古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

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冬至祭編

三、熊殺し

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 青い氷のように晴れ上がった冬空の下、焼き栗とホットワインの香りが漂う冬至祭会場周辺は、見物の市民たちのざわめきで満ちていた。子どもを肩車する父親や、大道芸を披露する道化師、主人一家のために飲み物を購う使用人などで道はごった返している。人々の吐く息や焼きたてのヴルストの湯気がそこここで白い霧となり、赤らんだ頬に重なった。
 常であれば、柵ぎりぎりまで近づいて観覧を許される市民たちが、今年はさらに外に設置された外柵までしか許されず、所々に宮廷警吏が目を光らせているのが、異様と言えば異様であった。
 白砂で整えられた円形の競技場は、木の柵で囲まれ、次の戦いに出場する騎士が待機する天幕リッターツェルトが南北に配置されている。興奮した戦馬のいななきや土を蹴る音が冷えた空に吸い込まれていく。
 天幕を後にした貴族たちが、連れ立って談笑しながら、闘技場の周囲にしつらえられた貴賓席に集まり始めた。リースリンク公爵その人、そして華やかに笑いさざめく貴婦人たちの中にはマルレーネ・フォン・ドルーゼン侯爵夫人の姿も見える。
 高らかにラッパが吹き鳴らされ、人々の視線は闘技場へと向かった。闘技場の中央には、本日戦う予定の騎士たちの名と家柄が長々しく美麗な布に書き連ねられて発表され、これから槍を交わすこととなる騎士たちは、戦馬とともに整然と立ち並んで、神の前に公明正大に戦うことを誓願した。
 代理騎士の名は表されることなく、あくまでも貴族の子弟がそこに参戦するという建前が守られている。ルードルフ・エーデルクロッツは、皮肉なことに、ギュンター・フォン・レドリッヒの名代として戦うのだった。他の貴族たちの名も連なっているが、見回したところほとんどが代理騎士のようで、見知った顔も多かった。ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼンの名代の騎士は、人参のような髪の四十絡みの男で、そこまで腕が立ちそうではなかったが、少なくとも槍の扱いには熟練が伺えた。そして、なんと言っても――
 ルードルフは、遠くに立つ銀髪の男に目をやった。
 フリードリヒ・フォン・エーデルハイトは、重い鋼鉄の槍を何の苦も無く捧げ持ち、堂々と真っすぐに立っていた。すっきりと長めの銀髪を一つに束ね、白銀に黒くエーデルハイトの紋章が入った甲冑に身を包んでいる。分厚い体躯は、見た目だけではあるまい……。 
 ルードルフに用意された甲冑は、レドリッヒ家名代にふさわしく、黒に金の豪奢なものだった。レドリッヒ家の小姓に着せ付けられたのだが、何度やっても、人に身体を触られるのは嫌なものだ。おまけに全身甲冑は重く、普段軽装での戦闘に慣れているルードルフにとっては一つ荷物がふえたようなものだ。一方で、フリードリヒは、甲冑をまるで自分の体の一部のように着こなしている。

 今日の仕事は、優勝すること、そしてフリードリヒ・フォン・エーデルハイトに「あとに残るほどの傷を負わせること」だ。果たしてそれが可能だろうか?

 ルードルフは、騎士の名が対戦相手とともに記された垂れ幕に目を向けた。
 ギュンター・フォン・レドリッヒが言った通り、順当に行けば、エーデルハイトと対戦するのは、決勝になる。
 まずはそこまで、一つ一つ、確実に勝利しなくてはならない……。
 ルードルフは、本日の相棒となる茶色の牝馬に軽く手を当てた。よく手入れされた、大人しい牝馬は、親しげにルードルフの手に顔をこすり付けてきた。フリードリヒの騎馬は、彼自身の馬だという葦毛の去勢馬ヴァラッハである。ルードルフも騎馬での戦いの経験がないわけではないが、明らかにこの点ではフリードリヒが優れていることは間違いない。

「エーデルクロッツ!」
 野次が群衆から飛んだ。「エーデルクロッツがいるぞ!」

 市民たちには、代理騎士の顔にも詳しい者がいて、例年、必ず賭けが横行する。
「エーデルクロッツがいるなら、奴で決まりだろ!」
「いや、決勝までは行けるだろうが、ここはやはり熊殺しベーレンテーテルフリッツだろ」
 声高に下馬評を語る知らない男の言葉を、フラウ・アーカイムはやきもきしながら聞いていた。この日ばかりは、店を開けていても商売にならないので、フラウ・アーカイムは、商売仲間のエルンストとともに観戦にきていたのである。
 フリードリヒ・フォン・エーデルハイトが、戦地で熊を殺して兵に振る舞ったという噂をフラウ・アーカイムも聞いてはいたが、人間が熊を倒すなんていくらなんでも眉唾だろうと彼女は疑っていた。
 銀髪の堂々たる貴公子は、確かに勝者としての格があったが、彼女としては店子であるルードルフに人気があってほしいのである。連れのエルンストは、肩をすくめた。
「まあ、あんたがエーデルクロッツを推したい気持ちは分からんでもないが、奴は剣士だからなぁ。地上で剣を取って戦ったら、勝負は分からんが、甲冑で馬に乗って、槍で……となったら、やはりフリッツ侯ではないかなぁ」
「エーデルクロッツは、やるときゃやる男だよ」
 フラウ・アーカイムは、顔を赤くして言った。
 フリードリヒ・フォン・エーデルハイトが、片手を上げて声援に応えたので、否が応にも群衆の熱気が増した。
「フリッツ! フリッツ! 熊殺しのフリッツ!」
 声援が地鳴りのように広がる。
 ああもう、とフラウ・アーカイムは忌々しそうに舌打ちした。「エーデルクロッツもちょっとくらい愛想を見せればいいのにさ……」

 ルードルフはというと、群衆には全く注意を払わず、次に当たる代理騎士の振る舞いを独り観察していた。
(今日は決勝まで行くとして五戦……決勝に体力を残すためには、ただ勝つだけではなく、無駄なく勝たなくてはならない)
 最初に当たるのは、ホーエンブリュック家の代理騎士で、ルードルフとおなじく主に剣士として名を売っている男だ。以前決闘試合をしたことがあるが、左脇の防御が甘い癖がある。
 ルードルフの控え天幕リッターツェルトは南側が割り当てられていた。馬を引いて天幕に入りながら、ルードルフは、肌に重たい圧迫感を感じ取っていた。見張りがついているのだ。天幕の外に三人……ヴィーゼルとあと二人。レドリッヒの手の者らしい。
(この期に及んで、俺が逃げ出すとでも思っているのか?)
 ルードルフは疑念を覚えた。
 あるいは、外部からの接触を絶とうとしている……?
 何のために?
 ラッパが朗々と鳴り渡り、ルードルフは思考を切り替えた。
 小姓が手渡す兜をつける。面頬からの視界はごく狭く、ルードルフは息苦しさを覚えた。
 訓練された牝馬は、ルードルフが跨ると馬鎧をつけた頭を軽く振って応えた。
 刃を潰された槍を受け取る。
 武器を手放すか、落馬する、あるいは負けを認めた時点で敗北となる。刃を潰されているとはいえ、鋼鉄の槍は重く、当たりどころが悪ければただでは済まないだろう。
 ルードルフは、静かに呼吸を整えた。

 今日の戦場はここだ。

 蒼穹の下、眩しいほどに輝く白砂の上に馬を進める。茶色の牝馬は、ルードルフの意志をよく汲んで指示に応えた。今日の戦いのあらゆる不都合の中で、これだけはありがたい。
「構え!」
 審判が高く通る声を上げた。群衆がエーデルクロッツの名を呼んでいたが、ルードルフは聞いていなかった。

