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収穫祭編
十八、薄氷
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しあわせな夢を見ていた気がする。
温かな日差しの降り注ぐ窓際で、あいつの肩に寄りかかって微睡んでいる……
目をつぶっていても、あいつが俺を眺めているのが分かる。
ちょっと微笑んでいる……いつもの、あの笑顔、何も言わなくても、俺はここにいていいと思える、あの穏やかな笑い方で。
大きな、あたたかな手が頬に、髪に触れていく。
(ルーディ)
彼は、夢の中で微笑んだ。
このままずっとこうしていたい……
恋人は、なぜか痛みを堪えるような切実さで、しかし愛おしそうに、ささやいた。
(レッチェン、俺だ。……俺だよ)
ヒュッ、と息を吸い込んで、レッチェンは目を覚ましていた。
手首が枷に引っ張られ、ガチッと鎖が鳴った。冷たい石の床が頬に当たっていた。
意識を失くした、ほんの一瞬の夢だったのだ。
身体は鉛のように重く、冷え切った手足は自分のものでないようだった。鋼鉄の手枷が、鈍く刃物のように皮膚に食い込んでくる。
唇が切れているのか、乾ききった口の中には、鉄錆めいた血の味がしていた。
寒くてたまらない……。
ざりっ、と靴が砂を噛む音がした。目の前には、もはや見慣れてしまったギュンター・フォン・レドリッヒの上等な革靴があった……。
「君も強情だな、ショルシュ……」
低いため息とともに、彼は言った。
「私も、こんなひどい真似をいつまでもしたくはないんだよ。もう、冬だ……石の床は冷たいだろう?」
しゃがみこみ、革手袋の手を伸ばすと青年の頬を撫でる。整った顔に、あたかも心から気の毒に思っているかのような、痛ましそうな微笑を浮かべた。「こんなに冷え切って、かわいそうに……」
レッチェンが唾を吐いたので、ギュンターは表情を消して手を離した。
「誰が……おまえの思い通りに」
「下町の暮らしで下品になったな、ショルシュ」
レッチェンは、じりじりと下がり、人に慣れぬ猫のように壁に背中を押し付けて、相手を睨みつけた。
「……なんとでも言え。俺は、……おまえの思い通りにはならない……」
ギュンターは、ささやくように言った。「君がもう少し従順なら、その手枷も外してあげられるんだよ。館の中の、温かな寝台で夜を過ごしてもらうことだってできる」
「ここの方が百倍マシだ!」
レッチェンが叫んだとき、ギュンターの手が頬を打った。視界が横転する。再び目を開けたとき、見下ろしてくるギュンターの眼には、不穏な冷ややかさがあった。
「まあ、よく考えるんだな……冬至祭まではまだ長い」
レッチェンは答えなかった。身体の節々が痛み、身動きすらも億劫だった。視界の端で革の短靴が向きを変え、歩み去っていく。
(こいつの思い通りにだけは、なりたくない……)
暗い牢の天井に、ろうそくの明かりが映り込む。湿った空気には、かすかに潮の匂いが混じりこんでいた。
地下牢に連れてこられて、何日が経ったのか、もう分からなかった。窓のない牢には夜も昼もない。
床にこぼれるゆるい巻き毛がろうそくの光に透けている。
(大分、褪色しつつある……)
その髪は、下町に暮らしていたときの深い赤銅色から、夕日が映った雪のようなあわい薄紅色に変わっていた。
(毎日、灰汁か石けんで定着させている間は保っていたんだけどな……)
毎日の入浴が日課だった彼にとって、ここまで髪を清められないのはひさしぶりだった。庶民はもちろん貴族でさえも、入浴を毎日するのは一般的でないが、毎日髪色の固定のために入浴しているうちに習い性になってしまったのだ。もっとも、冬になりつつあるこの季節、底冷えのする地下牢で沐浴などすることになったら、本当に肺炎になるかもしれなかった。
「レッチェン」
幼い声が、そっと響いた。
金髪の少女が、ひそやかに、牢の中に滑り込んできていた。
