古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

文字の大きさ
92 / 99
石毒の蛇

26

しおりを挟む
 ギュンター・フォン・レドリッヒは、即位式が行われる大聖堂には足を向けず、その後に初勅が述べられるはずの旧闘技場跡――それは、今や「新領邦議会堂」と呼ばれていた――に朝から向かっていた。
 ミッテンラード通りは混み合い、同じ目的で同じ方向に歩く市民で一杯だった。早めに行かないと建物に入れないかもしれない。ローブに髪を隠したギュンターは、こころもち足を速めた。
 貴族の身分を使って、ローレと共に即位式に出席することも、議会堂の貴族席に座ることも出来る身ではあったが、一度退いた社交界の面々から好奇の目で見られるのは嫌だった。まして話しかけられ、探りを入れられたとして、かつての自分のように軽やかにかわせる気がしない。通りすがりの人の口から「熊殺しのベーレンテーテルフリッツ」の名を聞き取るだけで胸がざわつくというのに……
 ギュンター・フォン・レドリッヒではなく、バジリスクとして、一介の記者として傍聴する。それが自らに相応しいのだ、と彼は自分に言い聞かせた。
 街並みの向こうに新領邦議会堂の高い壁が見えた。旧闘技場跡地の崩れた壁は補修され、美々しく塗り直されて、薄曇りの空の下、白々と輝いていた。

 もうすぐ、あの男の姿を見られる……

 そう思った瞬間、春の嵐のような不穏な喜びが胸に満ち、ギュンターは息を詰まらせた。

(この想いが、いつか失くなることもあるのだろうか……)

 苦く唇を噛み締めながら、彼は動かぬ左手を固く抱き、顔を隠して雑踏に紛れた。祝祭の予感に賑わう人々の中、彼は背を丸めて足早に歩きつづけた。
 新領邦議会堂は、公国近衛兵とアルトシュタット市民兵に守られ、入る者の身体検査が行われている。入場を希望する市民の長い列が門前にできつつあった。



 大聖堂前の広場では、埃まじりの強い風が公国旗を吹きなびかせ、人々の裳裾を引きむしりながら暴れまわっていた。しかし、それにもかかわらず、帽子を押さえる人々の顔は明るかった。人々の葡萄酒と白パンが振る舞われ、笑顔の市民たちが新公爵に手を振り、歓声を上げていた。緋色のマントを翻し、フリードリヒは群衆に手を振った。大聖堂の鐘が鳴り、祝砲が打ち鳴らされる。ルードルフは、翼廊の窓から外を伺いつつ、賑やかに退出しようとしている市民たちを眺めた。新公爵と貴族たちは、それぞれ美々しく飾り付けられた六頭立ての馬車に乗り込んでいたが、記者団にも馬車が用意されており、レッチェンとその同輩たちも続いて車中の人となった。続いて金の十字に飾られた馬車に、美々しい祭服(カズラ)に身を包んだ司祭たちがしずしずとそれに続いた。

(結局は何事もなく終わったか……)

 ラッパが吹き鳴らされ、馬車は新領邦議会堂へと向けて、動き出した。ルードルフは、小さく息をつくと、フィオネルに合流するため身廊に下りた。
 縮れ毛の若者は、無表情に、立ち去る市民たちを見送っている。
 そのとき、不意に回廊から話し声が聞こえて、二人はさっと壁際の死角に寄った。声はひそめられているがとげとげしく、また若かった。
「……ですから、そのようなことにはもうご協力できないと申し上げているのです」
 なじりながら姿を現したのは、白麻の長衣(アルベ)をまとった若い助任司祭だった。「猊下のお考えと思えばこそ口を噤んでは来ましたが、まさかこのようなだいそれた……神を恐れなさい!」
 話している相手は年嵩のようだった……ルードルフはちらとフィオネルと目を見交わし、気配を殺して回廊の方へと歩を進めた。
「君は、未だ何を目指しているかを分かっていないのだよ。神の御心の何を君は知っているというのだね、兄弟よ」
「無辜の民を殺して、何が神の意思か! そこをどきなさい、私は行きます」
「自警団へ?」
 その声に冷え冷えとした殺気が籠もるのを聞き取ったとき、ルードルフは音もなく石造りの床を走った……フィオネルが抜剣する気配を感じた。しかし回廊に飛び出したとき、ナイフの鈍い光がきらめき、白麻の長衣を真っ赤に染めた青年がくずおれるところだった。ルードルフは、倒れかけた男を咄嗟に支えた。
 乱れた枯れ葉色の髪を翻し、黒衣の男が走りさろうとしていた。フィオネルが短く叫んだ。「シュヴィンドル……!!」

 黒衣の男は一瞬振り返り、微笑んだ。

 フィオネルが回廊を走るのを視野の隅に確認したとき、若い叙任司祭が、手を伸ばしてルードルフの外套にしがみついた。白衣を染めた血液の量は、既に取り返しがつかず、しかもさらに広がり続けていた。
 色を失った唇が、回廊の薄闇のなか動き、言葉を形づくった。

「……伝えてくれ……」

 青年は囁いた。声は弱く、ルードルフが顔を近づけなければ聞き取ることができないほどだった。

「聖……ファイエルの……」

 唇にごぼっと音を立てて血液が溢れ、青年は咳き込んだ。彼は必死に伝えようと、残った生命を費やしてもがき、口中の血液を吐き出した。掠れた声を振り絞って囁く。その言葉を聞き取って、ルードルフは愕然とした。
 青年の目が焦点を失い、しがみついていた指がずり落ちる。

  ――爆薬……と、最後の言葉は聞こえた。

 フィオネルが走り戻った。「取り逃しました。そっちはどうです」
「死んだ」
 ルードルフは立ち上がった。
「爆薬、聖ファイエル――と言っていた」
「聖ファイエル?」
 フィオネルは眉をひそめた。
「聖ファイエル広場のことか?」
「いえ……」フィオネルは、声を抑えて言った。「聖ファイエルの聖遺骨のことではありませんか」
「聖遺骨?」
「ええ」
 表情に乏しいフィオネルの双眸が、深刻な光を宿した。
「新公爵の初勅に際して神の威光を示すために、司祭たちが予め運んでいったと聞きます。
 ――旧闘技場跡、つまり新領邦議会堂へ」
 ルードルフは、自分の息が浅くなるのをどこか遠くに聞いた。
 新領邦議会堂には、フリードリヒ・フォン・エーデルハイトと……
 ――レッチェンがいる。

 ものも言わず、ルードルフは外套を翻して駆け出していた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

冷酷無慈悲なラスボス王子はモブの従者を逃がさない

北川晶
BL
冷徹王子に殺されるモブ従者の子供時代に転生したので、死亡回避に奔走するけど、なんでか婚約者になって執着溺愛王子から逃げられない話。 ノワールは四歳のときに乙女ゲーム『花びらを恋の数だけ抱きしめて』の世界に転生したと気づいた。自分の役どころは冷酷無慈悲なラスボス王子ネロディアスの従者。従者になってしまうと十八歳でラスボス王子に殺される運命だ。 四歳である今はまだ従者ではない。 死亡回避のためネロディアスにみつからぬようにしていたが、なぜかうまくいかないし、その上婚約することにもなってしまった?? 十八歳で死にたくないので、婚約も従者もごめんです。だけど家の事情で断れない。 こうなったら婚約も従者契約も撤回するよう王子を説得しよう! そう思ったノワールはなんとか策を練るのだが、ネロディアスは撤回どころかもっと執着してきてーー!? クールで理論派、ラスボスからなんとか逃げたいモブ従者のノワールと、そんな従者を絶対逃がさない冷酷無慈悲?なラスボス王子ネロディアスの恋愛頭脳戦。

【本編完結】最強魔導騎士は、騎士団長に頭を撫でて欲しい【番外編あり】

ゆらり
BL
 帝国の侵略から国境を守る、レゲムアーク皇国第一魔導騎士団の駐屯地に派遣された、新人の魔導騎士ネウクレア。  着任当日に勃発した砲撃防衛戦で、彼は敵の砲撃部隊を単独で壊滅に追いやった。  凄まじい能力を持つ彼を部下として迎え入れた騎士団長セディウスは、研究機関育ちであるネウクレアの独特な言動に戸惑いながらも、全身鎧の下に隠された……どこか歪ではあるが、純粋無垢であどけない姿に触れたことで、彼に対して強い庇護欲を抱いてしまう。  撫でて、抱きしめて、甘やかしたい。  帝国との全面戦争が迫るなか、ネウクレアへの深い想いと、皇国の守護者たる騎士としての責務の間で、セディウスは葛藤する。  独身なのに父性強めな騎士団長×不憫な生い立ちで情緒薄めな甘えたがり魔導騎士+仲が良すぎる副官コンビ。  甘いだけじゃない、骨太文体でお送りする軍記物BL小説です。番外は日常エピソード中心。ややダーク・ファンタジー寄り。  ※ぼかしなし、本当の意味で全年齢向け。 ★お気に入りやいいね、エールをありがとうございます! お気に召しましたらぜひポチリとお願いします。凄く励みになります!

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?

cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき) ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。 「そうだ、バイトをしよう!」 一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。 教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった! なんで元カレがここにいるんだよ! 俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。 「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」 「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」 なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ! もう一度期待したら、また傷つく? あの時、俺たちが別れた本当の理由は──? 「そろそろ我慢の限界かも」

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

冤罪で追放された王子は最果ての地で美貌の公爵に愛し尽くされる 凍てついた薔薇は恋に溶かされる

尾高志咲/しさ
BL
旧題:凍てついた薔薇は恋に溶かされる 🌟2025年11月アンダルシュノベルズより刊行🌟 ロサーナ王国の病弱な第二王子アルベルトは、突然、無実の罪状を突きつけられて北の果ての離宮に追放された。王子を裏切ったのは幼い頃から大切に想う宮中伯筆頭ヴァンテル公爵だった。兄の王太子が亡くなり、世継ぎの身となってからは日々努力を重ねてきたのに。信頼していたものを全て失くし向かった先で待っていたのは……。 ――どうしてそんなに優しく名を呼ぶのだろう。 お前に裏切られ廃嫡されて最北の離宮に閉じ込められた。 目に映るものは雪と氷と絶望だけ。もう二度と、誰も信じないと誓ったのに。 ただ一人、お前だけが私の心を凍らせ溶かしていく。 執着攻め×不憫受け 美形公爵×病弱王子 不憫展開からの溺愛ハピエン物語。 ◎書籍掲載は、本編と本編後の四季の番外編:春『春の来訪者』です。 四季の番外編:夏以降及び小話は本サイトでお読みいただけます。 なお、※表示のある回はR18描写を含みます。 🌟第10回BL小説大賞にて奨励賞を頂戴しました。応援ありがとうございました。 🌟本作は旧Twitterの「フォロワーをイメージして同人誌のタイトルつける」タグで貴宮あすかさんがくださったタイトル『凍てついた薔薇は恋に溶かされる』から思いついて書いた物語です。ありがとうございました。

転生して王子になったボクは、王様になるまでノラリクラリと生きるはずだった

angel
BL
つまらないことで死んでしまったボクを不憫に思った神様が1つのゲームを持ちかけてきた。 『転生先で王様になれたら元の体に戻してあげる』と。 生まれ変わったボクは美貌の第一王子で兄弟もなく、将来王様になることが約束されていた。 「イージーゲームすぎね?」とは思ったが、この好条件をありがたく受け止め 現世に戻れるまでノラリクラリと王子様生活を楽しむはずだった…。 完結しました。

【完結】抱っこからはじまる恋

  *  ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。 ふたりの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります。 YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。 プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら! 完結しました! おまけのお話を時々更新しています。 BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です! 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

処理中です...