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第32話:それぞれの明日
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水島健太郎と心を通わせた翌朝、田中りなは少しだけ寝坊をした。
慌てて身支度を整え、交番へと駆け込む。ドアを開ける瞬間、心臓がトクンと鳴った。佐藤巡査部長に、どんな顔で会えばいいのだろう。昨日の彼の、あの優しくも寂しげな背中が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「おはようございます!」
りなは、意を決して、いつもより少しだけ大きな声で挨拶をした。
「……ああ、おはよう」
デスクで報告書を読んでいた佐藤は、顔を上げると、いつもと何ら変わらない、落ち着いた様子で頷いた。そこには、昨日のような気まずさも、無理に平静を装う硬さもない。ただ、穏やかで、静かな空気が流れているだけだった。
その成熟した大人の態度に、りなは安堵すると同時に、彼への尊敬の念を一層深くした。
その日の桜川商店街は、快晴の空の下、お祝いムード一色に染まっていた。
テレビや新聞で「巨額詐欺ネットワーク、壊滅」のニュースが報じられたことで、商店街の人々は、自分たちの街の若い警察官が成し遂げた快挙に、我がことのように沸き立っていたのだ。
りなが巡回に出ると、行く先々で「りなちゃん!」「大手柄やな!」という声と共に、たくさんの差し入れを手渡された。
「りなちゃん、ほんまに、ほんまにありがとうな!」
ハナおばあちゃんは、涙を浮かべてりなの手を握った。被害金の一部が、正式に返還されることも決まったという。
「あんたと、水島先生は、この商店街の恩人や」
喫茶店『さくら』では、マスターの山崎さんが「今日のコーヒー代は、わしの奢りや!」と、とびきり美味しいブレンドを淹れてくれた。
八百屋の山田さんは、商店街中に響き渡るような大声で宣言した。
「よっしゃ! 今週末は、『桜川商店街平和祝賀会』を開くで! 主賓はもちろん、りなちゃんと佐藤さんや!」
その温かい祝福の輪の中心で、りなは自分が守りたかったものが、確かにここにあることを実感し、胸が熱くなった。
昼過ぎ、交番に客足が途絶え、静かな時間が訪れた。
りなが書類を整理していると、隣のデスクから、佐藤が静かに声をかけた。
「田中」
「……はい」
りなは、少しだけ身構えた。
「昨日……見たで。公園で、水島と一緒におるところ」
その言葉に、りなの心臓が小さく跳ねる。
「……すみません」
「なんで謝るんや」
佐藤は、穏やかに笑っていた。その表情には、もう悲しみや嫉妬の色はない。
「ええ顔、しとったわ。……わしが、今まで見た中で、一番ええ笑顔やった」
彼は、椅子をりなの方に向けると、まっすぐに彼女の目を見た。
「俺の気持ちは、本物やった。それは、今も変わらん。……けどな、今なら分かる。俺のあの気持ちは、半分は、お前を過去の自分から守りたいっていう、勝手な感傷やったんやろな」
彼は、自らの心を、一つ一つ確かめるように、言葉を紡いでいく。
「お前は、俺が守ってやらなあかんような、ひ弱な新人やなかった。自分の足で立って、自分の信じる正義の道を、見つけ出しよった。そして、水島とかいう、どうしようもない男のことも、救い出しよった」
その声には、上司として、そして一人の男としての、偽りのない誇りが込められていた。
佐藤は、すっと右手を差し出した。
「俺は、お前の上司や。そして、お前の先輩で、味方や。そのことは、この先も、絶対に変わらん。……ようやったな、田中。心から、尊敬する」
その言葉と、差し出された大きな手。りなの瞳から、堪えていた涙が、ぽろりとこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。感謝と、尊敬と、そして、この人の下で働けることへの、どうしようもないほどの喜びの涙だった。
りなは、その手を、両手で力強く握り返した。
「……はいっ! ありがとうございます、佐藤巡査部長! あなたは、私にとって、世界一の上司です!」
その日の夕方、りなのスマートフォンが鳴った。水島からだった。
彼の声は、電話越しでも分かるほど、明るく、そして軽やかだった。
『今、事務所の片付けをしているんです。昔の書類を整理していたら、父が遺した業務日誌が出てきましてね。……忘れていたことを、たくさん思い出しました』
彼の声には、過去を乗り越え、未来へ向かおうとする、確かな力が漲っていた。
『そういえば、商店街で祝賀会を開いてくださるそうですね。僕も、参加してよろしいのでしょうか』
「当たり前やないですか! あなたも、主賓なんですから!」
『はは、光栄です。では、とびきり美味しい日本酒でも、差し入れしましょう』
その自然で、穏やかな会話が、りなの心を幸せで満たした。
一日の勤務を終え、りなは夕暮れの商店街を、ゆっくりと自転車を押しながら歩いていた。
心の中には、二人の大切な男性の姿があった。
一人は、陽だまりのように温かく、揺るぎない道標となって、いつでも自分を正しい場所へと導いてくれる人。
もう一人は、かつて深い闇の中にいた、眩いほどの光。これからは、自分が隣でその光を支え、共に歩んでいく人。
自分は、何も失ってなどいなかった。それどころか、かけがえのない宝物を、二つも手に入れたのだ。
りなは、活気に満ちた商店街の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
未来は、明るい。
私の、私たちの物語は、まだ始まったばかりだ。
その横顔を、沈みゆく夕日が、優しく照らしていた。
慌てて身支度を整え、交番へと駆け込む。ドアを開ける瞬間、心臓がトクンと鳴った。佐藤巡査部長に、どんな顔で会えばいいのだろう。昨日の彼の、あの優しくも寂しげな背中が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「おはようございます!」
りなは、意を決して、いつもより少しだけ大きな声で挨拶をした。
「……ああ、おはよう」
デスクで報告書を読んでいた佐藤は、顔を上げると、いつもと何ら変わらない、落ち着いた様子で頷いた。そこには、昨日のような気まずさも、無理に平静を装う硬さもない。ただ、穏やかで、静かな空気が流れているだけだった。
その成熟した大人の態度に、りなは安堵すると同時に、彼への尊敬の念を一層深くした。
その日の桜川商店街は、快晴の空の下、お祝いムード一色に染まっていた。
テレビや新聞で「巨額詐欺ネットワーク、壊滅」のニュースが報じられたことで、商店街の人々は、自分たちの街の若い警察官が成し遂げた快挙に、我がことのように沸き立っていたのだ。
りなが巡回に出ると、行く先々で「りなちゃん!」「大手柄やな!」という声と共に、たくさんの差し入れを手渡された。
「りなちゃん、ほんまに、ほんまにありがとうな!」
ハナおばあちゃんは、涙を浮かべてりなの手を握った。被害金の一部が、正式に返還されることも決まったという。
「あんたと、水島先生は、この商店街の恩人や」
喫茶店『さくら』では、マスターの山崎さんが「今日のコーヒー代は、わしの奢りや!」と、とびきり美味しいブレンドを淹れてくれた。
八百屋の山田さんは、商店街中に響き渡るような大声で宣言した。
「よっしゃ! 今週末は、『桜川商店街平和祝賀会』を開くで! 主賓はもちろん、りなちゃんと佐藤さんや!」
その温かい祝福の輪の中心で、りなは自分が守りたかったものが、確かにここにあることを実感し、胸が熱くなった。
昼過ぎ、交番に客足が途絶え、静かな時間が訪れた。
りなが書類を整理していると、隣のデスクから、佐藤が静かに声をかけた。
「田中」
「……はい」
りなは、少しだけ身構えた。
「昨日……見たで。公園で、水島と一緒におるところ」
その言葉に、りなの心臓が小さく跳ねる。
「……すみません」
「なんで謝るんや」
佐藤は、穏やかに笑っていた。その表情には、もう悲しみや嫉妬の色はない。
「ええ顔、しとったわ。……わしが、今まで見た中で、一番ええ笑顔やった」
彼は、椅子をりなの方に向けると、まっすぐに彼女の目を見た。
「俺の気持ちは、本物やった。それは、今も変わらん。……けどな、今なら分かる。俺のあの気持ちは、半分は、お前を過去の自分から守りたいっていう、勝手な感傷やったんやろな」
彼は、自らの心を、一つ一つ確かめるように、言葉を紡いでいく。
「お前は、俺が守ってやらなあかんような、ひ弱な新人やなかった。自分の足で立って、自分の信じる正義の道を、見つけ出しよった。そして、水島とかいう、どうしようもない男のことも、救い出しよった」
その声には、上司として、そして一人の男としての、偽りのない誇りが込められていた。
佐藤は、すっと右手を差し出した。
「俺は、お前の上司や。そして、お前の先輩で、味方や。そのことは、この先も、絶対に変わらん。……ようやったな、田中。心から、尊敬する」
その言葉と、差し出された大きな手。りなの瞳から、堪えていた涙が、ぽろりとこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。感謝と、尊敬と、そして、この人の下で働けることへの、どうしようもないほどの喜びの涙だった。
りなは、その手を、両手で力強く握り返した。
「……はいっ! ありがとうございます、佐藤巡査部長! あなたは、私にとって、世界一の上司です!」
その日の夕方、りなのスマートフォンが鳴った。水島からだった。
彼の声は、電話越しでも分かるほど、明るく、そして軽やかだった。
『今、事務所の片付けをしているんです。昔の書類を整理していたら、父が遺した業務日誌が出てきましてね。……忘れていたことを、たくさん思い出しました』
彼の声には、過去を乗り越え、未来へ向かおうとする、確かな力が漲っていた。
『そういえば、商店街で祝賀会を開いてくださるそうですね。僕も、参加してよろしいのでしょうか』
「当たり前やないですか! あなたも、主賓なんですから!」
『はは、光栄です。では、とびきり美味しい日本酒でも、差し入れしましょう』
その自然で、穏やかな会話が、りなの心を幸せで満たした。
一日の勤務を終え、りなは夕暮れの商店街を、ゆっくりと自転車を押しながら歩いていた。
心の中には、二人の大切な男性の姿があった。
一人は、陽だまりのように温かく、揺るぎない道標となって、いつでも自分を正しい場所へと導いてくれる人。
もう一人は、かつて深い闇の中にいた、眩いほどの光。これからは、自分が隣でその光を支え、共に歩んでいく人。
自分は、何も失ってなどいなかった。それどころか、かけがえのない宝物を、二つも手に入れたのだ。
りなは、活気に満ちた商店街の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
未来は、明るい。
私の、私たちの物語は、まだ始まったばかりだ。
その横顔を、沈みゆく夕日が、優しく照らしていた。
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