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シンデレラ
04 差し伸べられた手
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コトリ、と目の前にマグカップを置かれた。マグからは湯気が出ていて、ほのかにいい匂いもする。紅茶にはあまり詳しくない礼奈だが、それが上等の物であることはすぐにわかった。「いただきます……」と消え入りそうな声で言った後、それを一口含んだ。染み入るようなそのぬくもりに、礼奈は思わず息を漏らす。
保健室に入ってすぐにタオルを渡され、濡れた身体はさっきよりは乾いている。スカートとワイシャツは暖房の前で乾かしているため、礼奈は今は法子の白衣を羽織っている。
「あの……すみませんでした」
「こういう時はありがとうございましたって言われた方が気持ちがいいわね」
「……ありがとう、ございました」
「どういたしまして」
法子はにこりと笑った。嫌みのないその笑顔に、つい見とれてしまう。女の礼奈でも見とれてしまうのだから、男子が放っておかないのもわかる気がした。
「そろそろ乾いたかしらね」
法子は礼奈の服を触って確認しながら呟いた。確かに制服からは水分はなくなったように見える。法子は、礼奈があんな格好になっていたわけを本当に聞いてこない。それが逆に苦しくもあった。先生に“チクった”ことが彼女たちにばれたら余計ひどいことをされるかもしれないが、こんな風に中途半端に優しくされて何も変わらないくらいなら、突き放してくれた方がいい。
「何で何も聞いてくれないのって顔してるわね」
「!!」
読心術でも使えるのかと思うくらいには動揺した。彼女の言葉はまさに図星で、図星だからこそ、浅ましい考えをしていることが恥ずかしくなった。聞くな、という態度を取ったのは礼奈自身なのに。
「さっきも言ったけど、私は詮索しないわ。あなたが話そうとしない限りはね」
そう言いながら、法子は自分の分の紅茶に口づけた。本当に、法子は何も聞かないつもりらしかった。その凛とした態度に、ぐっと言葉を飲み込むしかなかった。話してもいいのだろうか。教師に相談したところで、何の解決にもならなかったことは多々ある。それを思い出して、喉の奥がぎゅうっと締め付けられるような感覚に陥った。
──でも……。
そういう教師に限って、“何か悩み事? 大丈夫? 話してごらん?”と声をかけてくることが多い。その割に、礼奈のことをしかったり、いじめっ子の話をあっさり信じてしまうのである。しかし、法子はそうではなかった。凛としていて、かといって突き放すわけでもなくて。この人になら、もしかしたら。
「……あのっ……、わ、私──」
言葉を吐き出し始めてしまえば、それが体内から漏れ出るのはあっという間だった。
* * *
法子は礼奈の話を何も言わずに聞いていた。ちゃんと聞いてくれているのか不安になって何度か顔を上げると、その目は真っ直ぐ礼奈を捉えていて、その度に礼奈はほっとして話を再開した。法子は手にしていたマグカップをテーブルにコトリ、と置く。どんな言葉が降ってくるかと身構えた礼奈にかけられたのは、予想もしていなかった言葉だった。
「──それで、あなたはどうしたい?」
「……え?」
「辛かったね」とか、「よく話してくれたね」とか、お決まりな言葉が返ってくると思っていた礼奈は、法子のその問いには驚かされた。そして、それと同時に戸惑いを隠しきれなかった。『どうしたい』かなんて、考えたことがなかった。彼女たちにいろいろいたずらをされているときも、時間が早く過ぎることを祈るだけだった。『どうするべきか』を、この人が教えてくれると思っていた。そのためにこうやって話したのに。
そこまで考えたところで、礼奈は気づいてしまった。最初から、自分の意志なんてなかったのだ。
「……わ、私……」
震えるような声で呟くと同時に、校庭の方でやたらと騒がしい歓声が聞こえた。そして、マイク越しの声がここまで届く。どうやら、校庭の特設ステージ──ミスター豊木コンテストが始まった音らしかった。
「文化祭もいよいよって感じね」
独り言のように法子が呟いた。外からの歓声は聞こえてくるものの、保健室の中はやけに静かに感じられて、礼奈はまた、世界から取り残されたような錯覚に陥った。校庭の歓声が遠い。
「……さっきのは少し、意地悪な質問だったかしら」
思い出したように法子が言った。そう言えば、さっきの質問に答えられていない。法子は、じっと礼奈のことを見つめた。
「じゃあ、質問を変えるわ。あなたは──」
法子の視線が、礼奈を射る。その鋭く光るような視線に、礼奈は動けなくなった。
「変わりたいと思う?」
「……っ!」
