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社交界サロン編
六、新年の朝
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翌朝、ルードルフが窓の外を見ると、音もなく白い雪が積もり始めたところだった。灰色の空から次から次へと落ちてくる羽毛のような雪片は、窓硝子に触れては溶け、触れては溶けしているうちに緩い氷となり、やがて白い塊となって影を作った。
大晦日の舞踏会から一夜、新年の朝ではあったが、当然というべきか、マルレーネ侯爵夫人からの呼び出しを受けたレッチェンは、これ以上ないほど憂鬱そうだった。時間が迫るというのに着替えもしないで羽根布団に潜っている。冷えた室内で、とうに準備を済ませたルードルフは、羽根布団をそっと押しのけた。
「レッチェン」
青年は、枕に頭を押し付けたまま、気が重そうにため息をついた。ルードルフは、その頭に真新しいリネンの下着を被せ、そっと身体を起こしてやると、絹のドレスシャツを着せかけてボタンを止めてやった。
「分かったよ……自分でやるよ、ルーディ」
彼は心底面倒そうに言った。久々に彼はルードルフが下宿先から持ち込んだタイムの小枝を噛んでおり、その爽やかな苦味のある香りが、彼が立ち上がるときにふっと香り、ひんやりとした雪の香りと合わさった。
彼が濃緑のカヴァリエシュロックを羽織り、ボタンを止める間に、ルードルフは彼の髪を梳き、同色の天鵞絨のリボンを結いこんだ。
「この色、あれみたいだな……ほら、この間買ったおまえの新しいローブ。おまえの目の色によく似合うよ」
「失くしちまった、あれは……」彼は、苦々しげに言った。「レドリッヒの地下牢に置いてきた」
「俺の荷物に入ってる」
ルードルフはあっさりと言い、レッチェンは驚いて振り返った。「え?! どうして……」
「おまえを取り戻しに行ったのに、あれしか見つからなかったんだよ。あと、おまえの指輪と」
ちょっと言葉を失くして、レッチェンはルードルフを見つめた。
「だから、おまえ、俺の指輪を持ってたのか」 感嘆したように言う。「おまえ……俺がいない間、めちゃめちゃ頑張ってたんだな」
「結局、最後はアルトバッハに任せることになったがな……」本当は自分の手で彼を救い出したいと思っていたルードルフは、やや苦い口調で言った。しかし、レッチェンは、きつくルードルフの頭を抱きしめた。「ルーディ、俺がここにいられるのは、おまえのおかげなんだな」
「それを言うなら、俺もだろ……」
ルードルフは、ぽんぽんと恋人の背中を叩いた。「あのときを思えば、どれもこれも、なんてことないと思わないか。結局、俺たちは今生きて、一緒にいるんだし」
レッチェンは頭をルードルフの肩に預けたまま、ちょっと笑った。温かな吐息が耳にかかった。
「ルーディ、おまえさ、まさか俺のローブ、ずっと荷物に入れてたの?」
「そうだよ」
なんのてらいもなく、ルードルフは答えた。「おまえの匂いがするし」
レッチェンの方がこれには赤面した。「おまえなぁ……」
「おまえがまともな服を着てなかったら、着せてやりたかったし。まあ、必要なかったけど」
ルードルフは、レッチェンの手を持ち上げてキスした。「指輪も、おまえに返せてよかった」
「指輪か……」
彼は、鏡台におきっぱなしにしている指輪に目をやった。
「これは、ドルーゼンの世襲の指輪なんだ。代々、ゲオルクの名とともに、嫡子が受け継ぐことになっている。……俺にとっては、面倒な荷物みたいなものさ」
言って、レッチェンは、複雑そうに唇を結んだ。
