鬼の花嫁は役行者に隷属契約されました~

藤森瑠璃香

文字の大きさ
36 / 40

第三十六話:凶報、紅涙(こうるい)の道行きと絶望の里

しおりを挟む
「霧隠(きりがくれ)の里で、妖狐(ようこ)が暴れて村人を襲い、大変なことになっているそうですわ」
 橘 咲耶(たちばな さくや)が別れ際に何気なく口にしたその言葉は、朱音(あかね)の心臓を氷の矢で射抜いたかのような衝撃を与えた。
「そ、そんな…! 霧隠の里には…私の、知っている子が…! 小夜(さよ)ちゃんが…!」
 朱音は顔面蒼白になり、取り乱したように叫んだ。あの愛らしい狐耳の少女、はにかんだような笑顔、そして「朱音姉ちゃん、待っとるからのう」と手を振ってくれた最後の姿が、鮮明に脳裏をよぎる。
 役小角(えんのおづぬ)様は、朱音のそのただならぬ様子と咲耶の情報を聞き、即座に事態の深刻さを理解した。彼の黒い瞳が鋭く光り、その場の空気が一瞬にして張り詰める。
「咲耶、詳しい話を聞かせろ。そして、我らをその村へ案内しろ。我らも急ぎ、その霧隠の里へ向かう」
 その声は、普段の彼からは想像もつかないほど切迫しており、有無を言わせぬ力強さがあった。義王(ぎおう)もまた、主のその言葉に即座に反応し、その巨躯から静かな闘気を放ち始める。
 咲耶は、役小角様のその迅速な判断と、そして彼が朱音に見せる(ように見える)深い気遣いに、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの蠱惑的(こわくてき)な笑みを浮かべた。
「…よろしいでしょう。わたくしも、あなた方のような強力な助っ人がいてくだされば、これほど心強いことはございませんわ。道はこちらです。急ぎましょう」
 咲耶が先導し、一行は先ほどまでとは打って変わって、重く、そして焦燥感に満ちた空気の中、霧隠の里へと急ぎ引き返すことになった。

 霧隠の里へと続く山道は、数日前に通った時よりも、なぜか一層寂しく、そして不吉な気配に満ちているように感じられた。道すがら、咲耶が彼女の元に入った依頼の詳しい内容を、朱音にも聞こえるように語り始めた。
「わたくしのところに使いが来たのは、つい昨日のこと。話によりますと、霧隠の里の猟師たちが、最近の食料被害の原因を妖狐と決めつけ、大規模な狐狩りを強行したそうですわ」
 朱音の胸が、ドクンと嫌な音を立てた。
「猟師たちは、最初こそ何匹かの狐を追い詰め、退治していたとか。けれど、その最中に、山の奥深くから、今まで見たこともないほど巨大で、禍々(まがまが)しい気配を放つ『恐ろしい妖狐』――あるいは『古狐(ふるぎつね)』とでも呼ぶべきもの――が現れ、猟師たちに牙を剥いたのですって」
 咲耶の声は淡々としていたが、その内容はあまりにも衝撃的だった。
「その妖狐は、まるで人の言葉を解するかのように猟師たちの動きを読み、常軌を逸した力で彼らを次々と打ち倒したとか。そして、怒り狂ったように里にまで乗り込んできて、家々を破壊し、抵抗しようとした村人まで…その毒牙にかけた、と。わたくしが呼ばれたのは、その『恐ろしい妖狐』を鎮め、これ以上の被害を食い止めるためですの」
 その言葉は、朱音の心に冷たい絶望の影を落とした。

(どうして……どうして、私たちの言葉を信じてくれなかったの……!)
 朱音の脳裏には、霧隠の里の村人たちの、妖狐への強い偏見に満ちた目つきや、猟師たちの殺気立った言葉が蘇る。
(狐さんたちは何も悪いことなんてしていないと、小夜ちゃんはあんなに必死に、涙を浮かべて訴えていたのに……! それなのに、村の人たちは……!)
 誤解が招いた、あまりにも酷い悲劇。そして、自分があの時、もっと強く村人たちを説得することができなかったことへの、深い後悔と無力感。朱音は、唇をきつく噛みしめ、その瞳には怒りと悲しみの涙が滲んでいた。
(だから、小夜ちゃんは……? あの子は、一体どうなってしまったの……? あんなに狐さんたちのことを大切に想っていたあの子が……無事でいてくれるはずがない……!)
 最悪の事態を想像し、朱音の心は、まるで冷たい水底に沈んでいくかのように、絶望的な不安で押し潰されそうになる。彼女は、ただひたすらに小夜の無事を祈りながら、役小角様がいつの間にか強く握りしめてくれていた手の温もりだけを頼りに、先を急いだ。彼の大きな手は、朱音の震えを鎮めるかのように、力強く、そしてどこまでも優しかった。

 夕闇が迫り、空が茜色から深い藍色へと変わる頃、一行はついに霧隠の里へとたどり着いた。
 しかし、そこに広がっていたのは、数日前に朱音が別れを告げた、あの穏やかで静かな山里の面影はどこにもない、無残なまでに破壊され、血と瘴気(しょうき)の禍々しい匂いが立ち込める、地獄のような惨状だった。
 家々の壁は薙ぎ倒され、戸板は砕け散り、屋根には大きな穴が開いている。広場には、先ほどまで威勢の良かったはずの猟師たちが、深手を負って呻き声を上げながら横たわり、村人たちは恐怖に顔を引きつらせ、戸締りした家の中に息を潜めて閉じこもっている。空気は重く淀み、そこには絶望と死の匂いだけが満ちていた。
「……これは、想像以上ですわね。よほど強力な妖狐のようですわ」
 咲耶が、扇子で鼻を覆いながら眉をひそめる。役小角様と義王もまた、その凄惨な光景に表情を厳しくし、全身から警戒の気を放っていた。

