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 獏に抱えられたまま雑貨屋に入ると、店主がにやにやと笑って、萌樹を見る。

 なにも言われていないが、言いたいことは解る。

(くそ……恥ずかしいな……)

 他人に見られているというのが、よりいっそう恥ずかしさに拍車を掛けるが、獏のほうは平然としたもので、長椅子に腰を下ろすと、その膝上に萌樹を座らせる。

「ちょっ、ちょっ、……獏さん!!!」

「獏さん? また、面妖な呼び方を。先ほどまで、気軽に「あんた」などと呼んでいたものを」

「いや、気にするの、そっち? ……じゃ、なくって……その、あの、これ、相当恥ずかしいんですけど」

 至近距離に、獏の美しい顔がある。が、獏は、萌樹がなぜ、恥ずかしがっているのか、理解していない様子だった。

(これが、人間とあやかしの、ギャップか……)

 とは思いつつ、萌樹のほうは恥ずかしくてたまらないのだから、どうしようもない。顔は近いし、がっちりと腰を捕らえられているし、身体は密着している。腰のあたりが、むずがゆいような、妙な気分になっていく。

「あの」

「ん?」

「……あの……あんたは、いいんですけど……これって、その……人間的には、ちょっと、距離が近すぎるんで……」

「近い? ……しかし、そなたは、腰が抜けて動くことも出来ぬのであろう。であれば、吾が、こうして抱いていた方が良いだろうに」

「だ、抱くとか、言わないで貰えますかね。ちょっと、心臓に、悪すぎたりするんで」

 顔が、熱い。今、鏡を見たら、顔が真っ赤なんじゃないかと、萌樹は思う。

「怪我をしても知らぬぞ」

 獏の手が離れた瞬間、バランスを崩して、倒れそうになる。

「わっ!」

 結局、獏にしがみつき。身体は獏が支えてくれた。今度は落ちていかないように、より密着させられて、先ほどの見解が間違っていたと言うことに、萌樹自身が気がついた。

「……はいはい、お二人さん。独り者の前で、いちゃいちゃするのは止めてくださいね」

「だ、誰が、いちゃいちゃ……」

「……? 『いちゃいちゃ』とはどういう言葉なのだ?」

 獏が不思議そうな顔をしているので、無視を決め込もうとしたが、「そなた」と獏が萌樹に問いかける。

「なんだよ」

「その『いちゃいちゃ』というのは、どういうことだ?」

「えーっと……その……?」

 説明させられるのだろうか? それは、かなり説明しづらい。戸惑う萌樹の前で、雑貨屋の主人は、身体を『く』の字に曲げて、笑い転げている。

「スマホ、使えるかな……」

 尻のポケットからスマホを取り出す。圏外だ。当たり前だろう。

「その、『いちゃいちゃ』っていうのは……カップルとかが、くっついて、ベタベタしてる感じっていうか、恋人同士が、ずっと離れたくなくて、ベタベタしてるっていう感じっていうか……」

 それ以上の説明は勘弁してくれ、と心から思っていると、獏は「ふむ」と小さく納得したように呟いた。

「我々は、恋人同士ではないから、この言葉は不適当であろう。言葉には、気をつけると良……」

 獏の言葉を遮るようにして、雑貨屋が言い切る。

「そうかい? 僕ァ、あんたたち二人が、乳繰り合っているようにしか見えなかったけどねぇ」

「だ、っ。だからっ! ……そういう言葉は……」

「……だってね、この獏の旦那は、今まで、そんな風に、誰かを愛おしそうに抱いたりしていなかったよ。ふふ……、こっちの世界に、引き入れて眷属にするつもりかい?」

 雑貨屋が、妖艶な流し目を獏に送る。

 愛おしそうに抱いて、と言う言葉を聞いた瞬間に、萌樹のほうは、思考が停止してしまって、言葉も出ない。

「これを、眷属にするつもりはない。人は……人として、生を全うすべきだ」

 苦々しげに獏は言う。人は身勝手だ、などと言いながら、人は人として生きるべきだと、獏は言う。それが、なんとなく、アンバランスな気がした。

「おやおや、じゃあ、僕なんかは、旦那にとっては……唾棄すべき存在って事かな」

 楽しそうに笑って、雑貨屋は、傍らから長いキセルを取りだして紫煙をくゆらす。タバコの香りというより、もっと甘くてくらりとするような、薫りだった。

「……なんで?」

 萌樹が問うと、「前にも言っただろ? 僕は、もともと人間なんだ。君らの言葉では、怨霊。……ここで、ある人を待っている。探している。それで、雑貨屋の店番をしている」と歌うように雑貨屋は言った。

「……あっ、確かに、そんなことを聞いたような」

「人として死ぬぬことを、僕ァ拒んだからねぇ」

「そなたのことは、別にどうでもよい」

 獏が、雑貨屋の言葉を鋭く遮った。

「……そうかい?」

「夢魔を追い出さねば、この者の友人を救うことは出来ぬ。夢魔退治の香を」

「おやおや。では、代償に何を呉れる?」

 雑貨屋のキセルから、煙がまっすぐ立ち上る。それを見ながら、萌樹は、ごくり、と喉が鳴るのを感じていた。







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