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030 帰還
馬車の支度はすぐに済んだ。今回は、旅支度も大したことはなかったのが、幸いだった。馬車自体は前もって用意させてあったこともあり、帰宅を決めてから半刻の間には支度が出来た。
ルーウェはまだ、熱が出ていて苦しそうだった。済まない気持ちでいっぱいだったが、ルーウェを抱き上げて馬車へと運ぶ。
馬車は身体を伸ばして横になることは出来ないし、滑り落ちるのも怖いので、抱きしめていることにした。
ルーウェの意識は朦朧としているのか、特に感想はなかった。
抱きしめているルーウェの身体はひどく熱い。呼吸も浅くて早いので、苦しそうだった。熱を帯びた赤い頬を見ていると、不埒な気分が頭の中を過ぎっていくが、慌てて打ち消す。
(この非常時、しかもルーウェが熱を出しているというときに……)
一体なにを考えているのか、と自身を叱責し、自身の欲の強さに嫌気がさしていた。
(いまは自己嫌悪している場合ではない)
どう動くかを、考えなければならないときだ。
「……アーセール」
弱々しい声が聞こえてきた。
「どうしました? 馬車を止めましょうか?」
「いえ……先を急いでください。兄上の件は……なんと?」
ルーウェは存外しっかりした声で言う。
「殿下は、しばし身を隠されると」
「何があったかは?」
「解りません。今は、信用出来るものがおりませんので、王都へ帰ってから情報収集を指示します」
そうですか……とルーウェは小さく呟いて目を伏せる。伏せた瞳がラベンダー色の瞳に濃い影を落とす。
「殿下が、このような手紙を鳩を使って寄越すのですから、異常な事態だと思われます。だとすると、俺は、第二王子と、なにかあったのだと思っています」
「ええ……ただ、それが、全く解らないのです。私は、ここしばらく、城にいませんでしたから、何も」
「まさか、廃太子になったとか……」
皇帝は、第二王子のことは放任している様子だった。ルーウェには、心ない言葉を投げつけていたとことを想い出す。
「廃太子になるには……様々な手続きが必要です。皇太子殿下は、兄上は、そのような失態を犯していない。廃太子されるとなれば、よほど、なにかの失敗をした場合だけでしょうから」
「たとえば……?」
「そうですね……、解りません。この国の開闢《かいびゃく》以後、おそらく廃太子された例は、一度もなかったと思います」
それほど、特殊なことなのだ、とルーウェは言う。アーセールも、それは解る。だが、この国のすべてのことを思うがままに出来るはずの、皇帝が、あちらの味方に付いていると言うことも、忘れてはならないことの一つだろう。
「この鳩は、皇太子殿下の鳩です。おそらく、野に放てば、皇太子邸へ帰るでしょう。その時に、皇太子邸に居るのが、敵だとしたら、偽情報を仕込むことも出来ます」
ルーウェは少し目を見開いてから、少し、黙った。
「まだ、情報がありませんから、その子は大切に飼育しておいてください」
「もちろんです。それと……今は、お休みください。もし、何かあればすぐにお起こし致します」
「解りました」
そのままルーウェは目を閉じた。眠っているわけではないようだったが、身体を休めるときだと判断したのだろう。存外、判断は速い方だ、とアーセールは思う。先ほどより息苦しさはないようだったので、それだけは安心した。
馬車が邸へ到着したのは、深夜だった。静かに邸へ戻ろうと思ったが、ことさら大騒ぎをして邸へ入ることにする。もしも、誰かが監視しているとしたら、その方が良いと思ったからだ。
「ルサルカっ! ルサルカはまだかっ!」
苛立たしげに乱暴な口調でルサルカを呼びつける。すでに、手前の町で早駆けを頼んで邸へ戻るという連絡を入れてある。
「はい、ただいま……お帰りなさいませ……それで、ルーウェ様のご容態は?」
「まだ、苦しそうで、熱がある。……医師には来て頂いたのか?」
「それが、……その、何分夜も更けておりますので」
ルサルカは恐縮して身を縮こめた。そこへ「たたき起こしてでも連れてこいっ!」と怒鳴りつけると、ルサルカが飛び上がって驚く。
「い、いえっ……あの医師は、もう、高齢ですので……こんな時間にたたき起こしましたら、倒れてしまいます。何卒……」
「ルサルカ。その医師が倒れるのと、ルーウェが倒れるのでは、ルーウェの方が良いというのか?」
「い、いえっ!!! そういうわけでは……っ……その、今すぐ、使いをやりますっ!」
「ああ、頼んだぞ。お連れするまで帰らずとも良い。……今からルーウェを連れて行く。ここへ来る間に、ろくに食事も採っていない。粥でも用意して欲しい」
「えっ……? はあ……畏まりました……」
ルサルカはそのまま小走りに駆けて、邸へと入っていく。アーセールは、ルーウェの身体を抱き上げて、歩き出す。カサッ、と小さな葉擦れの音が聞こえた気がした。
「ルーウェ。大丈夫か? ……邸へ着いたし、今、医師を手配している……」
ルーウェは、何も返事をしなかった。ぐったりとなって、アーセールに抱き上げられているだけで、顔色も酷く悪かった。
「……安心してください、ルーウェ」
耳元に、そっと囁く。けれど、ルーウェの身体は、小刻みに震えていた。
手前の町から送った早駆けには、こう伝言させている。
『なにかがあったら『医師は居ない』と言え。なにもなければ『医師は待っている』と言え。
こちらは誰も居なければ『果物を持ってこい』と言う。誰かがいれば『粥を用意しろ』と言う』
情報収集をさせた結果、なにか『変事があった』。
そして、おそらく先ほどの葉擦れの音を聞く限り、今、ここに、『密偵が潜んでいる』。
ルーウェにもこの内容は、伝えている。
震えるルーウェの身体を強く抱きしめて、アーセールは邸へ戻った。後ろの様子は探らなかった。
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