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しおりを挟むその後、暫く土方は沖田の傍らにいた。先ほどまで長々と話をしていたせいか、沖田は疲労の色が濃くなっていた。これ以上は、本当に静養の邪魔になると判断した土方は、
「それでは、大事にしろよ」と言い残して去ろうとした。
今生の別れだと思っていても、妙に、こざっぱりとした挨拶だなと、土方自身思ったが、湿っぽいよりは性に合っている。立ち上がった土方に、沖田は「土方さん」と小さく呟いた。外に向かおうとしていた足を止めて、土方は振り返る。
「どうした、総司」
「なんで、私の所に来たんですか?」
「そりゃ、見舞いに……」決まっているだろうと言おうとしたのを、沖田に阻まれた。「見舞いじゃありませんよ。土方さんが、そんな殊勝なことをするはずがない。もし、するとしたら、あんたは、もう、土方さんじゃない。御旗本の内藤様だかなんだか知らないけど、私の知ってる、土方さんじゃない」
「おいおい、そこまで、俺は酷い人間か?」
思わず苦笑しながら言う土方だが、沖田の顔は、真剣だ。「土方さん」と沖田は言う。土方は、戸惑う。今日は、戸惑うことばかりだと思った。正直なところ、ここには、沖田の見舞いに来ただけだった。ここに来る最後だと思って、足を向けた。ただそれだけだ。
「……見舞いだよ。それと、状況を、お前には伝えておこうと思っていたからな。けどなぁ、総司。それが、なんで、俺じゃなくなるんだ? ……確かに、俺は、『内藤隼人』なんて名を名乗ることもある。出世はしたんだ。当たり前だろう? 武州の片田舎の百姓上がりの俺が、上様の警護をしたり、ご老中と話したりするには、それなりに、整えなきゃ為らないものだってあるんだよ。だからといって、それで、俺のなにが変わったって言うんだよ」
必死に言う土方に、沖田は小さく呟いた。
「さしむかう 心は清き 水鏡」
土方は、うっ、と黙った。それは、かつて土方が作った俳句だった。一端の俳人気取りで句集を纏めたこともある。文久三年の年、江戸を経つ前に、土方は自分の作った俳句の中でも気に入ったものだけを句集に纏め始めた。死を、隣に感じるような毎日を送る覚悟が付いたとき、土方は、自分の感じたことや思ったことを素直に書き留めておいた句を、形にして纏めたいという欲求が出た。京にも持って行き、折に触れては俳句を作って、その中でも気に入ったものを句集に書き留めるようにしていた。『さしむかう……』は『豊玉発句集』と名付けた句集の中でも冒頭に持ってきた句だった。当時の土方も、気に入ったからこそ、この句を初句とした。
この『豊玉発句集』も、沖田には見せていたが、まさか覚えているとは思わなかった。
「土方さん。私たちは……随分汚れてきたけれど、心だけは清くありたかったもんですね」
何かを諦めたように、沖田は呟いた。「せめて、土方さんは……生きて下さい。最後まで、生き抜いて下さいよ。死んで散るだけが、武士道じゃないはずですよ。約束して下さいね。……もう、私は眠くなってきたんで、眠ります」
それじゃあ、土方さんのご武運を祈っています、と沖田は言って、そのまま、眠りに落ちてしまった。
(言いたいことだけ言って、勝手な奴だ)と土方は思った。その上、言いたいことがあるならば、ハッキリ言えばいいのに回りくどいことこの上ない。沖田のやつれた寝顔を見ながら、今日、沖田と交わした会話を頭の中で反芻したが、やはり、沖田の意図はわからなかった。暫く、沖田の顔を見ていた土方の脳裏に、先ほどの沖田の問いかけが響いた。
『なんで、私の所に来たんですか?』
(たしかに、ただの見舞いじゃないな)と土方は認めた。認めたが、口には出さなかった。沖田ならば、気配を殺して寝息を立てて、起きているかもしれないと思ったからだ。四方八方敵に囲まれているからこその用心だが、これでは、ただの獣のようだ。『壬生狼』と言われ、洛中の人々を震撼させた自分たちは、獣そのものだった。味方に寝首を掻かれても、不思議ではない場所だったから、四六時中気を張り詰めていなければならなかった。自然と気配や物音には敏感になった。
(……総司よ。俺は、お前に今生の別れを告げに来たんだ)
言葉に出さずに、土方は呟く。今、土方が今生の別れを告げなければならない相手など、沖田くらいだ。だから、ここに来た。
(お前は俺に、生きろというが……俺は、今から、死地に向かうんだ。会津に向かう。近藤さんの助命は、もう、行わない。会津に行って、あとは、潔く散るだけなんだよ)と土方は心の中で、そう呟く。
そう。出来ることならば、選びたいのは、美しい生き様だ。咲ける日だけ咲いて散る梅の花のように、己の天分を全うしたら、あとは潔く散ればよいと考えている。いつまでも枝に残り、枝上で朽ちて老醜を晒すのは、土方にとっては耐え難いものだ。それならば、最も美しい、その刹那だけ咲いて、そして散る道を選びたい。
沖田も、土方の望みに理解は示すだろう。しかし、病床の沖田は、土方の選択を、許し難い気持ちで見ているのかもしれない。自らの意思とは無関係に、病魔によって命の灯火を吹き消されようとしている沖田は……まだ、生きたいのかもしれない。
(だとしたら……お前は、生きて、何がしたいんだろうな)
土方は、『新撰組』の頃の沖田の姿を想像してみた。だんだら山形の揃いの隊服を身に纏い、刀を振るう。それは、とても美しいものだった。
二度と見ることはない風景が、今は胸に痛い。
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