古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

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社交界サロン編

六、新年の朝

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 翌朝、ルードルフが窓の外を見ると、音もなく白い雪が積もり始めたところだった。灰色の空から次から次へと落ちてくる羽毛のような雪片は、窓硝子に触れては溶け、触れては溶けしているうちに緩い氷となり、やがて白い塊となって影を作った。

 大晦日の舞踏会から一夜、新年の朝ではあったが、当然というべきか、マルレーネ侯爵夫人からの呼び出しを受けたレッチェンは、これ以上ないほど憂鬱そうだった。時間が迫るというのに着替えもしないで羽根布団に潜っている。冷えた室内で、とうに準備を済ませたルードルフは、羽根布団をそっと押しのけた。

「レッチェン」

 青年は、枕に頭を押し付けたまま、気が重そうにため息をついた。ルードルフは、その頭に真新しいリネンの下着を被せ、そっと身体を起こしてやると、絹のドレスシャツを着せかけてボタンを止めてやった。
「分かったよ……自分でやるよ、ルーディ」
 彼は心底面倒そうに言った。久々に彼はルードルフが下宿先から持ち込んだタイムの小枝を噛んでおり、その爽やかな苦味のある香りが、彼が立ち上がるときにふっと香り、ひんやりとした雪の香りと合わさった。
 彼が濃緑のカヴァリエシュロックを羽織り、ボタンを止める間に、ルードルフは彼の髪を梳き、同色の天鵞絨のリボンを結いこんだ。
「この色、あれみたいだな……ほら、この間買ったおまえの新しいローブ。おまえの目の色によく似合うよ」
「失くしちまった、あれは……」彼は、苦々しげに言った。「レドリッヒの地下牢に置いてきた」
「俺の荷物に入ってる」
 ルードルフはあっさりと言い、レッチェンは驚いて振り返った。「え?! どうして……」
「おまえを取り戻しに行ったのに、あれしか見つからなかったんだよ。あと、おまえの指輪と」
 ちょっと言葉を失くして、レッチェンはルードルフを見つめた。
「だから、おまえ、俺の指輪を持ってたのか」 感嘆したように言う。「おまえ……俺がいない間、めちゃめちゃ頑張ってたんだな」
「結局、最後はアルトバッハに任せることになったがな……」本当は自分の手で彼を救い出したいと思っていたルードルフは、やや苦い口調で言った。しかし、レッチェンは、きつくルードルフの頭を抱きしめた。「ルーディ、俺がここにいられるのは、おまえのおかげなんだな」
「それを言うなら、俺もだろ……」
 ルードルフは、ぽんぽんと恋人の背中を叩いた。「あのときを思えば、どれもこれも、なんてことないと思わないか。結局、俺たちは今生きて、一緒にいるんだし」
 レッチェンは頭をルードルフの肩に預けたまま、ちょっと笑った。温かな吐息が耳にかかった。
「ルーディ、おまえさ、まさか俺のローブ、ずっと荷物に入れてたの?」
「そうだよ」
 なんのてらいもなく、ルードルフは答えた。「おまえの匂いがするし」
 レッチェンの方がこれには赤面した。「おまえなぁ……」
「おまえがまともな服を着てなかったら、着せてやりたかったし。まあ、必要なかったけど」
 ルードルフは、レッチェンの手を持ち上げてキスした。「指輪も、おまえに返せてよかった」
「指輪か……」
 彼は、鏡台におきっぱなしにしている指輪に目をやった。
「これは、ドルーゼンの世襲の指輪なんだ。代々、ゲオルクの名とともに、嫡子が受け継ぐことになっている。……俺にとっては、面倒な荷物みたいなものさ」
 言って、レッチェンは、複雑そうに唇を結んだ。
 ルードルフは、彼をしばらく眺めていた。窓から差し込む薄鈍色の冬の陽光が、ぼんやりと白い横顔を浮かび上がらせている。

 やがてレッチェンは、重苦しい声で言った。

「面倒だ……本当に、面倒だけど、……行くか」



冬の狩りが描かれたタペストリーが飾られた小サロンは、窓からの薄暗い光が差し込むほか、燭台が灯されていたが、どこか寒々としていた。
 マルレーネ侯爵夫人は、長椅子で紅茶を喫していたが、どこかひどく疲れて見えた。ひそめられた眉間には険があり、珍しくそのまま苛立ちを顕にした彼女は、意外にも、不思議なほどにレッチェンに似て見えた……血のつながりがないにも関わらず、向かい合った二人は、親子にしか見えなかった。
 侯爵夫人は、カップを置くと、目を伏せたまま、新年の挨拶も抜きで言った。
「あなたがた二人には、まったく、開いた口が塞がりません……あれは、いったい、何なのです」
「そういうお言葉は、母上の礼儀正しいお友達におっしゃったらどうです?」
 レッチェンは冷ややかに言った。「どうやら、母上に含むところがありそうでしたよ……まあ、俺には関係ないことですが」
「世継侯爵としてあの場にいるのであれば」厳然と彼女は言った。「いかに挑発されたとしても、名誉を守る道を取るべきです」
「母上」
 レッチェンの声は、ますます冷たく、高地訛りの尖った早口の発音は山間の急流を思わせたが、その話し方すら、親子がどこか似通っていることに、ルードルフは感嘆した。「俺は、ただ、俺自身の名誉を守っただけですよ」
「それでドルーゼンの名誉がどうなろうとも?」
「同じ言葉を返しましょう、母上。あなたは、俺の名誉がどうなろうとも、ドルーゼンの名を守れとおっしゃるのですね」
 レッチェンは、あくまでも頑なに言った。
 室内に沈黙が落ちた。窓の外で、雪のひとひらひとひらが積もりゆく音すら聞き取れるほどだった。屋根から落ちた雪の塊が、遠くの地面で崩れる音がした。
 悩ましげに額を手で覆いながら、マルレーネ侯爵夫人は沈黙を破った。
「折れるつもりはないということなのね、あなたには」
 青年は答えなかった。侯爵夫人は、矛先を変えた。「ルードルフ・エーデルクロッツ、あなたにも言いたいことがあります……ゲオルクとともにありたければ、分を弁えなさいと、わたしは確か言いましたね?」
 ルードルフは、影のように、もしくは降り積もる雪のように静かにそこに座っていたが、この言葉を受けて初めて口を開いた。
「侯爵夫人、お言葉ですが、わたしも申し上げたはずです」
 その声は穏やかではあったが、込められた確信は彼の剣のように確かだった。

「彼の心を殺さないためになら、私は『なんでも』すると」

 ふたたび、室内には、沈黙が下りた。

 レッチェンは、言葉を失っていた……あのとき、ルードルフは言った。「彼の心を殺すことになるなら、わたしはむしろ彼から離れることを選ぶでしょう」……と。
 約束を、破るつもりかと思った。また自分を諦めて、離れていくつもりかと。
 低い声で、レッチェンはささやいた。
「おまえ……そういうこと? 何でも、って……離れることも、ってこと?」
 手を伸ばし、ルードルフの袖をぎゅっとつかむ。「おまえが離れることが、俺の心を殺すことだよ……」
「分かっている」剣士はちょっと微笑んだ。「だから、おまえが求めてくれる限り、俺は側を離れないよ」
 彼の温かな手が、あの馬車の暗闇のなかでそうしたように、そっと青年の拳を包んだ。
 侯爵夫人は、しばらく二人を見つめていた。彼女の冬空めいて淡い色の瞳とルードルフの青い瞳が、静かにぶつかりあう。
 ややあって、視線を外したのは侯爵夫人だった。彼女は、深いため息とともに言った。
「やはり……エーデルクロッツ、あなたは犬ではなく、狼なのね」

 そのとき、侍従の声がし、ローレ・フォン・レドリッヒの訪いを告げた。
 侯爵夫人は、一つ息を吸い込むと、威儀を正した。
「入りなさい」
 レッチェンの眼に戸惑いが浮かんだ。「ローレ……? なぜ?」
 現れた金髪の貴族令嬢は、幼い容貌に大人びた緊張を宿していた。型通りの、儀礼的な挨拶をする。侯爵夫人は、そっと彼女の肩に手を添えた。
「おまえがドルーゼンの名誉を考えないのならば、わたくしが考えねばならないでしょう」
 彼女は、冷然と言った。

「ゲオルク。あなたに必要なのは妻です」

 ルードルフは、恋人が固唾をのむのを聞いた。
「ハンネローゼ・フォン・レドリッヒは、それにふさわしいわ。あの家への牽制にもなります……レドリッヒ家にとって、ドルーゼンは格上。婚姻を結んでなお、害なそうというのは無益と判断するはず。あなたを守ることでもあるのですよ、ゲオルク」
「まさか……ローレ……」
 茫然と、彼は呟いた。
「無論、フロイライン・ローレはまだ幼いですし、今すぐというのは性急でしょう。五年もすれば年回りも良くなります。婚約者として過ごせばよろしいわ、この館で」侯爵夫人は息子を見つめた。「それが、ローレの身分を守ることにもなる。あなたにも分かりますね?」
 レッチェンは、立ち上がった。恋人の肩を掴む。「こいつの存在はどうなるんだ」
「別れろなどとは言いませんよ」ごく事務的に侯爵夫人は言った。「よくあることでしょう……愛人の一人や二人など。あなたが心を砕けばいいことです。それくらいの器量はあるでしょう?」
「ローレ、」詰るように青年は令嬢に詰め寄り、ささやいた。「君はそれでいいのか」
 大人びた臙脂の刺繍入りドレスと、レースのボレロをまとった今日の彼女は、どこか人形めいていた。彼女は、クリームのような頬に微笑を浮かべて言った。
「貴族として生まれたからには、家のために結婚するなど当たり前のことですもの……レッチェン、その相手があなたなら、むしろ歓迎だわ」
「ローレ……俺は」
 青年は、彼女の細い肩を掴んだ。「君が好きだ。だが、愛することはない」
「分かっているわ、誰よりも」ローレの菫色の目は、淡々としていた。「だから、あなたにも私が都合がいいはずよ。子どもができない夫婦だって、世の中にはある……私たちにはそれ以外の絆だって」
「ルーディ!」
 悲痛な声で、彼は恋人を呼んだ。「おまえは、それでいいのか」
 ルードルフは、静かに彼を見返した。彼の穏やかな青い瞳には諦念があった。
「俺にとっては、これ以上ない話だ……おまえは世継侯爵で、俺は、ただの剣士でしかない。他に、おまえとともに生きる道がないなら、そうするだけだ」

 レッチェンが、強くテーブルを叩いたので、繊細な茶器がぶつかり合い、甲高い音を立てた。少女がびくりと肩を揺らした。

「おまえら、全員、正気か」

 押し殺した声で、彼は言い放った。
「母上、分かっているはずだ。今俺と結婚すれば、ローレがどんな目に遭うか。
 愛人に負けた女と陰口を叩かれ、貴族の妻としての責を果たせない石女うまずめと蔑まれて生きる……」彼は声を詰まらせた。「あなたが……、誰よりもその苦しさを知っているはずのあなたが、ローレに同じものを負わせるのか!」
 侯爵夫人は、殴られたかのように息子を見つめた。唇が震えたが、そこからは何の言葉も出てこなかった。ローレは、初めて見るものを見るような表情で、目を見開いて青年を見上げていた。

「もう、こんな茶番につきあうのはうんざりだ……後はあなたがただけでやってくれ。
俺は、もう、下りる」

 吐き捨てるように、彼は言った。そのまま、背を向ける。
 部屋を後にする前に、彼は、一言だけ口にした。

さようならレーベヴォル、母上」

 侯爵夫人の、扇を持つ手が小さく震えた。扉が重く閉ざされる。
 足音高く彼が去った小サロンには、沈黙が広がった。侯爵夫人は、言葉もなく唇を押さえ、ローレは、何か見知らぬ宝物を手渡された人のように、両手を固く握り合わせていた。
 一番に動いたのは、ルードルフだった。彼は例のごとく足音もなく立ち上がると、夫人たちに一礼し、恋人の後を追った。



 しんしんと雪が舞い降りる中を、髪を乱し、肩を怒らせながら青年は歩いていた。短靴が濡れ、ぬかるみに滑りかけながらも、彼は足を止めず、ぎこちなく前に進み続けた。
 ルードルフは、走り寄ると、その肩にローブを着せかけた……それはあの深緑色のローブで、ルードルフはその分厚く柔らかい天鵞絨の生地ごと、青年の肩を抱きしめた。いつかのタイムとローズマリーの香りがした。
「風邪を引くぞ」
 ようやく、青年は立ち止まったが、振り返りはしなかった。
 彼は、ルードルフの腕の中に突っ立ったまま、震える声で言った。
「馬鹿だ。……おまえら、みんな、馬鹿だよ」
「うん」
ルードルフは、雪に濡れた髪に顔を埋めた。
「おまえも、母も、ローレもだ……! なぜそこまで自分を殺すんだ。何のために生きようと思っているんだ」
 振り返ったとき、レッチェンの緑色の瞳から、涙がこぼれた。白い頬に、美しく血の気が透け、ルードルフは声もなく恋人に見惚れた。
 レッチェンは、顔を俯け、ルードルフの肩に頭をぶつけた。ささやくように言う。

「ルーディ、大事なひとマイン・ヘルツ、お願いだから、そんなに自分を蔑ろにするなよ」

 ルードルフは、青年の髪に唇を寄せた。「うん……」慰めるようにささやく。「……ごめん」
 舞い落ちる雪の中、二人はしばらくそのまま、お互いの温もりを感じて立ち尽くしていた……。
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