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大学決闘編
九、【名誉か死か】
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「公証人、第四決闘だ」
ギュンター・フォン・レドリッヒの顔色は、紙のようだった。彼を守ってくれるはずの人垣は全て崩れて破れ、今や、彼は、ただ一人だった……そして、目の前には、ルードルフ・エーデルクロッツ、鋭い憎悪を両目に宿し、血を滴らせながら剣を構える黒衣の剣士がいる……
公証人は、唾を飲み込み、宣言した。
「第四決闘……構え!」
ギュンターは、細剣を抜き、型通りに構えようとしたが、手に力が入らず、剣先は震えて定まらなかった。一方のルードルフは、あたかも古木のようにしんとして、剣は身体の一部であるかのようにまっすぐに伸びている。ざわめきが群衆に広がった……だが、その中にさえ、助けとなるものは一人もいない。
「始め!」
ルードルフは、無造作に近寄ると、赤子から玩具を奪うように容易く、ギュンターの細剣を剣で絡め落とした。その、あまりのたわいなさに、群衆はざわめいた。
ルードルフは、長靴の踵で細剣を遠くに蹴り飛ばした。軽く繊細な細剣は、跳ね、小石に当たって甲高い金属音を発した。貴公子は喘いだ……
「さあ……選択の時間だ、ギュンター・フォン・レドリッヒ。貴様の名誉を全て明け渡し、完全降伏をするか……それとも、その生命で贖うか?」
ルードルフの蒼い瞳は、古い湖のように底冷えする色を含んでいた。
彼は、ぞっとするほど冷ややかにささやいた。「俺は、どちらでもいい。……もっとも、楽な死に方にはさせないがな」
「ま…待て! 話し合おう!!」
後退りしながら、ギュンターは叫んだ。
剣士の返答は、剣の一閃だった。ギュンターの喉が、ヒュッと音を立てた……豪華なライトロックが真横に切り裂かれ、胸に鋭い痛みが走った。「うっ……う、わ、ああ……」自分の手にぬめる血液に触れ、彼は悲鳴を上げた。
「痛いか?」ルードルフは、淡々と言った。「おまえが僅かな金で死地に追いやった、あの若者は、もっと痛かったろうな……」
「うっ」ギュンターは、声を飲み込み、後退った。
「いいぞ……このまま、一寸刻みになぶり殺してやっても。人の血は、意外とたくさん流れても死ねないものだ。指先が冷たくなり、足が動かなくなり、重い体を支えられなくなる……そこまで、経験してみるのもいいだろう」ルードルフは、重たい声で付け足した。「ヘルマンは、そこまで経験できなかったがな」
ギュンターは絡まる足で立とうとした。こんな状況にあってなお、彼は降伏するということ、全ての名誉を手放し相手に屈するということを選択できずにいた。
「やめろ……やめてくれ……」
彼は、哀願した。
「あいつが」
ルードルフの声音が凄みを増した。「レッチェンがそう言ったとき、おまえはあいつに何をした?」
感じたのは衝撃だった。
はね飛ばされるように、ギュンターの体は地面に叩きつけられていた。一拍置いて、激痛が身体を走り抜ける。無情な鋼鉄が肉に食い込み、ギュンターは悲鳴を上げた……左肩を貫き芝生に深々と刺さった剣は、空へ向かって突き立っている。ギュンターは地面に縫い留められていた。身動きも叶わず、彼は戦慄した……
左手が痺れ、動かない。
もう、二度と動かせないのかもしれない、と彼は思った。自分の身体が奪われる恐怖、自由が奪われる苦しみに、彼はいつか、啜り泣いていた。
「苦しいか……」剣士はささやいた。「あいつの自由を、おまえは花毒で奪おうとしたな。あいつがあいつである意味を……おまえは、奪い続けてきた。どうだ、あいつの苦しみの何十分の一か……少しは、味わえたか?」
ざりっ、と地に散らばった金髪を踏んで、剣士はしゃがみこんだ。蒼い眼が無慈悲に見下ろしてくる。
「もう一度聞こう、レドリッヒ。【名誉か死か】だ……」
唇がひくつき、声が喉で凍りついた。
敗北したと、降伏すると、言いたかった……だが、何故か声が出てこない。
(なぜ、俺は、こんなにも名誉にしがみつくのか)
ギュンターは、初めて思った……
生命がかかっているというのに……
(降伏する、と、ただそう告げることがなぜこんなにも難しいのか)
涙がこぼれ落ち、目尻から頬を伝って頬に流れた。
黒衣の剣士は、ささやいた。
「残念だ……」
左肩を貫く鋼鉄が抜き取られる。それが何のためかを悟ったとき、純粋な恐怖が彼を襲った。
(死にたくない)
喉の奥で息が詰まり、耳奥に轟々と血の流れる音がする。ほんの一瞬の間のあいだに、彼は必死で願った。(死にたくない……!!)
霞む視界の中、突き抜けるような蒼穹を背に負って、剣士の黒い影は、無造作に白刃を振りかざした……
しかし、その刃は、彼に届かなかった。
「止せ」
静かな、確信を込めた声だった。
ゲオルク……かつて彼がショルシュと呼んだ白金の髪の青年が、ただ、一言を発したのだった。
剣士は、無言で剣を下ろし、後見人席を振り返った。
青年は、低い声で続けた。
「ルーディ、おまえの剣を、そんな男の血で汚すことはない……」
「レッチェン、」
ためらうように、剣士は、その名を呼んだ。
「俺のために、……おまえの手を、もう、汚さないでくれ」
静かな痛みを込めて、青年は言った……
鋭い刃のように、喉元にずっと突きつけられていた剣士の憎悪が、ふっと和らいだ。ギュンターは、喘ぐように、虚空に息を吐いた。
黒衣の剣士は、もうギュンターを見てさえ、いなかった。彼は、焦がれるような憧れを込めて、無言のまま、青年を見つめていた……
敗けたのだ、と思った。
「降伏する……完全な、降伏を、受諾する」
握りしめた拳で顔を隠して、彼は、告げた。
*
「勝者、エーデルクロッツ!」
公証人が叫んだ。ざわめきが群衆に広がる……百年ぶりの【名誉か死か】が決着した。しかも、法が定められて以来、初めての挑戦者の勝利をもって。
「これにより、ギュンター・フォン・レドリッヒは、勝者であるルードルフ・エーデルクロッツに対し、その名誉・財産・行動あらゆるものをもって要求に応える義務が生ずる。勝者の要求は今この場をもってなされる。内容は、アルトシュタット地方裁判所に記録され、厳正な履行が求められる」
白髪の公証人は、咳払いをした。
「エーデルクロッツ。要求を述べよ」
ルードルフ・エーデルクロッツは、ちらりと後見人席に座る白金の髪の青年に目をやった。ギュンターは、地べたに倒れ伏したまま、拳で顔を隠し、肩で息を繰り返している。ルードルフは、彼の胸元に手をかけるとその体を引っ張り上げた。
「うっ……何をする……」
ルードルフは、そのままギュンターを引きずり、後見人席の前に歩み出た。泥と乾いた血で汚れた彼を、レッチェンの前にぞんざいに座らせる。静まり返った観客席から、息を呑むような声が上がった。
「ほら」
黒衣の剣士は、優しくささやいた。
「おまえの好きなようにしろよ」
レッチェンは、恋人の顔を凝視した。泣き笑いのように、彼は顔をゆがめた。「おまえ、なあ……ありかよ、そんなの」
「当たり前だろ。おまえのためのプレゼントなんだ。受け取れよ」
しばらく、レッチェンは、冬の風に髪をなぶらせたまま、沈黙していた。
「ギュンター」
ややあって、呼びかけた彼の声音は、痛みを堪えるように、穏やかだった。
「おまえは、何度も何度も、俺を、おまえのものだ、と言ったが……それは、間違いだ」
ギュンターは、地面に座ったまま、青年の顔を仰ぎ見た。握りしめた拳が震えた。見下ろしてくる青年の緑の瞳には、深く、穏やかな悲しみが満ちていた。
「人は……誰かを所有することなど、できない」
彼の言葉は、血と霜の匂いが立ち込める決闘場に、重く、ひっそりと沈んだ。
「自分のものにしたい、理解し尽くしたい、そう願っても、それは、叶わない……だからこそ、きっと、恋しいんだろう」
ギュンターは、干からびた唇で、なにか言おうとした……だが、言葉は、でてこなかった。
「おまえは、ルードルフに敗北し、あらゆる権利を奪われたかに見えるが……それでも、おまえは、おまえのものだ」
青年は、椅子を軋ませて、ゆっくりと立ち上がった。
「だが、禍根は絶たせてもらう」
「公証人!」
青年は声を放った。「勝者による、権利の譲渡が行われた。これは有効か」
公証人は、咳払いした。「勝者は、あらゆる権利を敗者に持つ。当然ながら、その権利の譲渡も自由である」
「では」
レッチェンは、一言一言を刻むように言った。
「ギュンター・フォン・レドリッヒ、以下の要求を継続して果たすことを求める。
一、本日の戦いで生じた死傷者、本人とその遺族に対して、十分な年金を含む補償をすること。そう、その生涯に渡って」
ルードルフは、恋人を見つめた……最初の要求にそれを彼が言うとは、ルードルフは、思っていなかった。内心、彼が心のどこかに持ち、目を背けていたものを、レッチェンは僅かながら、すくい上げようとしているのだった……
「二、挑戦者エーデルクロッツおよび、俺やドルーゼン家の影響下にあるものに対して、中傷、暴言を含むいかなる敵対行動も、今後禁ずる」
レッチェンは、ギュンターを見下ろした…
「三、ギュンター・フォン・レドリッヒが、これまで俺に対して言ったあらゆる中傷を公に取り消し、謝罪すること」
そこまで言ってから、レッチェンは、息を継ぎ、一息に言った。
「特に、大学内で俺に対して言った侮辱は根も葉もなく、個人的な私怨に基づく嫌がらせだったと明言しろ!」
ギュンターは、震えた。
自分が、これまでショルシュにしてきたこと、実際にやらせたことを、根も葉もない、と彼は言い切った。
もはや、その時間が、ショルシュにとっては裁くにすら値しないものだという、それは宣告だった……
「最後に」
白金の髪の青年は、緑の瞳をまっすぐにギュンターに当てた。
「おまえは、二度と、俺に呼びかけるな……例え、どの名であろうとも」
ギュンターの口が、力なく動いた。
それきり、ギュンターに一顧もくれず、青年は公証人に言った。
「以上だ」
公証人は、記録を改め、宣言した。
「【名誉か死か】が宣言された決闘は、これをもって終了とする!」
群衆がざわめき、野次が飛んだ。ギュンターは、血に汚れた芝を掴み、打たれた犬のように呆然とうずくまっていた。
レッチェンは、彼の剣士に言った。
「もう帰ろうよ、ルーディ……おまえの傷を診てやらないと」
「……いいのか?」
ルードルフは、ちらとギュンターを振り返った。
「もう、いいんだ」
レッチェンは、微笑んで、言った。
天幕の中で、侯爵夫人は、微動だにせず、去っていく息子の姿を見ていた。彼女の背筋は、いつものようにまっすぐに伸びていたが、ローレが彼女を見上げたとき、その頬には、しらじらと涙が光っていた。
ギュンター・フォン・レドリッヒの顔色は、紙のようだった。彼を守ってくれるはずの人垣は全て崩れて破れ、今や、彼は、ただ一人だった……そして、目の前には、ルードルフ・エーデルクロッツ、鋭い憎悪を両目に宿し、血を滴らせながら剣を構える黒衣の剣士がいる……
公証人は、唾を飲み込み、宣言した。
「第四決闘……構え!」
ギュンターは、細剣を抜き、型通りに構えようとしたが、手に力が入らず、剣先は震えて定まらなかった。一方のルードルフは、あたかも古木のようにしんとして、剣は身体の一部であるかのようにまっすぐに伸びている。ざわめきが群衆に広がった……だが、その中にさえ、助けとなるものは一人もいない。
「始め!」
ルードルフは、無造作に近寄ると、赤子から玩具を奪うように容易く、ギュンターの細剣を剣で絡め落とした。その、あまりのたわいなさに、群衆はざわめいた。
ルードルフは、長靴の踵で細剣を遠くに蹴り飛ばした。軽く繊細な細剣は、跳ね、小石に当たって甲高い金属音を発した。貴公子は喘いだ……
「さあ……選択の時間だ、ギュンター・フォン・レドリッヒ。貴様の名誉を全て明け渡し、完全降伏をするか……それとも、その生命で贖うか?」
ルードルフの蒼い瞳は、古い湖のように底冷えする色を含んでいた。
彼は、ぞっとするほど冷ややかにささやいた。「俺は、どちらでもいい。……もっとも、楽な死に方にはさせないがな」
「ま…待て! 話し合おう!!」
後退りしながら、ギュンターは叫んだ。
剣士の返答は、剣の一閃だった。ギュンターの喉が、ヒュッと音を立てた……豪華なライトロックが真横に切り裂かれ、胸に鋭い痛みが走った。「うっ……う、わ、ああ……」自分の手にぬめる血液に触れ、彼は悲鳴を上げた。
「痛いか?」ルードルフは、淡々と言った。「おまえが僅かな金で死地に追いやった、あの若者は、もっと痛かったろうな……」
「うっ」ギュンターは、声を飲み込み、後退った。
「いいぞ……このまま、一寸刻みになぶり殺してやっても。人の血は、意外とたくさん流れても死ねないものだ。指先が冷たくなり、足が動かなくなり、重い体を支えられなくなる……そこまで、経験してみるのもいいだろう」ルードルフは、重たい声で付け足した。「ヘルマンは、そこまで経験できなかったがな」
ギュンターは絡まる足で立とうとした。こんな状況にあってなお、彼は降伏するということ、全ての名誉を手放し相手に屈するということを選択できずにいた。
「やめろ……やめてくれ……」
彼は、哀願した。
「あいつが」
ルードルフの声音が凄みを増した。「レッチェンがそう言ったとき、おまえはあいつに何をした?」
感じたのは衝撃だった。
はね飛ばされるように、ギュンターの体は地面に叩きつけられていた。一拍置いて、激痛が身体を走り抜ける。無情な鋼鉄が肉に食い込み、ギュンターは悲鳴を上げた……左肩を貫き芝生に深々と刺さった剣は、空へ向かって突き立っている。ギュンターは地面に縫い留められていた。身動きも叶わず、彼は戦慄した……
左手が痺れ、動かない。
もう、二度と動かせないのかもしれない、と彼は思った。自分の身体が奪われる恐怖、自由が奪われる苦しみに、彼はいつか、啜り泣いていた。
「苦しいか……」剣士はささやいた。「あいつの自由を、おまえは花毒で奪おうとしたな。あいつがあいつである意味を……おまえは、奪い続けてきた。どうだ、あいつの苦しみの何十分の一か……少しは、味わえたか?」
ざりっ、と地に散らばった金髪を踏んで、剣士はしゃがみこんだ。蒼い眼が無慈悲に見下ろしてくる。
「もう一度聞こう、レドリッヒ。【名誉か死か】だ……」
唇がひくつき、声が喉で凍りついた。
敗北したと、降伏すると、言いたかった……だが、何故か声が出てこない。
(なぜ、俺は、こんなにも名誉にしがみつくのか)
ギュンターは、初めて思った……
生命がかかっているというのに……
(降伏する、と、ただそう告げることがなぜこんなにも難しいのか)
涙がこぼれ落ち、目尻から頬を伝って頬に流れた。
黒衣の剣士は、ささやいた。
「残念だ……」
左肩を貫く鋼鉄が抜き取られる。それが何のためかを悟ったとき、純粋な恐怖が彼を襲った。
(死にたくない)
喉の奥で息が詰まり、耳奥に轟々と血の流れる音がする。ほんの一瞬の間のあいだに、彼は必死で願った。(死にたくない……!!)
霞む視界の中、突き抜けるような蒼穹を背に負って、剣士の黒い影は、無造作に白刃を振りかざした……
しかし、その刃は、彼に届かなかった。
「止せ」
静かな、確信を込めた声だった。
ゲオルク……かつて彼がショルシュと呼んだ白金の髪の青年が、ただ、一言を発したのだった。
剣士は、無言で剣を下ろし、後見人席を振り返った。
青年は、低い声で続けた。
「ルーディ、おまえの剣を、そんな男の血で汚すことはない……」
「レッチェン、」
ためらうように、剣士は、その名を呼んだ。
「俺のために、……おまえの手を、もう、汚さないでくれ」
静かな痛みを込めて、青年は言った……
鋭い刃のように、喉元にずっと突きつけられていた剣士の憎悪が、ふっと和らいだ。ギュンターは、喘ぐように、虚空に息を吐いた。
黒衣の剣士は、もうギュンターを見てさえ、いなかった。彼は、焦がれるような憧れを込めて、無言のまま、青年を見つめていた……
敗けたのだ、と思った。
「降伏する……完全な、降伏を、受諾する」
握りしめた拳で顔を隠して、彼は、告げた。
*
「勝者、エーデルクロッツ!」
公証人が叫んだ。ざわめきが群衆に広がる……百年ぶりの【名誉か死か】が決着した。しかも、法が定められて以来、初めての挑戦者の勝利をもって。
「これにより、ギュンター・フォン・レドリッヒは、勝者であるルードルフ・エーデルクロッツに対し、その名誉・財産・行動あらゆるものをもって要求に応える義務が生ずる。勝者の要求は今この場をもってなされる。内容は、アルトシュタット地方裁判所に記録され、厳正な履行が求められる」
白髪の公証人は、咳払いをした。
「エーデルクロッツ。要求を述べよ」
ルードルフ・エーデルクロッツは、ちらりと後見人席に座る白金の髪の青年に目をやった。ギュンターは、地べたに倒れ伏したまま、拳で顔を隠し、肩で息を繰り返している。ルードルフは、彼の胸元に手をかけるとその体を引っ張り上げた。
「うっ……何をする……」
ルードルフは、そのままギュンターを引きずり、後見人席の前に歩み出た。泥と乾いた血で汚れた彼を、レッチェンの前にぞんざいに座らせる。静まり返った観客席から、息を呑むような声が上がった。
「ほら」
黒衣の剣士は、優しくささやいた。
「おまえの好きなようにしろよ」
レッチェンは、恋人の顔を凝視した。泣き笑いのように、彼は顔をゆがめた。「おまえ、なあ……ありかよ、そんなの」
「当たり前だろ。おまえのためのプレゼントなんだ。受け取れよ」
しばらく、レッチェンは、冬の風に髪をなぶらせたまま、沈黙していた。
「ギュンター」
ややあって、呼びかけた彼の声音は、痛みを堪えるように、穏やかだった。
「おまえは、何度も何度も、俺を、おまえのものだ、と言ったが……それは、間違いだ」
ギュンターは、地面に座ったまま、青年の顔を仰ぎ見た。握りしめた拳が震えた。見下ろしてくる青年の緑の瞳には、深く、穏やかな悲しみが満ちていた。
「人は……誰かを所有することなど、できない」
彼の言葉は、血と霜の匂いが立ち込める決闘場に、重く、ひっそりと沈んだ。
「自分のものにしたい、理解し尽くしたい、そう願っても、それは、叶わない……だからこそ、きっと、恋しいんだろう」
ギュンターは、干からびた唇で、なにか言おうとした……だが、言葉は、でてこなかった。
「おまえは、ルードルフに敗北し、あらゆる権利を奪われたかに見えるが……それでも、おまえは、おまえのものだ」
青年は、椅子を軋ませて、ゆっくりと立ち上がった。
「だが、禍根は絶たせてもらう」
「公証人!」
青年は声を放った。「勝者による、権利の譲渡が行われた。これは有効か」
公証人は、咳払いした。「勝者は、あらゆる権利を敗者に持つ。当然ながら、その権利の譲渡も自由である」
「では」
レッチェンは、一言一言を刻むように言った。
「ギュンター・フォン・レドリッヒ、以下の要求を継続して果たすことを求める。
一、本日の戦いで生じた死傷者、本人とその遺族に対して、十分な年金を含む補償をすること。そう、その生涯に渡って」
ルードルフは、恋人を見つめた……最初の要求にそれを彼が言うとは、ルードルフは、思っていなかった。内心、彼が心のどこかに持ち、目を背けていたものを、レッチェンは僅かながら、すくい上げようとしているのだった……
「二、挑戦者エーデルクロッツおよび、俺やドルーゼン家の影響下にあるものに対して、中傷、暴言を含むいかなる敵対行動も、今後禁ずる」
レッチェンは、ギュンターを見下ろした…
「三、ギュンター・フォン・レドリッヒが、これまで俺に対して言ったあらゆる中傷を公に取り消し、謝罪すること」
そこまで言ってから、レッチェンは、息を継ぎ、一息に言った。
「特に、大学内で俺に対して言った侮辱は根も葉もなく、個人的な私怨に基づく嫌がらせだったと明言しろ!」
ギュンターは、震えた。
自分が、これまでショルシュにしてきたこと、実際にやらせたことを、根も葉もない、と彼は言い切った。
もはや、その時間が、ショルシュにとっては裁くにすら値しないものだという、それは宣告だった……
「最後に」
白金の髪の青年は、緑の瞳をまっすぐにギュンターに当てた。
「おまえは、二度と、俺に呼びかけるな……例え、どの名であろうとも」
ギュンターの口が、力なく動いた。
それきり、ギュンターに一顧もくれず、青年は公証人に言った。
「以上だ」
公証人は、記録を改め、宣言した。
「【名誉か死か】が宣言された決闘は、これをもって終了とする!」
群衆がざわめき、野次が飛んだ。ギュンターは、血に汚れた芝を掴み、打たれた犬のように呆然とうずくまっていた。
レッチェンは、彼の剣士に言った。
「もう帰ろうよ、ルーディ……おまえの傷を診てやらないと」
「……いいのか?」
ルードルフは、ちらとギュンターを振り返った。
「もう、いいんだ」
レッチェンは、微笑んで、言った。
天幕の中で、侯爵夫人は、微動だにせず、去っていく息子の姿を見ていた。彼女の背筋は、いつものようにまっすぐに伸びていたが、ローレが彼女を見上げたとき、その頬には、しらじらと涙が光っていた。
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