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第34話:光のなかで
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佐藤巡査部長の異動が正式に発表されてから、一週間が過ぎた。
桜川交番には、後任となる新しい巡査部長が着任するまでの間、隣の管区から応援が来るなど、少しだけ慌ただしい日々が続いていた。
田中りなは、寂しさを感じながらも、佐藤が新たな道へと進んだことを心から応援していた。そして、彼が残してくれた「お前はもう立派な警察官や」という言葉を胸に、以前にも増して職務に励んでいた。
水島健太郎とは、あの祝賀会の日以来、何度か短いメッセージを交わしただけだった。彼の心の中も、きっと、大きな変化の時を迎えているはずだ。りなは、焦らずに、そっとその時を待っていた。
その日の勤務を終え、りなはふと、彼の事務所を訪ねてみたくなった。何か特別な用事があったわけではない。ただ、彼の顔が見たかった。
和菓子屋『桜屋』で、彼が好きだと言っていた桜餅をいくつか包んでもらい、りなはあの古い雑居ビルの階段を上った。
ドアをノックしようとして、りなは中の様子がいつもと違うことに気づいた。ドアに付けられたすりガラスの向こう側が、心なしか、以前より明るいのだ。
不思議に思いながらドアを開けた瞬間、りなは自分の目を疑った。
「……えっ!?」
そこは、本当にあの水島の事務所だろうか。
床や机の上を埋め尽くしていた、おびただしいほどの書類の山は、綺麗にファイルにまとめられ、本棚に整然と収まっている。ソファの上に無造作に脱ぎ捨てられていたジャケットも、そこにはない。部屋の隅々まで掃除が行き届き、西日が窓から差し込んで、床の上でキラキラと輝いていた。
まるで、長年この部屋を覆っていた分厚い埃と、そして重たい闇が、綺麗に祓われたかのようだった。
部屋の主である水島は、その明るくなったデスクで、電話で誰かと話していた。
「ええ、はい。ご心配には及びませんよ、奥さん。その手の悪質な訪問販売は、契約そのものが無効だと主張できます。まずは内容証明を送って……はい、費用は気になさらないでください。これは、僕がやるべき仕事ですから」
その声は、驚くほど優しく、そして穏やかだった。
電話を終えた水島は、入り口に立ち尽くすりなの姿に気づくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ、りなさん。いらっしゃい」
「水島さん……この部屋、どうしたんですか!? 引っ越しでもするんですか?」
「いえ、ただの大掃除ですよ。少し、風通しを良くしたくて」
りなは、彼から手渡された桜餅の包みを見つめながら、先ほどの電話について尋ねた。
「新しい事件、ですか?」
「ええ。まあ、事件というほど大げさなものではありませんが」
水島は、少し照れたように言った。
「隣町のおばあさんが、高額な布団を無理やり買わされてしまったそうでしてね。その相談に乗っていたんです」
それは、黒川のような巨大な組織が絡む事件ではない。どこにでもある、小さな、しかし当事者にとっては深刻なトラブル。そして、彼はその依頼を、無償で引き受けたようだった。
「……そっか。よかった」
りなの口から、思わず安堵のため息が漏れた。これこそが、自分がずっと見てみたかった、彼の姿だったから。
「すごいですね、水島さん。……かっこええです」
素直な賞賛の言葉に、今度は水島の方が顔を赤らめていた。
二人は、綺麗になったソファに並んで腰掛け、桜餅を食べながら、とりとめのない話をした。
やがて、水島が、窓の外に視線を移しながら、ぽつりと呟いた。
「黒川が逮捕されてから、ずっと考えていたんです。僕の人生を支配していた『復讐』というものが無くなった今、自分には何が残っているのだろう、と」
「……」
「僕は、ずっと、自分を『鬼を斬るためだけの剣』だと思っていました。鬼がいなくなってしまえば、ただの役立たずの鉄の塊だ、と。どうやって生きていけばいいのか、正直、分からなかった」
彼は、りなの方へと向き直った。その瞳は、これまで見たこともないほど、澄み切っている。
「でも、りなさん。君は、剣じゃない」
「え?」
「君は、まるで灯台の光のようだ。闇雲に闇を追いかけるんやない。ただ、自分のいるべき場所で、強く、真っ直ぐな光を放ち続ける。そして、道に迷った船を、嵐に巻き込まれそうな人々を、安全な場所へと導いていく。……君は、この街の、日常の平和そのものを、守っているんやな」
「僕も、そうなりたい、と思ったんです」
彼は、続けた。
「もう、復つま先立ちの剣であるのはやめよう、と。これからは、君のように、君の隣で、この街の平和を守るための『盾』になりたい。法律という、本当の力を使って。一つ一つの、小さな涙を、見過ごさないような、そんな弁護士に」
それは、彼の新しい人生の始まりを告げる、力強い誓いの言葉だった。
りなの心は、喜びと、愛しさで、はちきれそうだった。
この人は、本当に、過去から解放されたのだ。
「そしたら……」
りなは、いたずらっぽく笑った。
「ほんまもんの、パートナーですね! 桜川商店街で一番の警察官と、一番の弁護士です!」
その言葉に、水島もまた、心からの笑顔を浮かべた。
「そういえば、りなさん。今度の週末、空いていますか」
「え? は、はい。今のところは……」
「よかった。……でしたら、一緒に、映画でも見に行きませんか。事件の捜査でも、作戦会議でもなく……ただ、普通のデートとして」
その、あまりにも普通で、穏やかな誘いの言葉。
りなは、頬を染めながら、人生で一番、幸せな声で、答えた。
「……はいっ! 喜んで!」
事務所を出る時、りなは振り返って、明るくなった部屋をもう一度見渡した。
「ほんま、きれいになりましたね。見違えました」
「ええ。スペースを空けないといけませんでしたから」
「スペース? 何のための、ですか?」
水島は、りなの目をまっすぐに見つめて、微笑んだ。
「決まっているでしょう。――光が、入ってくるための、ですよ」
その言葉の意味を、りなは痛いほど理解した。
春の日差しが、綺麗になった事務所を、そして、二人の未来を、どこまでも明るく照らし出していた。
桜川交番には、後任となる新しい巡査部長が着任するまでの間、隣の管区から応援が来るなど、少しだけ慌ただしい日々が続いていた。
田中りなは、寂しさを感じながらも、佐藤が新たな道へと進んだことを心から応援していた。そして、彼が残してくれた「お前はもう立派な警察官や」という言葉を胸に、以前にも増して職務に励んでいた。
水島健太郎とは、あの祝賀会の日以来、何度か短いメッセージを交わしただけだった。彼の心の中も、きっと、大きな変化の時を迎えているはずだ。りなは、焦らずに、そっとその時を待っていた。
その日の勤務を終え、りなはふと、彼の事務所を訪ねてみたくなった。何か特別な用事があったわけではない。ただ、彼の顔が見たかった。
和菓子屋『桜屋』で、彼が好きだと言っていた桜餅をいくつか包んでもらい、りなはあの古い雑居ビルの階段を上った。
ドアをノックしようとして、りなは中の様子がいつもと違うことに気づいた。ドアに付けられたすりガラスの向こう側が、心なしか、以前より明るいのだ。
不思議に思いながらドアを開けた瞬間、りなは自分の目を疑った。
「……えっ!?」
そこは、本当にあの水島の事務所だろうか。
床や机の上を埋め尽くしていた、おびただしいほどの書類の山は、綺麗にファイルにまとめられ、本棚に整然と収まっている。ソファの上に無造作に脱ぎ捨てられていたジャケットも、そこにはない。部屋の隅々まで掃除が行き届き、西日が窓から差し込んで、床の上でキラキラと輝いていた。
まるで、長年この部屋を覆っていた分厚い埃と、そして重たい闇が、綺麗に祓われたかのようだった。
部屋の主である水島は、その明るくなったデスクで、電話で誰かと話していた。
「ええ、はい。ご心配には及びませんよ、奥さん。その手の悪質な訪問販売は、契約そのものが無効だと主張できます。まずは内容証明を送って……はい、費用は気になさらないでください。これは、僕がやるべき仕事ですから」
