古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

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収穫祭編

十四、母

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 十二月の初めの週に開かれた夜会は、主催者であるエルフリーデ・フォン・マインツの人柄を受けて、華やかなものであった。外では木々が葉を落とし、草は霜に凍っていたが、マインツ邸内は暖炉と火鉢に温められ、人々は熱いチョコレートとワインを飲みながら軽やかなフィドルの音色の中、品よく冗談を言い合い、笑いさざめいた。
 ドルーゼン侯爵夫人は、一人、人の輪を離れて夜の庭へと出ていく丈高い後ろ姿に目を止めた。
 次期公爵との呼び声高いフリードリヒ・フォン・エーデルハイトは、高く低く滑らかに続く音楽と人声を離れ、庭の四阿あずまやに至ると、冷たい冬の夜気を一つ吸い込んだ。
「お疲れになりまして?」
 フリードリヒが振り返ると、ドルーゼン侯爵夫人が砂地を踏みながら歩み寄って来るところだった。あかあかと窓から漏れる明かりが、彼女の横顔を照らしている。ふわりと、冬薔薇の香が薫った。
 フリードリヒは一礼した。
「ご機嫌よう、マルレーネ侯爵夫人。素晴らしい会ですが、わたしのような粗野な武骨者は、時々一人の時間が恋しくなるのです」
「あら……では、お邪魔いたしましたわね」
「あなたは別ですよ、侯爵夫人」
 フリードリヒは飾らない笑みを浮かべた。「あなたとは、もはや腹を割って話すことにしたので、疲れません」
「まあ」
 一拍置いて、侯爵夫人は笑い出した。しばらくして続けた言葉には、確かに温かな親しみが込められていた。「殿方にそのようなことを言っていただいたのは初めてのことですわ……」
 扇の向こうで、双眸がきらりと光る。「ヘル・エーデルハイト、あなたが、兵や民、そして貴族に至るまで、多くの人の心をつかむ理由が、分かった気が致します」 
「これは、恐縮です」
 侯爵夫人は、膝を折って四阿の腰掛けを使った。室内では音楽が変わり、切なげな小夜曲がゆるやかに流れ始めた。人々の話し声が、一瞬ゆるみ、そして流れ出す。
「では……」 
 マルレーネ侯爵夫人の声は、木々の間を渡る風に紛れて、低く落ちた。
「腹を割ったお話を、いたしましょうか」
 フリードリヒは、飾らぬ笑みにいささかの凄みを加えて、侯爵夫人の正面に腰を下ろした。
「闘技会――ですか?」
「殿方は」口調に皮肉をまとわせて、夫人は言った。「皆の前で実力で、成果を勝ち取るのがお好きですわね」
「一番単純ですからな」
 不敵に、フリードリヒは言った。「一番簡単に力を示せる」
「勝てば、ですわね」
 侯爵夫人の言葉に、フリードリヒは、磊落に笑った。「確かに、そのとおりです……しかし、わたしを負かすのは一仕事ですがね」
「ルードルフ・エーデルクロッツという剣士を、あなたは、ご存じ?」
 絹のごときさりげなさで侯爵夫人は尋ねたが、戦士でもあるフリードリヒの目は彼女の手が扇を一瞬固く握ったのを見逃さなかった。
「名前だけは。……近年随一の剣士とか」
「勝てるとお思いになる?」
「侯爵夫人ともあろうお方が、戦う者に、そのご質問はいささか愚問ですよ。勝負は時の運です。しかし、勝てるかと聞かれるならば、勝つ、とのみお答えしましょう」フリードリヒは、見通すような目で、侯爵夫人を見た。「それがあなたのお望みでもありましょうな」
 侯爵夫人の声が、扇の下で冬のせせらぎの如くひそめられた。
「敵対する者たちが、彼を雇ったのですわ。闘技会で、おそらくはあなたのご即位を妨げるために」
「彼がわたしを闘技会で負かせば、確かにこの度の我々の計略はなかったことになりますな」フリードリヒは笑った。「面白い。近年随一の剣士とやら、どこまで強いか、ぜひ手を合わせてみたいものだ」
「ヘル・エーデルハイト」たしなめるような声に、フリードリヒは、笑いを収めた。「失礼。公爵位を継ぐかどうかという大事に、戦いの楽しみを語るのは少々不謹慎ですな。しかし、正直なところ……楽しみではあります」
「敵が何を企んでいるのか、詳細が分からないまま、闘技会の計画を進めるのは危険ですわ。御身にもしものことが…」
 歴戦の戦士は、静かな自信を滲ませて言った。
「闘技会での武器は、先を丸められた競技用の槍や剣です。まあ、たとえ、それが本物だったとしても、わたしは殺されはしませんよ」
 侯爵夫人は、扇の影で柳眉を顰めた。「殿方というものは、どうしてご自身の手で物事を片付けたがるのでしょうね……エーデルクロッツをあらかじめ拘束してしまうということだって、わたくし共の力を使えば、難しくはないのですよ」
「それは、逆に勝利の価値を損ねることになりましょうな。今回の目的を考えれば、わたしが自分の力で勝利を得たと、見るものに知らしめなければならないのだから」
 侯爵夫人は、物思うように、しばし口を閉ざした。
「侯爵夫人」
 低く、穏やかな声で、フリードリヒは言った。

「本当は、何かお気にかけていらっしゃることがあるのではありませんか」

 邸内から、拍手がさざなみのように響いてきた。にぎやかな称賛の声……音楽家が何か気の利いた演奏をしたようだ。

「侯爵夫人」

 フリードリヒは、とっさに手を伸ばし、倒れそうに揺らいだ身体を支えた。カタリと音を立てて、真珠を飾られた扇が、四阿の床に落ちた。
 手の中の細い肩は、震えていた。

「ゲオルクが……」

 彼女はかすれた声でささやいた。

「敵の手に落ちたのです」

 フリードリヒは、そっと彼女を腰掛けの背もたれに寄りかからせた。彼女は、しばし、口を噤んでいたが、ややあってから息を吐いた。
「ありがとう。見苦しいところをお目にかけましたわね」
 フリードリヒは、扇をそっと拾い上げ、絹手袋に包まれた夫人の手に渡した。「いや。当然のことです。まさか、他でもなくご子息が」
 言いながら、フリードリヒは、意外な思いに打たれていた……ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼンは妾腹の子と聞いていたが、目の前の侯爵夫人が一瞬公人としての仮面を外してあらわにした情は、ひとりの母のものにほかならなかった。
 ゲオルク……ショルシュとは、数回しか顔を合わせたことはなかった。いつもどこか他の者から距離を置いて、時に人を刺すような言葉を口にした、人形のような白い横顔を思い出す。
「敵……とは、例の」
「おそらくは……しかし、確たる証がないのです」苦渋が滲む声で、彼女は言った。「いかようにも、あの子は利用されてしまうでしょう。ドルーゼンの血を引いてしまったがゆえに、望みもせぬ争いの火種となり、国を傾ける引き金となってしまう……わたくしは」聞き取れないほどの声で、彼女はささやいた。「あの子が憐れです」
「既に捜索の手は打たれていらっしゃるのですな?」
「ええ。しかし、敵のほうが一枚上手なのです。しかも、屋敷の奥深くに隠されてしまえば、証拠もなしに改めることは叶いません」
 フリードリヒは、沈思した。「微力ながら、わたしも力をお貸ししましょう。しかし……アルトシュタットで宮廷警吏も薔薇の鎖ローゼンケッテも手がかりを掴めないとなると、わたしの力がどこまで及ぶか」
「お気持ち、嬉しく存じますわ」
「公からは手出しができない、となれば、裏からは?」
 侯爵夫人は、深く息をついた。
「これ以上ない者が、裏からは動いてくれておりますわ……しかし、それとて、どこまで通用するものか」
 侯爵夫人は、立ち上がった。その背は、痛々しいまでに、まっすぐに伸びていた。「弱い女とお思いでしょうね……国の大事にあって、この有り様とは」
「どうか、お気持ちを確かにお持ちください。彼らも、ショルシュを利用するつもりなのであれば、その身を損なうことはしないはずです。そして、私が公爵位を継ぐことが決まってしまえば、彼の政治的な価値は乏しくなる」
「お言葉の通りですわ」
 侯爵夫人の声に、もはや揺らぎは読み取れなかった。彼女は、窓の明かりに向かって一歩踏み出すと、フリードリヒを振り返り、厳然と言った。「ご安心くださいませ。貴族として生まれた以上、この国か我が子かと問われることがあったとしても、国を選ぶ覚悟はできております」
 何か、痛ましいものを見る思いで、フリードリヒ・フォン・エーデルハイトは、侯爵夫人を見つめた。
 ややあって、彼は言った。
「侯爵夫人。私が国を継いだ暁には、……人が人らしく生きられる、そんな国を作りたい」
 窓辺からの明かりに、夫人の口元が小さく震えるのが見えた。
「それは、遠い先のことかもしれないが、きっと」
 フリードリヒは、低いが、確かな声で言い切った。
 マルレーネ・フォン・ドルーゼンは、静かに微笑むと、彼に背を向け、軽やかな音楽が流れる明るい邸内に向かって、歩み去っていった。


~~~~~~~~~
【人物紹介】
◆ルードルフ・エーデルクロッツ 
アルトシュタット下町、酒場の二階に下宿する男。用心棒、雇われ剣士、暗殺などなんでもこなす凄腕の荒事師。黒髪、長身、アイスブルーの瞳。

◆レッチェン(レエトヒェン)=ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼン(ショルシュ)
ルードルフの恋人。名前はたんに赤という意味で、居合わせた酔客がそう呼んだことから定着した。錬金術や医学の知識がある。赤毛、色白、緑の目。どうやら、髪は染めたものらしい。ショルシュはゲオルクの愛称。

◆マルレーネ・フォン・ドルーゼン侯爵夫人
アルトシュタットの薔薇と言われるサロンの中心人物。才女。貴族の秘密結社【薔薇の鎖】の首魁。ゲオルクの育ての母。

◆フリードリヒ・フォン・エーデルハイト
エーデルハイト侯爵。文武両道で人望が厚い。公爵位継承権を持つ。
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