17 / 17
17
しおりを挟む翌朝は、雲一つない晴天だった。
どこからともなく、ほととぎすの声が聞こえてくる。夏らしい風情だった。まさか、これが死出の山路だとは思わない城の者達は、
「上様、留守は我らにお任せ下さい。ご無事に帰還下さいますよう」
と恭しく言う。それを聞いて、私は叫びたくなった。
もう二度と戻らないのだ! もう、二度と、ここに信長は戻らない。もう、この道を戻る事はないのだと。しかし、家臣達一丸になっても、きっと、信長を止める事は出来ない。なにより、信長の描いた狂言に、役を割り当てられた惟任は、止まらない。信長の筋書き通り以上に、働くだろう。本物の「謀反人」だと思われる程、徹底して戦い、誰かに討ち取られる事を願っているはずだ。一刻も早く、信長の死に相伴出来るように。
そして、北畠中将に焼かれて、この安土城は燃え落ちてゆく。
陽の光を反射して、世界をあまねく照らすような、天主の天辺も。瑠璃色の屋根瓦も、美しい白壁も、そこに描かれた極彩色の壁画も、すべて―――すべて。
「では、そろそろ参るぞ」と信長は馬を進めようとしてふと立ち止まり、私を手招いた。私は、そそくさと信長の側に寄った。
「そなたが、この国で生き抜く事が出来るか、余には解らぬが、達者に暮らすと良いだろう。余も、お妻木も、そなたを見て、心を和ませていた」
信長は、指の背で、優しく私の頭を撫でた。初めて撫でられて、驚いた。とても暖かで、優しい指だった。私は、信長に抱えられ、その腕を止まり木に、鷹のように立たされた。
「さあ、行くが良い。そなたを、放とうぞ」
す、と信長が腕を引く。私の足は、接地を失って、自然に、折り畳んでいた翼が広がった。落下しないように、と私は、精一杯羽ばたく。空を舞い上がる私の姿を、信長が嬉しそうに―――羨ましそうに見て居たので、私は、力の限りに飛び上がって、黄金色に輝く天主の天辺を、くるくると鳶のように旋回した。久しぶりに翼に、風を感じる。心地よい。
これほどまで高く飛んだのは初めてで、くらくらする。少し、息苦しい。黄金色の天主は、眩しくて、涙が出た。見下ろすと、水天一碧の光景が広がっていた。
空は青く、どこまでも青く、城の屋根瓦と同じ彩で、琵琶湖も、同じ青い色をしていて、私の羽も、その、空と水の色に溶け込むような、同じ青い色だ。見下ろすと、信長の姿が見えた。ごま粒よりも、もっと小さく見えた。信長は、天を仰いで、私を見ていた。
信長が、私を珍しがり、この羽の色を、美しいと言わねば、私は、この空を舞う事はなかっただろう。もし、信長に仕えていなければ、別の大名に差し出されていたかも知れないし、また、どこかに売られて死んでいたかも知れない。
そう思えば、私の、この命は、信長に救われたと言っても過言ではない。それに、この国に、私の仲間はいない。このまま、何に縛られる事なく空を舞ったとて、それに何の意味があるだろう。
よし、と私は決意した。乱が決めたように、惟任が決めたように、私も、決めた。
「上様のお寂しい心を、少しでも慰めてほしいのです」と、お妻木の方は私に願った。ならば、お妻木の方の願い通り、最後の一瞬まで、信長の側に居よう。
私は一つ呼吸をして、心を落ち着けると、体勢を立て直し、勢いを付けて、真っ逆さまに地上へと落ちていった。風と風の間を、錐揉みしながら落ちて行く。尾を捕まれて、ぶん回されているように、頭の中が揺さぶられてくらくらしたが、不思議な事に、私の視界には、信長の姿しか見えなかった。空中真っ逆さまに落ちてくる私を見て、信長は、茫然と口を開けていた。風に圧されて息苦しくて、気を失いそうになった私は、とにかく、無我夢中になって、腹の底から目一杯、力の限り叫んだ。呻き声は、風にかき消されて消えてゆく。地上すれすれまで落ちた私は、風の流れに逆らうべく、思い切り翼を動かした。この国に売られ来てから、あまり飛んでいないから、上手く翼を、動かせない。翼は、自分のものとは思えない程、重かったが、地面に叩き付けられるわけにはいかないと、とにかく、がむしゃらに私は翼を羽ばたかせる。
くちばしの先が土に触れたが、何とか地面に着く前に、空に戻った。私は、信長の周囲を、幾度も旋回した。私も、共に、京へ向かう事を決めた。
「そなた――」と、信長は、それきり絶句した。私の決意を知ったようだった。
「ウエサマ、オソバニ。ウエサマ、オソバニ」
幾度となく胸の中で繰り返してきた言葉を、また胸の中で繰り返すと思いきや、私は、潰れた喉から、声が出ていた事に気がついた。
私の言葉は、「上様」に通じたらしく、そっと、腕を差し出されたので、躊躇う事なく先程のように、腕に留まった。信長好みの、赤い外套の色が、夏の明るい青い空に、一際鮮やかに映えた。
手綱を持って馬を進めるか、と思いきや、思い留まって信長は空を見上げた。瑠璃色の天穹に、黄金の天主が光り輝いて、あまねく地上を照らす。信長の威光を、世に知らしめるように。これが最後、と目に焼き付けるようにじっと、見つめた安土城は、涙が出る程、美しかった。
やがて信長は「さあ、帰るか」と、いつになく満ち足りた笑顔で言うと、一路、本能寺へ駒を進めた。
(帰る旅・了)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
高遠の翁の物語
本広 昌
歴史・時代
時は戦国、信州諏方郡を支配する諏方惣領家が敵に滅ぼされた。
伊那郡高遠の主、諏方頼継は惣領家家族のうち、齢十一歳の姫君を、ひょんなことから保護できた。
頼継は豪傑でもなければ知将でもない。その辺の凡将だろう。
それでも若き姫を守りながら、滅びた惣領家の再興を叶えるため、死に物狂いで強大な敵に立ち向かっていく歴史物語。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
王国の女王即位を巡るレイラとカンナの双子王女姉妹バトル
ヒロワークス
ファンタジー
豊かな大国アピル国の国王は、自らの跡継ぎに悩んでいた。長男がおらず、2人の双子姉妹しかいないからだ。
しかも、その双子姉妹レイラとカンナは、2人とも王妃の美貌を引き継ぎ、学問にも武術にも優れている。
甲乙つけがたい実力を持つ2人に、国王は、相談してどちらが女王になるか決めるよう命じる。
2人の相談は決裂し、体を使った激しいバトルで決着を図ろうとするのだった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる