、これもまた腑に落ちるしかない。
シゾーは、得心した。そうするより、ほかなかった。どうにも神妙になってしまう。
「―――ああ。まあな。そうか。そう、です……よね」
「そうそう。そっくりそのまま副頭領と同じように呆けましたよ。わたしもあの時」
「あんたの実話ですか!?」
「まあ、こーなったらカミングアウトしますが。今、わたしが通い婿してる先の家内です。結婚してるとは断固として認めません。旗司誓ですから」
「いやまあ、そこらをややこしくしたがる来歴は僕も掬さないではないですが、ぶっちゃけ休みの使い方が帰郷なのか旅行なのかくらいの違いだからどーでもいいですし、ちゃんと勤めてくれるんなら引き続き辞めてくれなくていいですけど。つーか僕からして辞めるんだから本当に元も子もない話だなコレ」
なんとはなしに副頭領口調まで復活させて、しみじみと口にする。
「よくもまあ……結婚までこぎ着けたもんですね。仲。そこから。聞くだに多難そうなんですけど」
「頑張りましたよ。それしかなかったし。とにかくマブダチの位置は確保したまま、でも男と女ならではの楽しみや面白さもホラこんなにって、あの手この手で外堀から埋めるよーにコツコツと涙ぐましく二年くらい。あいつときたら、わたしに見合うなりの疑り深さと頭がある以上に、女だてらの勘も冴えていたものだから、一向にキツネとタヌキの化かし合いでしたが」
「……そこまで入れ込むほどイイ女なんですか?」
「いんや。わたしにとって掛け値なしの相手が、たまたま女性だっただけです。でも会わせませんからね、副頭領には。あいつはどうしたって女だし、わたしや家庭に不満がないわけでもないだろうし」
「……ひょんなことから浮気するかもってことですか?」
「そうです。嫌なことに、あんたは若々しくて見栄えがいい男です。言ったでしょ? こんなもん、どう表現を変えたところで性欲です。欲があるそれ自体は、在るんだから、どうしようもないし……人の巡り合わせってのは、一事が万事、運と縁とタイミングだから。小細工だろうが手回しだろうがします。わたしとしては、わたしなりに家族を守りたい」
「誰だって、そうでしょ」
「いいえ。誰とも、少しだけ違います」
やっと一階まで繋がる階段に行き着いた。
そこを先行しながら、フィアビルーオが断言を続行してくる。
「キサー・フィアビルーオは、この世で、わたしだけしかいない。だからこそ、このフィアビルーオを表札にしてくれた相棒と、我が家を守る。そうしていることがゆるされるうちは幸せでいられるなら、ふたり揃って、やれるように頑張ってみる。フィアビルーオ家の一員としてね」
「んで、妻を僕から遠ざけます宣言ですか。そんなもんですか」
「そんなもんですよ。これだって―――運と縁とタイミングだ。頭領の決まり文句でしたでしょ? これ」
「もとはイェンラズハの口癖でしたよ」
「へえ? そうとは知らず」
「でしょうね。別に知らせたこともないし」
片手を壁に沿わせながら、シゾーも階下へと一歩ずつ下りていく。無駄にギミックの多いこの館は、階段の高さまでそれぞれ計算ずくの上ずらされているため―――こうやって稼いだ数センチ単位の空隙が隠し部屋や仕掛けに化けてくれるのだからマニアの酔狂は底知らずだ―――、登るより降る方が転びやすい。フィアビルーオの悪口雑言ではないが、こんなところで腸をただもれにするわけにもいくまい。
下り切るまでの間に合わせに、シゾーは話題を引き継いだ。
「運だけなら、無くしたら終わりだ。縁だけなら、切れたら終わりだ。タイミングだけなら、見失ったら終わりだ。運と縁とタイミングを混ぜ合わせれば……腐れ縁だ、と。腐っても糸を引いて残ってくれる縁なんて、血縁よりも運命の赤い糸よりも逞しいってね」
「まるで家族のようですね」
「だから増えたんでしょうよ。<彼に凝立する聖杯>も。ここまで。あーあ。まったく。どいつも、こいつも」
投げやりに、嘆息する。受け入れて、認めるしかない―――これは、そういった話だ。産まれ落ちたなら生きていくしかないことと同様に、シゾーが特別なわけでも、シゾーだからその資格があるというものでもない。それでも、自分だから、することがある。出来る、出来ないではない。するのだ。夢想でも、無謀でも、無理でも―――少なくともそれは、死んでしまったシザジアフには不可能なことだ。
(……こんなことで―――超えてしまうものなのか。俺は。彼を)
むなしい。むなしさしかない。
だからこその激情に駆られて、シゾーは歯を食いしばった。無言で、絶叫を咬み殺す。
(……こんなことを―――のぞんでいたはず、無いだろう。彼が。義父さん、あなたこそ彼を―――シザジアフを裏切った! 裏切ったんだ! どこから、いつから、どうして、あなたは……そうなったんですか! あなたは―――)
問いを雄叫ぶ。虚空へ……祈るような心地で。祈りであるなら、届かない。奇跡はない。神はいない。どれもこれも、分かり切っている現世の不備だ。楽園は失われた。
だとしても、そんなことは関係がない。
呼びかける。言葉ある限り、呼びかけを―――続ける。
(―――裏切っただけじゃない。あなたは、今も裏切っています。あなた自身もを裏切っているんです。僕はそれを知っています。息子でした。あなたを見て育ちました。ザーニーイさんと並んで、あなたたち二人の父の背を見ながら育ちました。だから、それを知っています。こうまで知らせておきながら、あなたは―――!)
こうすることでさえ、誰が為なのか。知らずとも、我知らず、それは続く―――
(こうまで、あなたを裏切らせたのは―――何なのですか? とうさん―――)
―――ふと。
いつしか一階の廊下にて、フィアビルーオが先を進んでいる。いつの間にやら、それについていく構図となっていたシゾーは、やっとそれに気づいた―――相手が向かっているのは正面ではなく、建物の裏手側だ。裏庭へ抜ける勝手口からシゾーを行かせる算段なのだろう。誰とも擦れ違わないように、道順も選んでくれているようだ。まあ真実、現時刻が飯時を過ぎた午前であったなら、要塞の内部に居るのは ほぼ第一部隊の者だろうから、フィアビルーオがシゾーについている以上は看過してくれるだろう―――事務系統の第二部隊の者なら居るかもしれないが、部屋から出るのは便所くらいだ。
(城の勝手口を出たら、そのまま城壁の裏門から外へ抜けろ。そんなとこか)
裏門より外は墓場だし、勝手口から裏門までの間に横たわる裏庭からして屠殺場と境目がないので、好きこのんで居座る物好きもいない。小休止するのに丁度いい陽だまりスポットなど、グラウンドにも中庭にも まだまだ残されている。今以上に<彼に凝立する聖杯>の規模が大きくなれば、その限りでもなくなるだろうが―――そもそも、こんな上を下へのてんてこまいの最中で、休みを取る者などおるまい。真逆に、永遠に休むために<彼に凝立する聖杯>を辞職する者なら出ているだろうが。
勝手口なので、正面の玄関ほどの幅も高さもない。せいぜい、棺桶を通すくらいの大きさだ。フィアビルーオですら首を折って潜り抜けたそこを、シゾーも辞儀をするようにして通る。見えてくるのは、辛気臭く群れた雑木と、雑木すら生えない雹砂溜まり、そしてそれに蹄が取られるのを嫌そうにしている馬の脚。
(馬の脚?)
地面から、顔を上げる。
そうして風景を確かめたシゾーがしたのは、己が正気であるか疑うことだった。信じられずに、だからこそそれを、相手に頼る……つまりは、名前を呼んだ。
「イコ・エルンクー?」
「ども。副頭領。背の二十重ある祝福に。結構お元気そっすね。なによりで」
あっけらかんと頷いて。
槍を背に、剣まで佩いた緑色の旗司誓は、いつもながらの簡易敬礼をこちらへ遂げようとしたようだが、四頭分の馬の手綱を両手一杯にしていたことで、それを中断した。確かに職務を思えば義理も湧くので、一応は断っておく。
「辞めてきたところですよ」
「あれま。そいつはお疲れさんでした。じゃあ単なる旅の道連れってこった。よろしゅう頼んます」
「旅の道連れ?」
「世は情けですからねえ」
勝手にしみじみと情感に耽るイコに期待せず、シゾーは凝視をフィアビルーオへ転じた。乞う気配に敏く―――その割に、なにやら説明文そのものが不服といった風に、彼は口許をもごもごさせながら、
「どんぴしゃと言うか何と言うか―――あんたとエニイージーが長ったらしく怒鳴り合ってる裏で、都合と話を付けました。こいつと、この馬らで、シェッティの箱庭まで行ってください」
「革命の時に、馬車を牽かせた四頭ですか」
「です。旗幟や馬車もろとも返却されてきました。<彼に凝立する聖杯>の伊達障泥以外の馬装は、農村から馬を買い取った時に、怪しまれないよう丸ごと購入したものです」
それを聞いて思い出したのは、もっともらしい養父のせりふだった―――砂育ちの騎獣は箱庭へ入れませんし、そもそも敵意がないことを示さなければならないのに、荒事慣れした馬躰をさらして王城に乗り込む気ですか?
(あいつは正装なんだから軍用馬と護衛犬を揃えようと拘っていたが、ゼラ・イェスカザはそれすら棄却した。そうさせなかった。今にして思えば、こうやって駄馬を用意することさえ罠だったんだろう。どこまでも入念に戦力を削いだ。シヴツェイアからザーニーイを引き剥がすために)
だがそのおかげで、自分がこうして轡を手中にしている。皮肉なものだ。その渋味みに口の中を浸されて、思わず顔を顰めてしまう。
どうやらその変化を勘違いしたらしく、ちらと目を上げてフィアビルーオが付け加えてきた。
「こんな見た目ですが。鞍も鐙も使い込まれてるだけで、乗ってくだけなら不便はないと思いますよ。まあ伊達障泥をさせ慣れていないだけ融通の利きが悪いかも分かりませんが、こればっかりは四頭とも装備して凄味利かせとくくらいで丁度いいでしょ。イコはどうあれ、あんた無手で行くみたいですし」
「武器なんて何を持ち出したところで、旗司誓を辞めたんなら、どうせ箱庭の検問で没収ですから。いや。それはいいんですけど」
「けど。なんです?」
「なんでイコと? 四頭も連れて?」
自然に質問が、イコへ向かう。
返事はこうだ。
「俺は仕事がてら、シェッティの箱庭で休暇を取りたくて」
(いやがったよ休み取る奴いやがったよ旗司誓で)
けろっと答えて来るかと思えば、まさかこう来るとは。
こんな読みにまで裏切られてやたら凹みそうになるものの、どうにか肩をコケさせるだけで受け流して。シゾーは、イコの根っから軽いトークを聞いていた。
「第二部隊のブッタマゲーションなんか見せられたら、王冠城のお膝元でも、なぁんか面白え晴れ舞台のひとつやふたつ観劇できっかも知れないじゃないっすか。今この時に物見遊山しない手はないっしょー。ちょうど箱庭回りのキャラバン見逃しちまったし、他に休み合いそうな奴もいなかったし、ひとりで馬を四頭連れて外輪から警戒環まで抜けるなんて向こう見ずに挑もうとも思えなかったんで。乗馬が得意な同伴者が連れてくれるんなら、こりゃもう渡りに船っすわ」
「仕事というのは?」
「そりゃあ、こいつらも、これからここで俺らが使うように仕込んでいくんなら、まずは畑や野道じゃなくて雹砂を踏ませ慣らしとかにゃあいけないっしょ。伊達障泥についても、騎手についてもそう。勝手違いに馴染ませないと。でもって箱庭に預けるついで、蹄鉄から健康状態から確認しときゃ間違いない。あっちの馬丁はマジモンの匠っすからねえ」
「これから? ここで?」
「はい」
「……あっさりと信じてくれたものですね。先も分からない、こんな時に」
「いつものことっすから」
もとより心安い質なのは知っていたが、それにしたって飾り気もない。
おそらくそれは、イコにとってはそれこそ今になって飾るまでもない、ありふれた本心だからだろうが。説得するでもなく、だからこそ喋喋と無駄口を増やしていく。
「第五部隊は生き物係。でもって、旗司誓。こんな日が来るなんて知らなかったけど、そもそも未来なんか未だ知らないとこから来るので未来なわけだから、実は分かった気になってるだけで分かったことなんか一度もないっす。明日ありと、思う心の仇桜。一寸先は闇の、来年の事を言えば鬼がワラう世の中で、こんな茶飯事にこれ以上暑苦しく意気込めるもんでもないっしょ? 愛の告白でもないのに」
「確かに」
「告白します? 愛」
「なんで僕が」
「さあ。で、します?」
どうしてこんなところで食い下がられるのかも意味不明だが、引き際も分からないので答えてやる。
「しませんよ。ンなもん。こころにもない」
「ふーん。心にも無い。なら、どこにあるんすかねえ? 愛なんて」
「ンな言葉遊びより。なんかさっきから、ちらほらチラリラと……第二部隊がどうかしたんですか?」
