18 / 19
Main Story
王子様の弱点
しおりを挟む
「終わっ……たぁ~」
思い切り伸びをして、凝り固まっていた背中や腕の緊張を解いた。窓の外はすでに暗く、遠くの建物の明かりが見える。今何時だ、と時計を確認すると、九時過ぎ。定時から三時間は経過している。
急遽舞い込んできた仕事のせいで俺は残業を余儀なくされた。覚悟はしていたが、思ったより時間がかかった。うちの部署では俺が最後だ。
パソコンの電源を落とし、戸締りを確認して荷物を持つ。フロアの鍵は残業を決めたときに預かっている。フロアの鍵を閉めたら、あとはこれを常駐の警備員がいる管理室に返してさっさと帰るだけだ。俺はもう一度電気の確認をした後、鍵を閉めて管理室へと向かった。
警備員に社員証を見せて、鍵を返す。俺の社員証を見て、警備員は意外そうな顔をした。残業自体はよくするが、鍵を返すまでの残業は久しぶりだからだろう。
「はい、お疲れさん」
社員証を返し、俺から鍵を受け取った警備員は俺に労いの言葉をかけた後、ニヤリと笑った。なんで笑ってんだ、と思っていると、どうやら顔に出ていたらしく。
「お待ちかねだよ」
と、警備員は言葉を付け足し、出口を指して言った。そう言われても何のことかピンと来ない。まあ、ここで長話をする気力もないし、気にしないで帰ることにしよう。適当に相槌を打って会社を出た。その瞬間。
「遅いっ!」
なんともまあ聞き覚えのある声に、俺はいきなり叱咤されたのである。
「……妃芽」
ここでようやく、警備員の「お待ちかね」の意味を理解する。妃芽の言葉から察するに、どうやら俺のことを待っていたらしい。って、いつから。
「お前、いつから……」
「残業だって知らなかったから、最初からよ!」
ふん、と鼻を鳴らしながら妃芽は言う。最初から、ということは三時間近く前ということだ。おいおい、威張って言うことじゃないだろうが。
寒い時期じゃなかったとはいえ、こんな時間に一人で──まあ、警備室のすぐそばだからまだマシだったかもしれないが──外にいるなんて。何かあったらどうすんだよ。妃芽の身に何かがあって、その原因が俺にあるとしたら、最悪俺の首が飛ぶ。
「何してんだよお前はよー……」
「そんな言い方ないじゃない。せっかく待っててあげたのに」
「待っててなんて頼んでないだろ」
思わず、棘のある言い方になる。言った後にしまった、と思ったがもう遅い。ちらりと妃芽の様子を窺うと、唇を固く噛みしめて俯いてしまっている。あー、やっちまった。今更取り繕っても無駄だとは思うが、言葉を付け足す。
「俺に用事あるんなら、気づかなかったかもしれねーけど、携帯に連絡するとか、また明日にするとか……ていうか、いつもみたいに家で待ってりゃよかったろ」
自分から家に来いと言っているようで気が引けるが、ここで待たれるよりはマシだ。すると妃芽は、俺をキッと睨みつけるように顔を上げた。
「仕事の邪魔になるかと思ったから連絡しなかったの。でも、一回だけ電話したけど、ヒトシさん出なかったじゃん」
「え」
慌ててカバンに入れっぱなしだった携帯を確認する。確かに、八時過ぎごろに妃芽からの着信が一度だけ入っている。案の定気づいてないじゃねーか、俺。それに、あえて連絡を入れなかったのだって、妃芽なりの気遣いだったというわけだ。うわ、さっきから俺、失言を繰り返している。
「ヒトシさんちに合鍵忘れちゃったから、家にも行けないし。それを取りに行かせてもらおうと思って、ここで待ってたんだもん……」
「そ、そうだったのか、そりゃあ悪かっ……」
「そりゃ頼まれてないけど……私がしたかったんだもん。そんな言い方しなくたっていいじゃん……」
少し声が震えている。瞳にはジワリと薄い膜が張り始めていて、今にもこぼれそうだった。間に合わなかった。
妃芽は、泣きそうになると唇を噛みしめる。プライドが高い性格からなのか、泣くのを我慢しようとしてああいう表情になるらしい。と、いうのはこの13年で学んだ。しかし、何が原因で涙のスイッチが入ってしまうのかは、未だにわからない。でもそれは大抵、俺の何の気なしに放った言葉だったりする。それにいつも、泣かれてから気づく。何の気なしに言っているものだから、事前に防ぎようもないのだ。
