夕餉の前の糸紡ぎ/理のデバッガー

梨団子

文字の大きさ
2 / 3

第一解:摩天楼に落ちた比翼(二)

しおりを挟む
都心の中心に屹立する『鳳凰ビル』。
五重塔を模したその外観は、夕空に層を重ねるように立ち上がっている。

本来なら、外壁を巡る電子札結界が整った光を走らせ、しめ縄を象った光の帯が、塔の輪郭を静かに縁取る。だが今、その光たちは乱れていた。
金の縁が途中で裂け、再描画の軌跡が空へと引きずられている。最上階付近だけ、景色の映り込みが水面のように揺れ、低く擦れるような音が途切れず続いていた。

最上階の扉を開け、瑛が展望ロビーへ踏み込む。

靴裏に、ざらりとした抵抗。
床の表面が削れ、黒い粒子が薄く散らばっている。
回路の焦げた匂いが鼻を刺し、湿った羽毛のような臭気が喉へ絡んだ。

瑛は思わず口元を押さえて膝をついた。しかし視線を上げた瞬間、中央の空間がわずかに折れ曲がる。

そこに、二つ。

本来は一対であるはずの理(ことわり)が、引き裂かれた姿で瑛の目に飛び込んできた。

それは『比翼の鳥』の残影。

片方はビルの演算流へ食い込み、塔の骨組みへ絡みついている。
もう片方は孤立し、円を描くように旋回を続けていた。剥離した電子の羽根が床へ落ち、触れた箇所が空気を削っていく。

瑛の胸が痛む。

あれは、分かれてはいけないものだ。
対であるはずなのに、無理やり引き離されている。片方は絡め取られ、片方は置き去りにされている。

かわいそうだ、と先に思った。

羽根が頬をかすめる。ざらりとした静電気が皮膚を走った。
肺へ入る空気が重く、鼓動が速まる。

「……瑛」

背後から、朔夜の声。

瑛は振り返り、小さく頷いてから立ち上がった。呼吸を整え、視線だけを前へ残す。

「……【展開(セットアップ)】、開始。……半径一・五メートル、位相固定。……そこが安全域だ」

朔夜の声を受け、足元の空気が沈む。
勾玉イヤホン『観測(みづち)』が淡く光り、瑛の周囲に透明な境界が立ち上がった。飛来した羽根が触れ、細い火花を散らして砕ける。

「……これより外部防衛を、完全放棄する。……全演算を、深層ドメインへ移行」

躊躇うことなく、朔夜はその場で胡坐を組んだ。
膝が床に触れ、重心が落ちる。
法被の内側から漆塗りの電脳筆『千早』を抜き、狙いを定めるように穂先を綻びへ向けた。その瞳の焦点が抜け、光が消え、やがて呼吸が一定に整う。

朔夜が座り込んだまま『千早』で宙に小さく円を描くと、穂先からは青白い光の線のような、無数の筆文字のコードが広がった。

【展開】を始めた朔夜は、思考を出力とする無防備な「演算装置」と化していく。

それを見逃さない比翼の鳥の影が、巨大な翼を広げた。

孤立していた片割れが急降下し、演算流に絡まるもう一羽が強く軋む。二つの影が引き裂かれたまま暴れ、境界へ叩きつけられた。

ガラスが細く鳴る。

瑛は奥歯を噛みしめた。

「……させないよ」

迫る“片割れ”から目を離さず、瑛は背後にいる朔夜を守るように体勢を整えた。

「あんたたちの気持ちはわかるよ。……でもね。朔夜が『糸』を解き終わるまで、指一本触れさせないから!」

一歩踏み込み、重く黒光りする『護神の鉄鍋』を正面に構える。

「――【防衛と調理(ビルドアップ)】!」

鉄鍋の底が八卦の模様を描き、赤く灯る。
襲い来る羽根を受け、衝撃が瑛の腕を震わせた。回路の焦げた匂いが濃くなり、空気が熱を帯びる。だがノイズは鉄鍋の縁で削られ、やがて赤熱へ変わった。黒が赤へ転じ、光を帯びる。

瑛は桜の木でできた『八雲のオタマ』を振り、空中で回転させた。

黄金色の半球が吹き上がり、朔夜を覆う。空気中の砕けた粒子が鉄鍋へ吸い込まれ、熱が蓄積されていった。

襲いかかる漆黒の羽根を、瑛は鉄鍋の腹で受け流し、その衝撃を全て「調理の熱」へと変換する。

「少し待ってな。すぐに用意するから!」

瑛は荒ぶる翼に応えながら、持参した枯れ節を鉄鍋に放り込み、御神水を注いだ。
鍋底の八卦から伝わる熱で液体が沸き立ち、湯気が立ち昇る。回路の焦げた匂いとぶつかり、空気の質が変わる。塩気を帯びた香りが広がり、胸の締め付けがわずかに緩んだ。

この熱気は防御だけでなく、荒ぶる情念を鎮め、生命の循環を取り戻すプロセスでもある。

鉄鍋の熱量と、鼻腔をくすぐる温かな出汁の香りが広がると、比翼の影の軌道が乱れた。

「……寂しいんだろ」

瑛は、声を投げる。

「一つでいるはずだった。対で飛ぶはずだった。なのに、片方は縛られて、片方は置いていかれた」

黒い羽根の軌道が、わずかに変わる。
鋭さが薄れ、粒子が境界へ触れて静かに消えていく。

その時、朔夜の声が、空気を低く震わせた。

「……解析、完了。……これより、【糸解き(ハッキング)】を開始する」

朔夜の『観測』の勾玉が青く光る。それに合わせるように、朔夜はゆっくりと瞼を閉じた。

「……旧OS第三十五層、……『執着』の暗号化、……突破」

『千早』が空間へ線を刻むと、絡み合った綻びが可視化された。

比翼の二羽を繋いでいたはずの糸のような線が、途中で断ち切られている。片方は塔の構造へ無理に固定され、もう片方は宙へ放り出されていた。

「……分断接続、解除」

切断され縺れた線が、ほどけていく。

「……対の接点、再認識」

二羽を結んでいた本来の線が、かすかに光る。

「……再結合可能状態、確定」

朔夜は瞼を閉じたまま、目の前にいる気配へ向けた。

「……瑛。全ての結び目を解いた。……あとは……おまえが、紡げ」

瑛は鉄鍋を掲げる。

湯気が顔を打つ。

「大丈夫。……ねえ、もう寂しくないでしょ」

蒸気が影へ触れ、輪郭がわずかに揺れた。

「対は対のままでいいんだよ。……あんたたちの絆は、データじゃ消えない。……ほら、あったかいの、ここにちゃんとあるから」

仕上げの瞬間。
瑛は鉄鍋を比翼たちの元へ掲げ、癖のない芳醇な優しい香りのする「理のスープ」――『双対の黄金出汁』を、大きく宙を舞うように、オタマで振り抜いた。

「――【糸紡ぎ(理祓)】!」

黄金の飛沫が、空間全体に温かく降り注いだ。
ほどけた線が、再び編み直され、硬く結ばれる。
二つの影が引き寄せられ、重なり合っていく。

黒い影が、ほろりと崩れた。

比翼の二つの光が寄り添う。
それは小さな二羽の小鳥となり、並んで羽ばたき始めた。ガラス越しの夜景へ飛び込み、光の粒を残して、静かに夜の都心の空へ溶けていく。

これは朔夜が解きほぐした理を、瑛が浄化(リブート)して編み直す「祓い(デバッグ)」だった。

狂ったように明滅していたビルの結界は、次第に元の光を取り戻していった。
それに続き、しめ縄の光も一定の拍で巡る。

日常の姿へ戻ったことを確認すると、瑛は鍋を下ろし、額の汗を拭いながら肩で息をした。

「……ふぅ、終わった。おーい朔夜、生きてる?」

瑛がそのまま、背後の朔夜へ振り返る。が、それと同時に、朔夜の上半身が前へ傾き始めた。

「おっと危ない!」

瑛が慌てて駆け寄る。
一直線に床へ落ちる朔夜の腕を捕まえ、乱暴に体を起こし、自らの膝で支えた。

「ほら、ここで寝ないで! 朔夜を担いでこの非常階段降りるの、俺なんだからね!」

「……瑛。……演算限界だ。……今、この場での……スリープリソースすら……残って、いない……」

「は!? 待って、お願いだから家までは頑張ってよ!」

朔夜に肩を貸し、引きずるように出口へ向かう。

床の振動はすっかり収まり、比翼たちの執念が生み出した回路の焦げた匂いは薄れている。
塩気を帯びた出汁の残り香だけが、ふわりと鼻に残っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

雪嶺後宮と、狼王の花嫁

由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。 巫女として献上された少女セツナは、 封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。 人と妖、政と信仰の狭間で、 彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。 雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

処理中です...