 朱音は、そんな村の変わり果てた様子には目もくれず、ただ一点、村外れの小高い丘、小夜の住んでいた炭焼き小屋があったはずの方向を、食い入るように見つめていた。
「小夜ちゃん……! 小夜ちゃんはどこ……!?」
 彼女は、まるで何かに取り憑かれたかのように、役小角様の制止を振り切るようにして、小夜の小屋があった場所へと駆け出した。その胸には、万に一つの希望と、そしてそれを打ち消すかのような、あまりにも重く、そして絶望的な予感が渦巻いていた。
 役小角様と義王、そして咲耶もまた、その悲痛な叫びに顔を見合わせ、朱音の後を追って駆け出した。
 寂しい山の端に、最後の夕陽が血のように滲んでいく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

本日、訳あり軍人の彼と結婚します~ド貧乏な軍人伯爵さまと結婚したら、何故か甘く愛されています~

扇 レンナ
キャラ文芸
政略結婚でド貧乏な伯爵家、桐ケ谷《きりがや》家の当主である律哉《りつや》の元に嫁ぐことになった真白《ましろ》は大きな事業を展開している商家の四女。片方はお金を得るため。もう片方は華族という地位を得るため。ありきたりな政略結婚。だから、真白は律哉の邪魔にならない程度に存在していようと思った。どうせ愛されないのだから――と思っていたのに。どうしてか、律哉が真白を見る目には、徐々に甘さがこもっていく。 (雇う余裕はないので)使用人はゼロ。(時間がないので)邸宅は埃まみれ。 そんな場所で始まる新婚生活。苦労人の伯爵さま(軍人)と不遇な娘の政略結婚から始まるとろける和風ラブ。 ▼掲載先→エブリスタ、アルファポリス ※エブリスタさんにて先行公開しております。ある程度ストックはあります。

ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました

大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

マッチ率100%の二人だが、君は彼女で私は彼だった

naomikoryo
恋愛
【♪♪♪第19回恋愛小説大賞 参加作品♪♪♪ 本編開始しました!!】【♪♪ 毎日、朝5時・昼12時・夕17時 更新予定 ♪♪ 応援、投票よろしくお願いします(^^) ♪♪】 出会いサイトで“理想の異性”を演じた二人。 マッチ率100%の会話は、マッチアプリだけで一か月続いていく。 会ったことも、声を聞いたこともないのに、心だけが先に近づいてしまった。 ――でも、君は彼女で、私は彼だった。 嘘から始まったのに、気持ちだけは嘘じゃなかった。 百貨店の喧騒と休憩室の静けさの中で、すれ違いはやがて現実になる。 “会う”じゃなく、“見つける”恋の行方を、あなたも覗いてみませんか。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

女嫌いな辺境伯と歴史狂いの子爵令嬢の、どうしようもなくマイペースな婚姻

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
恋愛
「友好と借金の形に、辺境伯家に嫁いでくれ」  行き遅れの私・マリーリーフに、突然婚約話が持ち上がった。  相手は女嫌いに社交嫌いな若き辺境伯。子爵令嬢の私にはまたとない好条件ではあるけど、相手の人柄が心配……と普通は思うでしょう。  でも私はそんな事より、嫁げば他に時間を取られて大好きな歴史研究に没頭できない事の方が問題!  それでも互いの領地の友好と借金の形として仕方がなく嫁いだ先で、「家の事には何も手出し・口出しするな」と言われて……。  え、「何もしなくていい」?!  じゃあ私、今まで通り、歴史研究してていいの?!    こうして始まる結婚(ただの同居)生活が、普通なわけはなく……?  どうやらプライベートな時間はずっと剣を振っていたい旦那様と、ずっと歴史に浸っていたい私。  二人が歩み寄る日は、来るのか。  得意分野が文と武でかけ離れている二人だけど、マイペース過ぎるところは、どこか似ている?  意外とお似合いなのかもしれません。笑

5分前契約した没落令嬢は、辺境伯の花嫁暮らしを楽しむうちに大国の皇帝の妻になる

西野歌夏
恋愛
 ロザーラ・アリーシャ・エヴルーは、美しい顔と妖艶な体を誇る没落令嬢であった。お家の窮状は深刻だ。そこに半年前に陛下から連絡があってー  私の本当の人生は大陸を横断して、辺境の伯爵家に嫁ぐところから始まる。ただ、その前に最初の契約について語らなければならない。没落令嬢のロザーラには、秘密があった。陛下との契約の背景には、秘密の契約が存在した。やがて、ロザーラは花嫁となりながらも、大国ジークベインリードハルトの皇帝選抜に巻き込まれ、陰謀と暗号にまみれた旅路を駆け抜けることになる。

結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。 絶対に離婚届に判なんて押さないからな」 既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。 まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。 紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転! 純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。 離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。 それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。 このままでは紘希の弱点になる。 わかっているけれど……。 瑞木純華 みずきすみか 28 イベントデザイン部係長 姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点 おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち 後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない 恋に関しては夢見がち × 矢崎紘希 やざきひろき 28 営業部課長 一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長 サバサバした爽やかくん 実体は押しが強くて粘着質 秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?

処理中です...