それと、あと一つ言えることは──俺は妃芽の涙には、どうにも弱いということだ。もともと女子供の涙は不得手だが、妃芽の涙は殊更、妃芽を誘拐した時のことを思い出して、必要以上に心がざわついてしまう。だから、俺が涙を流す妃芽にできることと言ったら、それを止めるために、ひたすら謝ることぐらいだ。
「悪かったよ……待っててくれてありがとな。だから泣くなよ、な?」
妃芽の涙は止まらない。ああもう。
「わかった、帰りにコンビニ寄ろう。なんかデザートでも買ってやるから。な?」
「……」
「それと、ほら。あとで今日の分埋め合わせするからさ。三時間は待たせたんだし、その時間分くらいは。な?」
「……ほんと?」
ようやく顔を上げた妃芽。その目にはまだ涙が溜まっている。その顔で見つめられてぎくりとする。
「する! だから泣き止め。な?」
そう言うと、妃芽は自分のポケットからハンカチを取り出してその涙を拭った。まだ少し目は赤いが、ポロポロと涙をこぼされているよりはいい。ホッとして、肩の力が抜ける。
「……見たかった映画がある」
「わかった。次の休みの時でいいか?」
「うん。……約束だからね」
「わかってるって」
我慢しているところを見るに、嘘泣きではないんだろうけど……やっぱりちょっとずるいよな、と思う。涙は女の武器と言うけど、まさにその通りだ。俺はこの妃芽の涙に勝てたことがない。
「コンビニは、いつものとこじゃなくて大通りのほうのコンビニね」
「……遠回りなんだが」
「そっちのコンビニじゃないと売ってないの」
「へーへー。どこまでも付き合いますよ」
言ってしまったものは仕方がない。妃芽の気が済むまで付き合おう。
妃芽の見たい映画とやらが恋愛ものでないことを祈りながら、俺は妃芽と一緒に帰路についた。
思い切り伸びをして、凝り固まっていた背中や腕の緊張を解いた。窓の外はすでに暗く、遠くの建物の明かりが見える。今何時だ、と時計を確認すると、九時過ぎ。定時から三時間は経過している。
急遽舞い込んできた仕事のせいで俺は残業を余儀なくされた。覚悟はしていたが、思ったより時間がかかった。うちの部署では俺が最後だ。
パソコンの電源を落とし、戸締りを確認して荷物を持つ。フロアの鍵は残業を決めたときに預かっている。フロアの鍵を閉めたら、あとはこれを常駐の警備員がいる管理室に返してさっさと帰るだけだ。俺はもう一度電気の確認をした後、鍵を閉めて管理室へと向かった。
警備員に社員証を見せて、鍵を返す。俺の社員証を見て、警備員は意外そうな顔をした。残業自体はよくするが、鍵を返すまでの残業は久しぶりだからだろう。
「はい、お疲れさん」
社員証を返し、俺から鍵を受け取った警備員は俺に労いの言葉をかけた後、ニヤリと笑った。なんで笑ってんだ、と思っていると、どうやら顔に出ていたらしく。
「お待ちかねだよ」
と、警備員は言葉を付け足し、出口を指して言った。そう言われても何のことかピンと来ない。まあ、ここで長話をする気力もないし、気にしないで帰ることにしよう。適当に相槌を打って会社を出た。その瞬間。
「遅いっ!」
なんともまあ聞き覚えのある声に、俺はいきなり叱咤されたのである。
「……妃芽」
ここでようやく、警備員の「お待ちかね」の意味を理解する。妃芽の言葉から察するに、どうやら俺のことを待っていたらしい。って、いつから。
「お前、いつから……」
「残業だって知らなかったから、最初からよ!」
ふん、と鼻を鳴らしながら妃芽は言う。最初から、ということは三時間近く前ということだ。おいおい、威張って言うことじゃないだろうが。
寒い時期じゃなかったとはいえ、こんな時間に一人で──まあ、警備室のすぐそばだからまだマシだったかもしれないが──外にいるなんて。何かあったらどうすんだよ。妃芽の身に何かがあって、その原因が俺にあるとしたら、最悪俺の首が飛ぶ。
