4 / 4
第4話(最終話):心の雨上がりと、未来への一杯
しおりを挟む
あの夜、古い書庫で兄・樹の死の真相を知り、そして柊夜さんの過去の痛みに触れてから、私の心は激しい嵐に見舞われていた。兄を死に追いやったかもしれないY氏への、どうしようもない怒り。そして、そんな相手を赦そうとさえしたかもしれない、兄の優しさへのやるせない悲しみ。二つの感情が渦巻き、私はどうすればいいのか分からずにいた。
そんな私の葛藤を見透かすように、柊夜さんは静かに私を「寂光庵」へと招き入れてくれた。彼は何も言わず、ただいつものように美しい所作で抹茶を点て始める。その静謐な時間が、荒れ狂う私の心を少しずつ凪がせていくようだった。
やがて、私の前にそっと差し出された一杯の抹茶ラテ。今日のラテアートは、水面に一滴の雫が落ち、そこから幾重にも波紋が広がっていく模様だった。
「憎しみは、いずれご自身の心を焼き尽くす炎となります」
柊夜さんは、茶碗を見つめる私に、静かに語りかけた。
「お兄様が遺されたのは、憎しみの連鎖ではありますまい。むしろ、その逆だったのではないですか。彼は、誰かを罰することよりも、誰かの心に寄り添うことを選んだ。その優しさが、悲しい結果を招いてしまったのかもしれませんが…その尊い想いまで、憎しみの炎で消してしまっては、お兄様が浮かばれませぬ」
彼の言葉は、仏の教えのように厳かで、そして、どこまでも優しかった。
そうだ。兄はきっと、Y氏を糾弾したかったわけじゃない。ただ、過ちを認め、正しく生きてほしかっただけなのだ。その兄の想いを、私が憎しみで汚してはいけない。
「かえでさん。許すことは難しいでしょう。ですが、受け入れることはできるやもしれません。起きてしまった全ての出来事と、それによって生まれたご自身の感情の全てを、ただ、静かに受け入れるのです。その先に、きっと新しい道が見えてくるはずでございます」
水面に広がる波紋のように、彼の言葉が私の心に染み渡っていく。憎しみも、悲しみも、怒りも、全てが今の私の一部なのだ。それら全てを抱きしめて、私は前に進まなければならない。兄が遺してくれた、優しさを胸に。
「…ありがとうございます、柊夜さん。私、もう大丈夫です」
私は、顔を上げて微笑んだ。それは、三年ぶりに心の底から浮かべた、偽りのない笑顔だった。
私は、Y氏を法的に追及する道を、選ばなかった。彼が今どこで何をしているのか、探すこともしなかった。ただ、兄が残してくれた真実だけを胸にしまい、彼が願ったであろう「人の心の再生」を信じることにしたのだ。それが、私が兄にしてあげられる、唯一の供養だと思ったから。
心の重荷を下ろした私は、改めて柊夜さんに向き直った。この人がいなければ、私は永遠に過去の闇を彷徨い続けていただろう。
「柊夜さん。私、あなたに救われました。本当に、ありがとうございます」
そして、私は続けた。胸の奥から溢れ出す、素直な気持ちを。
「柊夜さんがいたから、私は前に進めます。これからも、あなたのそばにいたいです。一人の女性として、あなたと共に、未来を歩んでいきたい」
それは、紛れもない私の告白だった。
柊夜さんは、驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐに、まるで春の陽だまりのような、柔らかな笑みを浮かべた。
「…私も、あなたという縁に救われたのですよ、かえでさん」
彼は、私の手をそっと取り、その温かい両手で包み込んだ。
「僧侶という身の上、情熱的なお約束はできませぬ。ですが、私の心は、これからも、いつもあなたのそばにあります。あなたの魂が安らげる場所であり続けたいと、そう願っております」
それは、彼なりの、最大限の愛の言葉だった。それだけで、十分すぎるほど、私の心は満たされた。
季節は巡り、草加の木々が赤や黄色に色づく秋になった。
私はフリーライターとして、新しいテーマに取り組んでいる。それは、兄の事件をきっかけに考えさせられた、「人の心の複雑さと、その中に灯る一筋の優しさ」についてのノンフィクションだ。誰かを告発するためではない。ただ、人が抱える弱さや、それでも失われない希望を、言葉にして紡いでいきたいのだ。
仕事の合間に「寂光庵」を訪れると、柊夜さんが「おかえりなさい」と、いつもの優しい笑顔で迎えてくれる。彼が淹れてくれる抹茶ラテには、今日、美しい紅葉の葉が描かれていた。
「柊夜さん、見てください。今度の記事の構成案」
「拝見しましょう。…ふむ、素晴らしい視点ですね。ですが、もう少し、この部分の行間を読ませる工夫があっても良いやもしれません」
私たちは、カウンター席に並んで座り、穏やかな午後を過ごす。謎解きの日々は終わり、そこには、互いを深く理解し、尊重し合う、恋人同士の静かで満ち足りた時間があった。
過去の悲しみは、決して消えることはないだろう。でも、その傷跡さえも、私たちの絆の一部となって、これからの人生を彩っていくのだ。
心の雨上がりに見つけた、一杯の抹茶ラテ。それが、私の人生に、こんなにも温かくて優しい光を運んできてくれた。
私たちは、きっとこれからも、この寺カフェで、たくさんの物語を語り合い、そして、共に未来のページをめくっていくのだろう。
その日々が、穏やかでありますようにと、私は心の中で静かに祈った。
そんな私の葛藤を見透かすように、柊夜さんは静かに私を「寂光庵」へと招き入れてくれた。彼は何も言わず、ただいつものように美しい所作で抹茶を点て始める。その静謐な時間が、荒れ狂う私の心を少しずつ凪がせていくようだった。
やがて、私の前にそっと差し出された一杯の抹茶ラテ。今日のラテアートは、水面に一滴の雫が落ち、そこから幾重にも波紋が広がっていく模様だった。
「憎しみは、いずれご自身の心を焼き尽くす炎となります」
柊夜さんは、茶碗を見つめる私に、静かに語りかけた。
