1 / 11
第1話:氷の王子と定時のゴング
しおりを挟む
人生において、何に重きを置くかは人それぞれだ。
地位や名誉、あるいは自己実現。どれも素晴らしい。けれど、私――御厨 奏(みくりや かなで)、27歳、広告代理店企画部勤務――が最も神聖視しているもの、それは「定時」である。
PCの右下に表示された時刻は、17時45分。
今日の業務はすべて完了。上司への報告も30分前に済ませ、デスクの上は綺麗に片付いている。私はいつでも戦場(オフィス)から離脱できる、完璧な兵士(しゃいん)だ。あとは運命の18時のゴングが鳴るのを待つだけ。
「……はぁ」
誰にも聞こえないように、そっと息を吐く。
今夜はスーパーで豚バラブロックが特売日なのだ。あれをコトコト煮込んで、とろける角煮を作る。半熟の煮卵も添えて、炊き立てのご飯と一緒に……。
想像しただけで、口の中に幸せな味が広がる。そう、私の人生の喜びは、定時で帰って美味しい夕飯を作って食べること、これに尽きる。
社内がなんとなくそわそわと浮き足立つ。
私と同じく、定時という名のゴールテープを目指す仲間たちの気配だ。しかし、その空気が一瞬にして凍り付いた。
コツ、コツ、と靴音がフロアに響く。
その音だけで、誰もが緊張に背筋を伸ばす。音の主は、我らが企画部のラスボス。
月詠 怜(つきよみ れい)部長。
艶のある黒髪を非の打ちどころなくオールバックにまとめ、銀縁の眼鏡の奥からは全てを見透かすような怜悧な光を放つ。アイロンのかかった白シャツにタイトなスーツは寸分の乱れもなく、その存在自体が「完璧」という概念を体現しているかのようだ。
御年32歳にして、この大手広告代理店の花形である企画部を率いる彼は、社内でこう呼ばれている。
――氷の王子、と。
彼がデスクの間を歩くだけで、雑談は消え、キーボードの音だけが響くようになる。まさに絶対零度の支配者。
もちろん、仕事の腕は超一流だ。彼が手掛けた企画は必ず成功すると言われ、その手腕を疑う者はいない。
しかし、その分、部下に求めるレベルもエベレストより高い。彼の「確認しました」は、「全てやり直せ」の同義語だ。
私、御厨奏は、そんな月詠部長が少し、いや、かなり苦手だった。
17時59分。
心臓の鼓動が速くなる。あと1分。あと1分で私は自由の翼を広げ、特売の豚バラブロックへと飛んでいける。デスクの引き出しに仕舞ったエコバッグの持ち手を、私はそっと握りしめた。
そして、ついに運命の時刻がやってきた。18時00分。
PCの時計がその数字を刻んだ瞬間、私は椅子から腰を浮かせた。
「お先に失礼しま――」
「御厨さん」
私の解放の呪文は、鈴が鳴るような、けれど温度の一切ない声によって遮られた。
フロアの全ての視線が、私と声の主に突き刺さる。声の主――月詠部長は、いつの間にか私のデスクの斜め後ろに立っていた。
「は、はい! なんでしょうか、部長」
心臓が嫌な音を立てる。お願い、ただの確認であって。明日の業務連絡であってほしい。
しかし、氷の王子は私のささやかな祈りを、いとも容易く踏みにじる。
彼がすっと差し出してきたのは、私が今朝提出したばかりの来月キャンペーンの企画書ファイル。
「これ、いくつか修正点があったのでお願いします」
ぱさりとデスクに置かれたファイルを開くまでもない。表紙にびっしりと貼られた付箋の数々が、その重篤度を物語っていた。
恐る恐る中を覗くと、そこには美しい、しかし悪魔のように冷徹な赤字が、ページを埋め尽くしていた。
「あ、あの、こちらの納期は……」
「急ぎで。そうですね……」
月詠部長は少しだけ考えるそぶりを見せ、そして完璧な微笑み(私には悪魔の微笑みに見える)を浮かべて言い放った。
「今日の、できれば20時までにお願いします」
私の脳内で、高らかに鳴り響いていたはずの定時のゴングが、バッサリと切り裂かれる音がした。
豚バラの角煮が、半熟の煮卵が、私の頭の中で泣きながら遠ざかっていく。
「……承知、いたしました」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
月詠部長は「期待しています」と涼しい顔で言い残し、再びコツコツと靴音を鳴らして自身の執務室へと戻っていく。
私は、抜け殻のように椅子に座り込んだ。
私の定時が、私の角煮が、音を立てて死んだ瞬間だった。
(……だから、苦手、あの人…)
静まり返ったフロアで、私は一人、絶望と共に赤字まみれの企画書と向き合うのだった。
地位や名誉、あるいは自己実現。どれも素晴らしい。けれど、私――御厨 奏(みくりや かなで)、27歳、広告代理店企画部勤務――が最も神聖視しているもの、それは「定時」である。
PCの右下に表示された時刻は、17時45分。
今日の業務はすべて完了。上司への報告も30分前に済ませ、デスクの上は綺麗に片付いている。私はいつでも戦場(オフィス)から離脱できる、完璧な兵士(しゃいん)だ。あとは運命の18時のゴングが鳴るのを待つだけ。
「……はぁ」
誰にも聞こえないように、そっと息を吐く。
今夜はスーパーで豚バラブロックが特売日なのだ。あれをコトコト煮込んで、とろける角煮を作る。半熟の煮卵も添えて、炊き立てのご飯と一緒に……。
想像しただけで、口の中に幸せな味が広がる。そう、私の人生の喜びは、定時で帰って美味しい夕飯を作って食べること、これに尽きる。
社内がなんとなくそわそわと浮き足立つ。
私と同じく、定時という名のゴールテープを目指す仲間たちの気配だ。しかし、その空気が一瞬にして凍り付いた。
コツ、コツ、と靴音がフロアに響く。
その音だけで、誰もが緊張に背筋を伸ばす。音の主は、我らが企画部のラスボス。
月詠 怜(つきよみ れい)部長。
艶のある黒髪を非の打ちどころなくオールバックにまとめ、銀縁の眼鏡の奥からは全てを見透かすような怜悧な光を放つ。アイロンのかかった白シャツにタイトなスーツは寸分の乱れもなく、その存在自体が「完璧」という概念を体現しているかのようだ。
御年32歳にして、この大手広告代理店の花形である企画部を率いる彼は、社内でこう呼ばれている。
――氷の王子、と。
彼がデスクの間を歩くだけで、雑談は消え、キーボードの音だけが響くようになる。まさに絶対零度の支配者。
もちろん、仕事の腕は超一流だ。彼が手掛けた企画は必ず成功すると言われ、その手腕を疑う者はいない。
しかし、その分、部下に求めるレベルもエベレストより高い。彼の「確認しました」は、「全てやり直せ」の同義語だ。
私、御厨奏は、そんな月詠部長が少し、いや、かなり苦手だった。
17時59分。
心臓の鼓動が速くなる。あと1分。あと1分で私は自由の翼を広げ、特売の豚バラブロックへと飛んでいける。デスクの引き出しに仕舞ったエコバッグの持ち手を、私はそっと握りしめた。
そして、ついに運命の時刻がやってきた。18時00分。
PCの時計がその数字を刻んだ瞬間、私は椅子から腰を浮かせた。
「お先に失礼しま――」
「御厨さん」
私の解放の呪文は、鈴が鳴るような、けれど温度の一切ない声によって遮られた。
フロアの全ての視線が、私と声の主に突き刺さる。声の主――月詠部長は、いつの間にか私のデスクの斜め後ろに立っていた。
「は、はい! なんでしょうか、部長」
心臓が嫌な音を立てる。お願い、ただの確認であって。明日の業務連絡であってほしい。
しかし、氷の王子は私のささやかな祈りを、いとも容易く踏みにじる。
彼がすっと差し出してきたのは、私が今朝提出したばかりの来月キャンペーンの企画書ファイル。
「これ、いくつか修正点があったのでお願いします」
ぱさりとデスクに置かれたファイルを開くまでもない。表紙にびっしりと貼られた付箋の数々が、その重篤度を物語っていた。
恐る恐る中を覗くと、そこには美しい、しかし悪魔のように冷徹な赤字が、ページを埋め尽くしていた。
「あ、あの、こちらの納期は……」
「急ぎで。そうですね……」
月詠部長は少しだけ考えるそぶりを見せ、そして完璧な微笑み(私には悪魔の微笑みに見える)を浮かべて言い放った。
「今日の、できれば20時までにお願いします」
私の脳内で、高らかに鳴り響いていたはずの定時のゴングが、バッサリと切り裂かれる音がした。
豚バラの角煮が、半熟の煮卵が、私の頭の中で泣きながら遠ざかっていく。
「……承知、いたしました」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
月詠部長は「期待しています」と涼しい顔で言い残し、再びコツコツと靴音を鳴らして自身の執務室へと戻っていく。
私は、抜け殻のように椅子に座り込んだ。
私の定時が、私の角煮が、音を立てて死んだ瞬間だった。
(……だから、苦手、あの人…)
静まり返ったフロアで、私は一人、絶望と共に赤字まみれの企画書と向き合うのだった。
7
あなたにおすすめの小説
残業帰りのカフェで──止まった恋と、動き出した身体と心
yukataka
恋愛
終電に追われる夜、いつものカフェで彼と目が合った。
止まっていた何かが、また動き始める予感がした。
これは、34歳の広告代理店勤務の女性・高梨亜季が、残業帰りに立ち寄ったカフェで常連客の佐久間悠斗と出会い、止まっていた恋心が再び動き出す物語です。
仕事に追われる日々の中で忘れかけていた「誰かを想う気持ち」。後輩からの好意に揺れながらも、悠斗との距離が少しずつ縮まっていく。雨の夜、二人は心と体で確かめ合い、やがて訪れる別れの選択。
仕事と恋愛の狭間で揺れながらも、自分の幸せを選び取る勇気を持つまでの、大人の純愛を描きます。
アラフォー×バツ1×IT社長と週末婚
日下奈緒
恋愛
仕事の契約を打ち切られ、年末をあと1か月残して就職活動に入ったつむぎ。ある日街で車に轢かれそうになるところを助けて貰ったのだが、突然週末婚を持ち出され……
鬼上官と、深夜のオフィス
99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」
間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。
けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……?
「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」
鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。
※性的な事柄をモチーフとしていますが
その描写は薄いです。
モテ男とデキ女の奥手な恋
松丹子
恋愛
来るもの拒まず去るもの追わずなモテ男、神崎政人。
学歴、仕事共に、エリート過ぎることに悩む同期、橘彩乃。
ただの同期として接していた二人は、ある日を境に接近していくが、互いに近づく勇気がないまま、関係をこじらせていく。
そんなじれじれな話です。
*学歴についての偏った見解が出てきますので、ご了承の上ご覧ください。(1/23追記)
*エセ関西弁とエセ博多弁が出てきます。
*拙著『神崎くんは残念なイケメン』の登場人物が出てきますが、単体で読めます。
ただし、こちらの方が後の話になるため、前著のネタバレを含みます。
*作品に出てくる団体は実在の団体と関係ありません。
関連作品(どれも政人が出ます。時系列順。カッコ内主役)
『期待外れな吉田さん、自由人な前田くん』(隼人友人、サリー)
『初恋旅行に出かけます』(山口ヒカル)
『物狂ほしや色と情』(名取葉子)
『さくやこの』(江原あきら)
『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい!』(阿久津)
ズボラ上司の甘い罠
松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。
仕事はできる人なのに、あまりにももったいない!
かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。
やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか?
上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。
社長に拾われた貧困女子、契約なのに溺愛されてます―現代シンデレラの逆転劇―
砂原紗藍
恋愛
――これは、CEOに愛された貧困女子、現代版シンデレラのラブストーリー。
両親を亡くし、継母と義姉の冷遇から逃れて家を出た深月カヤは、メイドカフェとお弁当屋のダブルワークで必死に生きる二十一歳。
日々を支えるのは、愛するペットのシマリス・シンちゃんだけだった。
ある深夜、酔客に絡まれたカヤを救ったのは、名前も知らないのに不思議と安心できる男性。
数日後、偶然バイト先のお弁当屋で再会したその男性は、若くして大企業を率いる社長・桐島柊也だった。
生活も心もぎりぎりまで追い詰められたカヤに、柊也からの突然の提案は――
「期間限定で、俺の恋人にならないか」
逃げ場を求めるカヤと、何かを抱える柊也。思惑の違う二人は、契約という形で同じ屋根の下で暮らし始める。
過保護な優しさ、困ったときに現れる温もりに、カヤの胸には小さな灯がともりはじめる。
だが、契約の先にある“本当の理由”はまだ霧の中。
落とした小さなガラスのヘアピンが導くのは——灰かぶり姫だった彼女の、新しい運命。
不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました
入海月子
恋愛
有本瑞希
仕事に燃える設計士 27歳
×
黒瀬諒
飄々として軽い一級建築士 35歳
女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。
彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。
ある日、同僚のミスが発覚して――。
エリート役員は空飛ぶ天使を溺愛したくてたまらない
如月 そら
恋愛
「二度目は偶然だが、三度目は必然だ。三度目がないことを願っているよ」
(三度目はないからっ!)
──そう心で叫んだはずなのに目の前のエリート役員から逃げられない!
「俺と君が出会ったのはつまり必然だ」
倉木莉桜(くらきりお)は大手エアラインで日々奮闘する客室乗務員だ。
ある日、自社の機体を製造している五十里重工の重役がトラブルから莉桜を救ってくれる。
それで彼との関係は終わったと思っていたのに!?
エリート役員からの溺れそうな溺愛に戸惑うばかり。
客室乗務員(CA)倉木莉桜
×
五十里重工(取締役部長)五十里武尊
『空が好き』という共通点を持つ二人の恋の行方は……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる