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第1話:雨夜の出会いと、消えた小さな命
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雨音が窓を叩く音で、私はぼんやりと目を覚ました。埼玉県草加市にある、築15年のマンションの1DK。ここが、雨宮雫(あまみやしずく)、26歳の私の城だ。都内のオフィスまで毎日1時間半揺られて通う日々は、もう5年目になる。
部屋の中は、相変わらずシンとしていた。数ヶ月前までは、ここには温かい賑やかさがあったのに。15年間、私の人生のほとんどを一緒に過ごしてくれた愛猫のミーコが旅立ってから、この部屋の時間は止まってしまったかのようだ。窓辺にはミーコが好きだった猫用ベッドが、壁には一緒に撮った写真が、今もそのまま飾られている。それらを見るたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、涙が滲んでくる。ペットロス、という言葉では片付けられないほどの深い喪失感が、私を支配していた。
その日も、降り続く雨の中、重い足取りで会社からの帰り道を歩いていた。傘を叩く雨音だけが、やけに大きく耳に響く。マンションのエントランスまであと少しというところで、植え込みの陰から、か細い鳴き声が聞こえてきた。
「…みゃあ…」
足を止め、恐る恐る覗き込むと、そこにいたのは手のひらに乗るほど小さな仔猫だった。泥と雨でぐっしょりと濡れ、寒さで震えている。その姿が、元気だった頃のミーコと重なり、私はたまらず駆け寄った。
「大丈夫…?しっかりして…!」
仔猫は、ほとんど抵抗する力もないのか、私の手に弱々しく体を預けてくる。その小さな温もりが、私の凍りついた心を少しだけ溶かしてくれるような気がした。
見捨てることなんて、できるはずもなかった。私は仔猫をそっとハンカチで包み、急いで自分の部屋へと連れ帰った。
温かいタオルで体を拭き、スポイトで少しずつぬるま湯に溶かした粉ミルクを飲ませる。最初は飲む力もなかった仔猫が、私の必死の看病に応えるように、ほんの少しだけ喉を鳴らした時、私は思わず涙がこぼれた。
「よかった…生きてる…」
その夜、私は仔猫を腕の中に抱いて眠った。久しぶりに感じた、小さな命の温かさ。その日から、私の止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き出したような気がした。
仔猫に「ハル」と名付けた。春のように温かい出会いだったから。そして、私の心にも、もう一度春が来てほしいという願いを込めて。
ハルは、驚くほどの速さで元気を取り戻していった。最初はヨタヨタとしか歩けなかったのに、数日もすると部屋の中を興味深そうに探検し始めた。私が仕事から帰ると、小さな体で一生懸命に玄関まで迎えに来てくれる。その姿を見るたびに、私の心は温かいもので満たされていった。
「ただいま、ハル。いい子にしてた?」
そう言ってハルを抱き上げると、ゴロゴロと喉を鳴らして私の頬に小さな頭を擦り付けてくる。その仕草が、たまらなく愛おしい。
部屋には久しぶりに笑顔が戻り、ミーコの写真に話しかける回数も減っていった。ハルがいる。それだけで、私の毎日は彩りを取り戻し始めていたのだ。
ハルを保護してから、一週間が経った朝。
いつものように「ハル、おはよう」と声をかけながらリビングへ向かった私は、異変に気づいた。いつもなら、私の足音を聞きつけて駆け寄ってくるはずのハルの姿がない。
「ハル…?どこにいるの?」
部屋の中を探し回った。ベッドの下、ソファの隙間、カーテンの裏。昨日まで使っていた小さな猫用ベッドも空っぽだ。窓は閉まっているし、玄関の鍵もかかっている。どこかへ行ってしまうなんて、ありえない。
でも、どこにもいない。
私の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。
「ハル!ハルってば!」
名前を呼んでも、か細い返事はない。まさか、また…。
あの、ミーコを失った時と同じ、絶望的な喪失感が、私を再び暗い淵へと引きずり込もうとしていた。
「どうして…どうして、ハルまでいなくなっちゃうの…?」
床に崩れ落ち、私は声を上げて泣いた。やっと見つけた温もり。やっと動き始めた時間。それらが、また音を立てて崩れていく。
信じたくなかった。でも、ハルがいないという現実は、あまりにも残酷に私の目の前に突きつけられていた。
どれくらい泣き続けたのだろう。涙も枯れ果て、ぼんやりとした頭で窓の外が白み始めているのを眺めていた。
もう、何もかもどうでもいい。そんな虚無感に包まれながら、私は力なくベッドに倒れ込んだ。
――翌朝。
重い瞼をこじ開けると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいるのが見えた。相変わらず、心は鉛のように重い。それでも、会社へは行かなければならない。そう思って体を起こそうとした瞬間、私はベッドの上に、何か大きなものの気配を感じた。
(え…?)
恐る恐る、隣に視線を向ける。
そこにいたのは、私が昨日まで必死で探していた小さな仔猫――ハル、ではなかった。
代わりに、私のベッドのすぐ隣で、静かな寝息を立てていたのは……見たこともない、美しい少年だったのだ。
歳の頃は、18歳くらいだろうか。少し癖のある、銀色がかったアッシュブロンドの髪が、白い枕にさらさらと流れている。長い睫毛に縁取られた整った目鼻立ち。薄い唇は、今は穏やかに閉じられている。そして何より、彼の頭からは、ふわふわとした猫の耳がぴょこんと覗き、シーツの隙間からは、ふさふさとした長い尻尾が、ゆっくりと揺れているのが見えた。
「……………………えっ?」
私の思考は、完全に停止した。
目の前で起こっていることが、全く理解できない。
夢? これは、あまりにもリアルな悪夢なのだろうか?
混乱する私の耳に、少年の、寝ぼけたような、甘い声が届いた。
「ん……ご主人様……おはよう、ございます……?」
少年は、ゆっくりと目を開けると、私を見て、子猫のようにくすりと笑ったのだ。
その瞬間、私は確信した。
これは、夢なんかじゃない。
そして、私の人生が、とんでもない方向へ転がり始めたことを――。
部屋の中は、相変わらずシンとしていた。数ヶ月前までは、ここには温かい賑やかさがあったのに。15年間、私の人生のほとんどを一緒に過ごしてくれた愛猫のミーコが旅立ってから、この部屋の時間は止まってしまったかのようだ。窓辺にはミーコが好きだった猫用ベッドが、壁には一緒に撮った写真が、今もそのまま飾られている。それらを見るたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、涙が滲んでくる。ペットロス、という言葉では片付けられないほどの深い喪失感が、私を支配していた。
その日も、降り続く雨の中、重い足取りで会社からの帰り道を歩いていた。傘を叩く雨音だけが、やけに大きく耳に響く。マンションのエントランスまであと少しというところで、植え込みの陰から、か細い鳴き声が聞こえてきた。
「…みゃあ…」
足を止め、恐る恐る覗き込むと、そこにいたのは手のひらに乗るほど小さな仔猫だった。泥と雨でぐっしょりと濡れ、寒さで震えている。その姿が、元気だった頃のミーコと重なり、私はたまらず駆け寄った。
「大丈夫…?しっかりして…!」
仔猫は、ほとんど抵抗する力もないのか、私の手に弱々しく体を預けてくる。その小さな温もりが、私の凍りついた心を少しだけ溶かしてくれるような気がした。
見捨てることなんて、できるはずもなかった。私は仔猫をそっとハンカチで包み、急いで自分の部屋へと連れ帰った。
温かいタオルで体を拭き、スポイトで少しずつぬるま湯に溶かした粉ミルクを飲ませる。最初は飲む力もなかった仔猫が、私の必死の看病に応えるように、ほんの少しだけ喉を鳴らした時、私は思わず涙がこぼれた。
「よかった…生きてる…」
その夜、私は仔猫を腕の中に抱いて眠った。久しぶりに感じた、小さな命の温かさ。その日から、私の止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き出したような気がした。
仔猫に「ハル」と名付けた。春のように温かい出会いだったから。そして、私の心にも、もう一度春が来てほしいという願いを込めて。
ハルは、驚くほどの速さで元気を取り戻していった。最初はヨタヨタとしか歩けなかったのに、数日もすると部屋の中を興味深そうに探検し始めた。私が仕事から帰ると、小さな体で一生懸命に玄関まで迎えに来てくれる。その姿を見るたびに、私の心は温かいもので満たされていった。
「ただいま、ハル。いい子にしてた?」
そう言ってハルを抱き上げると、ゴロゴロと喉を鳴らして私の頬に小さな頭を擦り付けてくる。その仕草が、たまらなく愛おしい。
部屋には久しぶりに笑顔が戻り、ミーコの写真に話しかける回数も減っていった。ハルがいる。それだけで、私の毎日は彩りを取り戻し始めていたのだ。
ハルを保護してから、一週間が経った朝。
いつものように「ハル、おはよう」と声をかけながらリビングへ向かった私は、異変に気づいた。いつもなら、私の足音を聞きつけて駆け寄ってくるはずのハルの姿がない。
「ハル…?どこにいるの?」
部屋の中を探し回った。ベッドの下、ソファの隙間、カーテンの裏。昨日まで使っていた小さな猫用ベッドも空っぽだ。窓は閉まっているし、玄関の鍵もかかっている。どこかへ行ってしまうなんて、ありえない。
でも、どこにもいない。
私の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。
「ハル!ハルってば!」
名前を呼んでも、か細い返事はない。まさか、また…。
あの、ミーコを失った時と同じ、絶望的な喪失感が、私を再び暗い淵へと引きずり込もうとしていた。
「どうして…どうして、ハルまでいなくなっちゃうの…?」
床に崩れ落ち、私は声を上げて泣いた。やっと見つけた温もり。やっと動き始めた時間。それらが、また音を立てて崩れていく。
信じたくなかった。でも、ハルがいないという現実は、あまりにも残酷に私の目の前に突きつけられていた。
どれくらい泣き続けたのだろう。涙も枯れ果て、ぼんやりとした頭で窓の外が白み始めているのを眺めていた。
もう、何もかもどうでもいい。そんな虚無感に包まれながら、私は力なくベッドに倒れ込んだ。
――翌朝。
重い瞼をこじ開けると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいるのが見えた。相変わらず、心は鉛のように重い。それでも、会社へは行かなければならない。そう思って体を起こそうとした瞬間、私はベッドの上に、何か大きなものの気配を感じた。
(え…?)
恐る恐る、隣に視線を向ける。
そこにいたのは、私が昨日まで必死で探していた小さな仔猫――ハル、ではなかった。
代わりに、私のベッドのすぐ隣で、静かな寝息を立てていたのは……見たこともない、美しい少年だったのだ。
歳の頃は、18歳くらいだろうか。少し癖のある、銀色がかったアッシュブロンドの髪が、白い枕にさらさらと流れている。長い睫毛に縁取られた整った目鼻立ち。薄い唇は、今は穏やかに閉じられている。そして何より、彼の頭からは、ふわふわとした猫の耳がぴょこんと覗き、シーツの隙間からは、ふさふさとした長い尻尾が、ゆっくりと揺れているのが見えた。
「……………………えっ?」
私の思考は、完全に停止した。
目の前で起こっていることが、全く理解できない。
夢? これは、あまりにもリアルな悪夢なのだろうか?
混乱する私の耳に、少年の、寝ぼけたような、甘い声が届いた。
「ん……ご主人様……おはよう、ございます……?」
少年は、ゆっくりと目を開けると、私を見て、子猫のようにくすりと笑ったのだ。
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