古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

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石毒の蛇

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 人々の期待と高揚のもとに日々は流れ、ハシバミの黄色い花が薄いレースの緞帳のように人々の庭の端を彩り、足元には次々にクロッカスが咲き始める頃合いとなった。戴冠式と決められた三月十三日に向けて、街は喪中ながらも活気を見せていた。酒場やカフェは新聞を読みに、もしくは読んでもらいに来る人々で溢れた。読み手の方も、【茶色い紙片ブラウネンブレッテル】編集部とは限らず、字を読める有志が受け持つことも多く、アルトシュタットの市民たちは下町の民に至るまで、にわかに国政に興味を持つものが増え、慣れぬ政治談義がそこここで行われるようになった。学生義勇軍を中心とする革命論者も幅を利かせ、時には議論から殴り合いに発展することも多くなり、都市自警団の手を煩わせた。
 旧闘技場跡は手が加えられ、議員席と観覧席が設けられた。すり鉢状に広がる観覧席は簡素ではあったが、市民は希望すれば議会を視聴することができるということにおいて画期的であり、おそらく今回の戴冠式に続く領参議会の視聴希望は最大規模となる見込みであった。バジリスクの筆致を借りれば、「まさしく新しい時代の象徴としてふさわしい大がかりな舞台装置」ではあった。
 一方で、七~八ツェントナーと見積もられる爆薬の行方は、未だ、不明だった。使用される時期としては、まさに戴冠式が危険であろうというのが大方の者の予想であり、フリードリヒは自警団と宮廷警吏の人員を入れ替えながら旧闘技場跡の警備と管理を徹底させていた。当然ながら公邸や自邸への警備も怠らなかったが、怪しい動きはなかった。
 そんな折、小競り合いから捕らえられた学生義勇軍の一人が、看過できない情報をもたらしたのである。

「大聖堂……ですか?」
 白金の髪の青年は、眉をひそめて聞き返した。例のごとく濃いめの紅茶と遅い夕食を副官から振る舞われているところだった。レッチェンは、ルードルフを伴って定期報告にエーデルハイト邸を訪れていたのである。というのは、【茶色い紙片ブラウネンブレッテル】活動の資金源がフリードリヒその人であったからだが、公爵の方はレッチェンから市井の様子を聞けることを一つの楽しみにしている節があった。
「というと、即位式のまさにその最中に爆薬が使われるという……? まさに神をも恐れぬ所業ですね」
「盲点……というほどでもないが」
 フリードリヒは、いち早く皿を開けて食後の紅茶を啜っていた。「大聖堂を始め、教会は独自の規律で動いている。宮廷警吏や自警団を踏み込ませるわけにもいかないから、警備は向こう任せではあった……警告はしてあったが、不十分なきらいはある」
「爆薬が、大聖堂に運び込まれた可能性があると?」
「捕らえられた学生の言はこうだ……中身が秘された木箱が十数個、聖ガブリエル大聖堂に運び込まれるのを目撃した、と」
「それが爆薬だとすれば、あなたは公爵の笏杖ランデスツェプターを手にすると同時にバラバラにふっ飛ばされると、そういうわけですね?」
「君も口が悪いなぁ。誰かを思い出すよ」
 フリードリヒは苦笑したが、レッチェンは不機嫌だった。「笑い事じゃありませんよ、フリッツ……実際、そういうことでしょう」
「大聖堂に爆薬が仕掛けられたとするならば、だが、確かにそれが狙いだろうな……」
 なぜか含みを持たせて、フリードリヒは顎を撫でた。
「その学生は、どういう立場でそれを目撃したんですか。偶然通りすがったとでも?」
「君の言いたいことはわかる、ショルシュ」
 フリードリヒは眉を上げた。「学生義勇軍が爆薬に関与しているのではないかと言うことだな」
「そう考えるのが、むしろ自然でしょう。学生義勇軍を中心とした革命推進派には、貴方を害する十分な理由がある」
「濃厚な疑いだとしても、今はそっとしておきたい時期なのさ」フリードリヒは、苦笑した。「まあ、爆薬が実際に仕掛けられたとしたら、そうも言ってはいられないだろうが…」
 レッチェンは目を細めた。
「で、結局のところ」
 彼の声は苛立ちに尖っていた。
「我々にそういう話をするのは、何故なんです」
 フリードリヒはにこっと微笑んだ。
「話が早くて助かるよ」
「大聖堂内は、宮廷警吏や自警団が調べるわけにはいかない……調査依頼は出せても、結果を確認するすべがない。……少なくとも、表からは」
「そういうことだ」
 レッチェンは仏頂面で黙り込んだが、ルードルフは穏やかに後を引き取った。
「仕事ということでしたら、承りましょう」
「すまないな。シャッテンはまだ現場への復帰が難しい。信頼できる裏の手勢が今は少ないんだ。その点、君なら申し分ない」
「褒めても何も出ませんよ」と喧嘩腰に言ったのはレッチェンで、ルードルフは微笑したのみだった。
「前回同様フィオネルをつける。爆薬を仕掛けられるのが式が迫ってからの可能性があることを考えると、言い逃れをさせないためには捜査は直前が望ましい。調査をしたのちに仕掛けられることも防げる」
「では、即位式当日の早朝ですね」
 淡々と、ルードルフは手筈の確認をした。
「無論、大司教にはこちらから圧力をかけて大聖堂の警備は万端にしてもらう……本来ならば、それだけで十分なはずだが、ことが事だ。最後の確認を頼むよ」
 彼は、にこりと微笑んだ。
「もちろん、新公爵の手勢が、大聖堂の中で警備につかまる……などということがないように」
「かしこまりました、閣下」
 なんのけれんもなく、剣士は答えたが、そこには経験に裏打ちされた静かな自信があった。
 フリードリヒは、顔色を改めて青年に向き直った。
「ところで、それとは別に、ショルシュ、君にも頼みがある」
「……私に、ですか?」
「そう。【茶色い紙片】編集長であり発行人であるレッチェンに」
 フリードリヒは、下町訛の産物である「レッチェン」を、敬意を込めて正確に発音した。
「どういうことです?」
「まあ、君だけではないのだが」
 フリードリヒはまじめな顔で続けた。
「主要な新聞社の発行人を、領参議会に招待しているんだよ。時代の証言者となってもらうためにね」
「例の、大々的に市民に公開するという……旧闘技場跡の領参議会ですか」
「そう。【茶色い紙片】は歴史こそ浅いが、今や市民の二人に一人は読んだことがあるという影響力ある新聞だ。参加して記事にしてほしい。どんな記事にせよなどとはもちろん言わないよ。君が感じたままを書けばよい」
「フリッツ、私は発行人というだけで、記事を書いているものは別の者なんです」
「もちろん、記者を連れてきても構わない」
「そうですね……」
 レッチェンは編集長の顔になり、熟考した。「平文を書くマルティンか……もしくは、寄稿文の著者に依頼するのもありかもしれないな。バジリスクとか…」
 正体不明の人気記者に、取材を頼むのも或いは面白いかもしれない。歴史的瞬間に立ち会えるとなれば、ここまで筆名しか明かそうとしないバジリスクも、或いは姿を現したいと思うのではないか。
 彼は、単にそう思っただけだったのだが、フリードリヒが微笑んで、思わずといった調子で口を挟んだ。「バジリスクか……彼は、正体を現そうとはしないんじゃないかな」
「えっ」
「いや」
 彼は、ちょっときまり悪そうにしたが、その目には、優しげな光があった。
「君から見て、バジリスクの文は、どうだね?」
「え……私は好きですよ。安易な批判で終わりにせずに何かしら意見を言うところとか……言葉は辛辣ですが、愛がある感じでいいですね」
 フリードリヒは、何故か、照れたように笑った。
「ご存じなんですか、バジリスクを?」
「【茶色い紙片】は毎号手元に貰っているからね……私は彼のファンなんだ」
「そうなんですか?」
「おっと、これは秘密だよ、編集長どの」
 フリードリヒは、いたずらっぽく微笑むと、この話はおしまいだ、とでも言うように手を振った。
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