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鍵とその先の光
しおりを挟む第一章 扉の向こう
何も見えない。
闇は深く、空間さえも曖昧に飲み込んでいた。時間も音もない。まるで世界が忘れ去られた場所のようだった。
けれど、確かにそこに気配があった。
彼は立ち尽くしていた。目の前には、黒くて分厚い、異様なほど重厚な扉。見ることはできなかったが、感じ取れた。巨大で、冷たく、閉ざされたその存在。指先を伸ばすと、空気が微かに震えた。音はしないが、彼にはわかっていた。
——この扉の向こうに、息子がいる。
そのことだけは、疑いようがなかった。姿も声もないのに、たしかな「存在」が、心の深い場所を締めつけた。
「……開けなければ」
彼はそう呟いた。
だが、鍵がない。どこにも見当たらない。もしかすると、初めから持っていなかったのかもしれない。
扉を叩く。爪がかけるほど叩いても、無反応だった。叫んでも、声は闇に吸われるように消えていった。
焦りと絶望が胸を締めつける。
このままでは、もう二度と会えない。そう思った瞬間、闇の中にふっとひとつの影が現れた。
それは人のようで、人でないようでもあった。ただ、どこか優しげな声でこう言った。
「私は、鍵の場所を知っています。……教えてあげましょうか?」
彼は瞬きを忘れていた。喉がからからだった。
「……お願いします。教えてください」
「その代わりに、あなたが持っているすべての食料をください」
彼は迷わなかった。躊躇いなく持っていた袋を差し出した。手にしていたパン、果物、保存食の類――この世界で生命をつなぐ最後の手段。それをすべて、影に渡した。
すると影は、淡く光る小さな地図を彼の掌に置いた。
「鍵はここにあります。でも……あなたがそれを手にしても、まだ扉は開きませんよ」
彼が地図を辿ろうとしたその時、また別の声が闇に割って入った。
「あなたが困っているようですね。……私は、この扉の鍵を作れます」
男の声だった。落ち着いた口調で、確信に満ちていた。
「ただし……あなたの全財産をください」
彼は迷いそうになったが、もう戻れなかった。
扉の向こうに、あの子がいる。
あの小さな手、小さな声、無垢なまなざし……それらが、ただ存在するというだけで、生きる理由だった。
「……全部、持っていってください」
その瞬間、男は何も言わず、光の粒で編まれたような銀の鍵を彼の手に渡した。
手が震えた。
鍵を差し込む。
重々しい音とともに、扉は、ゆっくりと、息をするように開いた。
闇の向こうに、光が差していた。
その光の中に、小さな人影が立っていた。あの子だ。間違いない。懐かしい、でもまるで夢の中にいるような、ほほえみを浮かべていた。
彼は駆け寄り、思わずその体を抱きしめた。温かかった。確かに、息をしていた。涙が止まらなかった。こぼれて、こぼれて、それでも溢れて止まらなかった。
その時、彼は知った。
大切なものを取り戻すには、自分のすべてを差し出さなければならないのだと。
扉の向こうには、愛があった。
それは、何よりも確かな真実だった。
第二章 階(きざはし)の先へ
光の中、彼はしばらく息子を抱きしめたまま動けなかった。
温もり。鼓動。柔らかな髪と、小さな腕の力。
「もう、大丈夫だ」
そう心の奥で何度も繰り返しながら、胸に確かな実感を刻んでいった。
やがて、その光がゆるやかに変化し始めた。眩しさは薄れ、代わりに景色が少しずつ輪郭を取り戻していく。
目の前に、石造りの階段が現れた。どこまでも続く、静かで、重厚な階段だった。
「行こう」
彼は息子の手を取った。けれど、歩き出そうとしたそのときだった。
——その上に、彼女がいた。
懐かしい姿。変わらない微笑み。
ゆったりとしたワンピースに身を包み、肩までの髪が柔らかく揺れていた。
彼女は、何も言わずに手を差し伸べていた。
その手は、あたたかい光に包まれていた。
彼は足を止めた。息子もまた、彼女に気づいたのか、小さく「ママ……?」と囁いた。
「……君だったのか」
喉の奥で、声が震えた。
あれから、いくつもの夜を越えてきた。
記憶の中で、何度も手を伸ばして、何度も届かなくて、それでも忘れられなかった姿が――いま、目の前にいた。
彼女は一歩、また一歩と階段を下りてくる。その動作は夢のように静かで、世界のすべてが彼女を見守っているようだった。
そして、彼と息子の目の前で、膝をついて微笑んだ。
「おかえりなさい」
その一言だけで、全身の力が抜けていくのを感じた。
彼は彼女の手を取り、そしてもう一度、声にならない想いを胸に抱いて、階段を見上げた。
まだ、その先には何かがある。
愛しい人が待っていたその階段の先には、きっとまた試練がある。けれど、もう怖くはなかった。今度は――三人一緒だから。
「行こう。みんなで」
彼女はうなずき、息子も笑った。
家族の手が、初めてひとつに重なった。
そして、三人はゆっくりと階段を上り始めた。
その先に何があるのか、誰にもわからない。けれどその歩みは、迷いのないものだった。
光は彼らの足元を優しく照らしていた。
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