レッチェンの手を取り、温かなポットに押し付ける。中にはスープが入っているようだ……そういえば、長い事なにも口にしていなかった。青年の冷え切った手足を温めようと、甲斐ない努力を続けながら、ローレ・フォン・レドリッヒは言った。
「こんなこと……続けられないわ。このあたりは雪は少ないけれど、とても冷え込むのに、……病気になってしまう」
これが、ギュンターによる一種の拷問だということに、レッチェンは気づいていた……自分の心が折れるのを、あの男は待っているのだ。
あの男に膝を折るなんて、絶対に嫌だ……。
「せめて、毛布や、もっと温かな食事がないと」
言いながら、不意にローレは声を震わせた。「レッチェン。まさか……あなた、本当に……お兄さまに屈するくらいなら死んだほうがいい、だなんて……思ってないわよね?」
レッチェンは言葉に詰まった。寒さも硬い床も苦痛でたまらなかったが、確かにあの男に屈するよりはマシだと思ってはいた……
(もしも俺が死んだら、……俺が決して、自分の思うままにならなかったと知ったら、あの男はどんな顔をするだろうか。その顔を見てやれたら、どんなに痛快だろうか……)
そのとき、冷え切った頬に、何か温かいものが滴った……。
「レッチェン……」
幼い声は、かすれていた。
涙が、きらめく粒となって少女の睫毛からこぼれ落ちてくる。ぱた、ぱたと頬に落ちてくる涙の温かさが、痛みを伴って胸に染み渡っていく。
レッチェンは呆然と目の前の光景を見つめていた。
「バカ……! バカ!!」少女は肩を震わせてしゃくりあげた。
「あなたは、それでいいの? そんなことに、あなたの生命を使っていいの?! やりたいことも、やらなければいけないこともあるんじゃなかったの??」小さな拳が、どんどんと青年の胸を打つ。
「死なないで……お願い。お願いよ、レッチェン」
そうだった……
俺は、あのとき、あいつに「死ぬな」と言ったのに。
俺は、あそこに帰らなければならないのに……
「俺は……死なない。死ぬわけには、いかない」食いしばった歯の間から、レッチェンは呟いた。
「ローレ、君の言う通りだ」
少女は、手の甲で涙を拭いた。
「そうよ。まずは食べて」スープのポットを押し付けてくる。「それから、できる限り身体を動かすこと。立てなくなるわよ」
レッチェンは、手渡されたスプーンを口に運んだ。温かさがじんわりと腹から身体に広がっていく。少し考えながら、彼は言った。
「ローレ、気づいたんだが……最近、花毒の効き目が少し鈍い気がするんだ。飲まされたあとも、切れてくる時間が早い……」
レッチェンは、呟いた。
「繰り返し花毒を摂取しながら、君の解毒剤を飲んでいることで、耐性ができているのかもしれない」
「……それは、いいことよね?」
「分からない。摂取をやめたときに、禁断症状がより強く出る可能性もある」
「あなたの作った禁断症状の薬は? 疑似薬とあなたが呼んでいた…」
「ローブのポケットにあったんだ、万一のときにも手に取れるように」レッチェンは低い声で言った。「置いてきてしまった」
「いずれにせよ、ここを出なくてはどうにもならないわ」
ローレは、立ち上がった。「なんとかしてみる」
「フロイライン・ローレ……それは、危険なことじゃないのか?」
「危険を冒さねばならないときがあるとしたら」彼女はきっぱりと言った。「今がその時よ」
(マルレーネ・フォン・ドルーゼン侯爵夫人に、伝えることさえできたら)
ローレは、息をひそめて、部屋から暗い廊下に抜け出した。兄と例の大柄な剣士が、地下牢に向かう灯りが、先ほど部屋の窓から見えたばかりだった。しばらくは館に戻っては来ないはずだ。手には、書き上げたばかりの手紙がある。
アルトシュタットの邸宅であれば、まだ馴染みの使用人もいたのだが、ノイエハーフェンの別荘には、知り合いが少ない。しかし、上手く駄々をこねてみせた上で多少褒美をやれば、手紙を出してくれそうな男が、門番にいる。
暗い階段を伝って、広い玄関に至る。かけがねを外し、出ようとした時だった。
扉が向こうから大きく開かれ、ランプの明かりが目を射た。男の手が少女の手首を掴み、手紙を取り上げる。
「ローレ。こんな冬の港町に、付いてきたいなんて言うから何かと思えば」
ギュンターの頬には微笑があった。「ずいぶんな悪戯を企んでいたみたいだね」
兄の手に力が籠もり、ローレは小さく悲鳴をあげた。
「おや? 痛かったかな? ごめんごめん」
気づかれてしまった。
今まで、うまく振る舞ってきたというのに……ずっと、兄の視界の外にいることに、徹してきたというのに。
ローレは、息を吸い込んで、声が震えるのを堪えた。
「悪戯をなさっているのはお兄さまでしょう? 仮にも次期公爵閣下たり得る方を、あんな場所に閉じ込めて、どうなさるおつもりなの」
「おまえの言ったとおりだよ、ローレ」
兄はにこやかに言った。「ショルシュには、次期公爵となってもらう」
「であれば、あまりの扱いですことね」
冷たく響くように声色を調節する。ローレは、つんと顎を上げて兄を睨んだ。
「お兄さまともあろうお方が、まさかお気づきにならないなんて……玉子を産む前に金の鵞鳥を傷めるような真似を、どうしてなさるのかしら」
「ほう?」金髪の貴公子は、面白そうに妹を眺めた。ローレは、手に汗がにじむのを感じていた……レッチェンの運命は、今、兄をどう言いくるめるかにかかっている。
「それに、まさかご存知ないわけもないわね……捨て猫に言うことをきかせるには、鞭よりミルクが有効ですのよ」
ギュンターは、目を細めた。
「我が妹ながら、よく回る頭だな、ローレ。今までおまえのことなど気にも止めたことがなかったが、もったいないことをしたよ」
手が震え、唇がこわばる。この目、灰色の蛇を思わせるこの目に見られたくないと思って、ずっと逃げ回ってきたのだ。なのに、ついに捕まってしまった……。
ギュンターは微笑むと、掴んだ手を引き寄せ、妹の顔を間近にのぞき込んだ。
「いいだろう。おまえの策に乗ってやろうじゃないか。わたしとしても、彼が体調を崩すのは、本意ではない……だが、ローレ、おまえは、悪戯のお仕置きにしばらく謹慎していてもらおう」
彼は、背後にいた剣士に合図した。「フロイライン・ローレを部屋にお連れしろ」
翌朝、レッチェンの牢に、金髪の少女が訪ねてくることはなかった。
その代わりとでもいうように、毛布と敷物に火鉢、温かな食事が差し入れられ、手枷が外された。身体の清拭までも許されたが、流石に髪色の固定までには至らなかった。その結果、自分の姿が、日に日に「ショルシュ」と呼んでいた自分に近づいていくのを、レッチェンは手をこまねいて見ているしかなかった。
しかし、一方で、花毒に対する耐性は、確実に身体に残っていた……効果は弱く、持続しなくなった。それは、あたかも彼の身体が、強制された支配に対抗しようとしているようだった。
少女が残した言葉に従って、彼は食事を取り、そして密かに身体を動かした。花毒と枷のためにほとんど動かさなかった身体は、たった数日のうちに、すぐには立ち上がれないほど衰えていた。
(あいつが来てくれた時に、動けなかったら、逃げ出すことができない……)
黙々と、狭い牢の中でできる限りの動作を続けることが、彼の習慣となった。いつか来る、その時のために。
~~~~~~~~~
【人物紹介】
◆ルードルフ・エーデルクロッツ
アルトシュタット下町、酒場の二階に下宿する男。用心棒、雇われ剣士、暗殺などなんでもこなす凄腕の荒事師。黒髪、長身、アイスブルーの瞳。
◆レッチェン(レエトヒェン)=ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼン(ショルシュ)
ルードルフの恋人。名前はたんに赤という意味で、居合わせた酔客がそう呼んだことから定着した。錬金術や医学の知識がある。赤毛、色白、緑の目。どうやら、髪は染めたものらしい。ショルシュはゲオルクの愛称。
◆ギュンター・フォン・レドリッヒ
レドリッヒ伯の長男。さわやかな物腰と長身、金髪碧眼の美青年。ゲオルクとは従兄弟で同じ大学に通う。「ウサギ狩り」でショルシュの尊厳を奪った張本人。
◆ハンネローゼ・フォン・レドリッヒ(ローレ)
