犬だと思って可愛がっていた狼はヴァンパイアだったそうです

桜月みやこ

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01.

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鬱蒼と茂った森の中、お使いの帰りに転んで膝を擦りむいて泣いていたロゼリアは、ふいにぺろりと頬を舐められて、驚いて顔を上げた。
そこにはいつの間に現れたのか、一匹の白銀の子犬の姿。

「わぁ……」

綺麗な毛並みに、ロゼリアは怪我の痛みも忘れて子犬に手を伸ばした。
逃げられるかしらと思ったけれど、子犬はその場にぺたりと座り込むと、怯えるでも威嚇するでもなくロゼリアの手を受け入れた。

「ふわふわ……ね、キミはどこから来たの?」

ロゼリアは子犬の毛を撫でながら、そんな事を聞いてみる。
当然答えはなく、暫くの間大人しくロゼリアに撫でられていた子犬はふと立ち上がると、ロゼリアの膝をぺろぺろと数度舐めてから、くるりと背を向けて走り出した。

「あ、待って……!」

ロゼリアの制止の声にも、白銀の子犬は止まりも振り返りもせずにあっという間に姿を消してしまった。



それからおよそ10年。ロゼリアは17歳になっていた。

「シルヴァ、元気だった?」

その子犬──もう成犬になって立派な体躯となった白銀の犬は、初めて会ったあの日から、ロゼリアが森に入るとどこからともなくふらりと現れるようになった。
ロゼリアもそうしょっちゅうこの森に入るわけではないから2・3カ月に一度の頻度だったが、それでも10年という時間の中で少女と1匹は確かに絆を築いていた。

ふいに初めて会った日の事を思い出して、ロゼリアに身を寄せて首元に鼻をすりつけてきているシルヴァの背を撫でながら、ロゼリアは小さく笑う。

「シルヴァと会ってもう10年も経つのね。あんなに小さかったのに、こんな立派になって……ねぇ、やっぱり奥さんを紹介してはくれないの?」

ふわふわの毛を撫でながらそう言うと、子供の頃にその毛色から『シルヴァ』と名付けた白銀の犬はアイスブルーの瞳を眇めるようにして、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
野犬なのだから、絶対どこかにシルヴァの番がいるだろうと思うのに、シルヴァはちっともロゼリアの前に奥さんを連れて来てはくれない。

「こんなに素敵なのに、まさか独り身なんて事はないでしょう?それとも私にも会わせたくないくらい大事なのかしら?」

シルヴァはロゼリアから身体を離すとゆらりと尻尾を揺らして、そしてその尻尾でぺしりとロゼリアの足を叩く。
これはシルヴァがご機嫌ナナメの時にやる仕草だ。
だからロゼリアはとっても奥さんが大事なのねと、シルヴァの背中をぽんぽんと叩くとその話題を終わらせた。


シルヴァは不思議な犬だった。

子犬の頃からロゼリアに向かって吠えたりじゃれついたりという事はほとんどせず、かといって興味がないわけでもなさそうで、会うと必ずさっきのように鼻を擦りつけてくるから、どちらかというとなつかれているのだろうと感じる。
何よりロゼリアの言っている事が分かっているかのような反応を見せるから、実はどこかの飼い犬なのだろうかと思った事もあるけれど、ロゼリアが森に入るのは不定期だし、時間帯もまちまちだ。
それなのにほぼ毎回ロゼリアの前に顔を出すなんて事は、この辺りを住処にしていなければ無理な話だろう。

そう広くはないこの森は"領主様の森"と呼ばれたりもするように、人前にほとんど姿を現さないという、色々謎の多いらしい領主のお屋敷が建っているくらいで、民家は森の外の町か村にしかない。
領主の家で飼われている犬が森の中を好き勝手に歩き回っているはずもないだろうし、町や村からロゼリアの匂いを嗅ぎつけてやってくるというのも無理がある。

だからロゼリアは、結局この白銀の犬はこの森に住む野犬だろうと結論付けていた。


「あのね、シルヴァ。今日はお別れに来たの」

ロゼリアはしゃがんで、シルヴァと目線を合わせる。
といってもロゼリアがしゃがんでしまうと、今度は大きな体躯のシルヴァより下になってしまうのだけれど。

「私、村を出る事になったの。きっともうこの森には来られないから──あなたに会えるのは、今日で最後だと思うわ」

寂しそうに微笑んだロゼリアを、シルヴァが不機嫌そうに尻尾を揺らしながらじっと見下ろしている。
グルル…と何だか不穏な感じの唸り声が聞こえて来たから、ロゼリアはそっと腕を伸ばしてシルヴァを撫でた。

「元気でね、シルヴァ。今までありがとう。大好きよ」

ロゼリアはシルヴァの首に抱き着いて、きっともう二度と会う事も触れる事も出来ないであろうそのふわふわの毛に顔を埋めた。
シルヴァの身体からは、いつも不思議な甘さを含んだ爽やかな香りがする。
これは一体何の香りなのかしらと、ロゼリアは嗅ぎ慣れたシルヴァの匂いを胸いっぱい吸い込んで、そして最後にその頭を撫でてもう一度別れの言葉を口にすると、じっと見つめているシルヴァの視線を振り切る様にして足早に"領主様の森"を後にした。


ロゼリアは"領主様の森"の傍にある村に住んでいる。
まだ小さい頃に両親を亡くしてからずっと、村の教会で神父様と一緒に暮らしている。
"領主様の森"を抜けると大きな町があって、ロゼリアは時々その町に買い物に行く為に森を通っていた。

