トゲだらけの心と癒しのストリートピアノ

小池 月

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春野 豊③<SIDE:春野>

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 「良かったの?」
思い詰めた顔の潤君に問いかける。

「……お茶入れます。旅行、楽しかったです。ありがとうございました。最後にコウに会わなければ、いい気分で終わったのに」

手が震えている。何となくわかった。潤君が急に不安定になった理由。

「向き合いたくないなら、目を閉じてごらん。向き合おうと思える時まで、心の箱にしまっておこう。無理に拒絶の言葉を出さなくていい。強がることはない。そうすると、もっと自分の心を苦しめてしまうよ」

黒い瞳が俺を見る。

「拒絶なんて、そんなつもりは……。でも、そうか。コウを見るとちょっと苦しめてやろう、なんて気持ちが沸き上がっていました。その通りにすると、そのあとが苦しくなって後悔する。でも許せなくて、また苦しい」

「良ければ、何があったか聞くよ? あと、洗濯機かして。乾燥機は近くのコインランドリー寄るから」
ぷはっと笑う潤君。

「分かりました。先に回してください。今日はホテル確保していますか?」
「うん。ネット予約してあるよ」

「すこしだけ、遅くなってもいいですか? 僕の手の怪我からの話になってしまいます」
「いいよ」

簡単ですみません、とインスタント緑茶を出してくれる。二人で居間の小さな座卓を囲んでいる。

「僕、小さいころからピアノが何より好きでした。オモチャよりゲームより心がドキドキして楽しかった。上手いとか下手とか考えたこと無くて、弾いている子の思いを読み取って聴くのも楽しかった。だから、他の子が僕に嫉妬しているとか、思っていなかった。

中一の時にピアノの発表会で突き飛ばされて手首の骨折をしました。当時小学校六年だった突き飛ばした子は、謝るときにも母に隠れて気持ちのこもっていない口だけの謝罪でした。

僕はピアノが出来なくなり、絶望とピアノを弾ける人への嫉妬で毎日苦しかった。真っ黒な波に飲み込まれるような日々だった。その気持ちに向き合って、毎日を生きることに手いっぱいで友達もいなかった。

大学生になりストピの動画投稿をすることで、徐々に僕の音楽のある生活が安定してきました。そんな時、コウに会いました。コウは優しくて僕の事を優先してくれて、初めて友達がいる温かさを知ったんです。

けど、信頼できると思っていたコウが、実は僕を突き飛ばした男の子だった。本名を隠して僕に近づいて、自分の贖罪のためにだけ動いていたんだ。それが分かったとたんに、乗り越えたと思っていた黒い波が心に押し寄せるようになって。苦しくて」

話しながら涙を流す潤君を見ていた。この子は、なんて純粋なのだろう。誰もが抱える怒りや憎しみ、悲しみに流されないように踏ん張っている。そういった気持ちを黒い気持ちと表現していたのか。そりゃ、苦しいだろう。

「潤君、君の抱える黒い気持ちは、人なら誰もが持つと思うよ。裏切られたり、捨てられたり。潤君だけじゃない。それぞれが、そういう苦しさと向き合っている。潤君と同じ状況になったら人によってはコウ君を殴り倒して、憎しみをぶつけて復讐する人もいるだろう。潤君はそういう風に考えたこと、ある?」

春野を見る顔が驚きを訴えている。

「え? 復讐、とか、全然、そんな……」

「じゃぁ、コウ君が憎らしくて死んでしまえ、とか考えないの?」

「そんなこと、考えたことなんてありません。憎い、とは違うような」

「じゃ、怒りをぶつけたい、とかは?」

「怒り、なのかな。言葉にしてみると怒りにも近い気持ち、かな」

「潤君は、コウ君を傷つけたいわけじゃないだろう。もし、コウ君が反省した証として自殺してしまったら、君はスッキリするかい?」

目を見開いて全身をビクリと震わせる。

「そんな! そんなこと、望んでいません。どうしよう。そんなことになったら、そんなの考えていなかった」

潤君の手が震える。そっと、その手を包む。冷たい長い指。細いけれど骨のしっかりした手だ。

「うん。潤君の黒い気持ちは相手を苦しめたいという攻撃的なモノじゃないんだね。一つ、解明したね」

「はい。コウを苦しめたい気持ちじゃないのは確かです。でも、許せない気持ちが沸き上がってきて。これは、何だろう」

「急にすべては分からないかもね。でも、一歩前進だ」

コクリと頷く顔は前ほど暗い表情じゃなかった。
「ちなみにさ、コウ君の気持ちとか、本人から聞いたりした?」

「……していません」

「じゃ、コウ君が罪を隠して君に近づいた経緯は分からないままなんだね。贖罪のためだった、とか全部憶測かな?」

「……そう、ですね。僕の、憶測です」

「そうか。じゃ、コウ君の本心に耳を傾けて、潤君の苦しさをコウ君に伝える事が必要かもしれないね」

何かに気が付いたように考えている潤君。

「一人で乗り越えられない時は、人の手助けがあると気持ちが楽になる事がある。俺は潤君を支えていくよ。そして、潤君にも周りを支えてあげて欲しい」

「僕は、支えるような周りの人が居ません」

「いるよ。君のピアノを聴いている人だ。誰でも苦しい気持ちが、ふと楽になる瞬間ってある。それが人と会話することだったり、食べることだったり人それぞれだよね。世の中の黒い波に飲み込まれそうで踏ん張っている人の心を、潤君のストピは思いがけず軽くしてくれるんだ。

