帰る旅

七瀬京

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 坂本城では、万事を惟任が差配して存分に信長を持てなし、滞りなく一晩が過ぎた。夜が明けた時、信長は、興が向いて船に乗りたくなったらしい。船で安土城に向かう事になった。船着き場に着くなり、信長は、

「乱、そなたも船に入れ。そのものも、いち早くお妻木に見せてやりたい。共に連れよ」 と甲高い声で命じて船に乗り込んでしまった。

 船は、外から見るよりも、広々としていた。信長を迎えるために誂えられた船なのか、畳敷きのちいさな部屋が乗っていて、凪いだ穏やかな水面を行く様を座敷から眺める事が出来る優美な趣向になっていた。湖から感じる水の薫りを邪魔しないように、香が?かれている。故郷の森の中では、この香の薫りを聞く事があったので懐かしい気分になった。

「ふむ、白檀だんか。良い趣きだ」と信長は上機嫌に、安土までの船旅を楽しんでいる。

「乱。ほれ、見よ、湖はこれ程広い」

 信長は座敷の障子戸をからりと開いて、外を指した。山々が連なりながら、なだらかな稜線を描いていた。空は鮮やかな青色をしていたが、山の向こうは暗く曇っている。桜の咲く春だというのに、雪でも降っているような厚い灰色の雲だった。

 海の上ならば、濃い潮の薫りがするだろうが、真水の薫りがするばかりで、時折、ざぶんざぶんと音を立てながら、船は、水面を滑るように行く。

「はい、広う御座います」

「なれど、そなたの横にいる、そのものは、この湖よりも、もっと広い大海を越えてこの国に参ったのじゃ。乱。そなた、想像出来るか?」

 乱は、暫し考えるような素振りをしていたが、やがて「いいえ、とても想像が付きませぬ」と、正直に答えた。

「うむ。海を渡れば、朝鮮があり、みんがある。遙か南方には、印度いんど呂宋るそん(フィリピン、ルソン島)などという町があり、その遙か先に、宣教師どもの都である羅馬ろーまがある。いずれ、そこを訪ねて物見遊山でも致したいものだが」と、信長は言を切った。信長の表情が、見る間に曇っていった。

「だが、余は、それを見る事なく、死ぬであろう。この、日本の国すら平定する事は出来まい。尾張(愛知県)から駒を進めて、安土まで来たのは良いが、先はそう長うない」

「また「敦盛あつもり」で御座いますか? 人生五十年と定められたものではありませぬ。現に、惟任殿とて、五十を超えておるではありませぬか」と、乱はになって信長に反駁したが、対する信長は静かなものだった。

「うむ。それは解っておる。しかし、余は、ほとほと疲れた。疲れたのじゃ。特に最近は、帰りとうて、帰りとうて、溜まらぬ気持ちになる」

 信長の言葉を聞いた乱は、ぎゅっと唇を噛み締めた。信長は、遠くを見ていた。山を見ているようにも見えたが、それよりも、遙か遠くを見ているようにも感じた。不意に、信長は、私の方を振り返って、

「そなたも、故郷ふるさとに帰りとうならなんだか?」と聞いた。

 故郷。―――懐かしい故郷を思い出す。湿度の高い森。色鮮やかな花々と、果実の匂い。地面から立ち上る、土の匂い。緑の森を抜けたところにある、瑠璃色の空。獣達の、鳥たちの鳴き声。それらすべてが、胸を締め付けられる程、懐かしい。帰りたい。私も、戻る事が許されるのならば、帰りたい。そう、伝えたくて、私は大きく身体をばたつかせてみた。

「乱。余だけではないぞ。これも、帰りたいらしい―――が、それも、皆、空しい。ただ、すべてが空しい」

「すべてが空しいなど、お戯れを」と乱は微かに笑う。信長は、ほんの少し眉根を寄せた。

「上様。程なく、安土に到着致します」

 水主かこの声が響き「うむ」と信長は静かに応えた。安土城は、湖に面した安土山という小高い山の頂に建てられた城なので、船着き場から見上げても城の全容は解らなかった。見えたのは、山頂の木々よりも高いところにある、黄金色に輝く天主のみだった。陽の光を受けて、天主は、燦然と輝く。山裾まであまねく照らしているように眩しくて、思わず私は眼を細めた。

「眩しいか」

 信長は満足そうに聞いてきたので、少し安堵した。居城に戻った安堵からか、寛いでいるようにも思えた。

「よし、そなたを天主に連れて行ってやろう。平素は、見物料を取るが、そなたは良いぞ。百文は、働いて返して貰うゆえ」

 天主は圧倒される程の美しさだった。七層もの階層を持ち、階毎に壁の色が異なっており、赤や黒、青や白、そして黄金に彩られていた。私は故郷の花々を思い出した。
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