いつも、切り離された世界から、向こう側を眺めていた。向こう側はいつも、きらきらと輝いていて、目を細めないと見れないくらいで。そんな明るい所に出たら、惨めな自分を隠しきれない。なら、暗い所にいればいい。暗い所で、じっと、時がすぎるのを待てばいい。そうやって自分に言い聞かせて、日々を過ごしていた。私とは違う、私には手が届かないと自分に言い聞かせて、見ないふりをしていた。気にしていないふりをしていた。
──だけど。
いつも心のどこかで期待していた。何か奇跡みたいなことが起きて、向こう側に行けることを。ただ望むだけ。ただ祈るだけ。でも、そもそもそれを『奇跡』だと思っている時点で、かなうわけがない。灰色の日々を送るのは、もう嫌だ。
「私っ……変わりたい」
手が届かないんじゃない。手を伸ばそうとしなかった。
「本当は、文化祭だって、心から楽しみたいっ……! あんな人たちに負けたくないっ!」
文化祭だって、参加したい。普通の女子高生らしく、友達と遊んだり、恋だってしたりしたい。それさえ諦めて、手放した。きっと今までもこの日々から脱却するチャンスはあったはずなのに。
「先生……! 私、変わりたい、ですっ……!」
今日がそのチャンスなのだとしたら──今度こそ掴んで、離したくない。
「その言葉が聞きたかったわ」
ニッ、と口端をつり上げて法子は笑った。待ってましたと言わんばかりのその顔に、礼奈はなんだか恥ずかしくなる。すると、法子は立ち上がって、礼奈のすぐ横に移動した。おもむろにその手が礼奈の髪に触れる。
「長くて綺麗な髪じゃない。巻いてもいいと思うわ。それに、目も、綺麗な二重なんじゃない。前髪で隠してしまうのはもったいないわね」
「え、えと……」
早口でまくしたてるように言われて、何がなんだかわからない。しかし、「綺麗」という自分とはほど遠い単語が二回発されたことはわかった。
「私が、綺麗……?」
独り言のように呟くと、法子は返事の代わりににこりと微笑んだ。その瞬間、法子が耳につけていたこぶりのイヤリングが揺れて、女ながらにどきりとした。「綺麗」なんて言葉、こういう人のために使うのだ。自分とはほど遠い言葉。それなのに、こんなにも嬉しいなんて。
「あら、女の子はみんな綺麗なのよ? あなたは輝き方を知らないだけ」
そして、法子はデスクのほうに移動し、引き出しの中から私物と思わしき鞄を取り出した。ぽかんとそれを眺めていると、その鞄の中からは、ゾロゾロとメイク道具やヘアアイロン、アクセサリーや香水など、その鞄によく入ったなというくらいのものが出てきた。礼奈はそれを呆気にとられながら見ているよりほかなかったのだが、法子はおかまいなしにバチリとウインクをした。
「今日は文化祭だから、特別よ」
法子の言葉は、礼奈の胸にスッと入り込んで、礼奈の心を落ち着かせたのだった。
「私があなたに魔法をかけてあげる」
* * *
保健室に入ってすぐにタオルを渡され、濡れた身体はさっきよりは乾いている。スカートとワイシャツは暖房の前で乾かしているため、礼奈は今は法子の白衣を羽織っている。
「あの……すみませんでした」
「こういう時はありがとうございましたって言われた方が気持ちがいいわね」
「……ありがとう、ございました」
「どういたしまして」
法子はにこりと笑った。嫌みのないその笑顔に、つい見とれてしまう。女の礼奈でも見とれてしまうのだから、男子が放っておかないのもわかる気がした。
「そろそろ乾いたかしらね」
法子は礼奈の服を触って確認しながら呟いた。確かに制服からは水分はなくなったように見える。法子は、礼奈があんな格好になっていたわけを本当に聞いてこない。それが逆に苦しくもあった。先生に“チクった”ことが彼女たちにばれたら余計ひどいことをされるかもしれないが、こんな風に中途半端に優しくされて何も変わらないくらいなら、突き放してくれた方がいい。
「何で何も聞いてくれないのって顔してるわね」
「!!」
読心術でも使えるのかと思うくらいには動揺した。彼女の言葉はまさに図星で、図星だからこそ、浅ましい考えをしていることが恥ずかしくなった。聞くな、という態度を取ったのは礼奈自身なのに。
「さっきも言ったけど、私は詮索しないわ。あなたが話そうとしない限りはね」
そう言いながら、法子は自分の分の紅茶に口づけた。本当に、法子は何も聞かないつもりらしかった。その凛とした態度に、ぐっと言葉を飲み込むしかなかった。話してもいいのだろうか。教師に相談したところで、何の解決にもならなかったことは多々ある。それを思い出して、喉の奥がぎゅうっと締め付けられるような感覚に陥った。
──でも……。
そういう教師に限って、“何か悩み事? 大丈夫? 話してごらん?”と声をかけてくることが多い。その割に、礼奈のことをしかったり、いじめっ子の話をあっさり信じてしまうのである。しかし、法子はそうではなかった。凛としていて、かといって突き放すわけでもなくて。この人になら、もしかしたら。
「……あのっ……、わ、私──」
言葉を吐き出し始めてしまえば、それが体内から漏れ出るのはあっという間だった。
* * *
法子は礼奈の話を何も言わずに聞いていた。ちゃんと聞いてくれているのか不安になって何度か顔を上げると、その目は真っ直ぐ礼奈を捉えていて、その度に礼奈はほっとして話を再開した。法子は手にしていたマグカップをテーブルにコトリ、と置く。どんな言葉が降ってくるかと身構えた礼奈にかけられたのは、予想もしていなかった言葉だった。
「──それで、あなたはどうしたい?」
「……え?」
「辛かったね」とか、「よく話してくれたね」とか、お決まりな言葉が返ってくると思っていた礼奈は、法子のその問いには驚かされた。そして、それと同時に戸惑いを隠しきれなかった。『どうしたい』かなんて、考えたことがなかった。彼女たちにいろいろいたずらをされているときも、時間が早く過ぎることを祈るだけだった。『どうするべきか』を、この人が教えてくれると思っていた。そのためにこうやって話したのに。
そこまで考えたところで、礼奈は気づいてしまった。最初から、自分の意志なんてなかったのだ。
「……わ、私……」
震えるような声で呟くと同時に、校庭の方でやたらと騒がしい歓声が聞こえた。そして、マイク越しの声がここまで届く。どうやら、校庭の特設ステージ──ミスター豊木コンテストが始まった音らしかった。
「文化祭もいよいよって感じね」
独り言のように法子が呟いた。外からの歓声は聞こえてくるものの、保健室の中はやけに静かに感じられて、礼奈はまた、世界から取り残されたような錯覚に陥った。校庭の歓声が遠い。
「……さっきのは少し、意地悪な質問だったかしら」
思い出したように法子が言った。そう言えば、さっきの質問に答えられていない。法子は、じっと礼奈のことを見つめた。
「じゃあ、質問を変えるわ。あなたは──」
法子の視線が、礼奈を射る。その鋭く光るような視線に、礼奈は動けなくなった。
「変わりたいと思う?」
「……っ!」
いつも、切り離された世界から、向こう側を眺めていた。向こう側はいつも、きらきらと輝いていて、目を細めないと見れないくらいで。そんな明るい所に出たら、惨めな自分を隠しきれない。なら、暗い所にいればいい。暗い所で、じっと、時がすぎるのを待てばいい。そうやって自分に言い聞かせて、日々を過ごしていた。私とは違う、私には手が届かないと自分に言い聞かせて、見ないふりをしていた。気にしていないふりをしていた。
──だけど。
いつも心のどこかで期待していた。何か奇跡みたいなことが起きて、向こう側に行けることを。ただ望むだけ。ただ祈るだけ。でも、そもそもそれを『奇跡』だと思っている時点で、かなうわけがない。灰色の日々を送るのは、もう嫌だ。
「私っ……変わりたい」
手が届かないんじゃない。手を伸ばそうとしなかった。
「本当は、文化祭だって、心から楽しみたいっ……! あんな人たちに負けたくないっ!」
文化祭だって、参加したい。普通の女子高生らしく、友達と遊んだり、恋だってしたりしたい。それさえ諦めて、手放した。きっと今までもこの日々から脱却するチャンスはあったはずなのに。
「先生……! 私、変わりたい、ですっ……!」
今日がそのチャンスなのだとしたら──今度こそ掴んで、離したくない。
「その言葉が聞きたかったわ」
ニッ、と口端をつり上げて法子は笑った。待ってましたと言わんばかりのその顔に、礼奈はなんだか恥ずかしくなる。すると、法子は立ち上がって、礼奈のすぐ横に移動した。おもむろにその手が礼奈の髪に触れる。
「長くて綺麗な髪じゃない。巻いてもいいと思うわ。それに、目も、綺麗な二重なんじゃない。前髪で隠してしまうのはもったいないわね」
「え、えと……」
早口でまくしたてるように言われて、何がなんだかわからない。しかし、「綺麗」という自分とはほど遠い単語が二回発されたことはわかった。
「私が、綺麗……?」
独り言のように呟くと、法子は返事の代わりににこりと微笑んだ。その瞬間、法子が耳につけていたこぶりのイヤリングが揺れて、女ながらにどきりとした。「綺麗」なんて言葉、こういう人のために使うのだ。自分とはほど遠い言葉。それなのに、こんなにも嬉しいなんて。
「あら、女の子はみんな綺麗なのよ? あなたは輝き方を知らないだけ」
そして、法子はデスクのほうに移動し、引き出しの中から私物と思わしき鞄を取り出した。ぽかんとそれを眺めていると、その鞄の中からは、ゾロゾロとメイク道具やヘアアイロン、アクセサリーや香水など、その鞄によく入ったなというくらいのものが出てきた。礼奈はそれを呆気にとられながら見ているよりほかなかったのだが、法子はおかまいなしにバチリとウインクをした。
「今日は文化祭だから、特別よ」
法子の言葉は、礼奈の胸にスッと入り込んで、礼奈の心を落ち着かせたのだった。
「私があなたに魔法をかけてあげる」
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