「お兄様が遺されたのは、憎しみの連鎖ではありますまい。むしろ、その逆だったのではないですか。彼は、誰かを罰することよりも、誰かの心に寄り添うことを選んだ。その優しさが、悲しい結果を招いてしまったのかもしれませんが…その尊い想いまで、憎しみの炎で消してしまっては、お兄様が浮かばれませぬ」
彼の言葉は、仏の教えのように厳かで、そして、どこまでも優しかった。
そうだ。兄はきっと、Y氏を糾弾したかったわけじゃない。ただ、過ちを認め、正しく生きてほしかっただけなのだ。その兄の想いを、私が憎しみで汚してはいけない。
「かえでさん。許すことは難しいでしょう。ですが、受け入れることはできるやもしれません。起きてしまった全ての出来事と、それによって生まれたご自身の感情の全てを、ただ、静かに受け入れるのです。その先に、きっと新しい道が見えてくるはずでございます」
水面に広がる波紋のように、彼の言葉が私の心に染み渡っていく。憎しみも、悲しみも、怒りも、全てが今の私の一部なのだ。それら全てを抱きしめて、私は前に進まなければならない。兄が遺してくれた、優しさを胸に。
「…ありがとうございます、柊夜さん。私、もう大丈夫です」
私は、顔を上げて微笑んだ。それは、三年ぶりに心の底から浮かべた、偽りのない笑顔だった。
私は、Y氏を法的に追及する道を、選ばなかった。彼が今どこで何をしているのか、探すこともしなかった。ただ、兄が残してくれた真実だけを胸にしまい、彼が願ったであろう「人の心の再生」を信じることにしたのだ。それが、私が兄にしてあげられる、唯一の供養だと思ったから。
心の重荷を下ろした私は、改めて柊夜さんに向き直った。この人がいなければ、私は永遠に過去の闇を彷徨い続けていただろう。
「柊夜さん。私、あなたに救われました。本当に、ありがとうございます」
そして、私は続けた。胸の奥から溢れ出す、素直な気持ちを。
「柊夜さんがいたから、私は前に進めます。これからも、あなたのそばにいたいです。一人の女性として、あなたと共に、未来を歩んでいきたい」
それは、紛れもない私の告白だった。
柊夜さんは、驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐに、まるで春の陽だまりのような、柔らかな笑みを浮かべた。
「…私も、あなたという縁に救われたのですよ、かえでさん」
彼は、私の手をそっと取り、その温かい両手で包み込んだ。
「僧侶という身の上、情熱的なお約束はできませぬ。ですが、私の心は、これからも、いつもあなたのそばにあります。あなたの魂が安らげる場所であり続けたいと、そう願っております」
それは、彼なりの、最大限の愛の言葉だった。それだけで、十分すぎるほど、私の心は満たされた。
季節は巡り、草加の木々が赤や黄色に色づく秋になった。
私はフリーライターとして、新しいテーマに取り組んでいる。それは、兄の事件をきっかけに考えさせられた、「人の心の複雑さと、その中に灯る一筋の優しさ」についてのノンフィクションだ。誰かを告発するためではない。ただ、人が抱える弱さや、それでも失われない希望を、言葉にして紡いでいきたいのだ。
仕事の合間に「寂光庵」を訪れると、柊夜さんが「おかえりなさい」と、いつもの優しい笑顔で迎えてくれる。彼が淹れてくれる抹茶ラテには、今日、美しい紅葉の葉が描かれていた。
「柊夜さん、見てください。今度の記事の構成案」
「拝見しましょう。…ふむ、素晴らしい視点ですね。ですが、もう少し、この部分の行間を読ませる工夫があっても良いやもしれません」
私たちは、カウンター席に並んで座り、穏やかな午後を過ごす。謎解きの日々は終わり、そこには、互いを深く理解し、尊重し合う、恋人同士の静かで満ち足りた時間があった。
過去の悲しみは、決して消えることはないだろう。でも、その傷跡さえも、私たちの絆の一部となって、これからの人生を彩っていくのだ。
心の雨上がりに見つけた、一杯の抹茶ラテ。それが、私の人生に、こんなにも温かくて優しい光を運んできてくれた。
私たちは、きっとこれからも、この寺カフェで、たくさんの物語を語り合い、そして、共に未来のページをめくっていくのだろう。
その日々が、穏やかでありますようにと、私は心の中で静かに祈った。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛
ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎
潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。
大学卒業後、海外に留学した。
過去の恋愛にトラウマを抱えていた。
そんな時、気になる女性社員と巡り会う。
八神あやか
村藤コーポレーション社員の四十歳。
過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。
恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。
そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に......
八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!
ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。
前世では犬の獣人だった私。
私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。
そんな時、とある出来事で命を落とした私。
彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる