定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました

藤森瑠璃香

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第1話:氷の王子と定時のゴング

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 人生において、何に重きを置くかは人それぞれだ。
 地位や名誉、あるいは自己実現。どれも素晴らしい。けれど、私――御厨 奏(みくりや かなで)、27歳、広告代理店企画部勤務――が最も神聖視しているもの、それは「定時」である。

 PCの右下に表示された時刻は、17時45分。
 今日の業務はすべて完了。上司への報告も30分前に済ませ、デスクの上は綺麗に片付いている。私はいつでも戦場(オフィス)から離脱できる、完璧な兵士(しゃいん)だ。あとは運命の18時のゴングが鳴るのを待つだけ。

「……はぁ」

 誰にも聞こえないように、そっと息を吐く。
 今夜はスーパーで豚バラブロックが特売日なのだ。あれをコトコト煮込んで、とろける角煮を作る。半熟の煮卵も添えて、炊き立てのご飯と一緒に……。
 想像しただけで、口の中に幸せな味が広がる。そう、私の人生の喜びは、定時で帰って美味しい夕飯を作って食べること、これに尽きる。

 社内がなんとなくそわそわと浮き足立つ。
 私と同じく、定時という名のゴールテープを目指す仲間たちの気配だ。しかし、その空気が一瞬にして凍り付いた。

 コツ、コツ、と靴音がフロアに響く。
 その音だけで、誰もが緊張に背筋を伸ばす。音の主は、我らが企画部のラスボス。

 月詠 怜(つきよみ れい)部長。

 艶のある黒髪を非の打ちどころなくオールバックにまとめ、銀縁の眼鏡の奥からは全てを見透かすような怜悧な光を放つ。アイロンのかかった白シャツにタイトなスーツは寸分の乱れもなく、その存在自体が「完璧」という概念を体現しているかのようだ。
 御年32歳にして、この大手広告代理店の花形である企画部を率いる彼は、社内でこう呼ばれている。

 ――氷の王子、と。

 彼がデスクの間を歩くだけで、雑談は消え、キーボードの音だけが響くようになる。まさに絶対零度の支配者。
 もちろん、仕事の腕は超一流だ。彼が手掛けた企画は必ず成功すると言われ、その手腕を疑う者はいない。
 しかし、その分、部下に求めるレベルもエベレストより高い。彼の「確認しました」は、「全てやり直せ」の同義語だ。

 私、御厨奏は、そんな月詠部長が少し、いや、かなり苦手だった。

 17時59分。
 心臓の鼓動が速くなる。あと1分。あと1分で私は自由の翼を広げ、特売の豚バラブロックへと飛んでいける。デスクの引き出しに仕舞ったエコバッグの持ち手を、私はそっと握りしめた。

 そして、ついに運命の時刻がやってきた。18時00分。
 PCの時計がその数字を刻んだ瞬間、私は椅子から腰を浮かせた。

「お先に失礼しま――」

「御厨さん」

 私の解放の呪文は、鈴が鳴るような、けれど温度の一切ない声によって遮られた。
 フロアの全ての視線が、私と声の主に突き刺さる。声の主――月詠部長は、いつの間にか私のデスクの斜め後ろに立っていた。

「は、はい! なんでしょうか、部長」

 心臓が嫌な音を立てる。お願い、ただの確認であって。明日の業務連絡であってほしい。

 しかし、氷の王子は私のささやかな祈りを、いとも容易く踏みにじる。
 彼がすっと差し出してきたのは、私が今朝提出したばかりの来月キャンペーンの企画書ファイル。

「これ、いくつか修正点があったのでお願いします」

 ぱさりとデスクに置かれたファイルを開くまでもない。表紙にびっしりと貼られた付箋の数々が、その重篤度を物語っていた。
 恐る恐る中を覗くと、そこには美しい、しかし悪魔のように冷徹な赤字が、ページを埋め尽くしていた。

「あ、あの、こちらの納期は……」

「急ぎで。そうですね……」

 月詠部長は少しだけ考えるそぶりを見せ、そして完璧な微笑み(私には悪魔の微笑みに見える)を浮かべて言い放った。

「今日の、できれば20時までにお願いします」

 私の脳内で、高らかに鳴り響いていたはずの定時のゴングが、バッサリと切り裂かれる音がした。
 豚バラの角煮が、半熟の煮卵が、私の頭の中で泣きながら遠ざかっていく。

「……承知、いたしました」

 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
 月詠部長は「期待しています」と涼しい顔で言い残し、再びコツコツと靴音を鳴らして自身の執務室へと戻っていく。

 私は、抜け殻のように椅子に座り込んだ。
 私の定時が、私の角煮が、音を立てて死んだ瞬間だった。

(……だから、苦手、あの人…)

 静まり返ったフロアで、私は一人、絶望と共に赤字まみれの企画書と向き合うのだった。
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