ギュンターの妹。ギュンターに囚われていたショルシュの脱走を手伝う。
温かな日差しの降り注ぐ窓際で、あいつの肩に寄りかかって微睡んでいる……
目をつぶっていても、あいつが俺を眺めているのが分かる。
ちょっと微笑んでいる……いつもの、あの笑顔、何も言わなくても、俺はここにいていいと思える、あの穏やかな笑い方で。
大きな、あたたかな手が頬に、髪に触れていく。
(ルーディ)
彼は、夢の中で微笑んだ。
このままずっとこうしていたい……
恋人は、なぜか痛みを堪えるような切実さで、しかし愛おしそうに、ささやいた。
(レッチェン、俺だ。……俺だよ)
ヒュッ、と息を吸い込んで、レッチェンは目を覚ましていた。
手首が枷に引っ張られ、ガチッと鎖が鳴った。冷たい石の床が頬に当たっていた。
意識を失くした、ほんの一瞬の夢だったのだ。
身体は鉛のように重く、冷え切った手足は自分のものでないようだった。鋼鉄の手枷が、鈍く刃物のように皮膚に食い込んでくる。
唇が切れているのか、乾ききった口の中には、鉄錆めいた血の味がしていた。
寒くてたまらない……。
ざりっ、と靴が砂を噛む音がした。目の前には、もはや見慣れてしまったギュンター・フォン・レドリッヒの上等な革靴があった……。
「君も強情だな、ショルシュ……」
低いため息とともに、彼は言った。
「私も、こんなひどい真似をいつまでもしたくはないんだよ。もう、冬だ……石の床は冷たいだろう?」
しゃがみこみ、革手袋の手を伸ばすと青年の頬を撫でる。整った顔に、あたかも心から気の毒に思っているかのような、痛ましそうな微笑を浮かべた。「こんなに冷え切って、かわいそうに……」
レッチェンが唾を吐いたので、ギュンターは表情を消して手を離した。
「誰が……おまえの思い通りに」
「下町の暮らしで下品になったな、ショルシュ」
レッチェンは、じりじりと下がり、人に慣れぬ猫のように壁に背中を押し付けて、相手を睨みつけた。
「……なんとでも言え。俺は、……おまえの思い通りにはならない……」
ギュンターは、ささやくように言った。「君がもう少し従順なら、その手枷も外してあげられるんだよ。館の中の、温かな寝台で夜を過ごしてもらうことだってできる」
「ここの方が百倍マシだ!」
レッチェンが叫んだとき、ギュンターの手が頬を打った。視界が横転する。再び目を開けたとき、見下ろしてくるギュンターの眼には、不穏な冷ややかさがあった。
「まあ、よく考えるんだな……冬至祭まではまだ長い」
レッチェンは答えなかった。身体の節々が痛み、身動きすらも億劫だった。視界の端で革の短靴が向きを変え、歩み去っていく。
(こいつの思い通りにだけは、なりたくない……)
暗い牢の天井に、ろうそくの明かりが映り込む。湿った空気には、かすかに潮の匂いが混じりこんでいた。
地下牢に連れてこられて、何日が経ったのか、もう分からなかった。窓のない牢には夜も昼もない。
床にこぼれるゆるい巻き毛がろうそくの光に透けている。
(大分、褪色しつつある……)
その髪は、下町に暮らしていたときの深い赤銅色から、夕日が映った雪のようなあわい薄紅色に変わっていた。
(毎日、灰汁か石けんで定着させている間は保っていたんだけどな……)
毎日の入浴が日課だった彼にとって、ここまで髪を清められないのはひさしぶりだった。庶民はもちろん貴族でさえも、入浴を毎日するのは一般的でないが、毎日髪色の固定のために入浴しているうちに習い性になってしまったのだ。もっとも、冬になりつつあるこの季節、底冷えのする地下牢で沐浴などすることになったら、本当に肺炎になるかもしれなかった。
「レッチェン」
幼い声が、そっと響いた。
金髪の少女が、ひそやかに、牢の中に滑り込んできていた。
レッチェンの手を取り、温かなポットに押し付ける。中にはスープが入っているようだ……そういえば、長い事なにも口にしていなかった。青年の冷え切った手足を温めようと、甲斐ない努力を続けながら、ローレ・フォン・レドリッヒは言った。
「こんなこと……続けられないわ。このあたりは雪は少ないけれど、とても冷え込むのに、……病気になってしまう」
これが、ギュンターによる一種の拷問だということに、レッチェンは気づいていた……自分の心が折れるのを、あの男は待っているのだ。
あの男に膝を折るなんて、絶対に嫌だ……。
「せめて、毛布や、もっと温かな食事がないと」
言いながら、不意にローレは声を震わせた。「レッチェン。まさか……あなた、本当に……お兄さまに屈するくらいなら死んだほうがいい、だなんて……思ってないわよね?」
レッチェンは言葉に詰まった。寒さも硬い床も苦痛でたまらなかったが、確かにあの男に屈するよりはマシだと思ってはいた……
(もしも俺が死んだら、……俺が決して、自分の思うままにならなかったと知ったら、あの男はどんな顔をするだろうか。その顔を見てやれたら、どんなに痛快だろうか……)
そのとき、冷え切った頬に、何か温かいものが滴った……。
「レッチェン……」
幼い声は、かすれていた。
涙が、きらめく粒となって少女の睫毛からこぼれ落ちてくる。ぱた、ぱたと頬に落ちてくる涙の温かさが、痛みを伴って胸に染み渡っていく。
レッチェンは呆然と目の前の光景を見つめていた。
「バカ……! バカ!!」少女は肩を震わせてしゃくりあげた。
「あなたは、それでいいの? そんなことに、あなたの生命を使っていいの?! やりたいことも、やらなければいけないこともあるんじゃなかったの??」小さな拳が、どんどんと青年の胸を打つ。
「死なないで……お願い。お願いよ、レッチェン」
そうだった……
俺は、あのとき、あいつに「死ぬな」と言ったのに。
俺は、あそこに帰らなければならないのに……
「俺は……死なない。死ぬわけには、いかない」食いしばった歯の間から、レッチェンは呟いた。
「ローレ、君の言う通りだ」
少女は、手の甲で涙を拭いた。
「そうよ。まずは食べて」スープのポットを押し付けてくる。「それから、できる限り身体を動かすこと。立てなくなるわよ」
レッチェンは、手渡されたスプーンを口に運んだ。温かさがじんわりと腹から身体に広がっていく。少し考えながら、彼は言った。
「ローレ、気づいたんだが……最近、花毒の効き目が少し鈍い気がするんだ。飲まされたあとも、切れてくる時間が早い……」
レッチェンは、呟いた。
「繰り返し花毒を摂取しながら、君の解毒剤を飲んでいることで、耐性ができているのかもしれない」
「……それは、いいことよね?」
「分からない。摂取をやめたときに、禁断症状がより強く出る可能性もある」
「あなたの作った禁断症状の薬は? 疑似薬とあなたが呼んでいた…」
「ローブのポケットにあったんだ、万一のときにも手に取れるように」レッチェンは低い声で言った。「置いてきてしまった」
「いずれにせよ、ここを出なくてはどうにもならないわ」
ローレは、立ち上がった。「なんとかしてみる」
「フロイライン・ローレ……それは、危険なことじゃないのか?」
「危険を冒さねばならないときがあるとしたら」彼女はきっぱりと言った。「今がその時よ」
(マルレーネ・フォン・ドルーゼン侯爵夫人に、伝えることさえできたら)
ローレは、息をひそめて、部屋から暗い廊下に抜け出した。兄と例の大柄な剣士が、地下牢に向かう灯りが、先ほど部屋の窓から見えたばかりだった。しばらくは館に戻っては来ないはずだ。手には、書き上げたばかりの手紙がある。
アルトシュタットの邸宅であれば、まだ馴染みの使用人もいたのだが、ノイエハーフェンの別荘には、知り合いが少ない。しかし、上手く駄々をこねてみせた上で多少褒美をやれば、手紙を出してくれそうな男が、門番にいる。
暗い階段を伝って、広い玄関に至る。かけがねを外し、出ようとした時だった。
扉が向こうから大きく開かれ、ランプの明かりが目を射た。男の手が少女の手首を掴み、手紙を取り上げる。
「ローレ。こんな冬の港町に、付いてきたいなんて言うから何かと思えば」
ギュンターの頬には微笑があった。「ずいぶんな悪戯を企んでいたみたいだね」
兄の手に力が籠もり、ローレは小さく悲鳴をあげた。
「おや? 痛かったかな? ごめんごめん」
気づかれてしまった。
今まで、うまく振る舞ってきたというのに……ずっと、兄の視界の外にいることに、徹してきたというのに。
ローレは、息を吸い込んで、声が震えるのを堪えた。
「悪戯をなさっているのはお兄さまでしょう? 仮にも次期公爵閣下たり得る方を、あんな場所に閉じ込めて、どうなさるおつもりなの」
「おまえの言ったとおりだよ、ローレ」
兄はにこやかに言った。「ショルシュには、次期公爵となってもらう」
「であれば、あまりの扱いですことね」
冷たく響くように声色を調節する。ローレは、つんと顎を上げて兄を睨んだ。
「お兄さまともあろうお方が、まさかお気づきにならないなんて……玉子を産む前に金の鵞鳥を傷めるような真似を、どうしてなさるのかしら」
「ほう?」金髪の貴公子は、面白そうに妹を眺めた。ローレは、手に汗がにじむのを感じていた……レッチェンの運命は、今、兄をどう言いくるめるかにかかっている。
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ギュンターは、目を細めた。
「我が妹ながら、よく回る頭だな、ローレ。今までおまえのことなど気にも止めたことがなかったが、もったいないことをしたよ」
手が震え、唇がこわばる。この目、灰色の蛇を思わせるこの目に見られたくないと思って、ずっと逃げ回ってきたのだ。なのに、ついに捕まってしまった……。
ギュンターは微笑むと、掴んだ手を引き寄せ、妹の顔を間近にのぞき込んだ。
「いいだろう。おまえの策に乗ってやろうじゃないか。わたしとしても、彼が体調を崩すのは、本意ではない……だが、ローレ、おまえは、悪戯のお仕置きにしばらく謹慎していてもらおう」
彼は、背後にいた剣士に合図した。「フロイライン・ローレを部屋にお連れしろ」
翌朝、レッチェンの牢に、金髪の少女が訪ねてくることはなかった。
その代わりとでもいうように、毛布と敷物に火鉢、温かな食事が差し入れられ、手枷が外された。身体の清拭までも許されたが、流石に髪色の固定までには至らなかった。その結果、自分の姿が、日に日に「ショルシュ」と呼んでいた自分に近づいていくのを、レッチェンは手をこまねいて見ているしかなかった。
しかし、一方で、花毒に対する耐性は、確実に身体に残っていた……効果は弱く、持続しなくなった。それは、あたかも彼の身体が、強制された支配に対抗しようとしているようだった。
少女が残した言葉に従って、彼は食事を取り、そして密かに身体を動かした。花毒と枷のためにほとんど動かさなかった身体は、たった数日のうちに、すぐには立ち上がれないほど衰えていた。
(あいつが来てくれた時に、動けなかったら、逃げ出すことができない……)
黙々と、狭い牢の中でできる限りの動作を続けることが、彼の習慣となった。いつか来る、その時のために。
~~~~~~~~~
【人物紹介】
◆ルードルフ・エーデルクロッツ
アルトシュタット下町、酒場の二階に下宿する男。用心棒、雇われ剣士、暗殺などなんでもこなす凄腕の荒事師。黒髪、長身、アイスブルーの瞳。
◆レッチェン(レエトヒェン)=ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼン(ショルシュ)
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◆ギュンター・フォン・レドリッヒ
レドリッヒ伯の長男。さわやかな物腰と長身、金髪碧眼の美青年。ゲオルクとは従兄弟で同じ大学に通う。「ウサギ狩り」でショルシュの尊厳を奪った張本人。
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完結しました。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
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