その日も、ロゼリアは町に来ていた。
買い物を済ませてさぁ帰ろうと町を出て森への道を歩いていた時、豪奢な馬車が道の真ん中に停まっている事に気付いた。
最近続いていた雨のせいで道がすっかりぬかるんでいたから、車輪がはまってしまったのかしらと心配になって御者に声をかけてみればやはりその通りで、一人ではどうにも出来ず、かと言って馬車の中の主人を放って行く事も出来ずに困っていたらしい。
だからロゼリアは御者の代わりに町まで走って人を呼んできた。

男の人たちと一緒に馬車まで戻ると、馬車の脇に御者と、先ほどはいなかった青年が立っていた。
馬車の中にいた"主人"だそうで、とても造作の整った綺麗な顔に、金の髪と赤銅色の瞳、少し頼りなさすら覚えるすらりとした身体の、絵本の中の王子様のような優しそうな雰囲気の男性だった。

町の男の人たちの作業を黙って見ている事も出来ず、ロゼリアも一緒になって引き上げるのを手伝って、程なくして馬車は無事にぬかるみから抜け出した。
青年は馬車に乗り込む前にロゼリアの手を取って指先に口付けて感謝を伝え、男たちにも礼を言って馬車の中へ戻って行った。

王子様みたいな男の人から指先にキスされるだなんて、まるでお姫様のような経験をしたロゼリアは、ぽやっとしたまま馬車が走り出すのを見送って、そしてどこかふわふわした気持ちのまま、来てくれた町の人たちと挨拶を交わして帰路へとついた。

その日もシルヴァはロゼリアが森に入るとふらりと現れて、そしてすぐにロゼリアの指をぺろりと舐めた。
ロゼリアはそこで初めて、いつの間にか指に小さな切り傷が出来ていた事に気が付いた。
馬車を引き上げている時に引っ掻けてしまったのかしらと、ぺろぺろと指を舐めてくれているシルヴァの頭を「ありがとう、もう大丈夫よ」と撫でると、シルヴァはぺろりと自身の口の周りを舐めてからロゼリアから身体を離した。

そのままいつもシルヴァがふいと姿を消す辺りまで一緒に歩いて、そしてその日はぬかるみにはまった馬車と、男性からの指先へのキス以外は普段と何の変りもなく、ロゼリアは教会へと帰り着いた。


数日後、村の教会の前に、あの時の豪奢な馬車が停まった。

簡単に言えば、ロゼリアはあの時にその馬車の主であるバート・サニエに『見初められた』らしい。

バートは隣の領地の大きな町で商会を経営している家の嫡男なのだそうだ。
あの日は商談の為にこちらの町に来ていて、その帰りに困っているところを助けてくれたロゼリアの優しさに心打たれたのだとか。
こんな素敵な男性に是非妻にと望まれて、きっとそれはとても光栄な事なのだろうけれど、ロゼリアは何故だか、この時少しだけバートが怖かった。

そもそも孤児の自分は、とてもではないけれどそんな方の元へは行けないと、ロゼリアはバートの求婚を断るつもりだった。
なのにバートに手を握られて見つめられたロゼリアは、急に霞がかかったように頭がぼんやりとしてしまって、そして頷いてしまった──らしい。
どうした事か、後からいくら思い出そうとしてもその時の事を思い出す事は出来なかった。

バートが帰った後、我に返った時にはもう遅かった。
ぼんやりしている間に神父様とバートは1週間後に迎えに来ます、なんて事まで話していたらしい。
「話も耳に入らないくらい見蕩れてしまっていたのかい」と揶揄い混じりに言われたけれど、そういう感覚ではなかった。
でもその不可思議な感覚を口で上手く説明する事も出来ずに、ロゼリアは困った様に神父様に向かって小さく微笑むだけだった。

「だけど、本当に良いのかい?断っても良かったんだよ」

神父様はロゼリアに幸せが訪れたと喜んでくれたけれど、どこか心配そうな表情でそう言ってくれた。
出来ればその言葉に甘えて「やっぱり…」と言いたかったけれど、今更断るなんて事も出来ないだろうと、ロゼリアは小さく首を振った。


そして5日の間に十数年世話になった自室と生活スペース、教会の方も出来る限りを磨き上げた。
人が良くて少し頼りない神父様を一人残していくのが心配で、村の人に神父様をお願いしますと頼んだりもした。
6日目には森に入って、シルヴァに別れの挨拶をした。

そうして約束の7日目の昼過ぎ、再び教会の前にあの豪奢な馬車が停まって、
神父様と集まってくれた村の人達に見送られて、ロゼリアは17年住んだ村を離れた。


大きな町で商会を経営しているという話だったので、ロゼリアはてっきりバートの家は町の中にあるのだと思っていた。
けれど馬車は、その大きな町を抜けたもっと先にある、湖の畔に立つ別荘地の中の屋敷へと入って行った。

「2人でゆっくり過ごすには、町中よりもこっちの方が良いと思ってね」

いずれは町の方で暮らそうと笑ったバートに、ロゼリアは小さく微笑んだ。


ロゼリアに与えられた部屋は見たこともないくらい広くて豪華で、ロゼリアは落ち着かない気持ちを抱えたまま、侍女だという人達に身体を清められて、見たこともないような綺麗な服を着せられて、そして夕食の席についていた。

「あ、あの、バート様。私は田舎者で……その、お食事のお作法などに失礼があったら申し訳ありません……」

不安そうにロゼリアがそう言えば、バートは赤銅色の瞳を丸くして、次いで破顔した。

「気にしなくて良いんだよ、ロゼリア。食事なんてものは、本人が美味しく食べられればそれで良いと、僕は思ってるんだ」
「あ、ありがとうございます…。少しずつ覚えますので……」

恐縮して視線を下げたロゼリアは、だから気付けなかった。

バートの瞳がほんの一瞬、妖しい色を宿した事に──


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