ほろ酔い坂の向こう側

つくねこだま

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第五夜

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思いのほか仕事が早く終わった2月の末。
年度末を前に、まだ余裕があるうち、と
少し早めに退社した。

いつもより明るい時間に電車に乗ると、
罪悪感のような、またわくわくするような感じがする。

古本屋に寄り、駅の蕎麦屋で天ぷらそばをすする。
夕食にはまだ早かったけれど、今日はこれで寝てしまおう。

なんだかんだで、暗くなってからいつもの公園を通る。
通り過ぎる真新しいベンチは、何も語ることはない。

ふと、歩道に面した公園の端―。
大きな桜の木がなくなっていた。

別に毎年、花見をしていたわけじゃない。
特に深い思い入れがあるわけでもない。

でも、春夏秋冬を過ごす中、
この桜を愛でながら通勤していたことは事実だった。

物悲しい、冷たい空気が胸に広がる。

花びらの絨毯や、柔らかい葉桜の色に
何度も目を奪われたことを思い出す。

いてもたってもいられなくなった。
少し駅よりに戻り、リカーショップに駆け込む。
冷えた炭酸水とキルシュを小脇に抱え、
公園に戻ってきた。

キルシュの蓋を開ける金属音が、
炭酸水の蓋を開ける破裂音が、
誰もいない夜の公園に響く。

追悼、というにはおこがましい。
プラスティックのコップではあまりに安すぎる。
でも、今日はそんな気分だ。

切株のそばに座りながら、
キルシュソーダをひと口―。
爽快な炭酸と、桜の香りが鼻を抜ける。
思わず目を閉じた。
微妙な苦みとともに、濃いアルコールが
喉を滑っていく。

ずっと、ここにいたよなぁ。
そんなふうに思いながら、切株をなでる。

真新しい切り口。細かなおがくず。生木の香り―。

キルシュの二口目。さわやかな旨み。
と、突然目の前に桜の花びらが舞い上がった。
視界が桜色の壁に覆われる。

一瞬目を閉じ、再び開けると―そこは公園ではなかった。

思わず立ち上がる。

ここは…?

大きな桜の木の下で、むつまじく語らう老婆、娘、手をつなぐ孫の笑顔。
また桜吹雪。
たくさんの人が集う花見の饗宴。その楽しそうな声。
また桜―。 
桜花の下、ベンチに寄り添うカップル。
大きな堀を一面に染める桜の花びら。 
はるか昔より、接ぎ木をする植木職人たちの汗と談笑。 
代々受け継がれてきた旧家の敷地の大桜。 
春の祭りで人々が集う桜のトンネル。 
そして、一つの公園から広がっていった、
同じ始まりを持つ無数の桜たち―。

桜吹雪のたびに、各地の、それぞれに息づく桜たちが
目の前に現れては消えていく。

そしてまた、一陣の風が、桜の花びらを巻き上げ、吹き抜ける。

気がつけば、夜の公園。
切株は、ほんのり木の香り。

街灯がチカチカと明滅している。

そうか。
悲しみだけじゃないんだ。
たくさんの桜が、いたるところに広がっているのだ。 

心の物悲しさは、だいぶ和らいでいた。

残ったキルシュソーダを飲み干す。
鮮烈な、しかし心地良い風のようなものが
体をなでていく。

物言わぬ桜の切株。

しかし春は、また確実にめぐってくる。

おしまい
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