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小学生編
十二(2010、秋)
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職員室で経緯を聞かれた後、晶が連れて行かれたのは、小視聴覚室だった。
「今日は、晶くんお泊りね。大丈夫、おうちには連絡しておいたから、心配ないよ」
白い防音パネルで囲まれた四角い部屋は狭く、机と椅子が入るスペースしかない。
「ちょっと早いけど、夕ご飯。牛乳もちゃんと最後まで飲むのよ」
コッペパンと牛乳のみの、粗末な食事ではあった。全く食欲がない上、食べて屈服したと思われるのも嫌で、晶は口を開きすらしなかった。
「仕方ないなあ……牛乳だけは飲まなきゃね。大きくなれないよ?」
るみこ先生の後ろに姿を現したのは、保健医の潮田だった。潮田は面倒そうに牛乳パックにストローを挿すと、晶を押さえつけ、その唇にストローを無理やり入れた。もがいたが、大人の力には抵抗できなかった。鼻を摘まれ、晶はむせ込みながら、少しずつ牛乳を飲み下した。その味は、給食に出るものよりもさらに苦く、舌が痺れるようだった。
「じゃあ、おやすみ、晶くん。また、明日ね
ぐらぐらと視界が揺れる。
何かが混ぜられていたのだ……そう、いつもの給食の牛乳にも。
だが、今回、牛乳に入っていた薬物の量は、その比ではなかった。机に突っ伏して、晶は、目眩に耐えた。
教員たちが立ち去ってしまった後、机の上のパソコンが自動的に点灯した。くるくると回転する点描の渦巻きから画像は始まり、虹色に輝きながら収縮を始めた。
冷や汗がにじみ、呼吸が速くなる。
「はあっ、はあっ、はあっ……は……」
低く渦巻くような音楽が流れ始めた。腹に響く重低音が鈍く空気をかきまわす。聞き取れそうで聞き取れない言葉の繰り返しが、音階の向こうに潜んでいる……
頭の中に乱暴に手を突っ込まれ、かき混ぜられているかのようだ。
必要ないと断じられたもの、有害と決めつけられたものを押しつぶし、記憶から押し流そうとする力……
(いやだ……いやだ!)
俺がおれでなくなるのはいやだ。
忘れたくない、俺の記憶は、おれのものだ。
目眩と頭痛に耐えながら、晶は、部屋の隅に座り込み、両耳を押さえてうずくまった。食いしばった歯の間からすすり泣きが漏れる。
忘れたくない……
大丈夫か、といって振り返った父さんの疲れたような笑顔……
わたしが産んだの、おっぱいをやって育てたの、と涙をこぼした母さん……
いなくなった、なかったことにされた、名前さえ知らない姉さん……
そして、樹。
「樹……いつき……」
いやだ、忘れたくない。
知らない世界……知らないほうがよかったかもしれない世界を、教えてくれたあいつ。
でも、もう、知ってしまった。
それを忘れて、知らなかったふりをして、生きて行きたくない。
初めて腫瘍が消えたのを知って、飛び跳ねるようにして喜んだときの笑顔が目の奥によみがえる。
(忘れたくない)
どれくらい、時間が経ったかわからなかった。
「いつき……」
「あきや」
はっとして、晶は目を開けた。
幻聴かと思った……
一見、防音パネルに囲まれた部屋には何の変化もなく、パソコンからの虹色に収縮する光だけが壁に映っている。
「あきぁ。ここ」
壁の一角に、穴の開いた三十センチ四方程度の金属パネルがはめてあり、声はその向こうからしてくるのだった。
「あ……あ、いつき」
ぐらぐらと揺れる頭を支えながら、晶はそこににじりよった。どうやらそれは換気用の空気ダクトらしく、空気の流れが感じられた。
指が一本通るか通らないか程度の穴しか空いていないパネルだったが、確かにその向こうには少年の息づかいがあり、闇の中にきらめく眼があった。いつもの、芹かなにかを思わせる彼の匂いがした……
「な、なんで……おまえ、ここに」
「あきや、よんだ。おえを」
嬉しそうに、彼は言った。「だかやきた」
「だって……そんな、まさか……だいたい、おまえ、こんなところ誰かに見つかったら……」
「あきや、おえ、よんだ」
もう一度、彼は言った。「うえしい。あきや、おえよぶ、うえひい」
自分の喉がひくっと痙攣するのを、晶は感じた。
「いつき……樹ぃ……」
喉からすすり泣きが漏れ、晶はぼろぼろと涙をこぼしていた。
「おえ、きたよ。なんえなく……?」
戸惑ったように、樹は囁いた。晶は答えずに、頰を通気孔パネルに押し当てた。金属の冷たい感触の中、温かなものが頬に触れた。それは樹の舌で、晶の涙をわずかながら舐め取った。
「なかないえ。あきら」
温かな息が頬にかかる。
ちゅっと音を立てて、樹は晶の頰を吸った。晶は、無言でそこに唇を押し当てた。樹はためらわず通気孔越しに唇を触れ合わせてきた。二人の吐く息がぶつかり合い、混じり合う。晶の伸ばした舌を、樹は優しく舐め、吸った。硬い金属のパネルは二人の体温で温まった。鉄と埃の味の向こうに、痺れるような甘さが溶ける。
低く鈍く響く無機質な音色も、もはや気にならなかった。
(こいつはここにいる……父さんも母さんも、ちゃんと俺の頭の中にいる。消えてしまった姉さんだって)
名前すら、思い出すことができないけれど。
樹の唾液の甘さが染み通り、柔らかな感触が慰めるように動く。
(俺は……忘れたりなんかしない。絶対に……こうして感じる一つ一つを、忘れたりなんかしない)
指先、舌先のわずかな部分を触れ合わせ、相手を感じ取りながら、晶は念じた……
「だえきこうかん」
やや明瞭になった声で、樹はパネル越しに囁いた。「うれしい」
「俺も嬉しい……けど」
晶は囁いた。「おまえはここにいちゃ駄目だ。見つかったら、きっと処分される。その中じゃ逃げ場もない」
「まだいる。いっしょがいい」
「だって、樹……」
「あきら、ねる」樹は食い下がった。「それまでいる」
「寝れないよ、こんなとこで……」
「おまじない、ある。ねれる」
「おまじない?」
「うん。こわいこと、なくなる。おまじない」
「ねのたみの……?」
「うん」
樹は言った。「いってみて」
「うん……」
「とねりこの」
「とねりこ?の……」
「あめたかきえだ」
「あめたかき……えだ……」
「くれつちにおおわれてつゆしたたらすねの」
「くれつちに……おおわれて……え?つゆ?」
「したたらすねの」
「したたらすねの……」
「いずみはうんめい」
「いずみは……うんめい……」
樹の声は低く柔らかく、雑音めいた音色を押しのけて晶の耳に流れ込んだ。晶は、ゆっくりとその言葉の羅列を繰り返した。あめたかき枝……伸びゆく木のイメージがぼんやりと頭に浮かぶ。耳元に、樹の息が温かくかかり、じわじわと身体が弛緩していく。
四回目を唱えたとき、晶は、通気パネルに身を持たせたまま、眠りに落ちていた。
「あきら。おやすみ」
樹は、その青ざめた顔に囁き、柔らかな髪に口づけた。
「今日は、晶くんお泊りね。大丈夫、おうちには連絡しておいたから、心配ないよ」
白い防音パネルで囲まれた四角い部屋は狭く、机と椅子が入るスペースしかない。
「ちょっと早いけど、夕ご飯。牛乳もちゃんと最後まで飲むのよ」
コッペパンと牛乳のみの、粗末な食事ではあった。全く食欲がない上、食べて屈服したと思われるのも嫌で、晶は口を開きすらしなかった。
「仕方ないなあ……牛乳だけは飲まなきゃね。大きくなれないよ?」
るみこ先生の後ろに姿を現したのは、保健医の潮田だった。潮田は面倒そうに牛乳パックにストローを挿すと、晶を押さえつけ、その唇にストローを無理やり入れた。もがいたが、大人の力には抵抗できなかった。鼻を摘まれ、晶はむせ込みながら、少しずつ牛乳を飲み下した。その味は、給食に出るものよりもさらに苦く、舌が痺れるようだった。
「じゃあ、おやすみ、晶くん。また、明日ね
ぐらぐらと視界が揺れる。
何かが混ぜられていたのだ……そう、いつもの給食の牛乳にも。
だが、今回、牛乳に入っていた薬物の量は、その比ではなかった。机に突っ伏して、晶は、目眩に耐えた。
教員たちが立ち去ってしまった後、机の上のパソコンが自動的に点灯した。くるくると回転する点描の渦巻きから画像は始まり、虹色に輝きながら収縮を始めた。
冷や汗がにじみ、呼吸が速くなる。
「はあっ、はあっ、はあっ……は……」
低く渦巻くような音楽が流れ始めた。腹に響く重低音が鈍く空気をかきまわす。聞き取れそうで聞き取れない言葉の繰り返しが、音階の向こうに潜んでいる……
頭の中に乱暴に手を突っ込まれ、かき混ぜられているかのようだ。
必要ないと断じられたもの、有害と決めつけられたものを押しつぶし、記憶から押し流そうとする力……
(いやだ……いやだ!)
俺がおれでなくなるのはいやだ。
忘れたくない、俺の記憶は、おれのものだ。
目眩と頭痛に耐えながら、晶は、部屋の隅に座り込み、両耳を押さえてうずくまった。食いしばった歯の間からすすり泣きが漏れる。
忘れたくない……
大丈夫か、といって振り返った父さんの疲れたような笑顔……
わたしが産んだの、おっぱいをやって育てたの、と涙をこぼした母さん……
いなくなった、なかったことにされた、名前さえ知らない姉さん……
そして、樹。
「樹……いつき……」
いやだ、忘れたくない。
知らない世界……知らないほうがよかったかもしれない世界を、教えてくれたあいつ。
でも、もう、知ってしまった。
それを忘れて、知らなかったふりをして、生きて行きたくない。
初めて腫瘍が消えたのを知って、飛び跳ねるようにして喜んだときの笑顔が目の奥によみがえる。
(忘れたくない)
どれくらい、時間が経ったかわからなかった。
「いつき……」
「あきや」
はっとして、晶は目を開けた。
幻聴かと思った……
一見、防音パネルに囲まれた部屋には何の変化もなく、パソコンからの虹色に収縮する光だけが壁に映っている。
「あきぁ。ここ」
壁の一角に、穴の開いた三十センチ四方程度の金属パネルがはめてあり、声はその向こうからしてくるのだった。
「あ……あ、いつき」
ぐらぐらと揺れる頭を支えながら、晶はそこににじりよった。どうやらそれは換気用の空気ダクトらしく、空気の流れが感じられた。
指が一本通るか通らないか程度の穴しか空いていないパネルだったが、確かにその向こうには少年の息づかいがあり、闇の中にきらめく眼があった。いつもの、芹かなにかを思わせる彼の匂いがした……
「な、なんで……おまえ、ここに」
「あきや、よんだ。おえを」
嬉しそうに、彼は言った。「だかやきた」
「だって……そんな、まさか……だいたい、おまえ、こんなところ誰かに見つかったら……」
「あきや、おえ、よんだ」
もう一度、彼は言った。「うえしい。あきや、おえよぶ、うえひい」
自分の喉がひくっと痙攣するのを、晶は感じた。
「いつき……樹ぃ……」
喉からすすり泣きが漏れ、晶はぼろぼろと涙をこぼしていた。
「おえ、きたよ。なんえなく……?」
戸惑ったように、樹は囁いた。晶は答えずに、頰を通気孔パネルに押し当てた。金属の冷たい感触の中、温かなものが頬に触れた。それは樹の舌で、晶の涙をわずかながら舐め取った。
「なかないえ。あきら」
温かな息が頬にかかる。
ちゅっと音を立てて、樹は晶の頰を吸った。晶は、無言でそこに唇を押し当てた。樹はためらわず通気孔越しに唇を触れ合わせてきた。二人の吐く息がぶつかり合い、混じり合う。晶の伸ばした舌を、樹は優しく舐め、吸った。硬い金属のパネルは二人の体温で温まった。鉄と埃の味の向こうに、痺れるような甘さが溶ける。
低く鈍く響く無機質な音色も、もはや気にならなかった。
(こいつはここにいる……父さんも母さんも、ちゃんと俺の頭の中にいる。消えてしまった姉さんだって)
名前すら、思い出すことができないけれど。
樹の唾液の甘さが染み通り、柔らかな感触が慰めるように動く。
(俺は……忘れたりなんかしない。絶対に……こうして感じる一つ一つを、忘れたりなんかしない)
指先、舌先のわずかな部分を触れ合わせ、相手を感じ取りながら、晶は念じた……
「だえきこうかん」
やや明瞭になった声で、樹はパネル越しに囁いた。「うれしい」
「俺も嬉しい……けど」
晶は囁いた。「おまえはここにいちゃ駄目だ。見つかったら、きっと処分される。その中じゃ逃げ場もない」
「まだいる。いっしょがいい」
「だって、樹……」
「あきら、ねる」樹は食い下がった。「それまでいる」
「寝れないよ、こんなとこで……」
「おまじない、ある。ねれる」
「おまじない?」
「うん。こわいこと、なくなる。おまじない」
「ねのたみの……?」
「うん」
樹は言った。「いってみて」
「うん……」
「とねりこの」
「とねりこ?の……」
「あめたかきえだ」
「あめたかき……えだ……」
「くれつちにおおわれてつゆしたたらすねの」
「くれつちに……おおわれて……え?つゆ?」
「したたらすねの」
「したたらすねの……」
「いずみはうんめい」
「いずみは……うんめい……」
樹の声は低く柔らかく、雑音めいた音色を押しのけて晶の耳に流れ込んだ。晶は、ゆっくりとその言葉の羅列を繰り返した。あめたかき枝……伸びゆく木のイメージがぼんやりと頭に浮かぶ。耳元に、樹の息が温かくかかり、じわじわと身体が弛緩していく。
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