夏の思い出

岡倉弘毅

文字の大きさ
上 下
10 / 16

感情

しおりを挟む
 落ち着かなければ。


 そう考えながらも道夫はゆきの叫びを思い出しては苛立っていた。

 ゆきの声は小さく、語尾が聞き取れなかったり、語尾しか聞き取れないことがあったが、違う男の名前を呼んでいようとは思わなかった。

 十年前名乗った際には間違いなく、道夫と言った。

 それがどうして、くにおなどという男の名が出てくるのか。

「祖父さんと同じ名前だ」

 道夫の祖父は邦夫だった。道夫が五つの年に亡くなっている。

 道夫にとっては恐ろしい存在であったと記憶している。

 覚えているのは、どういう状況だったのかはわからないが、女子供に……と怒鳴る姿。

 戦前の男尊女卑が当たり前で育った世代だから仕方はあるまいが、良い思い出は一つもない。

 ゆきの呼ぶくにおが祖父であるなら、ゆきはその時代に生きていたことになる。

 どういうことなのかがわからない。

 いや、今更わからないと悩む方がおかしいのだろう。

 今日も目が覚めると着た記憶のないパジャマを着て、食べた覚えのない冷凍食品の袋が捨てられていた。

 体は普通の生活をしているのだろう。心だけがゆきと抱き合っているのか。

 そう考えれば合点がいくような気がする。

 ゆきに実態があると考えるから理解できなくなるのだ。

 互いに魂だけで会っているのだと考えればいい。

 オカルトには興味がない。信じていな……かった……

 思い出せば、伯父の死も別荘からの帰りだった。

 毎年伯父は一人で初冬に別荘に来ていた。なんのためなのかは知らないが、毎年同じ時期に。

 その帰り、事故を起こしたのだ。

 春樹も、父親も、別荘の帰りの事故が原因だった。

 春樹は六年目、父親は三年目に場所は違えど三人ともガードレールやミラーに車をぶつけ、ほぼ即死であった。

 初冬だからと油断してノーマルタイヤで避暑地を走っていたのが原因だとされた。

 そんなだから母親は道夫が別荘に行くのを嫌がった。

 大丈夫、タイヤはスパイクに変えたし、危険だと思ったら車は置いて帰るから。と宥めて来たのだ。

 帰る……帰る? 帰らなければならない……わかっているのだけれど……

 ゆきを残して帰る? 実態がないのなら連れて帰ることはできないのだろうか?

 いや、連れて帰ったなら大変なことになるのは目に見えている。

 しかし、離れて暮らすこともできない……

 恋人を抱くと、幸せな気持ちにさせられる。愛情と思いやりに満ちたセックス……

 ゆきを抱くと、自分の知らなかった自分が顔を覗かせる。

 支配欲と暴力的な感情という……どうしようもない男の性……

 普段の道夫なら嫌悪し軽蔑するはずの感情を、楽しんでいる自分がいるのだ。

 自己嫌悪に頭を抱えた時、窓ガラスを叩く音が聞こえた。

 まだ時間は昼の一時。好天で外は眩しいほどに明るい。

 訝しがりながらもゆきが来たのだとの期待で、掃き出し窓に駆け寄ると……

「お久しぶりです、道夫さん」

 管理人の懐かしい笑顔が見えた……
しおりを挟む

処理中です...