「どうもしてないっすよ。鶴の恩返しに、鶴のひと声を重ねただけで」
「鶴なんていませんでしょ。鳥がいないんだから」
「え? いないんすか? じゃあどうして鶴なんて言葉あるんすか?」
やりこめられたわけではないが、黙り込む。どうにも話していたくない手合いだ。謎かけじみた洒脱さに、若かりし頃の養父を思い出すからだろうが。
再度フィアビルーオへと首を巡らすと、彼はもう慣れっことばかりのぶっきらぼうさで言い切ってくる。不機嫌そうに両手を腰に置いて、とんとんとつま先で地面をタップしながら。
「要るんでしょ。どうせ。何頭だか知りませんけど」
「いや……それは……」
「伊達障泥も持ってけドロボー。イコの言い分もご尤もな上、どーせ装備なんぞ仕舞しまっとくだけ箪笥の肥やしです」
「……ええと」
自身が感じるべき際どさをこうまで切って捨てられては、何とも名状しがたい気まずさばかり募ってしまう。生やさしいにしても、どこまで甘えていいものか、シゾーとしては判断をつきかねていたのも確かだ。そもそもイェスカザ家の継承財云々といった件でさえ、口実であることは明白なのである……本来なら、シゾーを処理―――する方法が殺害か幽閉かは担当者の胸先三寸だろうが―――したあとは、ほとぼりが冷めるまで放置しておくだけで時効が来てくれる案件だ。それが最も面倒でなく、厄介事も懸念されない、当面の未来像だろう。イコについても似たり寄ったりである。仕事がてらなどと宣ってくれているが、第五部隊は革命が落着するまで基本的に駐屯しているようにと命令が行き届いているはずだし、副座であるエニイージーまで抜けている手前、主席も次席もいい顔をしたわけがない……まあそこは、イコが主席より次席より古株であるという力関係を勘案すれば押し切ることも出来ようが、後々のことまで見通しを持つなら、駄馬の雑務に手出しするより常駐業務に従事していた方が無難だ。出すだけ焼かされる手だろうに。
(なのに、なんで味方なんだ? 二人とも)
煮え切らず輪郭を人差し指で掻いていると、つかつかと間合いを詰めてきたフィアビルーオが、ぐいと背後からシゾーを押し出した―――イコの方へ。傷口に触れないよう、シゾーのズボンのベルトを掴むようにしながら。
「いいから。いーから連れてってください。要らなきゃそれまでですけど、要る段階になって略奪行為に走られると、元部下としては目覚めが悪い」
「そらまた当てずっぽうの未来視にしたって縁起の悪いことをお見通しになる千里眼をお持ちのようで」
「じゃあ目の前のこと言わせてもらいますと、ただでさえガリガリのあんたの痩せ我慢なんぞ見たくもない」
「だーもーしょーがないじゃないですか昨日今日と絶食してたの抜きにしたって昔っから骨皮筋右衛門なんですよ僕は。内心コンプレックスなんだから小言幸兵衛サンまでツッコまないでいただけません?」
「あのですねえ。言っときますけど。わたしの言う通りイイコにしてくれていたなら、こんな応酬することも無かったんですからね。ああもう。ほら。とっとと行ってしまいなさい。ドラ息子」
「ど?」
きょとんとして振り向いた、肩越しの背中の裏。
フィアビルーオが、怒張させた顔面に青筋まで浮かべながら、泡を飛ばしてきた。
「決めた。倅の名前はシゾーにします。ちょうど末尾がキサーの綴りの後継者にもなるし、これ以上の反面教師は無い。うちの子だけは、ぽっちゃり仔猫を抱っこしながら生欠伸を甘噛みしつつ粗茶を片手に暇だなーとか平凡かつ贅沢すぎる悩みを天寿を全うするまで湯水のように使えるように! シゾー・フィアビルーオに愛を込めて!」
そこにきてシゾーは、やっと気付いた。
こっぴどく叱りつけられているのだ。自分は。
「おーおー。なんだってんですか。なんか言いたそーな顔つきで。え? 言っときなさいよ。天井知らずに自惚れて図に乗ったノリの最果てで、人生を棒に振りに行くんでしょ? あンの駄々を捏ねるにしたって強情な利かん坊が肩で風を切って行っちまった百歩先まで知っときながら、五十歩あとから追っかけるってんでしょ? わっざわざ性懲りもなく、危なっかしいだけで勝ち目もない二つ目の轍を、お揃いの無駄足で踏んづけに行くんでしょ? ちみっ子どもときたら、まったく清々しいまでに親の心子知らずどころか命知らずなコンチクショウなアンチキショウばっかりだ!」
薄情な外面を投げ出した途端に真情は心頭に発したらしく、地団駄まで踏んで―――それでも相手は叱責を折らなかった。わざとらしく両耳に小指の先っちょを突っ込んで目をつぶっているイコと、そのせいで変な風に手綱を引っ張られて嫌そうに身震いする馬にまで とばっちりを食らわせながら、シゾーへと怒鳴り声を速めていく。あれよあれよの間に、びりびりとリングピアスまで震わせてくれる大音声になってしまった。
「登った木から足の甲でぶら下がってみて落っこちて二の腕を十二針も縫ってくれたうちの子と、ちっともかわりゃしない―――物心つこうがつくまいが、餓鬼どもときたら虚仮の一心でいつだって やらかしてくれるんだ! だから言いなさいよ聞き分けなく くたばりに行く前に! 大人なので聞いてやりますから!」
「俺らだって大人っすよーう。フィアビルーオの旦那ーあ」
「馬っ鹿モン!! あれもこれも見境いなく欲しがる餓鬼を餓鬼道から人道まで拾い上げ人間らしく導くために、人道の先を行き器もろとも大きく育った先生のことを大人というんだ―――親になる以外、大人になる方法はない! わたしからすれば、お前らなんぞ全員子どもだ! 猫も杓子も無責任なまま図体ばっかりトシを食わせおってからに……そのままじゃ、三十歳になっても三十歳の自分がいるだけになるぞ! 自称:女子か! 幾つになっても淑女にもなれん春眠乙女の出涸しが、市民権を得たからといって胸を張れると勘違いしおって! 年増なりにガタイが老けとるだけ みっともないわ!」
「えー? 俺ら、幾つになっても女子だけにゃあなれないっしょー。ンな、おっぺけぺーなこと言われましてもー。おたんちんなー」
「やかましい! 叶いもせん夢ばっかりでっかくしとらんと、とっとと所帯を持たんか腕白坊主ども! 猪口才にしても稚拙すぎて、見とるこっちが恥じ入ってならん!」
薮蛇だったイコにまで、容赦のない叱咤を檄とばかり飛ばしているフィアビルーオに―――
「―――背に二十重ある祝福を」
シゾーから ぽろりと零れたのは、常套句でしかなかったが。
フィアビルーオは、それでも譲らなかった。鼻を鳴らして、下からだけに鋭利な角度で一瞥をくれてくる。
「……わたしは、そいつは言いませんよ。あんたは、もう副頭領じゃない。副頭領である前の―――ただの人間だ」
―――そして、フィアビルーオもまた、そこまでだった。
歯痒い役割に肩を落として、熱を失くしつつある眸底に、祈りを宿す。そしてまた、体温で温んだ光と……やわらかな涙までも ゆるませて。
「だからこそ。言わせてもらいます」
「はい」
「いってらっしゃい。出来れば……気を付けて、無事で、帰っておいでなさい。いっしょに」
「―――いってきます」
そしてシゾーは、乗馬した。
イコに並んで、二人してもう一頭ずつ馬の手綱を取りながら、裏口より悔踏区域外輪へ踏み出す。調子を合わせてくれているイコを横目に、負傷した身体で耐えうるぎりぎりの負荷を計りながら、シゾーは馬脚を速めていった。伊達障泥があるとはいえ、ぼやぼやしていると、武装犯罪者に目を付けられる可能性が高まる―――いざという時はイコの武装を借りていいし、シゾーとて徒手空拳の覚えがないわけではない。が、それでも無益ないざこざを抱き込まないまま目的地までこぎ着けるなら、これ以上の僥倖は無い。
(家族か。最強の免罪符か。それなら俺にも、ようやく ゆるされそうな言葉が、ありそうな気がするよ。イェンラズハ)
皚皚たる雹砂の野を吹きすさぶ風。それに押し上げられては高みへと渦を巻きゆく、渺茫たる曇天。鳥もろとも閉ざされた蒼穹、そこに在る星辰―――思い出す煌めきは、この世からの去り際に、イェンラズハもまた宿した眼光。のこされたのだ……またしても。
あとにしてきたすべてに向けて、それを告げる。今ではそう出来ることを、シゾーだから知っていた。
「ありがとう、アブフ・ヒルビリ。彼に凝立する聖杯。旗司誓。どれだとしても―――確かな我が家」
そして彼は、宣言する先を変えた。
この宣言すら知らずにいる―――だからこその彼女へ。
それ自体は、別に彼女だからということもない。当然だ……人であれば、誰であれ等しく有している隙だ。超人はいない。人は不完全だ。誰しも万物を完全に理解することは出来ないし、他者の存在もまたその中に含まれている。親子であれ、きょうだいであれ、友であれ、恋人であれ、愛人であれ、蓋をして無くしたつもりになって知らんぷりを決め込むくらいしか出来ない、決定的な溝が―――隙間がある。だから、心を一つにしたところで引き金は引かれるし、心を分かち合ったとしても化けゆくものはとめられない。覗き込むだに うそざむくなる怪物の領域だ。
だとしても、そんなことは関係ない。三年より前から―――きっと、関係あるようにして拗らせることで阿漕にやり過ごしてきたのは自分だけだった。
呼びかける。在るのだから、名前を呼ぶ。誰が為なのか。それでさえ、こうなったならば構いやしない。
「お前だって、そうだ。お前だってそうなんだから……俺は、連れて帰る。連れ帰るぞ。こんな勿怪じみた家出から、連れ帰る。絶対に。シヴツェイア・ザーニーイ・アブフ・ヒルビリ。羽が生えた女だからってだけで、ア・ルーゼなんて……ア族なんて……名無し男になんて―――そんなもんに なれるものかよ、お前が! この全部を、置き去りにして!」
左耳―――リングピアスに指を掛けて、輪をねじ折る角度で万力を込める。薄緑色をした鉱石は、あっけなく砕けた。それを、無造作に背後へ投げ捨てる。これでいい。家族に背中を預けた。だから、こんなものを気にしていたのも、きっと自分だけだった。今はそれが分かる。それだから、これからは構いやしない。契約など、とうに不要なものだった。彼自身が利用していただけだったのだ。
彼は、【な】いた。失くして哭いたように。無くして鳴いたように。亡くして啼いたように。泣いた。泣く泣く、いつだってそうしてきたように、今だって心許ない叫び声を嗄らした。
だって、そうしなければ【な】いてしまうだろう人を、彼だから、ずっと見てきた。だからずっと、いつだって先に【な】いてきた。もう嫌だ、死にたい、たすけて、どうかゆるして、こんな自分なんて大っ嫌いなのは自分だって同じだから、自分だけでいい……これまで通りに、これからも。そうして、泣き虫呼ばわりされたところで―――たったの、それだけ。心に決めた。ちっぽけな力。
□ ■ □ ■ □ ■ □
「―――俺の旗幟を、信じてる?」
ひとり。牢の中で。
エニイージーは、疑った。身も世も失くして、返す言葉すら失ったのに、信じられないことに―――それを疑った。
言われた通り、心に穴が開いたのか。きっと、そうなのだろう。隙間風のように……隙間から、紡ぎ出されていく言葉を―――化けてしまった信心を、戦慄しながら、愚かしいまでに見詰め続けていた……
「なんだそれ。なんだよそれ。今更。こんなの知らない。今になって。今なのに。どうして、こんな……どうしてこうなった? 俺の旗幟って……何なんですか―――なんだったんですか? 今まで。今。そんな。俺。たすけて……たすけて、ください。どうか、たすけて……頭領―――頭領……霹靂……霹靂ザーニーイ―――?」
疾呼する。
疾呼は続く。
それでも呼んだ名に誰も【こた】えることなく、しばらくして【すべ】ての声が終わる。
「調理係が縫ってった」
返事があったこと。それにまずは驚いた。
続いて、耳が聞こえたこと。のみならず、聞き取れるような呟きを発していたことに驚いて―――だからこその返事があったのだと、知覚の堂々巡りを終える頃には、目を開いている。そのまま下を見やると、指の腹で探っていた腹筋上の刺傷部に、蝕知した通りの状態の傷跡があった。縫合痕。折り布を当てられた上から包帯が巻かれているようで、直視できたわけではないにせよ、触れ心地から……ついでに痛覚から分かる。
(調理係か。そうか―――騎獣の動脈の結紮までやれるんだから、朝飯前だよな。あいつらなら。そう言えば、こういった医療系の学から雑学まで入れ知恵したのも、元はと言えば俺か。四方山話ついでだったから、忘れてたな)
ゆっくりとシゾーは、浮かせていた頭を寝台に戻した。目を閉じて、吸気を肺腑に沈める。そして、確認を始めた。
まずは状態。呼吸、心機、思考、頗る平静。右手で左手首を取れば、脈拍にも乱れはない。姿勢は仰向けで、ズボンのポケットには赤い研磨石と財布が入ったまま。上半身は裸で手袋もバンダナもしておらず、リングピアスの感触だけが左耳朶にあり、板きれにシーツを敷いただけの寝台に寝かされていた……ただし背丈が合わなかったようで、膝から下は台より下げられ、靴底が床に投げ出されている。その感触がする。圧縮煉瓦の―――床だ。
再度、目蓋を退かす。
仰臥しているのだから、見えてくるのは天井だ。見慣れた圧縮煉瓦製の―――ただし、見慣れない天井。発作の都度閉じ込めていた例の隠し部屋に似ていたが、ここの容積はその半分も無い。上部に採光穴の開く最奥の壁際に寄せられた寝台に、自分が寝かされていた。壁の反対側―――長方形の部屋を二分する鉄格子を見やれば、それに凭れるようにしてエニイージーが座り込んでいる。施錠された格子扉がある右端ではなく左隅に寄り、足元に転がる鞘の無い短剣にも短剣に結ばれた鍵にも目もくれず、片膝を抱えていた―――もとより丸腰だったのは自分だが、エニイージーも見た限り武装解除されている。取り押さえられた際に負ったものか、顔面のあちこちに青痣を作って口の端まで切っていたが、顔つきそのものはただとにかく流暢に此処で会ったが百年目とシゾーへ独白するだけで、それ以上の情動は読み取れなかった。それ以上の情動―――
(俺にも無いけどな)
ただただ、身体が熱い。それが、物思いを干乾げてくれたのか―――落涙もろとも。そう思わないことも無い。
(どうやらそんなポエムに血迷えるくらい、血が残ってくれていたか)
それもまた確認に過ぎないのだが。奇跡にしたって奇跡的である。
刺傷が、肝臓や腎臓などの重要臓器を避けていたことそのものもそうだが、出血量とてそうだ。人間の身体において急所とならない部位は毛髪くらいで、全身のどこであろうが切れたなら出血しない箇所はないし、出血が続けばいずれ死ぬ。いわゆる急所を狙うという手管は、人体における神経系・呼吸器系・循環器系のどれかを大破することによる致死的ダメージを指すことが多いが、後者ふたつは言うなれば脳を破壊することを目的として次手ながら酸素の廻りを断っているのである―――酸素を取り込むのが呼吸器系であり、酸素を運ぶのが循環器系だが、そもそもの根幹を成すのが血液だ。一滴でも零せば一滴分であれ息が上がり、体力を落とし、精神も麻痺する。自分はそうなっていない。こうして考える余力まで残ってくれている。
顎を撫でる……無精髭の感触から目算するに、三日か四日は人事不省だったといったところか。それなのに、舌先でなぞってみた唇は切れてもいない。やや脱水には違いないだろうが、悔踏区域外輪にいながらこれで済んだのであれば、支払いにしたって釣りがくる。膀胱に尿意も感じない。
(意識がないのに、朦朧としてる浮き沈み具合を計りながら、出来る限りの飲み食いから下まで世話してくれていたのか。ひと肌脱いでくれたにしても、ありがたいな。入れ知恵した話にしたって、こんな風に世話になるつもりで話したわけじゃないのにな―――嬉しそうに聞いてくれるから喋っただけなのにな)
おそらくは術式に入る前に創部を洗浄し、術後には蒸留酒でも使って消毒してくれたのだろう。熱いながら、体感温度も感染症を起こした熱っぽさではなかった……少なくとも、十五歳の終わりに味わった奈落のどん底とは違う。どうやら、腹膜炎も起こしていないらしい。刺される前から飲食することを忘れていた手前、腸の内容物も空に近かったのだろうが、こんなところまで奇跡的だ―――その安堵に、ただひたすらに息を吐くしかない。
独りごちる。
「……翻る旗を待つ、か」
「言うまでもねえ」
それに、エニイージーが吐き捨て返してきた。床に座したまま、色褪せたみどり色のバンダナを編み込んだ髻の奥から、半眼を際どくして。
無視してもよかったのだろうが。げんなりとシゾーは、会話を継いだ。
「ひとつしか専用牢が無いにしたって、なんで俺とお前がごちゃまぜに」
「最初は俺が地下牢に入れられたんだけど、具合悪くなったから、こっちに移されただけだ」
「……どっちかと言えば、容疑的に怪しまれそうな俺の方が地下牢送りになりそうな気がするけどな」
「知るか。入れた奴に訊けよ」
「そうだな。お前には、ほかに訊たいことがあった」
眼差しだけではなく顔までもそちらに傾け、顎をしゃくって短剣を仄めかす。エニイージーの足元に放置された、まるで鍔飾りのように鍵と結ばれた白刃を。
「そいつで俺にとどめをくれてやろうとは思わなかったのか?」
「蜂じゃあるまいし。泣きっ面なんか刺せるか」
ぴた、とシゾーは固まった。
エニイージーと見合ったまま―――点になった目すら、固まった。
「…………」
「……………………」
無言の時が降り積もる。
「……………………」
「………………………………」
「…………………………………………」
「……………………………………………………」
それはもうずんずんと、もっさり積雪を増す。しつこくまったりと標高を堆くする。
こうなっては、ぎくしゃくと目を背けるにも遅すぎた。きりっと目付きを引き締めて、断言するしかない。
「これは汗だ」
「そうかよ」
「まあ確かに、心の冷や汗も混じってはいる」
「そうですかよ」
「少しだ。ちょっぴりだ。じゃっかんだ」
「そーですかよってば」
「……言いふらしたら、未来永劫に渡って後悔させてやりますからね」
「どれをですか。泣きっ面ですか汗って言い逃れですか心の汗って言っときゃ陳腐なだけで済んだものを心の冷や汗なんて半端に半ひねり失敗した(笑)のことですか。どれであれ俺の将来的ハッピー全部と引き換えって単価高すぎませんか」
欝々とキレていくシゾーに負けじとばかり、粛々と逆ギレしていくエニイージーだったが。
その歯の根が合っていないことに、その頃にはシゾーも勘付いていた。相手の顔色の変化も、牢の中に差し込む日当たりに左右されてのものではなさそうである……この檻は便所まで作られている特別仕様で要塞の三階に設えてあり、採光穴からの陽光には恵まれている。ともあれ、こうして日中であれば―――気温から推し量るに、早朝とは言い難い午前のどこかか―――、視診に障りを起こすほど暗くない。なまじ知識があると首を突っ込まずにはおれず、観察眼を研いでしまう。
「お前は寒そうだな」
「ああ。でこっぱちも熱っぽい」
「ほかに症状は?」
「喉が……痛え」
「じゃあ風邪だろう。ふたつ以上の部位に症状が渡る場合、感冒のケースが多い。なら治る。寝てろ」
「あんたは―――暑そうだな。本当に汗もかいてる」
「単なる術後の熱発だ。このまま炎症でも起こさずに済むなら、そのうち治まる。まあ治まる頃には、死刑台かも知れないが」
「しけ?」
「ああ。拷問が先か? 気晴らしに吊し上げられるだけ、まだるっこしいな。気が晴れるのもいつになるのやら」
がっと顔を跳ね上げたエニイージーが、拳を作って床を殴りつけた―――それが左手でよかった。右手ならば、そちら側に置きっぱなしの短剣に触れたついでに、今度こそ刺殺を試してくれたろう。それが邪推ではないと思える程度の剣幕で、がなり立ててくる。
「そんなことするか! 武装犯罪者とは違う―――ここは<彼に凝立する聖杯>だぞ!」
「お前にこうして刺し傷こさえられてさえなきゃあ、それも信じる論拠になったろうにな?」
せせら笑うと、目に見えてエニイージーは血色を上限まで上げた。シゾーも気性の激しい自覚はあったが、エニイージーとて相当なものである……むしろ立場がないだけ我慢した経験に乏しいのか。冷静にそんなことを考えていられたのは―――
わらっていたからだ。
(ああオカしい)
相手を可笑しく思う、自分がおかしいのか。それが分からずとも、わらえていた。
それは、そうだろう。いつだって、わらえていたのだから。こんな時でさえ、わらえる。それだけだ。
「裏切り者のくせに、なにを―――堂々と!」
エニイージーが、ただただ唾棄してくる。身の程知らずが指を差す。狂っているのはお前の方だと、愚かしくも信じて疑わず、賢いつもりでいる。
その姿を、シゾーは知っていた―――おそらくそれは、三年以上前から。三年前からは、確実に。
「裏切り者? 俺が? はっ」
腹圧のかけ方に注意しつつ、寝台から身を起こす。どれだけ横になっていたのか実際のところは知る由もないにせよ、背中に褥瘡を起こした風も無かった。よって安心して素裸の肩から腕からほぐしながら、エニイージーに対面する形で壁を背に、寝台上にて端座位を取る。
刺された脾腹を押さえつつ、シゾーは憫笑をくれてやった。とうに裏切られていた裏切り者へと。
「どこから裏だった? いつから表になっていた? お前はそれを知っているのか? エニイージー」
「なんだと?」
「表とは、裏の裏なんじゃないのか? だとしたら、裏切り者は―――ザーニーイその人だ」
「てっめえ!!」
激昂した刹那に、呼吸を腹に溜める―――そのタイムラグを見越して、機先を奪う。
「あいつが―――もう嫌だ、死にたい、たすけて、どうかゆるして、こんな自分なんて大っ嫌いだと、奥歯ガタガタ鳴らすくらい震えて みっともなく泣きじゃくりながら地べたで ひーひー喚いているのを、それと知らず見聞きしてしまったことはあるか?」
矢先。
エニイージーは確かに、殴りかかってこようとしたのだろう。実際、身構えも心構えも、激発したように見えた。出し抜けのシゾーのせりふに、どちらもはぐらかされたと感じたなら、むしろその逆上を煽り立てていたに違いない―――のだが。どれもこれも失ってしまって、ぽかんと呆ける。そして、
「はあ?」
心の底から見下げ果てた様子で、蔑んできた。
「頭領に限って、そんなことあるはずないだろ。霹靂だぞ? 嘘をつくなら、もっと騙せそうな出来にしてから、おととい来やがれってんだ」
「だからだ。俺はお前が羨ましい」
「なんだって?」
「俺はあの時、聞かなかった振りすら出来なかったよ。月経血にまみれた下穿きを脱ぎ捨てて腰を抜かしている姿に逃げ出して、ただ祈ることしか出来なかった」
「げっけ―――?」
「ザーニーイ―――あいつの本名は、シヴツェイア・ザーニーイ。先代シザジアフ・ザーニーイの連れ子で―――子どもの頃から知ってるが、今となっちゃあ……さしずめ楽園障害者だ」
「楽園障害者? 旅団ツェラビゾの?」
「ザーニーイなのに、女に生まれついてしまった。これ以上の先天的な欠陥があるか? だからこそ女だと直視させられるたび―――月経が来る都度、荒れ狂って死にかける。発作を起こす」
「持病があるって噂は……噂だろ?」
「事実として持病だろ。楽園障害だ。ザーニーイなのに女なんだから」
「女? 頭領が? なんで?」
「なんでもへっても糞もあるか。女は女だ」
こうなっては隠す気も起らず、シゾーは白状し続けた。どっちみち、これほど おあつらえ向きの舞台もなかろう。興味をそそられた聞き手がいると打ち明けやすいのは四方山話だけではないし、打ち明け話の聞き手としても、無自覚な当事者というのは絶好の憂さ晴らしになる―――本当に自覚していないが、エニイージーは当事者だ。シゾーの身からするならば―――これ以上ない当事者だった。
だからシゾーは、それを続行した。身を浮かせかけたまま、固まっている相手へと。
「しかも、俺は男だった。だのに、シゾー・イェスカザとして、ここに連れて来られてしまった。子どもだったせいで間違われて、子どもだったから契約してしまった。ゼラ・イェスカザと」
「契約?」
「シザジアフ・ザーニーイを超えろ。そう言われた」
「翁を?」
「そうだ。彼は旗司誓にいるうちに、それなりの役目を担うようになってしまった。となると、どうしても我が子だけを守備範囲に入れておけなくなる。俺は、彼の後継者として連れてこられたんだ。シヴツェイア・ザーニーイを死守する……それだけに収まらない役を担えるまでに、育てと。結局は、こうして連れて来られた止まりだったと見限られてしまったけどな。三年より前から筺底に転がり落ちて、三年前にここに戻って、今回もこのまま逃げ場所に居着けばいいと―――養父サマサマの声がするぜ」
「死守って―――なんでそこまで手厚く守護する必要が?」
「秘密があったからに決まっている。シヴツェイア・ザーニーイは後継第一階梯だ」
「…………はあ?」
さすがに、わけが分からなかったらしい。完全に話し向きに呑まれたエニイージーが、ぼてっと尻もちを崩して、完全に聞き入る体勢に座り直してしまった。分かりやすいように、言い直してやる。
「キルル・ア・ルーゼの腹違いの姉で、現国王ヴェリザハーの長子にあたる。殺されたはずのジヴィンの娘で、羽かぶり。【血肉の約定】で話題沸騰中の、本人その人だよ」
「その人? 頭領が? なんで?」
「だぁから。なんでもへっても糞もあるか」
「じゃあ、なんで<彼に凝立する聖杯>に?」
「シザジアフ・ザーニーイにしてみたら、市街じゃ暮らすうちに羽が生えてきてしまうし、なにより人の世を忍んでおくに越したことは無かったから、悔踏区域の風が届く外輪で旗司誓するのが一挙両得だったんだろ。しかも旗司誓は混血者や赤毛者も多く、血縁に頓着しない。どれもこれも、うってつけの隠れ蓑じゃないか。性別を隠したのは、念のためだろ。ただでさえ見られる顔をしているんだから、付け入れられる要素は減らしといた方がいい」
「ザーニーイは……頭領の名前だ」
「そうとも。そして、シザジアフのそれでもある。シヴツェイアとシザジアフを繋ぐために……超えるために名付けられた存在だ。ザーニーイ―――真なる意味で、唯一の……超人だ」
実際、族名はもとより家名ですら無かろう。族名は血族を、家名は継承財を証すために国へ登録される籍である。あの親子関係が義理なのは確実であるし、シザジアフが国のどこかに不動産を有していたところで、後継第一階梯が発見される危険性を侵犯してまでシヴツェイアに譲渡する意味があるとも思えない。
エニイージーが素直に動揺して、見開いた目を瞬いた。
「じゃあ、頭領が死んだっていうのは……」
「【血肉の約定】に乗っかって、彼女がシヴツェイア・ア・ルーゼでございと、後継第二階梯ごと引き渡したんだろうな。ゼラ・イェスカザが」
「あんたが、そうしたんじゃなかったのか?」
「そうしたってのは、どういう意味について言っている? あいつを王城に献納してやったことか? それとも頭領を死なせたかってことか? 前者ならノゥだし、後者ならイエスだろうな」
刹那。
着々と冷めてきていた百年の恋を ねちっこく再燃させかけたエニイージーの双眸に、シゾーは目を眇めた。鼻先で片手を振って―――こんなところまで清拭してくれたのか指紋にすら血の欠片もない―――、話の矛先をすっぱ抜く。
「単細胞な早合点してんなよ熱血ボケ。俺は別に、頭領に成り上がろうとザーニーイその人の暗殺を企たことはない。三年以上前の武装犯罪者の急襲と絡めて、盛り上がり任せに好き勝手言ってくれてる野郎もいるようだが、それとも俺は無関係だ。筺底で初めて知らされた。俺が<彼に凝立する聖杯>に帰ってきた時には、三頭政治をしてくれていたアタマ三つとも一気に失くしてオロオロうろつくしかなくなった烏合の衆しか残されていなかったさ。言ってみれば―――そうだな。いい迷惑だ」
「でも、頭領がそのあと殺されそうになったのは、確かだ。霹靂を相手に、稲妻の咬み痕を残してくれやがった……」
エニイージーは歯軋り混じりに、眦を吊り上げた。そして、口唇を裂いている生傷のように血をにじませた抗弁を、こちらへ差し向けてくる。
「それだけじゃねえ。俺は、革命を控えた晩に、頭領と逢ったんだ。ひどく疲れた様子で、偶然を装ってゼラさんを探してた。あんたに違いないんだ……あんた、三年前も、あの日も、頭領に何をしやがった?」
「女扱いして迫った」
絶句した。まあ、そんなもんだろう。
予想外でもなかったので、シゾーとしても想定内の推論を吐露するしかない。
「あいつは、革命について俺を説得したかっただけだろうけどな。疲れただろうな―――でも、俺だって疲れたさ。どこまでも平行線だと分かっていても、それでも話さずにおれないのは。ゼラ・イェスカザを捜していたのは……まあ、あの昔から変わらない童顔でも見て安心したかったんじゃないか。でもって、どうかしましたかザーニーイとでも呼びかけてもらって、子供騙しであれ自分がザーニーイであることを確かめようとでもしたんだろ。はからずも、お前が来ちまったみたいだが」
「おんなあつかい?」
「だぁから女扱いして迫ったんだよ。具体例を聞かされてギラつける童貞でもねぇだろうから省くが……色恋物語にしたって三文芝居もいいとこの、くっだらねえ駆け引きだ。隙を見ては、三年間ずっと繰り返してきた。あいつは、ここ最近じゃシカト一徹だったけどな。あいつは―――」
わらう。わらえてしまう。
―――こうなっては、なにもかもが、どこまでも、おかしい。それでも。はじまってしまった―――それを知っている。シゾーだから、わらえる。
「まったく、ひっでぇ外道さながらの醜女だよ。女なら婀娜っぽく科でもつくってりゃ得三昧できるものを、ザーニーイだからってだけで損づくしなまでにふてぶてしく身勝手で自分本位で自意識過剰で。そうやって自縄自縛の雁字搦めになるから息詰まって、毎月のように発作を起こしては死にかかりやがるんだ。また稲妻の咬み痕なんざ作られちゃ目も当てられないから、せっかく俺が絡まってるのを解くついでに真珠から女まで手ほどきしてやろうってのに、けんもほろろで見向きもしねえ」
「てめ―――!」
完全に堪忍袋の緒が切れた険相で、エニイージーが声色を迫り上げさせた―――純心さながら、純粋に。滑稽なことに。滑稽だ。
咽喉の奥底から煮沸してくるような笑殺の衝動に、シゾーは笑って嗤って哂って咲い続ける。欣幸の至りに狂い咲く本能があまりにも心地よく、上背を逸らすまま孤高から下界へ睥睨を向けた。
「なんだよエニイージー、お前マジで童貞か? どーせ旗司誓やってるうちの飛んだり跳ねたりで処女膜破れてんだ。気持ちよく使えるようになっときゃ損はない。俺だって中出ししたい時もあるしな。三年前から身嫌いが悪化したことから推察するに、武装犯罪者どもに輪姦されてたのかも分からねえが、使用済みなら使用済みらしく使い込み方を仕込むまでだ。小便漏らして気絶するまでイカせてやる。楽器弾くみてぇに簡単だ。コツさえ押さえりゃあっさり音階上げて嬌声垂らすぜ」
「この……糞野郎がア! それ以上―――!」
「それ以上―――なんだ? 喋るな、あいつを口汚く扱うなってか? ハッハァ、くっだらねえ。俺が言うまでもなく、あいつこそ汚物そのものなんだよ―――あいつ自身、これ以上なく覚えありきになア!」
沸騰しゆく意馬心猿が、せりふそのものにまで波及する。エニイージーのそれを押し返し、押し流しても、奔流は横溢し止まらない。
「頭帯とターバンで羽を覆い、厚着と襟巻きで身体中ぐるぐる巻きに隠して、口先ですら臆病者だと抜かしながら、逃れ果せたつもりでいやがって! そのすべてを知る俺に……三年前、自殺するほど追い詰められておきながら、それでも俺がいなければザーニーイでいられない! 幼馴染みで、ひよっこで、面倒を見ていられる弟分で―――俺がそれ以外の化け物だと気付いてしまえば、自分まで化けてしまっていたことに気付かずにおれないから! もう女でしかないんだと!」
―――と。
いつまでも他人面の抜けないエニイージーの幼顔に、指摘をくれてやる。腹の負傷を押さえていない膝の上の片手から、ぴっと一本指を差し伸ばしてまで。
「エニイージー。そうやって怒り狂っている以上、お前だって俺と同じだよ」
「なんだと?」
「俺は、あいつに裏切られた。三年前。信じたのに、自殺したんだ……俺が男だった、ただそれだけで、この世もろとも見捨ててくれた。お前は、あいつがザーニーイじゃなかったことに裏切られたから、それを実感させてくる俺に盾突いている。ひと皮剥けばこの様だ―――この醜さに差なんてない!」
そしてシゾーは、その指先を翻した。己の臍の横、そこを貫通した傷口へと。
「俺が生き物をぶった斬って中身を見るのを好きなのはな―――そのことが、手っ取り早く実感できるからさ。馬も山羊も牛も人も、引っ繰り返して混ぜ合わせれば見分けなんざつきやしない。生ぬるい臓物に生臭い汁をびちゃつかせて、糞尿になるまで後生大事に反吐を抱え込んでいるくせに、皮一枚突っ張りさえすれば隠し果せた気になって、見栄までハリボテのように張り出した挙句、あいつよりマシだの野郎よりイイだの抜かしやがる! ああそうだとも、それを馬鹿に出来るものか……それっくらい、とんだ馬鹿ばかりじゃねえか―――お前も俺も誰も彼も、馬と鹿ほどにも変わりやしねえ!」
そこまできて―――
さすがに疲労を覚えて、前のめりに姿勢を崩した。そのまま猫背になりかかるのを堪えて、呻く。
「エニイージー。腹を切れよ。聖水でも出て来るなら聞く耳を持ってやる」
当の相手とくれば、なにやら死にかけた金魚のように、ぱくぱくと空気を噛んでいた。面皮を膨らませていた熱気ごと、すっかり顔色を失って、息絶え絶えに呻吟してくる。
「ふざけんな……なんでここまで裏切ってくれていたあんたが、ここぞとばかりに正義面してんだよ……!?」
「どうしてそれを疑える?」
「なにを―――」
「正しい・正しくないを語るのが、どうしてお前の方だと信じ込んでいるのか? お前が被害者だと……裏切られていた、騙されていたとでも? ふざけるな―――俺からすれば、騙されたのは あいつの方だ! 我らが旗司誓<彼に凝立する聖杯>……この双頭三肢の青鴉に相応しい霹靂を寄越せと―――俺たちが欲しいのは強く気高く吟遊詩人すら謳わせるザーニーイだと、この三年間あいつに笛を吹き続けたのはお前らだろうが!!」
シゾーは、咆哮した。
慟哭していたとしても。吼えた―――
「だからこそ、たかだか毛色が違う女だったと分かっただけで、霹靂でもなかったくせにザーニーイの振りをしやがって騙したなと、被害者面ひっさげながらそんな捨てぜりふを吐きやがるんだ! どいつもこいつも雁首並べて、おためごかしに ふんぞり返りやがって! お前らさえいなければ、あいつはこうまでならなかったはずなのに!!」
「違う……」
「違わないさ。だったら、俺は臆病者なんだというあいつの口癖を、お前らが鼻で笑い飛ばし続けたのは何故だ―――お前らが、ザーニーイしか要らなかったからだろうが!! 霹靂と謳われる男が、臆病であるはずがないから!!」
霹靂。紫電を閃かせ、天射貫く鞭。
その謳い名を耳にした時に覚えた、渾身からの怒りを思い出す。恨めしい。心盲いるまで怨めしい、怒りを。
―――お前まで、ひとじゃなくなるのか。蒼炎が、お前を見捨てたように。
「エニイージー。お前は俺を非難できても否定できない。お前も俺も、人間で出来ているんだからな」
じっとりと相手へ視線を篭らせて、シゾーは今まで煮込み続けてきた腹の内が伝播していくのを、目に見えるように感じていた。腹の内。ことあるごとに煮上げ、茹でこぼし、焦げつかせ―――それはもう原形を失くした泥のような産物で、うまみも臭味も汚濁しきった混沌だった。くさく臭われ堪らない―――馨わしく香られ堪らない。もう食べるしかない知恵の果実と同じだ。だとしたら、ひときわの奇跡がゆるされた暁には、この葛藤する坩堝から うまみを引き当てることもあるのかもしれない。うまみ。それは何だ。恋か? わらう。
そうだとも。きっとアーギルシャイアだって、こうしてわらっていた。無様にもどうしようもなく、きっとそうしていた。楽園と引き換えに恋をした。
その渦中へ引きずり込まれることに、エニイージーはそれでも抵抗した―――なにも知らずにいた無防備な内側に毒牙を掛けられたことを知ってしまっているのに、ただ食い破られるのを見ているしかない忘我の眼窩を晒しながら。うそざむい虚無の顔。その表情を知っている。十三歳になる頃には失ってしまった、シゾー自身の生き写しだ。
「……なんなんだよ。なんだってんだよ、あんたは……あんたが―――あんたが、こうさせて回ったくせに! 全部……全部だ! 因果応報のくせして、なんで胸を張ってるんだよ!」
こげ茶色をした両目は、まだ幻滅していない。その拠り所を守ろうとしてか、涙液まで膜を張り出しているようだが、無駄な抵抗だ―――どうせ絶望するのに。
「今の話だと……三年前! あんたがここにいたら頭領は武装犯罪者に拉致されなかったし、だったら死にかかることもなかった! なら、発作を悪くすることだって、なかったんだ! だったら革命もきっと上手くいっていたし、そしたら頭領も俺たちもなにも変わらずに―――!」
「なにも変わらず」
繰り返す。
それが息の根を止める致命傷だったとでも言わんばかりに、ぎくりと呼吸を途絶させたエニイージーに、シゾーは淡々と酷評を差し込み続けた。打ち留めるつもりで。
「お前が求めているのは結局のところザーニーイという霹靂でしかないなんて、自白にしたって今更だな。俺が散々論ったところだろう」
「違う。俺は、そんなことを言いたいんじゃない……」
「じゃあなんだ? 三年より前から変わり映えもせず、俺がとんでもない愚か者だってことか?」
一笑に伏して、畳み掛ける。
「愚かだろうさ。あいつを自殺するまで押し拉いでおきながら、それからもその怯懦と劣等感につけ込んで、肌身離さないでいられなくなるまでシゾー・イェスカザらしく振る舞って―――それでも確かにそのことに どす黒い背徳感と興奮と、快楽に愉悦を重ねるしかなかった三年間だ! 絶望しない日はなかったよ……自分自身にも、そしてすべての根源であるシヴツェイア・ザーニーイにも! それは、あいつだって同じだ―――」
