古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

文字の大きさ
66 / 99
終章

マグノリアの散る中で

しおりを挟む
 フリードリヒが部屋に歩み入った時、青年は、旅用の短い外套を腕にかけて窓の外に揺れるライラックの花を見ていた。濃紺の上衣に白亜麻のクレバットをゆるく結んでいる。白金の髪はリボンで結わえられ、例のごとくはち切れんばかりに中身が詰められた革の鞄を手にしていた。
「待たせたな、ショルシュ」
 青年は、振り返った。
「フリッツ」
 彼は、緑の瞳に親しげな光を浮かべたのち、慇懃に一礼した。
公爵閣下オイレ・デュルヒラオフト、出発前にご挨拶に参りました。この度は、馬車の手配までご配慮いただき、ありがとうございます」
「一度アルトシュタットを出たら、そのまま村々を巡ってもらうことになるからな……移動手段は必要だろう」
 フリードリヒは、少し笑った。「我が国の公衆衛生をよろしく頼むよ」
「私こそ、こうした機会をいただき感謝ばかりです。フリッツ、ようやく、貴方の御恩に報いることができる」
「楽しみにしているよ」
 微かにいたずらっぽい表情をのぞかせて、フリードリヒは付け加えた。「御者は手配しなくて良かったのかな?」
「あいつにやらせますよ。人数は少ないほうが身軽でいい」
「そう言うかなとは思ったのさ。後は、これだ」
 フリードリヒは、書き物机の上で、羊皮紙の書類を無造作に広げ、ざっと書面を確認してから、末尾に署名した。砂を落として乾かし、筒にして糸を掛ける。
「君を巡回医師として任命する、正式な委任状だ」
 青年は、押しいただくと、革の書類入れにしまった。フリードリヒは、ちょっと名残惜しそうに言った。
「まずはどこを目指すんだ?」
「そうですね。レドリッヒ領にする予定です。女伯爵グラーフィンローレにも挨拶をしたいですし」
「彼女にも、よろしく伝えてくれ。助けが必要なら、応える準備があると」
 レッチェンは微笑んだ。「彼女はまだ年若いですから、きっと心強いことでしょう」
「ところで……」
 フリードリヒは、探るような目を若い医師に当てた。
「君に会いたいという人が別室で待っている。出立まえに挨拶をしていくといい」

 執事に導かれ、訪いを告げた部屋に歩みいったレッチェンは、しばし、立ちすくんだ。春の午前の陽光が差し込む応接室には、思いがけない人影があった。
 マルレーネ・フォン・ドルーゼン侯爵夫人は、絹手袋に包まれた両手を固く組み、背筋を伸ばして立っていた。その横顔には、隠しきれない年齢の影があった。
「……母上」
 記憶の中と同じように、彼女は笑みもなく厳然と息子に淡い色の瞳を向けていた。
「しばらくぶりね、ゲオルク……」
 言ったきり、母は口を噤んだ。レッチェンもまた、無言のまま、彼女を見つめた。問いも、思いも胸中に渦巻いてはいたが、口からは何の言葉も出てこないのだった。
 一つ、ため息をついて、沈黙を破ったのは、侯爵夫人だった。
「おまえのように強情な子は、聞いたこともありません。身分も義務も投げ出して、結局は全部が全部、自分の思い通りに、事を運んでしまうなんて……」
 レッチェンは、息を飲んだ。
 母は、初めて、彼を「おまえドゥ」と呼んだのだった。
「母上……」
 彼女の声は、あくまで冷ややかであり、語調は鞭のようだった。
「……いつか、わたくしにおまえは言いましたね。夫の不義の子を育てさせられて、悔いはないのかと」
「母上、それは……」反射的にレッチェンは反論しかけた。が、侯爵夫人はそのまま、語気強く言った。
「悔いなど」
 彼女の声が、微かに震えた……

「おまえを育てて、悔いたことなど、一度もありません!」

 レッチェンは、母を凝視したまま、呆然と立ち尽くした。
「エーデルハイト公の名を背負って旅立つのであれば、例え一介の医師であっても、名誉を汚す振る舞いは慎むこと。おまえには、前科がありますからね。人に対しては、常に真摯に、誠実に振る舞いなさい。もちろん、学びに対してもたゆまぬように。おまえを大切にしてくれる人間を、大切にしなさい。それから――」
「母上」
 レッチェンは、かすれた声で、遮った。
「母上。……ありがとうございます」
 マルレーネ侯爵夫人は、震える唇を引き結んだ。ややあって、彼女はささやいた。
「身体に気をつけるのですよ」
「はい」
 青年は、そっと言葉を結んだ。

行ってまいりますアウフヴィダズィーン、母上」

 息子が立ち去ったのちも、侯爵夫人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 伸びやかに力強く飛び立とうとしている、あの若者を、彼女は、かつて温室の薔薇の苗に例えたこともあったのだった。



 エーデルハイト邸の馬車溜まりでは、白木蓮が満開だった。甘やかな花の香りの中、ルードルフは、まだ馴染みとは言えない黒鹿毛の牝馬に燕麦を一握り与え、低く声をかけながらたてがみをこすってやった。牝馬は、満足そうに鼻面をルードルフの手に擦り付けた。春風に、木蓮の白い花弁が、一枚、また一枚と舞った。
「ルーディ」
 振り返ると、旅装の恋人が花びらの散りしきる中を歩み寄ってくるところだった。春の陽光に透ける白金の髪が、花びらを運ぶ風に柔らかく吹き乱され、光背ニンブスのように輝く。ルードルフは、少しの間、その姿に見とれていた。手を伸ばし、髪に絡んだ花弁をそっと取り除いてやる。
「おまえ、こっちまで直接来たの? 玄関まで馬車を回してやったのに」
「うん……」
 レッチェンは、邸宅の窓を見上げながら応えた。
「どうした? 何かあったのか?」
 やっと、レッチェンはルードルフに視線を合わせた。「ああ。後で話すよ」
 大小様々の荷物が積み込まれている馬車の座席に、彼は身体をねじ込んだ。
 前窓から顔を出して、彼は御者席についた恋人に笑いかけた。
「さ、出発しようぜ」
 視線を絡めて、ルードルフは微笑した。

 がたり、と車輪が回り、馬車は、降り注ぐ陽光の中を動き出した。

              ―完―
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?

cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき) ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。 「そうだ、バイトをしよう!」 一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。 教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった! なんで元カレがここにいるんだよ! 俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。 「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」 「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」 なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ! もう一度期待したら、また傷つく? あの時、俺たちが別れた本当の理由は──? 「そろそろ我慢の限界かも」

大好きだった本の世界に迷い込んだようですが読了していないので展開がわかりません!

大波小波
BL
 相羽 倫(あいば りん)は、18歳のオメガ少年だ。  両親を相次いで亡くし、悲しみに暮れて雨に濡れた墓石の前に膝をついていた。  そのはずだったが、気が付くと温かなそよ風の吹く場所にいる。  しかも、冬だった季節が春に代わっているだけでなく、見知らぬ人間が次から次へと現れるのだ。  奇妙なことに、彼らは姓を持たずに名だけで暮らしている。  姓は、上級国民にしか与えられていない、この世界。  知らずに姓名を名乗った彼は、没落貴族の御曹司と決めつけられてしまう。  ハーブガーデンで働くことになった倫は、園長・和生(かずお)に世話になる。  和生と共に、領主へ挨拶に向かう倫。  北白川 怜士(きたしらかわ れいじ)と名乗るそのアルファ男性に、倫にある記憶を呼び覚ます。 (北白川 怜士、って。僕が大好きだった本の、登場人物だ!)  僕、もしかして、本の中に迷い込んじゃったの!?  怜士と倫、二人の軌道が交わり、不思議な物語が始まる……。

冷酷無慈悲なラスボス王子はモブの従者を逃がさない

北川晶
BL
冷徹王子に殺されるモブ従者の子供時代に転生したので、死亡回避に奔走するけど、なんでか婚約者になって執着溺愛王子から逃げられない話。 ノワールは四歳のときに乙女ゲーム『花びらを恋の数だけ抱きしめて』の世界に転生したと気づいた。自分の役どころは冷酷無慈悲なラスボス王子ネロディアスの従者。従者になってしまうと十八歳でラスボス王子に殺される運命だ。 四歳である今はまだ従者ではない。 死亡回避のためネロディアスにみつからぬようにしていたが、なぜかうまくいかないし、その上婚約することにもなってしまった?? 十八歳で死にたくないので、婚約も従者もごめんです。だけど家の事情で断れない。 こうなったら婚約も従者契約も撤回するよう王子を説得しよう! そう思ったノワールはなんとか策を練るのだが、ネロディアスは撤回どころかもっと執着してきてーー!? クールで理論派、ラスボスからなんとか逃げたいモブ従者のノワールと、そんな従者を絶対逃がさない冷酷無慈悲?なラスボス王子ネロディアスの恋愛頭脳戦。

【本編完結】最強魔導騎士は、騎士団長に頭を撫でて欲しい【番外編あり】

ゆらり
BL
 帝国の侵略から国境を守る、レゲムアーク皇国第一魔導騎士団の駐屯地に派遣された、新人の魔導騎士ネウクレア。  着任当日に勃発した砲撃防衛戦で、彼は敵の砲撃部隊を単独で壊滅に追いやった。  凄まじい能力を持つ彼を部下として迎え入れた騎士団長セディウスは、研究機関育ちであるネウクレアの独特な言動に戸惑いながらも、全身鎧の下に隠された……どこか歪ではあるが、純粋無垢であどけない姿に触れたことで、彼に対して強い庇護欲を抱いてしまう。  撫でて、抱きしめて、甘やかしたい。  帝国との全面戦争が迫るなか、ネウクレアへの深い想いと、皇国の守護者たる騎士としての責務の間で、セディウスは葛藤する。  独身なのに父性強めな騎士団長×不憫な生い立ちで情緒薄めな甘えたがり魔導騎士+仲が良すぎる副官コンビ。  甘いだけじゃない、骨太文体でお送りする軍記物BL小説です。番外は日常エピソード中心。ややダーク・ファンタジー寄り。  ※ぼかしなし、本当の意味で全年齢向け。 ★お気に入りやいいね、エールをありがとうございます! お気に召しましたらぜひポチリとお願いします。凄く励みになります!

【完結】抱っこからはじまる恋

  *  ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。 ふたりの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります。 YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。 プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら! 完結しました! おまけのお話を時々更新しています。 BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です! 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

ふれて、とける。

花波橘果(はななみきっか)
BL
わけありイケメンバーテンダー×接触恐怖症の公務員。居場所探し系です。 【あらすじ】  軽い接触恐怖症がある比野和希(ひびのかずき)は、ある日、不良少年に襲われて倒れていたところを、通りかかったバーテンダー沢村慎一(さわむらしんいち)に助けられる。彼の店に連れていかれ、出された酒に酔って眠り込んでしまったことから、和希と慎一との間に不思議な縁が生まれ……。  慎一になら触られても怖くない。酒でもなんでも、少しずつ慣れていけばいいのだと言われ、ゆっくりと距離を縮めてゆく二人。  小さな縁をきっかけに、自分の居場所に出会うお話です。

処理中です...