古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

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前夜編

十一、レドリッヒの花毒(ブリューテギフト)

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 レッチェンの声が低く、苦くなった。
「薬が切れると禁断症状が出るようになるんだ。欲しくて欲しくてたまらなくて、他のことすべてどうでもよくなる。薬ほしさに相手の靴を舐めてもいい。そんな人間に成り下がるのさ」
 じゃあね、と軽く言って故郷に立ち去った女の後ろ姿が一瞬脳裏を過った。しかし、別の記憶が蘇ったとき、ルードルフは手を伸ばし、恋人の肩をつかんでいた。
「おまえがここに来たとき……初めておまえに」 
 くちづけしたとき。
「花みたいな味がしたか?」
 レッチェンは、苦々しく、生傷を隠すような微笑を浮かべた。
「言っておくが、俺はレドリッヒの愛人じゃないぜ」
「じゃあなんで……いやそれよりも、」肩をつかむ力の強さに、レッチェンは小さく呻いた。
「おまえは、やめられたのか? その薬を?」 
「厳密に言えば」
 ひとつ息をついて、レッチェンは言った。「やめられているわけじゃない……だが、今のところ大丈夫だ。毒性が少ない疑似薬を合成できたからな」
「疑似薬」
「名前はまだない。俺が調合しただけの薬だ。弱い薬効はあるが、一時的なもので、習慣性はない……主に、花毒の中毒症状を改善する効果がある。いわば、解毒薬と言ってもいいな」
 にやりと笑ってルードルフを見た。
「おまえも味見したことがあるだろ」
 ルードルフは顔をしかめた。「賢者の薬、か……」
「どうだ、善かったか?」レッチェンは軽く手を振った。「習慣性はないから安心しろ。おまえがどうしてもと言うなら、おまえの元愛人のために幾らか調合してやろう。さあ、もう俺は十分以上に話しただろ。今度はおまえが話す番だぞ、ルーディ」
 ルードルフは、つかんでいたレッチェンの肩をゆるゆると離した。知りたくない訳はない……レドリッヒ伯とレッチェンの関わりを、そしてレッチェンと呼んでいるこの青年が、ここに現れる前にどこでどうしていたのかを。だが、無理やりに聞き出したいとも、思えなかった。
 おそらく、青年の中にはまだ生々しい傷があって、それを守り隠しながら、なんとか日々を生きている。何の伝手もなく、いきなり下町に現れたのも、おそらくは、何か彼を脅かすものから逃れてきたのかもしれなかった。
 その傷を、自分が抉ることは、絶対にしたくない。
「分かったよ」
 ルードルフは、寝台に腰掛けると、レッチェンを見あげた。
「俺の知っていることを話す。と言っても、そう多くはない……。
 冬至祭に呼ばれたのは、何やらややこしい政治的な思惑のある理由で、俺は、上手く行っても行かなくても、なんらかの理由で生命を落とすことになっているらしい。むしろ、おまえも、それは知っていたんじゃないのか?」
 レッチェンは目を伏せた。
「闘技会になにかやばい裏があるという話……初めて聞いたときから、おまえはおかしかったぞ」
「ルーディ」
 レッチェンは声をひそめた。「それは、たとえここであっても、言わないほうが安全な話題だ」
 ユーディ・ドルトムントの反応を、ルードルフは思い出していた。レッチェンといい、ユーディといい、確かに触れないほうがいい話というのはこの世にあるものだ。
「この手紙」
 レッチェンは、銀が漉き込まれた高価な紙を振った。「俺とともに街を離れて、冬至祭には関わるなと書いてある……まるで味方だと言いたげな文面だ。レドリッヒの内部の人間だろうが……」
「心当たりがあるか?」
 レッチェンは口ごもった。ルードルフは、そんな彼をしばらく見ていたが、やがて、ひょいと身体を抱きすくめると、寝台の上に寝転がった。「うわっ! 何するんだ、ルーディ」
 ぽんぽんと骨ばった背中を叩いてやる。
「安心しろよ、レッチェン。俺は奴らの政治ゲームに付き合う気はない。俺は、ただの使い捨ての駒で、駒は依頼の背景なんて知らない方がいい。何もかも生命あっての物種さ」
「だが、一度引き受けた依頼を断るのは難しいんだろ」
「色々面倒は面倒だな」ルードルフは肩をすくめた。実際のところ、依頼を断ると双方に不利益が出る。依頼主は、エーデルクロッツに断られた依頼となれば、なかなか引き受け手がいなくなるし、一方でルードルフの方は、依頼を断ったという噂が広まれば、しばらく、アルトシュタットで仕事を見つけるのは難しくなる。
 だが、ルードルフは言った。
「まあ、生きていさえすればいいさ。その後のことはなんとかなる。先のことを考えるのは、お偉い人たちに任せておこうぜ」
 至近距離の恋人に笑いかける。赤毛の青年は苛立ち交じりのため息をついた。
「ただ生きていさえすればいい、なんてお気楽に思えるなら、それは楽だろうな」
「まあ、まずは、断りの連絡を入れる前に、別の仕事を何件かこなして、当面の資金を手に入れるか。おまえの深緑のローブのためにも」
 恋人は舌打ちした。「今、どうでもいいだろ、そんなの……」
「もう、金も払ったことだし、ちゃんと受け取らないとだろう。楽しみだなぁ?」 
 赤毛の青年は、冷ややかな目を剣士に向けた。
「おまえの、そういう、今楽しめればいい、っていう考え方は全く尊敬に値するよ。おまえは、来週世界が終わって最後の審判だって言われても、おんなじように最後まで生きてるんだろうな」
「考えても仕方がないだろう。先のことなんか」
 とりつく島もなく、ごく淡々と、ルードルフは言った。その、考えるまでもなく当たり前のことを語るかのような口調に、レッチェンがちょっと言葉を失くしたことに、ルードルフは気づかなかった。
 翌日の予定を語ることはあっても、約束をしたことはない。予定はいつでも変更可能なもので、明日以降の未来はいつでも、「とりあえず」のものでしかない。剣士として、ルードルフはあまりにも、そう考えることに慣れきっていた。
「とりあえず、収穫祭まではアルトシュタットにいるか。実入りのいい仕事もありそうだしな」
「なんだよ、……仕事を入れるの? 一緒に行くんじゃなかったのかよ」
「このままじゃあ、アルトシュタットを出る路銀がないからなぁ。まずは、稼ぐことを考えないとな」
「だから、服なんて後で良かったんだよ。先のこと考えないからそうなるんだろ」
 青年はぶつぶつと文句を言った。
 しかしこのとき、この判断を後で悔やむことになるとは、二人とも、レッチェンさえも、予想だにしなかった。





~~~~~~~~

【人物紹介】
◆ルードルフ・エーデルクロッツ 
アルトシュタット下町、酒場の二階に下宿する男。用心棒、雇われ剣士、暗殺などなんでもこなす凄腕の荒事師。黒髪、長身、アイスブルーの瞳。

◆レッチェン(レエトヒェン)
ひと月前に下町に現れた正体不明の青年。ルードルフの部屋に居候している。名前はたんに赤という意味で、居合わせた酔客がそう呼んだことから定着した。錬金術や医学の知識がある。赤毛、色白、緑の目。どうやら、髪は染めたものらしい。ショルシュとも呼ばれている。

◆ユーディ・ドルトムント
下町上がりの高級娼婦で、知る人ぞ知る情報屋。ルードルフの元恋人。レドリッヒ伯の愛人。
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