ルードルフは、彼をしばらく眺めていた。窓から差し込む薄鈍色の冬の陽光が、ぼんやりと白い横顔を浮かび上がらせている。
やがてレッチェンは、重苦しい声で言った。
「面倒だ……本当に、面倒だけど、……行くか」
*
冬の狩りが描かれたタペストリーが飾られた小サロンは、窓からの薄暗い光が差し込むほか、燭台が灯されていたが、どこか寒々としていた。
マルレーネ侯爵夫人は、長椅子で紅茶を喫していたが、どこかひどく疲れて見えた。ひそめられた眉間には険があり、珍しくそのまま苛立ちを顕にした彼女は、意外にも、不思議なほどにレッチェンに似て見えた……血のつながりがないにも関わらず、向かい合った二人は、親子にしか見えなかった。
侯爵夫人は、カップを置くと、目を伏せたまま、新年の挨拶も抜きで言った。
「あなたがた二人には、まったく、開いた口が塞がりません……あれは、いったい、何なのです」
「そういうお言葉は、母上の礼儀正しいお友達におっしゃったらどうです?」
レッチェンは冷ややかに言った。「どうやら、母上に含むところがありそうでしたよ……まあ、俺には関係ないことですが」
「世継侯爵としてあの場にいるのであれば」厳然と彼女は言った。「いかに挑発されたとしても、名誉を守る道を取るべきです」
「母上」
レッチェンの声は、ますます冷たく、高地訛りの尖った早口の発音は山間の急流を思わせたが、その話し方すら、親子がどこか似通っていることに、ルードルフは感嘆した。「俺は、ただ、俺自身の名誉を守っただけですよ」
「それでドルーゼンの名誉がどうなろうとも?」
「同じ言葉を返しましょう、母上。あなたは、俺の名誉がどうなろうとも、ドルーゼンの名を守れとおっしゃるのですね」
レッチェンは、あくまでも頑なに言った。
室内に沈黙が落ちた。窓の外で、雪のひとひらひとひらが積もりゆく音すら聞き取れるほどだった。屋根から落ちた雪の塊が、遠くの地面で崩れる音がした。
悩ましげに額を手で覆いながら、マルレーネ侯爵夫人は沈黙を破った。
「折れるつもりはないということなのね、あなたには」
青年は答えなかった。侯爵夫人は、矛先を変えた。「ルードルフ・エーデルクロッツ、あなたにも言いたいことがあります……ゲオルクとともにありたければ、分を弁えなさいと、わたしは確か言いましたね?」
ルードルフは、影のように、もしくは降り積もる雪のように静かにそこに座っていたが、この言葉を受けて初めて口を開いた。
「侯爵夫人、お言葉ですが、わたしも申し上げたはずです」
その声は穏やかではあったが、込められた確信は彼の剣のように確かだった。
「彼の心を殺さないためになら、私は『なんでも』すると」
ふたたび、室内には、沈黙が下りた。
レッチェンは、言葉を失っていた……あのとき、ルードルフは言った。「彼の心を殺すことになるなら、わたしはむしろ彼から離れることを選ぶでしょう」……と。
約束を、破るつもりかと思った。また自分を諦めて、離れていくつもりかと。
低い声で、レッチェンはささやいた。
「おまえ……そういうこと? 何でも、って……離れることも、ってこと?」
手を伸ばし、ルードルフの袖をぎゅっとつかむ。「おまえが離れることが、俺の心を殺すことだよ……」
「分かっている」剣士はちょっと微笑んだ。「だから、おまえが求めてくれる限り、俺は側を離れないよ」
彼の温かな手が、あの馬車の暗闇のなかでそうしたように、そっと青年の拳を包んだ。
侯爵夫人は、しばらく二人を見つめていた。彼女の冬空めいて淡い色の瞳とルードルフの青い瞳が、静かにぶつかりあう。
ややあって、視線を外したのは侯爵夫人だった。彼女は、深いため息とともに言った。
「やはり……エーデルクロッツ、あなたは犬ではなく、狼なのね」
そのとき、侍従の声がし、ローレ・フォン・レドリッヒの訪いを告げた。
侯爵夫人は、一つ息を吸い込むと、威儀を正した。
「入りなさい」
レッチェンの眼に戸惑いが浮かんだ。「ローレ……? なぜ?」
現れた金髪の貴族令嬢は、幼い容貌に大人びた緊張を宿していた。型通りの、儀礼的な挨拶をする。侯爵夫人は、そっと彼女の肩に手を添えた。
「おまえがドルーゼンの名誉を考えないのならば、わたくしが考えねばならないでしょう」
彼女は、冷然と言った。
「ゲオルク。あなたに必要なのは妻です」
ルードルフは、恋人が固唾をのむのを聞いた。
「ハンネローゼ・フォン・レドリッヒは、それにふさわしいわ。あの家への牽制にもなります……レドリッヒ家にとって、ドルーゼンは格上。婚姻を結んでなお、害なそうというのは無益と判断するはず。あなたを守ることでもあるのですよ、ゲオルク」
「まさか……ローレ……」
茫然と、彼は呟いた。
「無論、フロイライン・ローレはまだ幼いですし、今すぐというのは性急でしょう。五年もすれば年回りも良くなります。婚約者として過ごせばよろしいわ、この館で」侯爵夫人は息子を見つめた。「それが、ローレの身分を守ることにもなる。あなたにも分かりますね?」
レッチェンは、立ち上がった。恋人の肩を掴む。「こいつの存在はどうなるんだ」
「別れろなどとは言いませんよ」ごく事務的に侯爵夫人は言った。「よくあることでしょう……愛人の一人や二人など。あなたが心を砕けばいいことです。それくらいの器量はあるでしょう?」
「ローレ、」詰るように青年は令嬢に詰め寄り、ささやいた。「君はそれでいいのか」
大人びた臙脂の刺繍入りドレスと、レースのボレロをまとった今日の彼女は、どこか人形めいていた。彼女は、クリームのような頬に微笑を浮かべて言った。
「貴族として生まれたからには、家のために結婚するなど当たり前のことですもの……レッチェン、その相手があなたなら、むしろ歓迎だわ」
「ローレ……俺は」
青年は、彼女の細い肩を掴んだ。「君が好きだ。だが、愛することはない」
「分かっているわ、誰よりも」ローレの菫色の目は、淡々としていた。「だから、あなたにも私が都合がいいはずよ。子どもができない夫婦だって、世の中にはある……私たちにはそれ以外の絆だって」
「ルーディ!」
悲痛な声で、彼は恋人を呼んだ。「おまえは、それでいいのか」
ルードルフは、静かに彼を見返した。彼の穏やかな青い瞳には諦念があった。
「俺にとっては、これ以上ない話だ……おまえは世継侯爵で、俺は、ただの剣士でしかない。他に、おまえとともに生きる道がないなら、そうするだけだ」
レッチェンが、強くテーブルを叩いたので、繊細な茶器がぶつかり合い、甲高い音を立てた。少女がびくりと肩を揺らした。
「おまえら、全員、正気か」
押し殺した声で、彼は言い放った。
「母上、分かっているはずだ。今俺と結婚すれば、ローレがどんな目に遭うか。
愛人に負けた女と陰口を叩かれ、貴族の妻としての責を果たせない石女と蔑まれて生きる……」彼は声を詰まらせた。「あなたが……、誰よりもその苦しさを知っているはずのあなたが、ローレに同じものを負わせるのか!」
侯爵夫人は、殴られたかのように息子を見つめた。唇が震えたが、そこからは何の言葉も出てこなかった。ローレは、初めて見るものを見るような表情で、目を見開いて青年を見上げていた。
「もう、こんな茶番につきあうのはうんざりだ……後はあなたがただけでやってくれ。
俺は、もう、下りる」
吐き捨てるように、彼は言った。そのまま、背を向ける。
部屋を後にする前に、彼は、一言だけ口にした。
「さようなら、母上」
侯爵夫人の、扇を持つ手が小さく震えた。扉が重く閉ざされる。
足音高く彼が去った小サロンには、沈黙が広がった。侯爵夫人は、言葉もなく唇を押さえ、ローレは、何か見知らぬ宝物を手渡された人のように、両手を固く握り合わせていた。
一番に動いたのは、ルードルフだった。彼は例のごとく足音もなく立ち上がると、夫人たちに一礼し、恋人の後を追った。
*
しんしんと雪が舞い降りる中を、髪を乱し、肩を怒らせながら青年は歩いていた。短靴が濡れ、ぬかるみに滑りかけながらも、彼は足を止めず、ぎこちなく前に進み続けた。
ルードルフは、走り寄ると、その肩にローブを着せかけた……それはあの深緑色のローブで、ルードルフはその分厚く柔らかい天鵞絨の生地ごと、青年の肩を抱きしめた。いつかのタイムとローズマリーの香りがした。
「風邪を引くぞ」
ようやく、青年は立ち止まったが、振り返りはしなかった。
彼は、ルードルフの腕の中に突っ立ったまま、震える声で言った。
「馬鹿だ。……おまえら、みんな、馬鹿だよ」
「うん」
ルードルフは、雪に濡れた髪に顔を埋めた。
「おまえも、母も、ローレもだ……! なぜそこまで自分を殺すんだ。何のために生きようと思っているんだ」
振り返ったとき、レッチェンの緑色の瞳から、涙がこぼれた。白い頬に、美しく血の気が透け、ルードルフは声もなく恋人に見惚れた。
レッチェンは、顔を俯け、ルードルフの肩に頭をぶつけた。ささやくように言う。
「ルーディ、大事なひと、お願いだから、そんなに自分を蔑ろにするなよ」
ルードルフは、青年の髪に唇を寄せた。「うん……」慰めるようにささやく。「……ごめん」
舞い落ちる雪の中、二人はしばらくそのまま、お互いの温もりを感じて立ち尽くしていた……。
大晦日の舞踏会から一夜、新年の朝ではあったが、当然というべきか、マルレーネ侯爵夫人からの呼び出しを受けたレッチェンは、これ以上ないほど憂鬱そうだった。時間が迫るというのに着替えもしないで羽根布団に潜っている。冷えた室内で、とうに準備を済ませたルードルフは、羽根布団をそっと押しのけた。
「レッチェン」
青年は、枕に頭を押し付けたまま、気が重そうにため息をついた。ルードルフは、その頭に真新しいリネンの下着を被せ、そっと身体を起こしてやると、絹のドレスシャツを着せかけてボタンを止めてやった。
「分かったよ……自分でやるよ、ルーディ」
彼は心底面倒そうに言った。久々に彼はルードルフが下宿先から持ち込んだタイムの小枝を噛んでおり、その爽やかな苦味のある香りが、彼が立ち上がるときにふっと香り、ひんやりとした雪の香りと合わさった。
彼が濃緑のカヴァリエシュロックを羽織り、ボタンを止める間に、ルードルフは彼の髪を梳き、同色の天鵞絨のリボンを結いこんだ。
「この色、あれみたいだな……ほら、この間買ったおまえの新しいローブ。おまえの目の色によく似合うよ」
「失くしちまった、あれは……」彼は、苦々しげに言った。「レドリッヒの地下牢に置いてきた」
「俺の荷物に入ってる」
ルードルフはあっさりと言い、レッチェンは驚いて振り返った。「え?! どうして……」
「おまえを取り戻しに行ったのに、あれしか見つからなかったんだよ。あと、おまえの指輪と」
ちょっと言葉を失くして、レッチェンはルードルフを見つめた。
「だから、おまえ、俺の指輪を持ってたのか」 感嘆したように言う。「おまえ……俺がいない間、めちゃめちゃ頑張ってたんだな」
「結局、最後はアルトバッハに任せることになったがな……」本当は自分の手で彼を救い出したいと思っていたルードルフは、やや苦い口調で言った。しかし、レッチェンは、きつくルードルフの頭を抱きしめた。「ルーディ、俺がここにいられるのは、おまえのおかげなんだな」
「それを言うなら、俺もだろ……」
ルードルフは、ぽんぽんと恋人の背中を叩いた。「あのときを思えば、どれもこれも、なんてことないと思わないか。結局、俺たちは今生きて、一緒にいるんだし」
レッチェンは頭をルードルフの肩に預けたまま、ちょっと笑った。温かな吐息が耳にかかった。
「ルーディ、おまえさ、まさか俺のローブ、ずっと荷物に入れてたの?」
「そうだよ」
なんのてらいもなく、ルードルフは答えた。「おまえの匂いがするし」
レッチェンの方がこれには赤面した。「おまえなぁ……」
「おまえがまともな服を着てなかったら、着せてやりたかったし。まあ、必要なかったけど」
ルードルフは、レッチェンの手を持ち上げてキスした。「指輪も、おまえに返せてよかった」
「指輪か……」
彼は、鏡台におきっぱなしにしている指輪に目をやった。
「これは、ドルーゼンの世襲の指輪なんだ。代々、ゲオルクの名とともに、嫡子が受け継ぐことになっている。……俺にとっては、面倒な荷物みたいなものさ」
言って、レッチェンは、複雑そうに唇を結んだ。
ルードルフは、彼をしばらく眺めていた。窓から差し込む薄鈍色の冬の陽光が、ぼんやりと白い横顔を浮かび上がらせている。
やがてレッチェンは、重苦しい声で言った。
「面倒だ……本当に、面倒だけど、……行くか」
*
冬の狩りが描かれたタペストリーが飾られた小サロンは、窓からの薄暗い光が差し込むほか、燭台が灯されていたが、どこか寒々としていた。
マルレーネ侯爵夫人は、長椅子で紅茶を喫していたが、どこかひどく疲れて見えた。ひそめられた眉間には険があり、珍しくそのまま苛立ちを顕にした彼女は、意外にも、不思議なほどにレッチェンに似て見えた……血のつながりがないにも関わらず、向かい合った二人は、親子にしか見えなかった。
侯爵夫人は、カップを置くと、目を伏せたまま、新年の挨拶も抜きで言った。
「あなたがた二人には、まったく、開いた口が塞がりません……あれは、いったい、何なのです」
「そういうお言葉は、母上の礼儀正しいお友達におっしゃったらどうです?」
レッチェンは冷ややかに言った。「どうやら、母上に含むところがありそうでしたよ……まあ、俺には関係ないことですが」
「世継侯爵としてあの場にいるのであれば」厳然と彼女は言った。「いかに挑発されたとしても、名誉を守る道を取るべきです」
「母上」
レッチェンの声は、ますます冷たく、高地訛りの尖った早口の発音は山間の急流を思わせたが、その話し方すら、親子がどこか似通っていることに、ルードルフは感嘆した。「俺は、ただ、俺自身の名誉を守っただけですよ」
「それでドルーゼンの名誉がどうなろうとも?」
「同じ言葉を返しましょう、母上。あなたは、俺の名誉がどうなろうとも、ドルーゼンの名を守れとおっしゃるのですね」
レッチェンは、あくまでも頑なに言った。
室内に沈黙が落ちた。窓の外で、雪のひとひらひとひらが積もりゆく音すら聞き取れるほどだった。屋根から落ちた雪の塊が、遠くの地面で崩れる音がした。
悩ましげに額を手で覆いながら、マルレーネ侯爵夫人は沈黙を破った。
「折れるつもりはないということなのね、あなたには」
青年は答えなかった。侯爵夫人は、矛先を変えた。「ルードルフ・エーデルクロッツ、あなたにも言いたいことがあります……ゲオルクとともにありたければ、分を弁えなさいと、わたしは確か言いましたね?」
ルードルフは、影のように、もしくは降り積もる雪のように静かにそこに座っていたが、この言葉を受けて初めて口を開いた。
「侯爵夫人、お言葉ですが、わたしも申し上げたはずです」
その声は穏やかではあったが、込められた確信は彼の剣のように確かだった。
「彼の心を殺さないためになら、私は『なんでも』すると」
ふたたび、室内には、沈黙が下りた。
レッチェンは、言葉を失っていた……あのとき、ルードルフは言った。「彼の心を殺すことになるなら、わたしはむしろ彼から離れることを選ぶでしょう」……と。
約束を、破るつもりかと思った。また自分を諦めて、離れていくつもりかと。
低い声で、レッチェンはささやいた。
「おまえ……そういうこと? 何でも、って……離れることも、ってこと?」
手を伸ばし、ルードルフの袖をぎゅっとつかむ。「おまえが離れることが、俺の心を殺すことだよ……」
「分かっている」剣士はちょっと微笑んだ。「だから、おまえが求めてくれる限り、俺は側を離れないよ」
彼の温かな手が、あの馬車の暗闇のなかでそうしたように、そっと青年の拳を包んだ。
侯爵夫人は、しばらく二人を見つめていた。彼女の冬空めいて淡い色の瞳とルードルフの青い瞳が、静かにぶつかりあう。
ややあって、視線を外したのは侯爵夫人だった。彼女は、深いため息とともに言った。
「やはり……エーデルクロッツ、あなたは犬ではなく、狼なのね」
そのとき、侍従の声がし、ローレ・フォン・レドリッヒの訪いを告げた。
侯爵夫人は、一つ息を吸い込むと、威儀を正した。
「入りなさい」
レッチェンの眼に戸惑いが浮かんだ。「ローレ……? なぜ?」
現れた金髪の貴族令嬢は、幼い容貌に大人びた緊張を宿していた。型通りの、儀礼的な挨拶をする。侯爵夫人は、そっと彼女の肩に手を添えた。
「おまえがドルーゼンの名誉を考えないのならば、わたくしが考えねばならないでしょう」
彼女は、冷然と言った。
「ゲオルク。あなたに必要なのは妻です」
ルードルフは、恋人が固唾をのむのを聞いた。
「ハンネローゼ・フォン・レドリッヒは、それにふさわしいわ。あの家への牽制にもなります……レドリッヒ家にとって、ドルーゼンは格上。婚姻を結んでなお、害なそうというのは無益と判断するはず。あなたを守ることでもあるのですよ、ゲオルク」
「まさか……ローレ……」
茫然と、彼は呟いた。
「無論、フロイライン・ローレはまだ幼いですし、今すぐというのは性急でしょう。五年もすれば年回りも良くなります。婚約者として過ごせばよろしいわ、この館で」侯爵夫人は息子を見つめた。「それが、ローレの身分を守ることにもなる。あなたにも分かりますね?」
レッチェンは、立ち上がった。恋人の肩を掴む。「こいつの存在はどうなるんだ」
「別れろなどとは言いませんよ」ごく事務的に侯爵夫人は言った。「よくあることでしょう……愛人の一人や二人など。あなたが心を砕けばいいことです。それくらいの器量はあるでしょう?」
「ローレ、」詰るように青年は令嬢に詰め寄り、ささやいた。「君はそれでいいのか」
大人びた臙脂の刺繍入りドレスと、レースのボレロをまとった今日の彼女は、どこか人形めいていた。彼女は、クリームのような頬に微笑を浮かべて言った。
「貴族として生まれたからには、家のために結婚するなど当たり前のことですもの……レッチェン、その相手があなたなら、むしろ歓迎だわ」
「ローレ……俺は」
青年は、彼女の細い肩を掴んだ。「君が好きだ。だが、愛することはない」
「分かっているわ、誰よりも」ローレの菫色の目は、淡々としていた。「だから、あなたにも私が都合がいいはずよ。子どもができない夫婦だって、世の中にはある……私たちにはそれ以外の絆だって」
「ルーディ!」
悲痛な声で、彼は恋人を呼んだ。「おまえは、それでいいのか」
ルードルフは、静かに彼を見返した。彼の穏やかな青い瞳には諦念があった。
「俺にとっては、これ以上ない話だ……おまえは世継侯爵で、俺は、ただの剣士でしかない。他に、おまえとともに生きる道がないなら、そうするだけだ」
レッチェンが、強くテーブルを叩いたので、繊細な茶器がぶつかり合い、甲高い音を立てた。少女がびくりと肩を揺らした。
「おまえら、全員、正気か」
押し殺した声で、彼は言い放った。
「母上、分かっているはずだ。今俺と結婚すれば、ローレがどんな目に遭うか。
愛人に負けた女と陰口を叩かれ、貴族の妻としての責を果たせない石女と蔑まれて生きる……」彼は声を詰まらせた。「あなたが……、誰よりもその苦しさを知っているはずのあなたが、ローレに同じものを負わせるのか!」
侯爵夫人は、殴られたかのように息子を見つめた。唇が震えたが、そこからは何の言葉も出てこなかった。ローレは、初めて見るものを見るような表情で、目を見開いて青年を見上げていた。
「もう、こんな茶番につきあうのはうんざりだ……後はあなたがただけでやってくれ。
俺は、もう、下りる」
吐き捨てるように、彼は言った。そのまま、背を向ける。
部屋を後にする前に、彼は、一言だけ口にした。
「さようなら、母上」
侯爵夫人の、扇を持つ手が小さく震えた。扉が重く閉ざされる。
足音高く彼が去った小サロンには、沈黙が広がった。侯爵夫人は、言葉もなく唇を押さえ、ローレは、何か見知らぬ宝物を手渡された人のように、両手を固く握り合わせていた。
一番に動いたのは、ルードルフだった。彼は例のごとく足音もなく立ち上がると、夫人たちに一礼し、恋人の後を追った。
*
しんしんと雪が舞い降りる中を、髪を乱し、肩を怒らせながら青年は歩いていた。短靴が濡れ、ぬかるみに滑りかけながらも、彼は足を止めず、ぎこちなく前に進み続けた。
ルードルフは、走り寄ると、その肩にローブを着せかけた……それはあの深緑色のローブで、ルードルフはその分厚く柔らかい天鵞絨の生地ごと、青年の肩を抱きしめた。いつかのタイムとローズマリーの香りがした。
「風邪を引くぞ」
ようやく、青年は立ち止まったが、振り返りはしなかった。
彼は、ルードルフの腕の中に突っ立ったまま、震える声で言った。
「馬鹿だ。……おまえら、みんな、馬鹿だよ」
「うん」
ルードルフは、雪に濡れた髪に顔を埋めた。
「おまえも、母も、ローレもだ……! なぜそこまで自分を殺すんだ。何のために生きようと思っているんだ」
振り返ったとき、レッチェンの緑色の瞳から、涙がこぼれた。白い頬に、美しく血の気が透け、ルードルフは声もなく恋人に見惚れた。
レッチェンは、顔を俯け、ルードルフの肩に頭をぶつけた。ささやくように言う。
「ルーディ、大事なひと、お願いだから、そんなに自分を蔑ろにするなよ」
ルードルフは、青年の髪に唇を寄せた。「うん……」慰めるようにささやく。「……ごめん」
舞い落ちる雪の中、二人はしばらくそのまま、お互いの温もりを感じて立ち尽くしていた……。
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BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
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