「何してんだよお前はよー……」
「そんな言い方ないじゃない。せっかく待っててあげたのに」
「待っててなんて頼んでないだろ」
思わず、棘のある言い方になる。言った後にしまった、と思ったがもう遅い。ちらりと妃芽の様子を窺うと、唇を固く噛みしめて俯いてしまっている。あー、やっちまった。今更取り繕っても無駄だとは思うが、言葉を付け足す。
「俺に用事あるんなら、気づかなかったかもしれねーけど、携帯に連絡するとか、また明日にするとか……ていうか、いつもみたいに家で待ってりゃよかったろ」
自分から家に来いと言っているようで気が引けるが、ここで待たれるよりはマシだ。すると妃芽は、俺をキッと睨みつけるように顔を上げた。
「仕事の邪魔になるかと思ったから連絡しなかったの。でも、一回だけ電話したけど、ヒトシさん出なかったじゃん」
「え」
慌ててカバンに入れっぱなしだった携帯を確認する。確かに、八時過ぎごろに妃芽からの着信が一度だけ入っている。案の定気づいてないじゃねーか、俺。それに、あえて連絡を入れなかったのだって、妃芽なりの気遣いだったというわけだ。うわ、さっきから俺、失言を繰り返している。
「ヒトシさんちに合鍵忘れちゃったから、家にも行けないし。それを取りに行かせてもらおうと思って、ここで待ってたんだもん……」
「そ、そうだったのか、そりゃあ悪かっ……」
「そりゃ頼まれてないけど……私がしたかったんだもん。そんな言い方しなくたっていいじゃん……」
少し声が震えている。瞳にはジワリと薄い膜が張り始めていて、今にもこぼれそうだった。間に合わなかった。
妃芽は、泣きそうになると唇を噛みしめる。プライドが高い性格からなのか、泣くのを我慢しようとしてああいう表情になるらしい。と、いうのはこの13年で学んだ。しかし、何が原因で涙のスイッチが入ってしまうのかは、未だにわからない。でもそれは大抵、俺の何の気なしに放った言葉だったりする。それにいつも、泣かれてから気づく。何の気なしに言っているものだから、事前に防ぎようもないのだ。
それと、あと一つ言えることは──俺は妃芽の涙には、どうにも弱いということだ。もともと女子供の涙は不得手だが、妃芽の涙は殊更、妃芽を誘拐した時のことを思い出して、必要以上に心がざわついてしまう。だから、俺が涙を流す妃芽にできることと言ったら、それを止めるために、ひたすら謝ることぐらいだ。
「悪かったよ……待っててくれてありがとな。だから泣くなよ、な?」
妃芽の涙は止まらない。ああもう。
「わかった、帰りにコンビニ寄ろう。なんかデザートでも買ってやるから。な?」
「……」
「それと、ほら。あとで今日の分埋め合わせするからさ。三時間は待たせたんだし、その時間分くらいは。な?」
「……ほんと?」
ようやく顔を上げた妃芽。その目にはまだ涙が溜まっている。その顔で見つめられてぎくりとする。
「する! だから泣き止め。な?」
そう言うと、妃芽は自分のポケットからハンカチを取り出してその涙を拭った。まだ少し目は赤いが、ポロポロと涙をこぼされているよりはいい。ホッとして、肩の力が抜ける。
「……見たかった映画がある」
「わかった。次の休みの時でいいか?」
「うん。……約束だからね」
「わかってるって」
我慢しているところを見るに、嘘泣きではないんだろうけど……やっぱりちょっとずるいよな、と思う。涙は女の武器と言うけど、まさにその通りだ。俺はこの妃芽の涙に勝てたことがない。
「コンビニは、いつものとこじゃなくて大通りのほうのコンビニね」
「……遠回りなんだが」
「そっちのコンビニじゃないと売ってないの」
「へーへー。どこまでも付き合いますよ」
言ってしまったものは仕方がない。妃芽の気が済むまで付き合おう。
妃芽の見たい映画とやらが恋愛ものでないことを祈りながら、俺は妃芽と一緒に帰路についた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる