偽りの正義(フェイク・ジャスティス)〜青い制服と黒いスーツの約束〜

藤森瑠璃香

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第36話:新しい日常、最初の事件

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 佐藤巡査部長が桜川交番を去ってから、一ヶ月が過ぎた。
 街はすっかり春爛漫の陽気に包まれ、商店街のアーケードを吹き抜ける風も、どこか浮き立つように軽やかだ。田中りなの日常にも、新しいリズムが生まれていた。
 朝、勤務が始まる少し前に、水島健太郎の事務所を訪ねて、二人でコーヒーを飲むのがささやかな習慣になっていた。事件の話をするわけではない。ただ、他愛のない言葉を交わし、「いってらっしゃい」「いってきます」と見送られる。その時間が、りなの一日の、何よりの活力源となっていた。

 交番での仕事も、板についてきた。新しく配属された年配の巡査部長は、穏やかな人柄で、りなの自主性を尊重してくれた。かつてのように、規則と人情の間で一人思い悩むことはもうない。自分なりの正義の形を、少しずつ見つけ出せるようになっていた。

 その日も、平和な一日になるはずだった。
 昼下がり、魚屋の松本さんが、血相を変えて交番に駆け込んできた。
「りなちゃん、大変や! うちのバイトの子が、騙されてもうた!」
 話を聞くと、こうだ。昼の繁忙時間、店が一番混み合っている最中に、一本の電話があった。電話に出たのは、まだ働き始めて三ヶ月の、高校生のアルバイトの女の子だった。
 電話の相手は、松本さんの甥を名乗り、「事故を起こしてもうた。示談金が、今すぐ五十万円いるんや。叔父さんには内緒にしてくれ!」と、泣きながら助けを求めてきたという。
 慌てた女の子は、善意から、店のレジにその日あった売上金の中から、五万円を抜き出してしまった。そして、店の前に現れた、「甥の代理人」を名乗る男に、その金を渡してしまったのだという。

「……典型的な、オレオレ詐欺の応用ですね」
 話を聞き終えたりなは、静かに、しかし確かな怒りを込めて言った。
 店の奥では、責任を感じて泣きじゃくるアルバイトの女の子を、松本さんの奥さんがあやす声が聞こえる。
「まさか、うちの店が狙われるなんて……。りなちゃん、すまんが、頼む!」
「任せてください、松本さん。絶対に、この犯人、捕まえます!」
 りなは、力強く請け負った。

 黒川のネットワークのような、巨大な組織ではないかもしれない。だが、人の善意や信頼を踏みにじる、卑劣な犯罪であることに変わりはない。
 りなは、すぐに初動捜査を開始した。アルバイトの女の子から、犯人の男の人相や服装を詳しく聞き出し、商店街の防犯カメラの映像を、一つ一つ丹念に確認していく。
 以前の自分なら、こんな時、すぐに水島に助けを求めていただろう。「何か、普通じゃない方法はありませんか」と。
 だが、今のりなは違った。まずは、警察官として、やるべきことをやる。地道な捜査の積み重ねこそが、犯人逮捕への一番の近道だと、彼女はもう知っていたからだ。

 勤務を終えた後、りなは水島の事務所を訪れた。それは、秘密の作戦会議のためではない。今日の出来事を、一番大切なパートナーに報告するためだった。
「……それで、防犯カメラに、それらしき男の姿が映っていたんです。でも、顔が不鮮明で……」
 りなが悔しそうに言うと、水島は彼女が持参した映像のキャプチャー画像を、鋭い目で見つめた。
「なるほど。この男、意図的にカメラの死角を選んで歩いていますね。かなりの手練れだ」
 彼は、以前のように「僕が潜入しましょう」とは言わなかった。代わりに、弁護士として、的確なアドバイスをりなに与える。
「この種の詐欺は、反復性が高い。おそらく、彼は近隣の地域で、同じ手口を繰り返しているはずです。府警のデータベースに、類似事件の報告がないか、照会してみる価値はありますよ」
「! そうですね! すぐに、手配してみます!」

「それと、りなさん」
 水島は、続けた。
「犯人を逮捕した後、取り調べで必ず確認すべきことがあります。彼が『借りただけだ』と言い逃れできないよう、『最初から騙す意図があった』ことを、法的に明確にするための質問の仕方があるんです」
 彼は、りなにいくつかの具体的な質問項目を書き出してくれた。それは、彼の「剣」が、もはや復讐のためではなく、法の下で、りなの「盾」を支えるために使われていることを、明確に示していた。

 翌日、りなは水島のアドバイス通りに動いた。
 府警のデータベースを照会すると、やはり、隣町で数件、同じ手口の被害が報告されていることが判明した。さらに、山田会長に協力を仰ぎ、商店街の全店舗に、注意喚起のチラシと、不鮮明ながらも犯人の姿が映った写真を配布した。

 そして、三日後の午後だった。
 りなが商店街を巡回していると、パン屋の林さんから、交番に慌てた様子で電話が入った。
「りなちゃん! 来たで! チラシの男が、今、うちの店に電話かけてきよった!」
「ほんまですか!?」
「ああ! 今、店の前に代理人の男を来させる言うとる! すぐ来てくれ!」

 りなは、自転車を全力で漕いだ。
 店の角を曲がった時、ちょうど、一人の男がパン屋から出てきて、足早に立ち去ろうとするのが見えた。写真の男と、服装も背格好も一致している。
「待ちなさい!」
 りなの鋭い声に、男がびくりと振り返る。そして、りなの制服姿を見るなり、脱兎のごとく逃げ出した。
 だが、もう遅い。
 りなは、持ち前の健脚で一気に距離を詰めると、鮮やかな一本背負いで、男を地面に制圧した。それは、佐藤に何度も叩き込まれた、美しい逮捕術だった。

 その日の夜。
 りなと水島は、商店街の小さな定食屋で、ささやかな祝杯を挙げていた。
「……というわけで、無事、犯人を逮捕できました」
 りなが、少し得意げに報告する。
「いえ、訂正します」
 水島が、優しく微笑んで言った。
「僕が、ではない。『君が』、です。素晴らしい警察官の仕事でしたよ」
 その言葉に、りなは照れながらも、胸いっぱいの誇りを感じた。
「まあ、世界一のリーガル・アドバイザーがついてますからね!」
「光栄ですね」
 二人は、顔を見合わせて笑い合った。
 目の前の事件を、二人で力を合わせ、それぞれのやり方で解決していく。
 それは、黒川との戦いのような、悲壮感に満ちたものではない。もっと、明るくて、希望に満ちた、新しい日常の始まりだった。
 定食屋の温かい灯りが、そんな二人の、幸せそうな横顔を、優しく照らしていた。
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