―――お前まで、ひとじゃなくなるのか。蒼炎が、お前を見捨てたように。
シゾーはあの時、そのように当人へと尋ねはしなかった。そうするまでもないことだった。
「同じだった。だからこそ、霹靂になった。俺から、お前らに乗り換えようとしたんだ! 例え死刑に処されたとしてもザーニーイとしてなら上等だと、革命を実行してまで―――俺を、裏切った! あいつがいたから俺もここにいたのに! 裏切りやがった!!」
誰もが誰もを裏切っている。絶望した背約者しかいない。こうまでこの世は楽園だ。死ねばいいのに、ただ産まれ落ちただけで肉体は生きていく。油断も隙もない神も仏もない失楽園で、味も素っ気もない時間の流れに圧倒されながら、身も蓋もなく脆弱な骨と怠惰な肉を腱で繋いで汁を溜め、縁もゆかりもない他者へ痛くも痒くもないと振る舞いながら、くさいものには味噌も糞もなく蓋をする。根も葉もなく、引き金が引かれることにおびえながら……自分こそ、引き金に手をかけているかも分からないから。引き金を引く―――それを試てしまうかもしれないから。そして、心見て、心満てしまうかも分からないから。だとするなら、己こそが化け物だと知れてしまうから……隙間ある怪物領域を、こわがる。こころない未知を―――こわがる。
こころ―――
「エニイージー。覚えているか。俺はお前が、いつか殺意も無いのに人を死なすと言ったよな。心は晴れたか? 気分はどうだ? ザーニーイを殺した気分は。霹靂は死んだ。お前も殺した。あいつを殺した」
「やめろ……」
「なあ教えてくれよ。俺はそれを知ってるんだ……今日が来る日を、三年も夢見てきた気がしてるんだ。なあ、きょうだい―――こうなりゃ穴兄弟みたいなもんだろう。なあ。勝手にザーニーイさんに首っ引きの首ったけになった者同士じゃねえか。でもってこの様だ。様ァ見ろよ。あいつは頸に大穴、俺は腹に風穴、お前は―――ぽっかり心に穴が開いたか? え? 教えてくれよ……」
シゾーは、問いかけた。問いかけ続けた。さながらそれは―――こたえられるまで。
「刺してくれた時、お前は言ったよな。俺だってよかったじゃないか、あいつの隣にいるのは……って。今でも―――こころから、そう思えるか?」
返事はない。それが、こたえだ。
シゾーが三年前に、済ませた―――ただし、同質にして、同一にして、正逆の……それだ。
立ち上がる。ふと血が下がる感覚に、目玉の奥が押し付けられるような違和感を覚えるが、数秒で持ちこらえて――― 一歩を踏み出した。二歩目のために。三歩を進んで、四歩目を踏む。行く。
ぎょっと後ずさろうとしたエニイージーが、短剣を蹴った。ちゃり、とそこに結ばれた鍵が弾む。ちょうど足元まで転がってきたそれを、シゾーは床から掴み取った。鍵の方を。
「どこへ―――行く?」
「お前と違って、俺は三年前に決めたんだよ。とっくに。俺は。決めたんだ」
「なにを?」
こたえようとして、言葉に詰まる。
こたえずともよいのだ……堪えないよう、応えずとも、答えなくとも、ゆるされるのだ。ふと、そう心に過ぎる。阿呆な質問をしてくる愚か者を避けて、賢く生きていく。知恵があるのならそうして構わないし、それを選択することが悪と言うわけでもない。分かっている。
ただし、格好悪いことに気付いてしまえば選べないだけだ。シゾーだから、もう蒼炎を持ち越すつもりはない。
「決まってるでしょう。あんたには決められないことですよ」
告げる。
「がたがたと好き嫌い抜かせて、ブルーまで入ってくれるような余地のある贅沢者には……決められないことですよ」
と、やっかみまで余計に付け加えてから。
「あの人はね。肩肘張って格好つけて、調子づいて飲んだくれた次の日に煙草ふかしながら二日酔いのドタマぐらんぐらん揺らして、その脳天を僕に はたかれてコケにされてりゃいいんです。それでいいんだって、僕が決めたんです。こんなもん、たったそんだけ。だから僕は……あるんだから、居場所に行きます」
シゾーは、辿り着いた鉄棒に手を掛けた。格子のドア。開き直って、それを開ける―――
その時だった。
「はあ。はい。成る程。細かい内情はともかく、ざっくばらんながら、あらましは察しました」
そうして横槍を入れてきたのは、のんびりとした声だけではない。
ここは、奥に長い部屋の中ほどを鉄格子で区切るかたちで牢となっているのだが、その格子向こうには番人用のスペースがとられている。調書やら休憩やらを取ることが出来るように、椅子と机が―――自供しやすくするよう圧迫感を軽減するためなのか うたた寝しても勘付かれないようにするためなのかは知らないが―――牢の中からの目線を遮る、壁で仕切られた向こう側に。部屋の見通しを縦半分隠して廊下へのドアを見えなくしているその衝立じみた壁の向こうから、にょっきりと片足が出た。ついで、そのまま座っている椅子をがたがたと横着に引きずって、カニ歩きするように横滑りざま、全身が出てくる。反転させた椅子の背凭れに腕組みを乗せ、座面を跨ぐように腰掛けた、壮年がかりの旗司誓だった。
私服の足だけでは誰だか分らなかったが、腕を隠して背凭れまで垂れ下がった大ぶりのネッカチーフを見れば……正確には、その藤色がかった布地で威勢よく翼を広げる双頭三肢の青鴉の小豆色(言い表すと色合いが矛盾しているが、実際そうなのだからしょうがない)を見れば、嫌でも知れる。第一部隊だった。その次席。名を―――
「フィアビルーオ」
「の、キサーの方です。わたしは」
「弟は?」
「外です。ゴタゴタしてますもんで、部隊を分割して、とにかく体制維持に死力を尽くしているところで。ゼラ一主の問答無用の存在感と圧力が失せた反動で、第一部隊まるごと甘く見やがってくる舐めたチビスケどもに、自治と統治の価値を叩き込んでやらないと」
あっさり言われ、ふとシゾーは立ち尽くした。不意に知らされた養父の遁走については納得しかないが、そのせいで別のことが―――副頭領の悪癖であれど―――気にかかる。ついでに興ざめしたような気分にも後押しされて、つい尋ねた。
「ジャヌビダに任せていいんですか? あの直情径行型短気に。外」
「わたしの方が向いているという自認はありますが、それ以上に弟はここ向きじゃない。双子でも気構えがこうまで違うと、不公平感は否めませんね。聞き耳を立てる牢番と、手出しすることも辞さない保安官なんて、どっちみち味方から敵視を向けられるのには違いないですが、筺底の蒼炎が相手とくれば前者の方が損な役回りだと思えてならない―――と、さっきまでは信じていましたが。その顔つきを見ると、疑ってもゆるされるようだ。あ。ちなみに、あんたをこっちの檻送りにしたのは、わたしの判断です」
「……ちなみついでに。なんでですか? それ」
「素人判断ですが、怪我人なんか地下牢に入れたら、一発で病がかって死ぬでしょ。ここなら掃除もしてあるし、まだマシかと」
「まあそれでも第二部隊ほどには行き届いていないみたいですけどね。ったく、最近当番に当たった旗司誓がどこの隊なんだか知りませんが、見習ってくださいっての」
「あ。第二部隊で思い出しました。食ってください、これ」
と、席を立ち、いったんフィアビルーオが奥に引っ込んだ。そして、机の上にでも置いてあったのだろう鍋を持ち出してくる。両手持ちの寸胴鍋だ。蓋の上に、深皿とスプーンが乗せられている。器用なことに、右手の甲の上に取っ手の片方を乗せるようにして、下を向かせた五指では水を注いだコップを吊っている。
気負うでもなく、いつもどことなく眠そうな黒瞳―――この目付きで兄か弟か見分ける賭け事が流行したことがある―――をシゾーに向けながら、のそのそとフィアビルーオは歩み寄ってきた。牢の右端……要は、格子扉を挟んで、シゾーの真ん前まで。
「エニイージーはもう済みなんで、食えるだけどうぞ。あいつらからの差し入れです」
言いつつ、フィアビルーオは格子の間際に、鍋と皿を並べて置いた。右手のコップも横に置くと、スプーンごと鍋の蓋を持ち上げる。
「―――うわぁ」
知らず知らず、シゾーは歓声を上げていた。格子に取りつくようにして座り込み、笑んでいることも知らず、ただただ鍋の中身に見惚れてしまう。
角煮だった―――大好物の。ぶつ切りにした肉を丁寧に下茹でしてから、香辛料と調味料だけでなく木の実や果物まで加えて甘辛くした煮物である。糖蜜まで入れてくれたのか、とろとろとした汁がてらりと光っていた。まだ温かい。湯気が香る……あまじょっぱい あぶらの においに、溶けた果肉の花のような香味が絡んで、顎の裏が痛むほど唾が湧いた。傷の痛痒を忘れるほど、腹の虫が動くのを感じる。
「ありがたい。本当に、これは―――」
「食えそうなら、一杯目よそっちゃいますね」
顔を見れば分かったのか、えらい大盛にしてくれた深皿に、取り分けたスプーンを突っ込んで、格子扉下の食事口から入れてくれる。水を満たしたコップもだ。
その場に胡坐をかいて、短剣に付いた鍵をわきに置き、シゾーは皿を持ち上げた。赤ん坊の拳骨をぷっくり膨らませたような肉の塊は、スプーンの先で押せば崩れるほど軟らかく、いい具合に溶けた果物やナッツを纏わりつかせて色艶を溢れさせている。たまらず、すくって頬張った。うまい。文句無しに、うまい。<彼に凝立する聖杯>の規模が増すにつれ、こういった手間暇が掛かる料理は調理係の道楽と見なされることが多くなり、食べる機会が減っていたのだが。腕を落とすどころか、上げてくれていたらしい。
(ありがたい。本当に)
ひと口ひと口、ひと言ひと言、噛み締める。
消化にいいものをとの心配りもあって、揚げ物などではなく、角煮にしてくれたのだろう。だからと言ってあまりがっついても負担だろうが、それでも食欲はあるだけ止まらない。すぐに呑み下したがる胃袋を自制するべく、咀嚼する回数を三十ずつカウントしながらスプーンを運んでいると、フィアビルーオが話しかけてきた―――椅子まで戻るどころか、体勢まで先程と同じような自堕落さに落ち着けて。
「にしても。今のアレコレで納得がいきました。道理で<彼に凝立する聖杯>の土地屋敷の登記がイェスカザ家なのに、あんたが名乗ってるわけだ。先々代までは頭領職と共に継いできた記録があったのに、ここ二世代すっとばしたのが何でなんだか疑問だったんですよ……イェスカザ家は、ツェネヲリー氏から一足飛びに、あなたに渡ったんですね。あなたは正確には、ツェネヲリー・イェスカザと縁組みしたんだ」
「そうです。僕が来る直前まで存命していたと聞いています。養父は―――ゼラ・イェスカザは、その名を語っていただけで。まだ名前があるやら何やらと、当時は嘯いてくれてましたよ。呪文みたく……となえあげたら、なにが起こるのかって」
ひと段落してコップの水で口を濯ぐと、シゾーもまた多弁を積んでいく。こんな場面では漫談のようだが―――毒を食らわば皿までだ。
「いくら旗司誓とはいえ、探られたくない腹を抱えた異国の特殊技能者が、イェスカザ家の正当な後継者になろうなんて―――養子に登録されようなんて、危険な轍は踏み出せない。だから僕が契約者になりました。それも契約のうちでしたから。そのことを、ザーニーイさんは特に疑問視していなかったみたいですけど……あんたは気付きましたか」
「まあ、出発点が違いますから。頭領にとってみればイェスカザ・ファミリーは最初から義理の親子というパッケージで閉じていたから疑うも何も無かったんでしょうが、わたしのような遅れて来た外様者からすると、胡散臭いこと限りないズブズブした結託っぽかったし。着眼点となると、また別ですが」
「着眼点?」
「ええ。隊員として有り体に言うなら、ゼラ一主の立ち居は、ちぐはぐしていると思えたもので」
疑問符を転調させたシゾーの目線と入れ違いに、フィアビルーオが目を逸らした。気まずさからではなく単に自分の古い記憶を追いかけて、くすんだ黒髪の合間からどこへともなく上の方へと、似通った色合いの瞳をうろつかせる。
「第一部隊の主席でありながら、賽を振るだけの立場に徹底的に隠遁して、表向きには一切出ようとしなかった。まあ基本的に第一部隊は直接現場仕事に赴く仕事内容じゃありませんから、その辺はテキトーに納得するにしても―――対外戦力として大規模な魔術を使うなんて、見たことも無い。内政圧力として示すくらいで……でもそれなら、外政圧力として大っぴらに振るってくれたっていいじゃないですか。実際、以前はそうだったんでしょう? 急に、しかもこうまで他人の目から逃げ隠れし出したのは、何でなんだろうかと思ってましたよ」
