古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

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収穫祭編

三、濡れ衣

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 まさか自分が恋人に薔薇になど重ねられているとも知らず、レッチェンは久しぶりに安楽な夜を過ごした。毛布がチクチク肌に刺さることもないし、寝返りの度に寝台が金切り声をあげることもない。まして、隣の部屋からあられもない声が聞こえてくるわけでもない。唯一、せっかくの広い寝台に相棒の体温がないのだけが心残りではあったが、慣れない逃亡生活にくたびれきっていたレッチェンが、たちまち眠りに落ちてしまったのも無理はなかった。
 溜まった睡眠不足の解消のため、翌日は一日寝てやるつもりだった……起きたところでどこに出かけられるわけでもない。可能なかぎり眠っておいて、旅の出発に備えるのもいいはず。食事も部屋に差し入れてもらえるように交渉されているので、本当になにもやることがないのだ……
 なのに、レッチェンの微睡みは、無粋なノックで破られた。忙しなく、焦った様子の声が続く。「おい! いるのか? おい、返事してくれよ、エーデルクロッツ!!」
「なんだよ、うるさいな……」
 窓から差し込む陽の光は、すでに午後の傾きになっている。長らく眠っていたようだ。
「エーデルクロッツ! おい、聞こえるか?」
 来客に応えようとして、レッチェンは怪しんだ。ルードルフは、行く先をくらますために、宿を移り続けていたのに、なぜこの人物はここが分かったのだ?
 のぞき窓をわずかに開けると、小柄な少年の曲がった背中が見えた。かがみ込んで鍵をいじっているらしい。
(まさか、勝手に開ける気か?!)
 レッチェンがいきなり扉を開けたので、エーミル・ツヴァイフィンゲルはつんのめるようにして室内に転がった。
「おい。何してるんだよ、おまえは」
「あっ……おまえ、レッチェン……」言って赤くなったのは、前回彼と会ったときのことを思い出したからだろう。
「大した手癖の悪さだな。スリの次は空き巣か?このあたりなら、すぐに警吏が飛んでくるぞ」
「ご、誤解だって! 勘弁してくれよ、俺はルードルフ・エーデルクロッツに用があるだけなんだ」
「なんであいつがここにいると分かった」
「エーデルクロッツの旦那が教えておいてくれたんだよ!」エーミル少年は弁明した。「つなぎをつけるときに困るだろ?」
 レッチェンは、不機嫌に眉をしかめた。それならそれで、自分にも言っておいてくれればいいものを……
「ルーディは出かけてる」
 少年の様子にただならないものを読み取って、レッチェンは聞いた。「あいつがどうかしたのか」
「ど、どこにいるんだよ、エーデルクロッツは」
「今日は一日収穫祭だな。ドルーゼン侯爵夫人の単独護衛をしているはずだ」
「え……」エーミルは、青ざめた。「それ、やばいよ……どうしよう」
「何が。どうしたっていうんだ」
 レッチェンはエーミルの肩をつかんだ。「あいつがどうかしたのか?!」
「昨日の昼間、レドリッヒ伯爵が賊に襲われたんだ」
「レドリッヒ……?」
「その犯人が……エーデルクロッツだってことになっている」
「は?!そんなわけあるか、あいつはその時、俺と……」
 言いかけてレッチェンは口を噤んだ。
「そんなの、誰も知らないだろ!! よりにもよって、貴族の護衛なんて……周りに警吏がいっぱいじゃないか。捕まっちまうよ、エーデルクロッツが……」
 レッチェンは自分でも青ざめるのがわかった。宮廷警吏ホーフポリツァイに容疑者として連行されてしまえば、庶民にはまず手が届かないところに連れ去られてしまう。裁判にかけられるのは運がいい一握りで、牢にいる間に衰弱死するものも多いと言われていた。……なにか、特別なコネでもないかぎりは。
「そんな、貴族や警吏ばかりのところに、俺、入っていけないし……せめて知らせてやりたいのに」
「俺が行く」
 青年は、深緑のローブをつかんだ。昨日、ルードルフが着せかけてくれた枯葉色のローブ。今自分でボタンを止めようとして、指先が震えた。短靴の紐を急いで結び、身なりを整える。
「エーデルクロッツは侯爵夫人と一緒なんだぞ。そんなところ庶民が入っていけるかよ」
 レッチェンは、決然と、繰り返した。
「俺が行く……あいつは、俺が助けるんだ」
「あんたが……?」
 エーミルは、呆然と繰り返したが、青年の瞳に決意を見ると、言葉をひっこめて、青年のローブをつかんだ。「頼む……頼むよ、エーデルクロッツの旦那を助けて……」
「頼まれなくても」
 レッチェンは少年を見下ろした。「おまえも来いよ。会場までの近道、知ってるだろ」
「任せろ。人込みを避けていこう」
 どこからか祭りの笛の音が響いてくる。通りは、祭に向かう人々が溢れ、騒がしい。万が一、ギュンターや学生たちに見つかったら面倒だ……レッチェンは、昨日ルードルフが机の上に置いていった収穫祭の仮面を手に取った。
 木々に結ばれた鮮やかなリボンが風に揺れる。街角に積み上げられた巨大な野菜が輝き、店先にぶら下げられた肉の塊はてらてら光っている。
 深緑のローブと、収穫祭の仮面に身を隠したレッチェンは、スリの少年とともに辺りに目を配りながら、素早く街角を移動していった。
 できる限り、自分の身の上は明かしたくない……その思いは、やはりレッチェンにあった。あの閉塞した日々、ただ役割をこなすことのみを期待される日常に連れ戻されるのは嫌だ……俺は、おれ自身でありたい……俺ができることを、俺自身の手で積み上げて行きたい。
 だが、それはそれとして、何を犠牲にしてもルードルフを救いたいという気持ちにも嘘はない。彼がいなくなるなんて、何を置いても耐えられない。
 もう、守られているだけでは、いやなんだ。
「もうすぐ芝居が終わる時刻だ……きっと、侯爵夫人とエーデルクロッツは、天幕にいるはずだ」
 エーミルが巧みに青年を誘導し、混雑した通りをうまく避けながら、二人は落ち葉散り敷く石畳の上を走り、収穫祭の中心部である聖ファイエル広場へと近づいて行った。

~~~~~~~~
【人物紹介】
◆ルードルフ・エーデルクロッツ 
アルトシュタット下町、酒場の二階に下宿する男。用心棒、雇われ剣士、暗殺などなんでもこなす凄腕の荒事師。黒髪、長身、アイスブルーの瞳。

◆レッチェン(レエトヒェン)
ひと月前に下町に現れた正体不明の青年。ルードルフの部屋に居候している。名前はたんに赤という意味で、居合わせた酔客がそう呼んだことから定着した。錬金術や医学の知識がある。赤毛、色白、緑の目。どうやら、髪は染めたものらしい。ショルシュとも呼ばれている。

◆エーミル・ツヴァイフィンゲル
スリで生計を立てている少年。
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