土曜日に駅ピアノの周りで君を待っている人もいる。ユーチューブを楽しみにしている人もいる。だから聞く人に、心が救われますように、と願いを込めて弾いてほしいな。そして、そんな音楽をCM起用していきたい」

「……前より春野さんの言っている意味が分かってきました。頑張りたいって気持ちになりました。今日は話が出来て良かったです」

にっこり微笑む潤君の頭をナデナデすると、僕は大人です、と笑いながら逃げる潤君。可愛らしくて、抱きしめてキスをしたかった。


 少し弾きたい、と部屋のピアノに向かう潤君。薄っすらと溜まったホコリを払って、しばらく触っていなかったと照れ笑いする。

ピアノの前に座る潤君が深呼吸して、姿勢を正す。その後姿に心臓がドキドキと震えだす。すっと伸びる首。首後ろに薄く俺が付けたキスマーク。潤君が温泉でのぼせて寝た後に、そっとつけた。本人は気づいていない。それも全て、美しい。

 空気に溶け込むような音楽。モーツァルトのキラキラ星変奏曲。潤君が前向きになっている。どんな言葉より音楽がそれを伝えてくれる。こっそり録音していて良かった。近くで聴く感動と垣間見える煌きに涙が滲む。潤君が希望を見出しているのが音に混ざって分かる。良かった。続いて、リストのラ・カンパネラ。鐘が空に届くよう。

「少し手が動かなくなっています。ちょっと思うように弾けなかった」

照れたように話す潤君を、そっと抱きしめた。この感動が伝わると良い。君は輝いている。腕の中で少し緊張している潤君をそのまま春野のものにしてしまいたかった。



 潤君の家から出ると、外にコウ君が居た。

「ピアノ、潤があなたに弾いたんですか?」

睨むような姿勢。彼も抜け出せない沼にはまっているんだろうな。潤君なら助けるけれど、君は自分で何とかしろ。

「俺に敵対心を持つより、君はすべきことがあるだろう」
「あんたに関係ない!」

「興奮するなよ。お前は心を込めて潤君に謝罪したのか? 伝える勇気もない奴がストーカーみたいな行動するな。チラチラ存在を見せるなよ。潤君の、邪魔だ」

大人の威厳で言い切ってやる。お前が潤君の手をダメにした。こいつが自分のしたことに向き合い、潤君に誠意を込めて向き合っていれば、彼はこれほど悩むことは無かった。

急に目の前に現れ理解に苦しむ行動をして苦しめているのは、こいつだ。全てをさらけ出して謝る行動も出来ない情けない奴だ。目の前で震える高木晃を一瞥する。

「潤君から音楽も夢も全て奪って満足か? 逃げ続けて今更、許されると思うのか? お前の苦しみと潤君の苦しみは全然違う。潤君は奪われても、悩んでも前に向かう勇気と煌きがある。人を惹きつける。潤君はお前とは違う。もう近づくな」

目の前の青年が傷ついているのは分かる。自分の罪を自覚しながら潤君に会いたい気持ちは抑えられないのか。幼いな。彼の若さが痛々しい。そう思うが春野は欲しいものを譲るつもりはなかった。

「あんたは一体何なんだ。これは俺と潤の問題だ」

「そうでもない。潤君が俺に相談した時点で俺の問題でもある。それに俺は潤君が欲しい。手に入れたい。俺は、ライバルは蹴落とす主義だ」

目線のそう変わらない大きなコウ君が、はっと春野を見る。

「君は、潤君が好きか?」
一瞬、息を飲むコウ君。口を震わせている。

「コウ君。即答できないような半端な気持ちなら、もう潤君に関わるのは辞めるんだ」

諦めろ。潤君がコウ君に向き合う気が起きた時、こいつが消え去っていれば丸く収まる。春野がその心の隙に入り込める。

「嫌だ」

「は?」

「俺は、潤が大好きだ。俺の思いは潤だけに伝えたかった。でも、今引いたらアンタに負ける気がする。色々、アンタの言う通りで悔しい。だけど、俺なりに考える。俺は自分の罪を知らずに生きて来た。その分、どこまでも苦しむ覚悟はできている」

さっきとは違い正面から春野を見る瞳。ダメな若者だと思っていたけれど骨がありそうだ。ただのバカじゃないってことか。

「そうか。じゃ、潤君を巻き込まないように頑張れよ」

「あんた、名前は?」

「春野豊。普通のサラリーマンだよ。今後ともよろしくね、高木晃君」

お前の罪は知っているぞ、とでも言うようにコウ君の本名を言う。意地が悪い大人で悪いね。少し余裕を見せつけて、彼の横を通り過ぎた。震える彼を見て、また「若いなぁ」と思った。
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