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第10話:嵐の前の温もり
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佐藤巡査部長に叱責された翌日、桜川交番の空気は少しだけぎこちなかった。
田中りなは、いつも以上にきびきびと動き、大きな声で返事をしたが、それは心の動揺を隠すための空元気だった。佐藤もまた、普段と変わらぬ態度を装ってはいたが、りなと視線を合わせようとはしなかった。
「……巡回、行ってきます」
重たい沈黙に耐えきれず、りなは逃げ出すように交番を飛び出した。
春の空は青く澄み渡っているのに、りなの心はどんよりとした曇り空だった。自分のしたことは、本当に正しかったのだろうか。結果的に受け子は逮捕できた。でも、佐藤の言う通り、その過程は警察官として褒められたものではなかった。法の外にいるような、得体の知れない人物に頼ってしまった。
「あ、りなちゃん! ちょうどええところに!」
考え込みながら自転車を漕いでいると、八百屋の山田さんから声がかかった。
「ちょっと、この荷物運ぶの手伝ってくれへんか? 年寄りにはちと重とうてかなわんわ」
「はい、お安い御用です!」
りなは自転車を止め、威勢よく返事をした。落ち込んでいる時こそ、身体を動かすに限る。
りなが重い野菜の箱をひょいと持ち上げると、山田さんは「おー、力持ちやな! さすが若い子は違うわ!」と目を丸くした。
「なんや、りなちゃん。今日は元気ないやないか。佐藤さんにでも怒られたんか?」
荷物を運び終えると、山田さんがニヤニヤしながらりなの顔を覗き込んできた。
「え、な、なんで分かるんですか!?」
「そら、この商店街で何十年も商売しとるんやから、人の顔色くらい分かるわい。まあ、気にすな。若い時の失敗なんぞ、屁みたいなもんや。それより、これ持ってき!」
そう言って、彼はまたしても真っ赤なトマトをりなの手に握らせた。
商店街の人々は、りなの沈んだ気持ちを見透かしているかのようだった。
魚屋のおばちゃんは「ええアジの開きがあるで!」と干物をくれ、喫茶店『さくら』のマスターは「仕事終わったら、美味いコーヒー飲みに来い」と声をかけてくれた。
皆の優しさが、ささくれ立っていたりなの心に、じんわりと染み渡っていく。
その日の午後、交番にハナおばあちゃんが訪ねてきた。手には、上品な風呂敷包みを持っている。
「りなちゃん、これ……。あんたが好きや言うてたから、おはぎ作ってきたんよ」
「ハナおばあちゃん……! わざわざ、ありがとうございます」
「いいや、お礼を言うのはこっちの方や。りなちゃんのおかげで、少しだけやけど、心が軽くなったわ。犯人が捕まったって聞いただけでも、救われる思いや。ほんまに、ありがとうな」
そう言って微笑む彼女の顔は、まだ本調子とは言えないまでも、確かに前を向こうとしていた。その笑顔に、りなは自分の行動が、少なくとも無意味ではなかったのだと、少しだけ救われた気がした。
昼休憩、りなは『さくら』に立ち寄り、マスター自慢のブレンドコーヒーを注文した。カウンター席では、数人の常連客が世間話に花を咲かせている。
「そういや、聞いたか? 最近、この辺でええ投資話があるらしいで」
「なんやそれ。また怪しいやつとちゃうんか」
「いやいや、それがな、『元本保証で年利30%』やて。有名な先生が主催するセミナーもやっとるらしいわ」
「年利30%!? そんなうまい話、あるかいな!」
その会話を耳にした瞬間、りなの職業的なアンテナがぴくりと動いた。元本保証、高利回り。それは、詐欺の典型的な謳い文句だ。
だが、今のりなには、その噂に深く首を突っ込む余裕はなかった。自分のことで、頭がいっぱいだったからだ。今はただ、この美味しいコーヒーで、少しだけ心を休めたかった。
夕方、交番に戻ってデスクで報告書を書いていると、りなの目の前に、すっと缶コーヒーが置かれた。
見上げると、そこには気まずそうな顔をした佐藤が立っていた。
「……やるわ」
彼なりの、不器用な労いなのだろう。
「ありがとうございます」
りなが受け取ると、佐藤はぼそりと呟いた。
「……俺も、言い過ぎた。だが、お前を思ってのことだというのは、分かってくれ」
「はい。分かってます」
その言葉に、りなの胸の奥がじんわりと温かくなる。この人もまた、自分のことを本気で心配してくれているのだ。
二人の間に漂っていたぎこちない空気が、缶コーヒーの温かさと共に、少しだけ溶けていくようだった。
その夜、りなはアパートの小さな部屋で、一人静かに物思いに耽っていた。
商店街の人々の温かさ。ハナおばあちゃんの笑顔。そして、佐藤の不器用な優しさ。
それらは全て、りながこの街で守りたいと願う、大切な宝物だ。
一方で、彼のことを考えると、胸が騒ぐ。
謎めいた弁護士、水島健太郎。彼の協力がなければ、受け子を逮捕することはできなかった。彼の存在は、事件解決への希望の光だ。しかし、その正体も、目的も、何も分からない。彼にこれ以上近づくことは、佐藤の言う通り、危険なことなのかもしれない。
水島を思うと、胸がスリルと期待で高鳴る。
佐藤を思うと、胸が安心感と、少しの罪悪感で温かくなる。
りなは窓を開け、春の夜風を部屋に入れた。
眼下には、桜川商店街の穏やかな夜景が広がっている。あの灯りの一つ一つの下に、人々の生活がある。
「私は……」
りなは、静かに呟いた。
「私は、私のできるやり方で、この街を守る」
それが、警察官として正しい道なのかは分からない。迷いながら、悩みながら、それでも進むしかない。
りなの心の中で、昼間に聞いた「うまい投資話」という言葉が、なぜか小さく引っかかっていた。
それは、次なる巨大な嵐が、すぐそこまで近づいていることを知らせる、ほんの小さな予兆だった。
第一部の幕が、静かに下りる。
田中りなは、いつも以上にきびきびと動き、大きな声で返事をしたが、それは心の動揺を隠すための空元気だった。佐藤もまた、普段と変わらぬ態度を装ってはいたが、りなと視線を合わせようとはしなかった。
「……巡回、行ってきます」
重たい沈黙に耐えきれず、りなは逃げ出すように交番を飛び出した。
春の空は青く澄み渡っているのに、りなの心はどんよりとした曇り空だった。自分のしたことは、本当に正しかったのだろうか。結果的に受け子は逮捕できた。でも、佐藤の言う通り、その過程は警察官として褒められたものではなかった。法の外にいるような、得体の知れない人物に頼ってしまった。
「あ、りなちゃん! ちょうどええところに!」
考え込みながら自転車を漕いでいると、八百屋の山田さんから声がかかった。
「ちょっと、この荷物運ぶの手伝ってくれへんか? 年寄りにはちと重とうてかなわんわ」
「はい、お安い御用です!」
りなは自転車を止め、威勢よく返事をした。落ち込んでいる時こそ、身体を動かすに限る。
りなが重い野菜の箱をひょいと持ち上げると、山田さんは「おー、力持ちやな! さすが若い子は違うわ!」と目を丸くした。
「なんや、りなちゃん。今日は元気ないやないか。佐藤さんにでも怒られたんか?」
荷物を運び終えると、山田さんがニヤニヤしながらりなの顔を覗き込んできた。
「え、な、なんで分かるんですか!?」
「そら、この商店街で何十年も商売しとるんやから、人の顔色くらい分かるわい。まあ、気にすな。若い時の失敗なんぞ、屁みたいなもんや。それより、これ持ってき!」
そう言って、彼はまたしても真っ赤なトマトをりなの手に握らせた。
商店街の人々は、りなの沈んだ気持ちを見透かしているかのようだった。
魚屋のおばちゃんは「ええアジの開きがあるで!」と干物をくれ、喫茶店『さくら』のマスターは「仕事終わったら、美味いコーヒー飲みに来い」と声をかけてくれた。
皆の優しさが、ささくれ立っていたりなの心に、じんわりと染み渡っていく。
その日の午後、交番にハナおばあちゃんが訪ねてきた。手には、上品な風呂敷包みを持っている。
「りなちゃん、これ……。あんたが好きや言うてたから、おはぎ作ってきたんよ」
「ハナおばあちゃん……! わざわざ、ありがとうございます」
「いいや、お礼を言うのはこっちの方や。りなちゃんのおかげで、少しだけやけど、心が軽くなったわ。犯人が捕まったって聞いただけでも、救われる思いや。ほんまに、ありがとうな」
そう言って微笑む彼女の顔は、まだ本調子とは言えないまでも、確かに前を向こうとしていた。その笑顔に、りなは自分の行動が、少なくとも無意味ではなかったのだと、少しだけ救われた気がした。
昼休憩、りなは『さくら』に立ち寄り、マスター自慢のブレンドコーヒーを注文した。カウンター席では、数人の常連客が世間話に花を咲かせている。
「そういや、聞いたか? 最近、この辺でええ投資話があるらしいで」
「なんやそれ。また怪しいやつとちゃうんか」
「いやいや、それがな、『元本保証で年利30%』やて。有名な先生が主催するセミナーもやっとるらしいわ」
「年利30%!? そんなうまい話、あるかいな!」
その会話を耳にした瞬間、りなの職業的なアンテナがぴくりと動いた。元本保証、高利回り。それは、詐欺の典型的な謳い文句だ。
だが、今のりなには、その噂に深く首を突っ込む余裕はなかった。自分のことで、頭がいっぱいだったからだ。今はただ、この美味しいコーヒーで、少しだけ心を休めたかった。
夕方、交番に戻ってデスクで報告書を書いていると、りなの目の前に、すっと缶コーヒーが置かれた。
見上げると、そこには気まずそうな顔をした佐藤が立っていた。
「……やるわ」
彼なりの、不器用な労いなのだろう。
「ありがとうございます」
りなが受け取ると、佐藤はぼそりと呟いた。
「……俺も、言い過ぎた。だが、お前を思ってのことだというのは、分かってくれ」
「はい。分かってます」
その言葉に、りなの胸の奥がじんわりと温かくなる。この人もまた、自分のことを本気で心配してくれているのだ。
二人の間に漂っていたぎこちない空気が、缶コーヒーの温かさと共に、少しだけ溶けていくようだった。
その夜、りなはアパートの小さな部屋で、一人静かに物思いに耽っていた。
商店街の人々の温かさ。ハナおばあちゃんの笑顔。そして、佐藤の不器用な優しさ。
それらは全て、りながこの街で守りたいと願う、大切な宝物だ。
一方で、彼のことを考えると、胸が騒ぐ。
謎めいた弁護士、水島健太郎。彼の協力がなければ、受け子を逮捕することはできなかった。彼の存在は、事件解決への希望の光だ。しかし、その正体も、目的も、何も分からない。彼にこれ以上近づくことは、佐藤の言う通り、危険なことなのかもしれない。
水島を思うと、胸がスリルと期待で高鳴る。
佐藤を思うと、胸が安心感と、少しの罪悪感で温かくなる。
りなは窓を開け、春の夜風を部屋に入れた。
眼下には、桜川商店街の穏やかな夜景が広がっている。あの灯りの一つ一つの下に、人々の生活がある。
「私は……」
りなは、静かに呟いた。
「私は、私のできるやり方で、この街を守る」
それが、警察官として正しい道なのかは分からない。迷いながら、悩みながら、それでも進むしかない。
りなの心の中で、昼間に聞いた「うまい投資話」という言葉が、なぜか小さく引っかかっていた。
それは、次なる巨大な嵐が、すぐそこまで近づいていることを知らせる、ほんの小さな予兆だった。
第一部の幕が、静かに下りる。
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