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小学生編
九(2020、秋)
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月曜日の朝、母は早々に出勤し、晶は朝食を取りながらテレビを見ていた。
先に食べ終わった樹は、テレビの前にうずくまって膝を抱え、熱心に画面を見ている。ただのニュース番組だが、なにが面白いのだろうか。
テレビ画面には、出勤するスーツ姿の人々が行き交う駅の構内が映されている。東京駅だ。よくも人がぶつかり合わないで歩けるものだと思う。しかも、よく見ると、歩きながら唾液交換をしている人までいる。さすがに受血まではしていないが、こんな混み合うところでやらなくても、とぼんやり晶は思った。
カメラがゆっくりとパンしていく。
「こえ、なに」
「何って、駅だろ」
画面からは、「今朝の東京駅の様子です。空は晴れ上がり、温かな秋の日差しが降り注いでいます……」とナレーションが加えられている。
「ちわう。くち、つけてた。おとな」
「ああ……唾液交換のこと?」
「あえきこうかん」
「受血みたいなもんだよ……効果は薄いけど、ちょっとはしのげるから。ほら、樹も、俺の唾でちょっと病気よくなるだろ。あれ」
東京の人は忙しいから歩きながらやるのかなぁ、なんて考えながら、ちらと時計を見る。あと五分で朝食を食べ終わらないと、走って学校へ行くことになってしまう。
「したい」
不意に樹が言い、ぼんやりしていた晶は一瞬何を言われたか分からなかった。
「え? なに?」
「あえきこうかん」
樹は立ち上がり、食卓に近づいてきていた。晶は、目玉焼きの黄身を崩さないようすくい上げて、それをほおばったところだった。半熟の黄身がちょっと唇から溢れたところを、顔を寄せてきた樹が舐め取った。そのまま唇の間に舌を滑り込ませてくる。びっくりした晶は黄身をまるのみしてしまった。
「ちょっ……いつき、今……」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて、樹は黄身の混じった晶の唾液を啜った。椅子に座る晶と同じくらいの丈だった身長が、そうするうちに伸びていき、樹は晶の上に身を屈めるような姿勢になった。手が頭蓋を支え、引き寄せられる。仰向かされた口に、樹の唾液が落ちてくる……
それはやはり、かつて感じたことがないほどに甘く、いつか晶は樹の肩にしがみつくようにしてそれを飲み込んでいた。息が荒くなるのが分かる。
(ほしい……もっとほしい)
樹の顔を引き寄せ、舌を伸ばして口中を探る。そこは、既に唾液の効果で癒えており、滑らかな歯並びと口蓋が待っていた。まっすぐな髪が樹の肩を滑って流れ落ち、晶の顔にかかる。
「ん……あきら……おいしい……」
弾力を楽しむように舌を噛まれ、痛みが走る。晶は我に返って樹を押しのけた。
「バカ、血が出たら受血だろ」
「んぅ……」
温かな舌が惜しむように唇を舐めていく。晶は少年の胸を押しながら抗議した。「だいたい、おまえ、飯食ってるときにやるなよな……あっ、やべっ、時間」
手の甲で、ぐっと唇をぬぐって、晶は立ち上がった。
「俺は学校行くから! 外、一人で出歩くなよ」
慌ただしくランドセルを背負いながら、玄関に向かう。「じゃ、行ってきます。鍵かけてくれる?」
そう言ったとき、従順な犬のように、玄関までついてきていた樹が、不意に近づくと、もう一度晶に口づけた。晶が反応できないでいるうちに唇を離して言う。「さみしい」
「おまえなぁ……もう、仕方ないな」
意気消沈している樹の頭を撫でてやる。「真っすぐ帰ってくるから。インターホン出るなよ」
外から樹の姿が見えないよう、わずかに開けた扉から滑り出た。予定より、五分は遅かった。
学校までは、走らなくてはならないだろう。
唾液交換くらい、大して親しくないクラスメイトとだってやったことがある……
なのに、樹とのそれは全く異なった。
(ねのたみ、だからなのか。樹だからなのか)
検温しながら、晶は上の空だった。保健掛が回りながら、板に体温を記載していく。電子音とともに表示された体温は、三十五.九度だった。
「はい、平熱ね」
淡々と保健掛の女子はペンを走らせた。なかなか三十五度台になることが少ない晶は、多少の違和感を覚えていたが、そのとき、別のことに気づいた。
毎日の生徒たちの体温を記録する板に、黒ぐろと塗りつぶされた欄がある。出席番号三番……
「ねえ、これって誰だっけ?」
晶は、保健掛に尋ねた。彼女はきょとんとした顔をした。「えっ? そこはもともと欠番でしょ?」
「そうだったっけ……」
晶は、教室を見回しながら呟いた。均等に並ぶ机の列。右奥の隅に、不自然なスペースがあるような気もしたが、思い違いであるような気もする。教壇で、るみこ先生が、パンパンと手を打った。
「ほら、急いで急いで! 練習時間減っちゃうよ!」
概ね退屈な学校の授業の中で、体育は好きな分野だ。特に、翼化ができる運動会の練習は、晶にとっていい気分転換だった。彼はそれ以上深く考えず、クラスメイトに交じってグラウンドへと向かった。
校長からの呼び出しがあったとかで、一度グラウンドに出たるみこ先生は、「各自自主訓練! 委員長さん指示出しね!」とだけ叫んで、再び校舎へと戻っていった。
委員長である異藤恵梨花は、クラスメイトを整列させたあと、ちょっと考えた。
「何の練習がいい?」
啓介が言った。「もう運動会まで五日だし、全体練習やろうぜ。完成度上げてかないと」
「そうね……」
他の子どもたちからも次々に賛成の声が上がり、通しでやる流れになった。内心で、晶は多少の懸念を覚えていた。自分自身に関して言えば余裕だが、不得意な子たちにとっては、まだ全体練習は荷が重いのではないか。
特に、前回の練習ではまだ翼化すらまともにできず、地上から晶を羨ましげに見上げていた隼太……彼が通しの練習についてこられるとは到底思えない。それとも、例の神社の特訓で何らかの進歩があったのだろうか。週末も挟んでいるし……
ちらと隼太に目をやる。彼は唇を噛み、頑なな表情で啓介を睨んでいた。
先に食べ終わった樹は、テレビの前にうずくまって膝を抱え、熱心に画面を見ている。ただのニュース番組だが、なにが面白いのだろうか。
テレビ画面には、出勤するスーツ姿の人々が行き交う駅の構内が映されている。東京駅だ。よくも人がぶつかり合わないで歩けるものだと思う。しかも、よく見ると、歩きながら唾液交換をしている人までいる。さすがに受血まではしていないが、こんな混み合うところでやらなくても、とぼんやり晶は思った。
カメラがゆっくりとパンしていく。
「こえ、なに」
「何って、駅だろ」
画面からは、「今朝の東京駅の様子です。空は晴れ上がり、温かな秋の日差しが降り注いでいます……」とナレーションが加えられている。
「ちわう。くち、つけてた。おとな」
「ああ……唾液交換のこと?」
「あえきこうかん」
「受血みたいなもんだよ……効果は薄いけど、ちょっとはしのげるから。ほら、樹も、俺の唾でちょっと病気よくなるだろ。あれ」
東京の人は忙しいから歩きながらやるのかなぁ、なんて考えながら、ちらと時計を見る。あと五分で朝食を食べ終わらないと、走って学校へ行くことになってしまう。
「したい」
不意に樹が言い、ぼんやりしていた晶は一瞬何を言われたか分からなかった。
「え? なに?」
「あえきこうかん」
樹は立ち上がり、食卓に近づいてきていた。晶は、目玉焼きの黄身を崩さないようすくい上げて、それをほおばったところだった。半熟の黄身がちょっと唇から溢れたところを、顔を寄せてきた樹が舐め取った。そのまま唇の間に舌を滑り込ませてくる。びっくりした晶は黄身をまるのみしてしまった。
「ちょっ……いつき、今……」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて、樹は黄身の混じった晶の唾液を啜った。椅子に座る晶と同じくらいの丈だった身長が、そうするうちに伸びていき、樹は晶の上に身を屈めるような姿勢になった。手が頭蓋を支え、引き寄せられる。仰向かされた口に、樹の唾液が落ちてくる……
それはやはり、かつて感じたことがないほどに甘く、いつか晶は樹の肩にしがみつくようにしてそれを飲み込んでいた。息が荒くなるのが分かる。
(ほしい……もっとほしい)
樹の顔を引き寄せ、舌を伸ばして口中を探る。そこは、既に唾液の効果で癒えており、滑らかな歯並びと口蓋が待っていた。まっすぐな髪が樹の肩を滑って流れ落ち、晶の顔にかかる。
「ん……あきら……おいしい……」
弾力を楽しむように舌を噛まれ、痛みが走る。晶は我に返って樹を押しのけた。
「バカ、血が出たら受血だろ」
「んぅ……」
温かな舌が惜しむように唇を舐めていく。晶は少年の胸を押しながら抗議した。「だいたい、おまえ、飯食ってるときにやるなよな……あっ、やべっ、時間」
手の甲で、ぐっと唇をぬぐって、晶は立ち上がった。
「俺は学校行くから! 外、一人で出歩くなよ」
慌ただしくランドセルを背負いながら、玄関に向かう。「じゃ、行ってきます。鍵かけてくれる?」
そう言ったとき、従順な犬のように、玄関までついてきていた樹が、不意に近づくと、もう一度晶に口づけた。晶が反応できないでいるうちに唇を離して言う。「さみしい」
「おまえなぁ……もう、仕方ないな」
意気消沈している樹の頭を撫でてやる。「真っすぐ帰ってくるから。インターホン出るなよ」
外から樹の姿が見えないよう、わずかに開けた扉から滑り出た。予定より、五分は遅かった。
学校までは、走らなくてはならないだろう。
唾液交換くらい、大して親しくないクラスメイトとだってやったことがある……
なのに、樹とのそれは全く異なった。
(ねのたみ、だからなのか。樹だからなのか)
検温しながら、晶は上の空だった。保健掛が回りながら、板に体温を記載していく。電子音とともに表示された体温は、三十五.九度だった。
「はい、平熱ね」
淡々と保健掛の女子はペンを走らせた。なかなか三十五度台になることが少ない晶は、多少の違和感を覚えていたが、そのとき、別のことに気づいた。
毎日の生徒たちの体温を記録する板に、黒ぐろと塗りつぶされた欄がある。出席番号三番……
「ねえ、これって誰だっけ?」
晶は、保健掛に尋ねた。彼女はきょとんとした顔をした。「えっ? そこはもともと欠番でしょ?」
「そうだったっけ……」
晶は、教室を見回しながら呟いた。均等に並ぶ机の列。右奥の隅に、不自然なスペースがあるような気もしたが、思い違いであるような気もする。教壇で、るみこ先生が、パンパンと手を打った。
「ほら、急いで急いで! 練習時間減っちゃうよ!」
概ね退屈な学校の授業の中で、体育は好きな分野だ。特に、翼化ができる運動会の練習は、晶にとっていい気分転換だった。彼はそれ以上深く考えず、クラスメイトに交じってグラウンドへと向かった。
校長からの呼び出しがあったとかで、一度グラウンドに出たるみこ先生は、「各自自主訓練! 委員長さん指示出しね!」とだけ叫んで、再び校舎へと戻っていった。
委員長である異藤恵梨花は、クラスメイトを整列させたあと、ちょっと考えた。
「何の練習がいい?」
啓介が言った。「もう運動会まで五日だし、全体練習やろうぜ。完成度上げてかないと」
「そうね……」
他の子どもたちからも次々に賛成の声が上がり、通しでやる流れになった。内心で、晶は多少の懸念を覚えていた。自分自身に関して言えば余裕だが、不得意な子たちにとっては、まだ全体練習は荷が重いのではないか。
特に、前回の練習ではまだ翼化すらまともにできず、地上から晶を羨ましげに見上げていた隼太……彼が通しの練習についてこられるとは到底思えない。それとも、例の神社の特訓で何らかの進歩があったのだろうか。週末も挟んでいるし……
ちらと隼太に目をやる。彼は唇を噛み、頑なな表情で啓介を睨んでいた。
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