 世界が狭まり、感覚が鋭敏になっていく。
 馬を駆って近づいてくる敵の動き一つ一つがのろく感じられる。
 馬の呼吸を感じ取りながら、膝と踝とで意図する動きを伝えていく。白砂を蹴たてる蹄の振動を柔らかく腰で殺しながら、一閃、交わる槍の穂先を交わし、ルードルフは敵の左脇を狙った。重い槍が腕とともに回転し、過たず敵の胸鎧を打った。ガキッと重い金属音とともに手に走る衝撃を、そのまま柔らかく肘から脇へと逃がす。槍をいかに保持できるかも、勝敗を分ける。
 馬がすれ違ったとき、ホーエンブリュック家の代理騎士は、白砂に落下し、土ぼこりとともに転がった。一つ遅れて長槍が彼の横に倒れる。
 半円を描かせてルードルフは馬を止め、審判の宣言を聞いた。
「勝者、レドリッヒ!」

 観客は沸いた。
「ほら! あたしの言った通りだろ、エーデルクロッツはやるって!!」
「ま、ここは堅いだろ」
 エルンストは言ったが、難しい顔で腕を組んだ。「意外に馬に慣れてるな、エーデルクロッツは……思ったより、これ、行けるんじゃないか?」

 貴賓席からも、この鮮やかな勝利に拍手が沸き起こった。
「あれがエーデルクロッツですのね! 剣士と聞いていましたが、まあ、どうして、槍を取っても大したものではありませんか」
 ジビラ・フォン・タンネンファルス夫人は扇で顔を隠しながらも、紅潮した頬で言った。マインツ夫人がささやく。
「本当ですわ! もしかして、かのエーデルハイト侯も、少し危ないかもしれませんわね」
 悠然とした態度を崩さずにはいたが、ドルーゼン侯爵夫人の胸中は複雑だった。
 エーデルクロッツの恋人であり、彼女の息子でもあるゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼンが敵の手中にあるかぎり、エーデルクロッツが敵の言うなりにならざるを得ないことは承知してはいた。だが、このまま彼が勝ち進んでしまえば、冬至祭を使ってフリードリヒの即位を後押しする企ては頓挫するかもしれない。しかし、そう分かってはいても、エーデルクロッツの敗北を簡単には願えない自分の心の屈折に、彼女は戸惑いを覚えていた。
 闘技場に目をやって、侯爵夫人はため息をついた。
「ごらんなさい、熊殺しのベーレンテーテルフリッツは、負ける気などさらさらなさそうですわよ」

 白砂の上に歩を進めたフリードリヒ・フォン・エーデルハイトは、一度馬を止め、高々と槍を掲げてみせた。面頬の下に、不敵な笑みと共に白い歯がのぞくのが確かに見えた。
「フリッツ、フリッツ、フリッツ……」
 群衆が足を踏み鳴らす音が波のように広がり、しばらくは貴賓席にあっても会話すら難しいほどだった。マルレーネ侯爵夫人は、誰にも聞こえないため息をついた。「本当に、殿方というものは……」

 ルードルフは、歓声のさなかにいる白銀の甲冑の騎士が、振り返って自分に笑いかけたのを確かに感じていた。だが、それは一瞬のことだった。
「構え!」
 戦闘開始を告げるラッパの音と共に、フリードリヒ・フォン・エーデルハイトの葦毛のヴァラッハは、ほとんど何の予備動作もなく滑らかな動きで飛び出した。人と馬とがあたかも一つの生き物のように動き、対戦相手がほとんど動けないでいる間に、フリードリヒは傍らを走り抜けていた。

 蒼天に、くるくると槍が回転した。

 一瞬、完全な静寂が下りた。槍が落下して真っすぐ白砂に突き立つ、乾いた音さえもが聞き取れた。
 フリードリヒの槍が小手を跳ね上げるところをルードルフの目は捉えていたが、おそらく観客には、そして対戦相手にも、何が起こったか分からなかったろう。対戦相手は痺れた手を押さえて呆然と最初の位置に立ち尽くしていた。
 葦毛のヴァラッハは、半円を描いてだく足となり、もとの場所に戻っていなないた。
 熊殺しのフリッツは、兜を脱ぐと、今度はあからさまにルードルフに視線を送り、勝ち誇るような微笑を見せた。
 歓声が、地鳴りのように、湧き上がった。
「フリッツ、フリッツ、フリッツ……」
 ルードルフは、じわりと汗がにじむのを感じた。
(なるほど、熊殺しか……)
 
 この男に勝つのは、並大抵ではない。
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