その声は、驚くほど優しく、そして穏やかだった。
電話を終えた水島は、入り口に立ち尽くすりなの姿に気づくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ、りなさん。いらっしゃい」
「水島さん……この部屋、どうしたんですか!? 引っ越しでもするんですか?」
「いえ、ただの大掃除ですよ。少し、風通しを良くしたくて」
りなは、彼から手渡された桜餅の包みを見つめながら、先ほどの電話について尋ねた。
「新しい事件、ですか?」
「ええ。まあ、事件というほど大げさなものではありませんが」
水島は、少し照れたように言った。
「隣町のおばあさんが、高額な布団を無理やり買わされてしまったそうでしてね。その相談に乗っていたんです」
それは、黒川のような巨大な組織が絡む事件ではない。どこにでもある、小さな、しかし当事者にとっては深刻なトラブル。そして、彼はその依頼を、無償で引き受けたようだった。
「……そっか。よかった」
りなの口から、思わず安堵のため息が漏れた。これこそが、自分がずっと見てみたかった、彼の姿だったから。
「すごいですね、水島さん。……かっこええです」
素直な賞賛の言葉に、今度は水島の方が顔を赤らめていた。
二人は、綺麗になったソファに並んで腰掛け、桜餅を食べながら、とりとめのない話をした。
やがて、水島が、窓の外に視線を移しながら、ぽつりと呟いた。
「黒川が逮捕されてから、ずっと考えていたんです。僕の人生を支配していた『復讐』というものが無くなった今、自分には何が残っているのだろう、と」
「……」
「僕は、ずっと、自分を『鬼を斬るためだけの剣』だと思っていました。鬼がいなくなってしまえば、ただの役立たずの鉄の塊だ、と。どうやって生きていけばいいのか、正直、分からなかった」
彼は、りなの方へと向き直った。その瞳は、これまで見たこともないほど、澄み切っている。
「でも、りなさん。君は、剣じゃない」
「え?」
「君は、まるで灯台の光のようだ。闇雲に闇を追いかけるんやない。ただ、自分のいるべき場所で、強く、真っ直ぐな光を放ち続ける。そして、道に迷った船を、嵐に巻き込まれそうな人々を、安全な場所へと導いていく。……君は、この街の、日常の平和そのものを、守っているんやな」
「僕も、そうなりたい、と思ったんです」
彼は、続けた。
「もう、復つま先立ちの剣であるのはやめよう、と。これからは、君のように、君の隣で、この街の平和を守るための『盾』になりたい。法律という、本当の力を使って。一つ一つの、小さな涙を、見過ごさないような、そんな弁護士に」
それは、彼の新しい人生の始まりを告げる、力強い誓いの言葉だった。
りなの心は、喜びと、愛しさで、はちきれそうだった。
この人は、本当に、過去から解放されたのだ。
「そしたら……」
りなは、いたずらっぽく笑った。
「ほんまもんの、パートナーですね! 桜川商店街で一番の警察官と、一番の弁護士です!」
その言葉に、水島もまた、心からの笑顔を浮かべた。
「そういえば、りなさん。今度の週末、空いていますか」
「え? は、はい。今のところは……」
「よかった。……でしたら、一緒に、映画でも見に行きませんか。事件の捜査でも、作戦会議でもなく……ただ、普通のデートとして」
その、あまりにも普通で、穏やかな誘いの言葉。
りなは、頬を染めながら、人生で一番、幸せな声で、答えた。
「……はいっ! 喜んで!」
事務所を出る時、りなは振り返って、明るくなった部屋をもう一度見渡した。
「ほんま、きれいになりましたね。見違えました」
「ええ。スペースを空けないといけませんでしたから」
「スペース? 何のための、ですか?」
水島は、りなの目をまっすぐに見つめて、微笑んだ。
「決まっているでしょう。――光が、入ってくるための、ですよ」
その言葉の意味を、りなは痛いほど理解した。
春の日差しが、綺麗になった事務所を、そして、二人の未来を、どこまでも明るく照らし出していた。
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