「フラゾアイン混じりの練成魔士なんて、もともとが目立ちすぎる人ですから。可能な限り、木を隠してくれる森の中にいたかったんでしょう。魔術を使わなくなったことについては、特に……三年前からですね。後頭部を負傷した後遺症か、組織として連携した戦法が定着してからは魔術を投入することによる弊害の方が大きいと見たか、そもそも戒域綱領制定後に武装強盗旅団もいなくなり大規模戦闘そのものが撲滅傾向となったせいか……と、僕は類推していたんですが。こうなっては、三年前には企てくれていたんでしょうよ―――こういった事態を」
「もしや暗黙だった女人禁制が正式に布かれたのも、あんたらがここに居着いてからですか? それとも、噂のジンジルデッデ先翁の計らいですか?」
「だと思いますが、僕が知る限り、確立したのはシザジアフの代からと言えるでしょうね。本当に彼は、秘蔵っ子こを猫可愛がりしていましたから……ジンジルデッデの代から頭領職を手伝わせる名目で、平仕事どころか外仕事へ派遣するのも最低限に絞っていた。あの人が決闘を受ける相手ですら、確実に勝ちを拾える格下を選別していたくらいです。そりゃ、あのゲテモノ妖怪に叩き上げられたなりに、生半可なチンピラどもより腕が立つのは事実ですが―――『霹靂』の謳い名はあくまで戒域綱領に端を発しての賛美であって、それに連戦連勝記録が腕っ節まで箔を付けてくれたってのが実情なんですよ」
「イェスカザ・ファミリー。赤毛でも貴族でもないあんたらが、あとは受け継ぐ価値があるとするなら<彼に凝立する聖杯>の不動産くらいかなぁと思っていたら―――あんたらですか。翁たちの……爺ちゃん婆ちゃんの、父ちゃん母ちゃんの のこしてくれた……あんたら二人ふたりの幼馴染みですか」
「…………―――」
黙り込む。それは単に、角煮を完食した最後のひと口を味わっていた最中だったこともあるし、おかわりしても問題ないか体調に耳を澄ましていた頃合いでもあったし、そうすることで誤魔化したいせりふでもあったからだ。
どの腹積もりをどのように見積もったものか。フィアビルーオは突き放すような物言いを、冷めた目許に上乗せしてくる。
「悪いですけど。わたしは、あんたらとは心中しませんからね。おおよそ頭脳労働だけで食いつなげる給金の安定した旗司誓なんて、滅多に無い職なんです。錦を飾れた故郷の家は、今じゃ村一番の学習院だ。わたしはもう<彼に凝立する聖杯>の旗司誓以外になるつもりはない」
「悪くはないでしょう。じき三人目が産まれるって聞いてます」
「……もう産まれました。玉のような男の子で、弟が出来たと上の姉妹ふたりして喜びっぱなしだと。そのうち手土産つきで顔を見に行くつもりでいます」
えらく歯切れ悪くなった語り口に、シゾーはずっぱりと斬り込んだ。別口から。
「手土産なら買うんでしょうから言わせてもらいますけど、アンタこっそりザーニーイさんから祝い金もらってますよね。大事に使ってくれなさいよ。あれ実のところ僕のへそくりですから」
「マジですか」
「マジですよ。あの人<彼に凝立する聖杯>が軌道に乗り出した頃から出し惜しみせず使っちまうようになったから、いつだってキレイさっぱり金欠で。しかも無駄遣いしない僕がいるのを知っての確信犯。あーもーますますコンニャローウ」
余計なヒートアップまで持て余して、どんよりと半眼を崩しながら、名残惜しくしゃぶっていたスプーン―――無念ではあるが二杯目はおあずけにしておこう―――を、がちがちと噛む。
フィアビルーオも、シゾーと同じくらいには頭が痛いといった渋面で眉根を揉んでから、ため息をついてきた。
「ともかく。行くなら、<彼に凝立する聖杯>の副頭領職を辞してください。でもって―――イェスカザ家の資産を<彼に凝立する聖杯>に明け渡す手続きとか、色々なんとかしてきてください。シェッティの箱庭で」
「……フィアビルーオ?」
「それまでは、旗であれ短剣であれ、こっちで預かっときますんで」
呆けてしまう―――のだが、構わず声はやってくる。シゾーへのみならず、続けざまに、もう一人へも。
「二言を抜かしてくれるなよ、エニイージー。これは、お前のためでもあるんだ―――ここにいても構わないが、死にたがるなよ。お前の旗幟を信じているからな」
椅子から腰を上げたフィアビルーオは、こちらへ来ると、床から鍋を持ち上げた。
その頃にはシゾーも、スプーンを乗せた皿と空コップを手に、格子扉を開けて檻の外へ出ている。屈身したまま―――そうしないと通れないサイズなのだ―――その場で迷ったが、開錠してある扉だけを閉め、格子の間から鍵付きの短剣を中へ抛った。エニイージーは尻子玉でも抜かれたように呆然自失して床にへたり込んでいるだけで、視界さえ視認しているか怪しいところだが。
(絶望するだけで死ねる世界―――か)
そうだ。予てより異端の夜叉は物語る―――畢竟ここは楽園ではない。すげ替わる世界で、細胞単位で一秒一分ごとに死にながら個体として一日一年と生き延び、結果として巨人化する不死者―――ヒトという種族―――は螺旋の系譜を行く。無限の円環は開かれた。極が存在しないと言うのであれば、生と死もまた等価となった。それを禁忌としていた設定は解脱した。生と死は正逆でありながら、同質であり同一である。いつまで生きようが、どこで死のうが同じことだ―――
(ざっけんな。馬ッ鹿馬鹿しい)
シゾーは、扉とエニイージーに背を向けた。立ち上がる。
正面。それを待っていたらしいフィアビルーオが、スプーンの乗った深皿とコップを、シゾーの手から取り上げた。それらを机に置いたのと入れ違いに、畳まれた布の層を押し付けてくる。広げるまでもない―――手拭いと、シゾーの上着である。原色ではない、純然たる私服だ。探してくれたのだろう。
「汗かいてるうちは着せない方が無難だろうって、預かってました」
「ありがとうございます」
「んじゃあ、汗ふいてもらって、着たら行きますか」
と言うわけであるから、ひとしきり拭き終わったシゾーが上着に袖を通したので、行くことになった。らしい。
廊下に出れば、いつもと変哲の無い要塞の通路が、縦横に伸びている。圧縮煉瓦の無骨さ、天井の低さ―――自分にとっては―――、嵌め殺しにされている窓と、その硝子板の曇り具合。この牢は三階の最奥にあるので、このまま歩いていけば自分の部屋を通りすがることになる。誰もいない。こんな観察を済ませることが可能なくらいだから、騒動らしい騒動の殺伐さもない。
どれもこれもが疑わしく、ふとシゾーは立ち止まった。並んでいたフィアビルーオが、頭ひとつ下から見上げてくる。
「どうかしました? 歩いたから傷に響きました?」
「いや、なに―――翻る旗そのものを取り上げられて檻からお役御免になるのは、古今東西でも、俺が初めてだろうなと」
「さいですか」
どこまでも興味が無いようで、態度も合いの手も兎角すげない。
だからこそシゾーとしては、首を捻らざるを得なかった。それを正直に問うてみる。相手がいつも通りの口調なので、自分までそれに倣いながら。
「にしても、分かりませんね。僕をしばき倒したいのは、エニイージーだけじゃないでしょう? <彼に凝立する聖杯>が、どんな事態になってるのか……目が覚めたばかりの僕でも、さすがに想像できますよ?」
「どう想像してるんです?」
「どうって……」
もったいつけられたのではなかろうが、なんとなく馴染まない問答の雰囲気にひるんで、シゾーは回りくどく有耶無耶にした。
「最悪の事態です。違いますか?」
「はい。違います。ですから、わたしはあんたらとは心中しないと言いました」
「はい?」
「混乱はあります。波紋も広がりました。それでも、我々は旗司誓でいられている……暴徒と化すまでの情報が無いので停滞しているとも言えますし、第二部隊の魚心あれば水心が会心の一撃だったのもありますが。ともかく、それだけ安定性を保っているんです。保てるようになったんですよ―――たかだか、この三年で」
(魚心あれば水心? 第二部隊の?)
引っかかりはするが、フィアビルーオは都合よくシゾーのそんな顔色ばかり見落として、さっさと残りのせりふを遂げた。
「誰だって我が身が可愛いんです。旗司誓もそう―――旗司誓として、旗司誓の身分が可愛いと思えるくらいに価値を持ち、その価値観がここまで浸透した。あんたらくらい裏切ってくれたところで、平常運転可能な程度にはね」
「……―――」
「そもそも、【血肉の約定】だか【血肉の義】だか知りませんが、革命なんて大それた夢物語に現を抜かすようなヤキが回ったリーダーなんて、こっちから願い下げですよ。わたしらは旗司誓らしく暮らしていけるならそれでいいのであって、旗司誓であることに命懸けになったりしたくないし、旗司誓だからって論拠で当たり散らして断罪したくなるほど傾倒も礼賛もしていない」
そこまできて―――
つと、言い足してきた。腹の生傷を押さえているジト目のシゾーから、さっと目角を避かしつつ。
「エニイージーを除いて」
「うわ通じた」
「ですから。そのサブリーダーまで自らお払い箱になってくれるなら、これ以上の安心はありゃしません。美学や大義にリードされるのは安全圏まででいい……あくまで余興として。それが平和だ。平穏だ。掛け替えの利かない―――変わらぬ替わらぬ代わらぬ換わらぬ―――かわらぬ日常だ」
「張本人を目の前に、随分ずけずけと言ってくれますね」
廊下に立ちんぼしたまま、苦汁を呑まされる思いに眉間の幅を狭めるのだが。フィアビルーオは、今度こそ真正面から斜視を厳しくした―――後ろ暗いところもなく、あけすけに仁王立ちして。
「本音と建前に関係なく語れる懐があっちゃいけませんか? 社員なら社訓に命を捧げろって? 給料のために働いちゃいけないってんですか? 生まれちまった人生だから酸いも甘いもある分は仕方なく引き受けるにせよ、そこそこ平和で幸せに長生きしたいなーってのぞみさえ、旗司誓だったら禁止ですか?」
降参して、シゾーは軽く両手を上げた。
「いいえ。のぞむなり祈るなり、たすけるなり ゆるすなり、ご自由に。旗司誓であるなし無関係に、僕だって、いつだってそうしてきました」
「いつものように、いつもの為に?」
「―――そうですね」
ふと―――鼻白んでしまう。
言われてみれば、そうだった。言われるまで、気付きもしなかったが。
「のぞんだのも祈ったのも、たすけたのも ゆるしたのも、その為だったのかも、知れませんね……」
そして。叶ったことはあったのか?
あったのだろう。奇跡は無くとも―――それと同じ何かなら、あったと思えた。だからこそ三年前、自分は<彼に凝立する聖杯>に戻った。帰って来た。過去も行いも取り戻せないにしても、すげ替わるようにして のこされたすべてを、シゾーだから知っていた。だからこそ、今日までこれを続けてきた。誰の為にだか、そんなことさえもう分からないとしても。続けてきた―――
「―――本当に、誰の為になんでしょうね?」
手を下げてかぶりを振り、歩調を取り戻す。とぼとぼと。フィアビルーオが、それに合わせてくれた。結局どの部屋にも立ち寄らず、やっとこさ二階まで下りて、一階へと続く階段へ向かう。
抜糸もしていない縫合痕は突っ張るものの、一歩ごとに膝を折ってくれるような激痛でもない。どうやら体幹とほぼ垂直に刃先が穿孔してくれたらしく、傷の丈も親指程度で済んだようである―――考えてみれば気を失ったのも、限界まで達していた腹の底そのものをナイフで貫かれるというショックが極り手となって内面から下界をシャットアウトしてしまったのだろう。手厚い看護を受けながらの食っちゃ寝は、相当に体力を回復させてくれていた。心根まで吐き出したせいか、寝込むまえより頭もすっきりしている。
歩きながら、シゾーは口を開いた。隣り合うフィアビルーオへと。
「辞表は、副頭領の執務机の引き出しです。勝手に受理してください。三年くらい前から置きっぱなしです」
「武装は? 斬騎剣なら、誰も動かしてないと思いますが」
「あんなイカレ鍛冶師のヤケクソ極まった骨董品、副頭領でもしてなけりゃブン回す価値ないです。しかも今の状態でンな腹圧かけようものなら、ナマ肌の縫い目はじけたとこでおかしくありません。フィアビルーオ、アンタそのワタ拾って突っ込んでくれますか?」
「兄だろうが弟だろうがフィアビルーオ家総員辞退させていただきますよ、ンな役回り。エニイージーの腸ただもれ説が流れてきた当初からゲェなのに、その再現ドラマで藪医者するなんて」
「ともあれ。斬騎剣は―――置いていく。あれはイェンラズハの墓標だ」
「墓標?」
こちらと似たような苦り顔を刻んで、顎に梅干し模様を浮き上がらせていた彼だが。それを解くと同時に、不意にこちらの言葉尻を捕らえてくる。
こたえるでもないが、シゾーはそれについて、口を割った。昔語りに、自然と素の喋り方に戻りながら。
「出征する前、ジンジルデッデが……これを、星明りが当たる屋上の倉庫の上に、隠して置いていった。俺はあそこに登ったから、それを知っていた。だからこれを奪ったし、奪った日から使い込んできた。武器として―――墓標にさせてたまるかと。意地でも」
「どういうことですか?」
「基本的にこの国において埋葬されるのは、無二革命にルーツを持つ者……貴族や旗司誓だが、疫病による死者は、火葬する取り決めとなっている。イェンラズハは火葬された。遺骨も遺灰も撒かれたが、本来の意味で雹砂に帰れなかった―――翁に、なれなかったんだ。だからだと思うが、ジンジルデッデもまた、雹砂に帰らないような、冥途を行く道を選んだ。戦争に参加した。八年前になる。人員を出せとの召集令状もあったんだろうけどな」
推知が混ざることに尻すぼみになりかかるが、感情がそれを押しのけた―――暗く、静かながら、怒声を接ぐ。
「俺は、ゆるせなかったよ。そりゃあイェンラズハが宿るとしたら、空っぽの雹砂じゃなく斬騎剣だろうさ。だからって、あとはひい・ふう・みぃとやってくる流れ星を待っているだけでいいなんて余生を剣にまでくれてやるロマンに陶酔して、あいつを置き去りにしやがった、あの女が……ゆるせなかった。俺は男だ。ジンジルデッデは女だったのに、それなのに あいつを―――置いていった。イェンラズハを選んだんだ。女だから。こうまで……あいつとは、正反対なことに」
「そいつはどうなんですかね?」
「なんだと?」
面喰らわされて、自然と握りしめていた拳までも緩めてしまってから、シゾーはフィアビルーオへ振り向いた。真横にいる彼は、前を向いたまま、歩くテンポすら変えないが。
言ってくる。
「恋愛なんて所詮、性欲の美化表現じゃないですか。程度の差はあれ、我欲を直視したくないからなりの着飾りでしかないから、嘘も混ざるし、言い訳も出る。副頭領。さっき、頭領が泣きじゃくっていたって言ってたでしょう……女になったのが嫌だって。それってもしかして、女なのが嫌だった先例が身近にいたからじゃないですか?」
「―――なにが言いたいんです?」
「ジンジルデッデ先翁こそ、女である自分が嫌いだったんじゃないですかね」
そして、単純な見識だとばかりに、訥々と明かしてきた。
「だから自分のことを、デデ爺なんて呼ばせていた。女を焼き剥がされたからこそ、イェンラズハ先翁のもとに いられた。彼からジンジルデッデと呼ばれて、名付けられて、初めて―――相棒に、なれた。相棒だから、最後の最後まで、相になっていたかった。流れ星と剣でも。愛だの恋だの抜きに。そうなんじゃないですかね? 確かにロマンチシストだし、イェンラズハさんを選んだのには違いありませんが―――そりゃ太刀打ちできないでしょう。相棒なんだから。対じゃないと」
「…………」
「いえね。男と女で、よく似たふたりを知ってるんですよ」
と断ってから、フィアビルーオがやれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせる。大仰な吐息すらして前置きを終えると、ぐだぐだと駄弁ってきた。
「そいつら、毛も生えてない時分から知ってるなりの、ぎゃあぎゃあと意地を張り合いっぱなしのマブダチ同士でね。んで、女だ男だって大人たちから勝手に線引きされ始めた頃合いに、まあそんなもんかと、男の方から男らしく女だからと割り切って扱い出した。そしたら、相手はドン引きして。なんで勝手に、やり直そうとしてるんだと。ふたりでやってきた今までは、そんなもんだったのか。軽んじてくれるにしたって、めっちゃくちゃ頭にくるってね」
聞いてしまえば、これもまた腑に落ちるしかない。
シゾーは、得心した。そうするより、ほかなかった。どうにも神妙になってしまう。
「―――ああ。まあな。そうか。そう、です……よね」
「そうそう。そっくりそのまま副頭領と同じように呆けましたよ。わたしもあの時」
「あんたの実話ですか!?」
「まあ、こーなったらカミングアウトしますが。今、わたしが通い婿してる先の家内です。結婚してるとは断固として認めません。旗司誓ですから」
「いやまあ、そこらをややこしくしたがる来歴は僕も掬さないではないですが、ぶっちゃけ休みの使い方が帰郷なのか旅行なのかくらいの違いだからどーでもいいですし、ちゃんと勤めてくれるんなら引き続き辞めてくれなくていいですけど。つーか僕からして辞めるんだから本当に元も子もない話だなコレ」
なんとはなしに副頭領口調まで復活させて、しみじみと口にする。
「よくもまあ……結婚までこぎ着けたもんですね。仲。そこから。聞くだに多難そうなんですけど」
「頑張りましたよ。それしかなかったし。とにかくマブダチの位置は確保したまま、でも男と女ならではの楽しみや面白さもホラこんなにって、あの手この手で外堀から埋めるよーにコツコツと涙ぐましく二年くらい。あいつときたら、わたしに見合うなりの疑り深さと頭がある以上に、女だてらの勘も冴えていたものだから、一向にキツネとタヌキの化かし合いでしたが」
「……そこまで入れ込むほどイイ女なんですか?」
「いんや。わたしにとって掛け値なしの相手が、たまたま女性だっただけです。でも会わせませんからね、副頭領には。あいつはどうしたって女だし、わたしや家庭に不満がないわけでもないだろうし」
「……ひょんなことから浮気するかもってことですか?」
「そうです。嫌なことに、あんたは若々しくて見栄えがいい男です。言ったでしょ? こんなもん、どう表現を変えたところで性欲です。欲があるそれ自体は、在るんだから、どうしようもないし……人の巡り合わせってのは、一事が万事、運と縁とタイミングだから。小細工だろうが手回しだろうがします。わたしとしては、わたしなりに家族を守りたい」
「誰だって、そうでしょ」
「いいえ。誰とも、少しだけ違います」
やっと一階まで繋がる階段に行き着いた。
そこを先行しながら、フィアビルーオが断言を続行してくる。
「キサー・フィアビルーオは、この世で、わたしだけしかいない。だからこそ、このフィアビルーオを表札にしてくれた相棒と、我が家を守る。そうしていることがゆるされるうちは幸せでいられるなら、ふたり揃って、やれるように頑張ってみる。フィアビルーオ家の一員としてね」
「んで、妻を僕から遠ざけます宣言ですか。そんなもんですか」
「そんなもんですよ。これだって―――運と縁とタイミングだ。頭領の決まり文句でしたでしょ? これ」
「もとはイェンラズハの口癖でしたよ」
「へえ? そうとは知らず」
「でしょうね。別に知らせたこともないし」
片手を壁に沿わせながら、シゾーも階下へと一歩ずつ下りていく。無駄にギミックの多いこの館は、階段の高さまでそれぞれ計算ずくの上ずらされているため―――こうやって稼いだ数センチ単位の空隙が隠し部屋や仕掛けに化けてくれるのだからマニアの酔狂は底知らずだ―――、登るより降る方が転びやすい。フィアビルーオの悪口雑言ではないが、こんなところで腸をただもれにするわけにもいくまい。
下り切るまでの間に合わせに、シゾーは話題を引き継いだ。
「運だけなら、無くしたら終わりだ。縁だけなら、切れたら終わりだ。タイミングだけなら、見失ったら終わりだ。運と縁とタイミングを混ぜ合わせれば……腐れ縁だ、と。腐っても糸を引いて残ってくれる縁なんて、血縁よりも運命の赤い糸よりも逞しいってね」
「まるで家族のようですね」
「だから増えたんでしょうよ。<彼に凝立する聖杯>も。ここまで。あーあ。まったく。どいつも、こいつも」
投げやりに、嘆息する。受け入れて、認めるしかない―――これは、そういった話だ。産まれ落ちたなら生きていくしかないことと同様に、シゾーが特別なわけでも、シゾーだからその資格があるというものでもない。それでも、自分だから、することがある。出来る、出来ないではない。するのだ。夢想でも、無謀でも、無理でも―――少なくともそれは、死んでしまったシザジアフには不可能なことだ。
(……こんなことで―――超えてしまうものなのか。俺は。彼を)
むなしい。むなしさしかない。
だからこその激情に駆られて、シゾーは歯を食いしばった。無言で、絶叫を咬み殺す。
(……こんなことを―――のぞんでいたはず、無いだろう。彼が。義父さん、あなたこそ彼を―――シザジアフを裏切った! 裏切ったんだ! どこから、いつから、どうして、あなたは……そうなったんですか! あなたは―――)
問いを雄叫ぶ。虚空へ……祈るような心地で。祈りであるなら、届かない。奇跡はない。神はいない。どれもこれも、分かり切っている現世の不備だ。楽園は失われた。
だとしても、そんなことは関係がない。
呼びかける。言葉ある限り、呼びかけを―――続ける。
(―――裏切っただけじゃない。あなたは、今も裏切っています。あなた自身もを裏切っているんです。僕はそれを知っています。息子でした。あなたを見て育ちました。ザーニーイさんと並んで、あなたたち二人の父の背を見ながら育ちました。だから、それを知っています。こうまで知らせておきながら、あなたは―――!)
こうすることでさえ、誰が為なのか。知らずとも、我知らず、それは続く―――
(こうまで、あなたを裏切らせたのは―――何なのですか? とうさん―――)
―――ふと。
いつしか一階の廊下にて、フィアビルーオが先を進んでいる。いつの間にやら、それについていく構図となっていたシゾーは、やっとそれに気づいた―――相手が向かっているのは正面ではなく、建物の裏手側だ。裏庭へ抜ける勝手口からシゾーを行かせる算段なのだろう。誰とも擦れ違わないように、道順も選んでくれているようだ。まあ真実、現時刻が飯時を過ぎた午前であったなら、要塞の内部に居るのは ほぼ第一部隊の者だろうから、フィアビルーオがシゾーについている以上は看過してくれるだろう―――事務系統の第二部隊の者なら居るかもしれないが、部屋から出るのは便所くらいだ。
(城の勝手口を出たら、そのまま城壁の裏門から外へ抜けろ。そんなとこか)
裏門より外は墓場だし、勝手口から裏門までの間に横たわる裏庭からして屠殺場と境目がないので、好きこのんで居座る物好きもいない。小休止するのに丁度いい陽だまりスポットなど、グラウンドにも中庭にも まだまだ残されている。今以上に<彼に凝立する聖杯>の規模が大きくなれば、その限りでもなくなるだろうが―――そもそも、こんな上を下へのてんてこまいの最中で、休みを取る者などおるまい。真逆に、永遠に休むために<彼に凝立する聖杯>を辞職する者なら出ているだろうが。
勝手口なので、正面の玄関ほどの幅も高さもない。せいぜい、棺桶を通すくらいの大きさだ。フィアビルーオですら首を折って潜り抜けたそこを、シゾーも辞儀をするようにして通る。見えてくるのは、辛気臭く群れた雑木と、雑木すら生えない雹砂溜まり、そしてそれに蹄が取られるのを嫌そうにしている馬の脚。
(馬の脚?)
地面から、顔を上げる。
そうして風景を確かめたシゾーがしたのは、己が正気であるか疑うことだった。信じられずに、だからこそそれを、相手に頼る……つまりは、名前を呼んだ。
「イコ・エルンクー?」
「ども。副頭領。背の二十重ある祝福に。結構お元気そっすね。なによりで」
あっけらかんと頷いて。
槍を背に、剣まで佩いた緑色の旗司誓は、いつもながらの簡易敬礼をこちらへ遂げようとしたようだが、四頭分の馬の手綱を両手一杯にしていたことで、それを中断した。確かに職務を思えば義理も湧くので、一応は断っておく。
「辞めてきたところですよ」
「あれま。そいつはお疲れさんでした。じゃあ単なる旅の道連れってこった。よろしゅう頼んます」
「旅の道連れ?」
「世は情けですからねえ」
勝手にしみじみと情感に耽るイコに期待せず、シゾーは凝視をフィアビルーオへ転じた。乞う気配に敏く―――その割に、なにやら説明文そのものが不服といった風に、彼は口許をもごもごさせながら、
「どんぴしゃと言うか何と言うか―――あんたとエニイージーが長ったらしく怒鳴り合ってる裏で、都合と話を付けました。こいつと、この馬らで、シェッティの箱庭まで行ってください」
「革命の時に、馬車を牽かせた四頭ですか」
「です。旗幟や馬車もろとも返却されてきました。<彼に凝立する聖杯>の伊達障泥以外の馬装は、農村から馬を買い取った時に、怪しまれないよう丸ごと購入したものです」
それを聞いて思い出したのは、もっともらしい養父のせりふだった―――砂育ちの騎獣は箱庭へ入れませんし、そもそも敵意がないことを示さなければならないのに、荒事慣れした馬躰をさらして王城に乗り込む気ですか?
(あいつは正装なんだから軍用馬と護衛犬を揃えようと拘っていたが、ゼラ・イェスカザはそれすら棄却した。そうさせなかった。今にして思えば、こうやって駄馬を用意することさえ罠だったんだろう。どこまでも入念に戦力を削いだ。シヴツェイアからザーニーイを引き剥がすために)
だがそのおかげで、自分がこうして轡を手中にしている。皮肉なものだ。その渋味みに口の中を浸されて、思わず顔を顰めてしまう。
どうやらその変化を勘違いしたらしく、ちらと目を上げてフィアビルーオが付け加えてきた。
「こんな見た目ですが。鞍も鐙も使い込まれてるだけで、乗ってくだけなら不便はないと思いますよ。まあ伊達障泥をさせ慣れていないだけ融通の利きが悪いかも分かりませんが、こればっかりは四頭とも装備して凄味利かせとくくらいで丁度いいでしょ。イコはどうあれ、あんた無手で行くみたいですし」
「武器なんて何を持ち出したところで、旗司誓を辞めたんなら、どうせ箱庭の検問で没収ですから。いや。それはいいんですけど」
「けど。なんです?」
「なんでイコと? 四頭も連れて?」
自然に質問が、イコへ向かう。
返事はこうだ。
「俺は仕事がてら、シェッティの箱庭で休暇を取りたくて」
(いやがったよ休み取る奴いやがったよ旗司誓で)
けろっと答えて来るかと思えば、まさかこう来るとは。
こんな読みにまで裏切られてやたら凹みそうになるものの、どうにか肩をコケさせるだけで受け流して。シゾーは、イコの根っから軽いトークを聞いていた。
「第二部隊のブッタマゲーションなんか見せられたら、王冠城のお膝元でも、なぁんか面白え晴れ舞台のひとつやふたつ観劇できっかも知れないじゃないっすか。今この時に物見遊山しない手はないっしょー。ちょうど箱庭回りのキャラバン見逃しちまったし、他に休み合いそうな奴もいなかったし、ひとりで馬を四頭連れて外輪から警戒環まで抜けるなんて向こう見ずに挑もうとも思えなかったんで。乗馬が得意な同伴者が連れてくれるんなら、こりゃもう渡りに船っすわ」
「仕事というのは?」
「そりゃあ、こいつらも、これからここで俺らが使うように仕込んでいくんなら、まずは畑や野道じゃなくて雹砂を踏ませ慣らしとかにゃあいけないっしょ。伊達障泥についても、騎手についてもそう。勝手違いに馴染ませないと。でもって箱庭に預けるついで、蹄鉄から健康状態から確認しときゃ間違いない。あっちの馬丁はマジモンの匠っすからねえ」
「これから? ここで?」
「はい」
「……あっさりと信じてくれたものですね。先も分からない、こんな時に」
「いつものことっすから」
もとより心安い質なのは知っていたが、それにしたって飾り気もない。
おそらくそれは、イコにとってはそれこそ今になって飾るまでもない、ありふれた本心だからだろうが。説得するでもなく、だからこそ喋喋と無駄口を増やしていく。
「第五部隊は生き物係。でもって、旗司誓。こんな日が来るなんて知らなかったけど、そもそも未来なんか未だ知らないとこから来るので未来なわけだから、実は分かった気になってるだけで分かったことなんか一度もないっす。明日ありと、思う心の仇桜。一寸先は闇の、来年の事を言えば鬼がワラう世の中で、こんな茶飯事にこれ以上暑苦しく意気込めるもんでもないっしょ? 愛の告白でもないのに」
「確かに」
「告白します? 愛」
「なんで僕が」
「さあ。で、します?」
どうしてこんなところで食い下がられるのかも意味不明だが、引き際も分からないので答えてやる。
「しませんよ。ンなもん。こころにもない」
「ふーん。心にも無い。なら、どこにあるんすかねえ? 愛なんて」
「ンな言葉遊びより。なんかさっきから、ちらほらチラリラと……第二部隊がどうかしたんですか?」
「どうもしてないっすよ。鶴の恩返しに、鶴のひと声を重ねただけで」
「鶴なんていませんでしょ。鳥がいないんだから」
「え? いないんすか? じゃあどうして鶴なんて言葉あるんすか?」
やりこめられたわけではないが、黙り込む。どうにも話していたくない手合いだ。謎かけじみた洒脱さに、若かりし頃の養父を思い出すからだろうが。
再度フィアビルーオへと首を巡らすと、彼はもう慣れっことばかりのぶっきらぼうさで言い切ってくる。不機嫌そうに両手を腰に置いて、とんとんとつま先で地面をタップしながら。
「要るんでしょ。どうせ。何頭だか知りませんけど」
「いや……それは……」
「伊達障泥も持ってけドロボー。イコの言い分もご尤もな上、どーせ装備なんぞ仕舞しまっとくだけ箪笥の肥やしです」
「……ええと」
自身が感じるべき際どさをこうまで切って捨てられては、何とも名状しがたい気まずさばかり募ってしまう。生やさしいにしても、どこまで甘えていいものか、シゾーとしては判断をつきかねていたのも確かだ。そもそもイェスカザ家の継承財云々といった件でさえ、口実であることは明白なのである……本来なら、シゾーを処理―――する方法が殺害か幽閉かは担当者の胸先三寸だろうが―――したあとは、ほとぼりが冷めるまで放置しておくだけで時効が来てくれる案件だ。それが最も面倒でなく、厄介事も懸念されない、当面の未来像だろう。イコについても似たり寄ったりである。仕事がてらなどと宣ってくれているが、第五部隊は革命が落着するまで基本的に駐屯しているようにと命令が行き届いているはずだし、副座であるエニイージーまで抜けている手前、主席も次席もいい顔をしたわけがない……まあそこは、イコが主席より次席より古株であるという力関係を勘案すれば押し切ることも出来ようが、後々のことまで見通しを持つなら、駄馬の雑務に手出しするより常駐業務に従事していた方が無難だ。出すだけ焼かされる手だろうに。
(なのに、なんで味方なんだ? 二人とも)
煮え切らず輪郭を人差し指で掻いていると、つかつかと間合いを詰めてきたフィアビルーオが、ぐいと背後からシゾーを押し出した―――イコの方へ。傷口に触れないよう、シゾーのズボンのベルトを掴むようにしながら。
「いいから。いーから連れてってください。要らなきゃそれまでですけど、要る段階になって略奪行為に走られると、元部下としては目覚めが悪い」
「そらまた当てずっぽうの未来視にしたって縁起の悪いことをお見通しになる千里眼をお持ちのようで」
「じゃあ目の前のこと言わせてもらいますと、ただでさえガリガリのあんたの痩せ我慢なんぞ見たくもない」
「だーもーしょーがないじゃないですか昨日今日と絶食してたの抜きにしたって昔っから骨皮筋右衛門なんですよ僕は。内心コンプレックスなんだから小言幸兵衛サンまでツッコまないでいただけません?」
「あのですねえ。言っときますけど。わたしの言う通りイイコにしてくれていたなら、こんな応酬することも無かったんですからね。ああもう。ほら。とっとと行ってしまいなさい。ドラ息子」
「ど?」
きょとんとして振り向いた、肩越しの背中の裏。
フィアビルーオが、怒張させた顔面に青筋まで浮かべながら、泡を飛ばしてきた。
「決めた。倅の名前はシゾーにします。ちょうど末尾がキサーの綴りの後継者にもなるし、これ以上の反面教師は無い。うちの子だけは、ぽっちゃり仔猫を抱っこしながら生欠伸を甘噛みしつつ粗茶を片手に暇だなーとか平凡かつ贅沢すぎる悩みを天寿を全うするまで湯水のように使えるように! シゾー・フィアビルーオに愛を込めて!」
そこにきてシゾーは、やっと気付いた。
こっぴどく叱りつけられているのだ。自分は。
「おーおー。なんだってんですか。なんか言いたそーな顔つきで。え? 言っときなさいよ。天井知らずに自惚れて図に乗ったノリの最果てで、人生を棒に振りに行くんでしょ? あンの駄々を捏ねるにしたって強情な利かん坊が肩で風を切って行っちまった百歩先まで知っときながら、五十歩あとから追っかけるってんでしょ? わっざわざ性懲りもなく、危なっかしいだけで勝ち目もない二つ目の轍を、お揃いの無駄足で踏んづけに行くんでしょ? ちみっ子どもときたら、まったく清々しいまでに親の心子知らずどころか命知らずなコンチクショウなアンチキショウばっかりだ!」
薄情な外面を投げ出した途端に真情は心頭に発したらしく、地団駄まで踏んで―――それでも相手は叱責を折らなかった。わざとらしく両耳に小指の先っちょを突っ込んで目をつぶっているイコと、そのせいで変な風に手綱を引っ張られて嫌そうに身震いする馬にまで とばっちりを食らわせながら、シゾーへと怒鳴り声を速めていく。あれよあれよの間に、びりびりとリングピアスまで震わせてくれる大音声になってしまった。
「登った木から足の甲でぶら下がってみて落っこちて二の腕を十二針も縫ってくれたうちの子と、ちっともかわりゃしない―――物心つこうがつくまいが、餓鬼どもときたら虚仮の一心でいつだって やらかしてくれるんだ! だから言いなさいよ聞き分けなく くたばりに行く前に! 大人なので聞いてやりますから!」
「俺らだって大人っすよーう。フィアビルーオの旦那ーあ」
「馬っ鹿モン!! あれもこれも見境いなく欲しがる餓鬼を餓鬼道から人道まで拾い上げ人間らしく導くために、人道の先を行き器もろとも大きく育った先生のことを大人というんだ―――親になる以外、大人になる方法はない! わたしからすれば、お前らなんぞ全員子どもだ! 猫も杓子も無責任なまま図体ばっかりトシを食わせおってからに……そのままじゃ、三十歳になっても三十歳の自分がいるだけになるぞ! 自称:女子か! 幾つになっても淑女にもなれん春眠乙女の出涸しが、市民権を得たからといって胸を張れると勘違いしおって! 年増なりにガタイが老けとるだけ みっともないわ!」
「えー? 俺ら、幾つになっても女子だけにゃあなれないっしょー。ンな、おっぺけぺーなこと言われましてもー。おたんちんなー」
「やかましい! 叶いもせん夢ばっかりでっかくしとらんと、とっとと所帯を持たんか腕白坊主ども! 猪口才にしても稚拙すぎて、見とるこっちが恥じ入ってならん!」
薮蛇だったイコにまで、容赦のない叱咤を檄とばかり飛ばしているフィアビルーオに―――
「―――背に二十重ある祝福を」
シゾーから ぽろりと零れたのは、常套句でしかなかったが。
フィアビルーオは、それでも譲らなかった。鼻を鳴らして、下からだけに鋭利な角度で一瞥をくれてくる。
「……わたしは、そいつは言いませんよ。あんたは、もう副頭領じゃない。副頭領である前の―――ただの人間だ」
―――そして、フィアビルーオもまた、そこまでだった。
歯痒い役割に肩を落として、熱を失くしつつある眸底に、祈りを宿す。そしてまた、体温で温んだ光と……やわらかな涙までも ゆるませて。
「だからこそ。言わせてもらいます」
「はい」
「いってらっしゃい。出来れば……気を付けて、無事で、帰っておいでなさい。いっしょに」
「―――いってきます」
そしてシゾーは、乗馬した。
イコに並んで、二人してもう一頭ずつ馬の手綱を取りながら、裏口より悔踏区域外輪へ踏み出す。調子を合わせてくれているイコを横目に、負傷した身体で耐えうるぎりぎりの負荷を計りながら、シゾーは馬脚を速めていった。伊達障泥があるとはいえ、ぼやぼやしていると、武装犯罪者に目を付けられる可能性が高まる―――いざという時はイコの武装を借りていいし、シゾーとて徒手空拳の覚えがないわけではない。が、それでも無益ないざこざを抱き込まないまま目的地までこぎ着けるなら、これ以上の僥倖は無い。
(家族か。最強の免罪符か。それなら俺にも、ようやく ゆるされそうな言葉が、ありそうな気がするよ。イェンラズハ)
皚皚たる雹砂の野を吹きすさぶ風。それに押し上げられては高みへと渦を巻きゆく、渺茫たる曇天。鳥もろとも閉ざされた蒼穹、そこに在る星辰―――思い出す煌めきは、この世からの去り際に、イェンラズハもまた宿した眼光。のこされたのだ……またしても。
あとにしてきたすべてに向けて、それを告げる。今ではそう出来ることを、シゾーだから知っていた。
「ありがとう、アブフ・ヒルビリ。彼に凝立する聖杯。旗司誓。どれだとしても―――確かな我が家」
そして彼は、宣言する先を変えた。
この宣言すら知らずにいる―――だからこその彼女へ。
それ自体は、別に彼女だからということもない。当然だ……人であれば、誰であれ等しく有している隙だ。超人はいない。人は不完全だ。誰しも万物を完全に理解することは出来ないし、他者の存在もまたその中に含まれている。親子であれ、きょうだいであれ、友であれ、恋人であれ、愛人であれ、蓋をして無くしたつもりになって知らんぷりを決め込むくらいしか出来ない、決定的な溝が―――隙間がある。だから、心を一つにしたところで引き金は引かれるし、心を分かち合ったとしても化けゆくものはとめられない。覗き込むだに うそざむくなる怪物の領域だ。
だとしても、そんなことは関係ない。三年より前から―――きっと、関係あるようにして拗らせることで阿漕にやり過ごしてきたのは自分だけだった。
呼びかける。在るのだから、名前を呼ぶ。誰が為なのか。それでさえ、こうなったならば構いやしない。
「お前だって、そうだ。お前だってそうなんだから……俺は、連れて帰る。連れ帰るぞ。こんな勿怪じみた家出から、連れ帰る。絶対に。シヴツェイア・ザーニーイ・アブフ・ヒルビリ。羽が生えた女だからってだけで、ア・ルーゼなんて……ア族なんて……名無し男になんて―――そんなもんに なれるものかよ、お前が! この全部を、置き去りにして!」
左耳―――リングピアスに指を掛けて、輪をねじ折る角度で万力を込める。薄緑色をした鉱石は、あっけなく砕けた。それを、無造作に背後へ投げ捨てる。これでいい。家族に背中を預けた。だから、こんなものを気にしていたのも、きっと自分だけだった。今はそれが分かる。それだから、これからは構いやしない。契約など、とうに不要なものだった。彼自身が利用していただけだったのだ。
彼は、【な】いた。失くして哭いたように。無くして鳴いたように。亡くして啼いたように。泣いた。泣く泣く、いつだってそうしてきたように、今だって心許ない叫び声を嗄らした。
だって、そうしなければ【な】いてしまうだろう人を、彼だから、ずっと見てきた。だからずっと、いつだって先に【な】いてきた。もう嫌だ、死にたい、たすけて、どうかゆるして、こんな自分なんて大っ嫌いなのは自分だって同じだから、自分だけでいい……これまで通りに、これからも。そうして、泣き虫呼ばわりされたところで―――たったの、それだけ。心に決めた。ちっぽけな力。
□ ■ □ ■ □ ■ □
「―――俺の旗幟を、信じてる?」
ひとり。牢の中で。
エニイージーは、疑った。身も世も失くして、返す言葉すら失ったのに、信じられないことに―――それを疑った。
言われた通り、心に穴が開いたのか。きっと、そうなのだろう。隙間風のように……隙間から、紡ぎ出されていく言葉を―――化けてしまった信心を、戦慄しながら、愚かしいまでに見詰め続けていた……
「なんだそれ。なんだよそれ。今更。こんなの知らない。今になって。今なのに。どうして、こんな……どうしてこうなった? 俺の旗幟って……何なんですか―――なんだったんですか? 今まで。今。そんな。俺。たすけて……たすけて、ください。どうか、たすけて……頭領―――頭領……霹靂……霹靂ザーニーイ―――?」
疾呼する。
疾呼は続く。
それでも呼んだ名に誰も【こた】えることなく、しばらくして【すべ】ての声が終わる。
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