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しおりを挟む「理由など必要か? 人は、理由無く死んで行くのだ。理由があるとすれば、生きるものとして生を受けたという事のみじゃ」
「たしかに人は、理由もなく、容易く死にますが」惟任は渋い顔になった。眉間に皺が寄っている。「上様に於かれましては、お身体至ってご健勝であらせられますゆえ、死出の旅支度など、早う御座います」
「人生、五十年と申す」と信長は言って、惟任をじっと見つめた。
「諸行無常、その通りじゃ。天下を手に入れんと欲して夢見ても、夢に酔う事も出来ぬ。この世は空しい。斬らねば斬られる。しかし、そうして、血に塗れて、数日、数年の命を長らえる事すら、今や、空しい」
静かな信長の声は、ちいさな部屋中に満ちて、私を、乱を、惟任を呑み込んだ。ゆっくりと、霧が降りてくるように、静かに、部屋中が信長の空しさで満ちて溢れそうだった。
「惟任、あとは任せる」
信長は固まったように動けずにいる私たちを置いて、部屋を出た。残された私たちは、しばらく動く事が出来ない程、信長の言葉と哀しみに呑まれていた。
「そなた」と一早く動いたのは乱だった。「上様は、おそらく、お鍋の方様のところに向かわれるはずだ。早く、お側に」
声を掛けられて、やっと動く事が出来るようになった私は、急いで信長を追いかけようと動いたが、それよりも早く、顔を紅潮させた惟任が、音もなく真っ直ぐと立ち上がると、袴の裾を持ち上げて猛然と走り出した。
「惟任殿!」
乱は叫んで制止しようとしたが、惟任は暴れ馬のように勢いづいていて止まらなかった。平素の、物静かな姿の印象が強かったので、惟任の様子に驚いたが、駆け出した乱の後に続いて、惟任を追った。
惟任は廊下を走った。その先に居るのは信長だった。土石流のような足音を立てて駆け寄る惟任に気付いて、信長は足を止めた。掴みかかる勢いで、惟任は信長に突進して行く。
「惟任殿、お止め下さい!」
乱は、惟任が殴りつけるとでも思ったのだろう。悲鳴のような声で叫んだ。私もそう思ったが、惟任は予想に反した行動を取った。信長の足下に平伏したのだった。
「今一度、お考え直しを!」惟任が信長に殴らなかった事に安堵しつつ、私は惟任と信長に追いついた。信長は、虚ろな瞳で惟任を見下ろしていた。信長は一言「聞かぬ」と切り捨てて、歩き出そうとする。その袴に惟任が縋り付いて「なにとぞ、なにとぞ」と譫言のように訴えた。「なれば、この惟任、お召し放ち下さいませ! 上様を手に掛ける事を思えば、諸国浪々と彷徨う方が……」
「しつこい!」
信長は吐き捨て、惟任を足蹴にして振り払った。惟任は、廊下に尻餅をついて転がったが、すぐに身を起こして、再び廊下に這い蹲る。信長は、惟任を見なかった。惟任は去りゆく信長の背中に、必死で呼びかけていた。
「命とあらば、何を於いても全う致しましょう。なれど、私は、さいごまで、お考え直し下さいます事を、諦めませぬ!」
身を振り絞るように叫んだ惟任は、ばたり、と床に倒れ込んだ。乱は、静かに、惟任の側に寄った。惟任の眦は、血走って、潤っていた。
「お手をどうぞ。どこか撲たれたようならば、膏薬でも持ってこさせます」
静かに申し出る乱に、「いや、自分で起きる」と、億劫そうに身を起こしてから、惟任は深々と溜息を吐いた。「情けないところを見せた」と、ハハと乾いた笑いを漏らす惟任に、乱は小さく「いえ」と応えてから「上様のお望みを鑑みれば、惟任殿のお怒りも当然の事かと」と付け加えた。
「そなたは、上様のお気持ちを知っていたか」
さすがは、上様ご寵愛のお小姓だ、と惟任は呟く。
「折々、空しいと呟く寂しげなお姿を見続けていれば、上様のお望みも、何となく、察する事が出来たと言うだけの事。はじめは、上様のお戯れかと思いましたが、空しいと仰せになる姿こそ、上様の真実のお姿ではないかと思うに至りました」
乱は、目を伏せてゆっくりと呟いた。伏せた睫が、震えているようにも見える。
「なれど、上様が死出の山道を往くのならば、この森乱、ご相伴致す所存で御座います」
乱は、キッパリと言い切った。惟任は、そんな乱を見て、ふう、と一つ、溜息を吐く。
「上様は、誰よりも強い方であると思っていたが、たとえ、天地あまねくを手中にしても、きっと、空しいと仰せであろうな」
「はい、きっと」
「たしかに、この世は空しい。私も、それは識っている。だか、空しいだけではなく、歓びもあろうと思っておる。しかし、なにゆえ上様は、ああも空しいと仰せであるのか。上様は、何を手に入れれば、空しい思いから、解き放たれるのか」
二人は、何の話をしているのだろう。私は、悪寒が止まらずに、「空しい」と呟いた信長を思い出していた。信長の存在が、とても、遠く感じて、私は切なくなった。二人の遣り取りを聞いていた私に気付いた乱が、思い出したように、
「そなた、早う、お鍋の方様のところへ。上様は、もう、先に行ってしまったぞ」と声を掛けた。これはしまった、と私は惟任と乱を置いて、本丸のお鍋の方のところに急いだ。
天主を出て本丸に入り、南の一角に、お鍋の方が過ごす部屋がある。お妻木の方が生きていた頃、良く、この前を通っていたが、中に入るのは初めてだった。久しぶりの本丸は、懐かしく、まだ、お妻木の方が部屋で伏せっているのではないかと勘違いしそうになった。
辿り着いたお鍋の方の部屋も、お妻木の方の部屋と同様に、とても質素だった。私が近付いたのを察したらしい信長は、「遅い」と言って眉を顰めた。
対するお鍋の方は、私を見るや、
「まあ、近くで見るのは初めてだけれど、美しい姿をしておるのですね」と、明るい声で弾むように言った。お鍋の方は、信長より幾らか若いくらいの中年の女だったが、下ぶくれの頬が可愛らしい、ぽってりとした方だった。肌色もあまり白くはなく、美人というのとは少し違うのかも知れないが、朗らかで優しそうな方だった。
「これは、余の側に仕えさせる事にした」とぶっきらぼうに言う。お鍋の方は、驚いたようで「まあ」と声を上げたが、私に向かって「それは良かった事。納戸に閉じ込められていると聞いた時には、可哀想だと思いましたもの」と、ころころと笑った。このような事を言って、信長が怒り出さないかと、私は冷や汗が出たが、信長も「そう詰るでない」と拗ねたように言って笑うのみだった。
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