ヒトガタの命

天乃 彗

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ラブドール

04

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 その夜から毎晩、父はサラの部屋にやってくるようになった。最初は抵抗していたサラだったが、抵抗すると暴力を振るわれた。抵抗するのを諦めてされるがままになったサラで、父は思う存分性欲処理をした。
 母に相談してみよう。そう考えたのは、その生活がしばらく続いてからだった。もしかしたら、なんとかしてくれるかもしれない。サラに対して厳しいだけの母だが、こんな状況なら力になってくれるかもしれないと思ったのだ。

『お母様……あの、そ、相談があるのですが』
『勉強以外のお話なら、聞きませんよ』
『……そんな……っ』

 ツカツカと歩いていってしまいそうになる母の服を思わず掴んでしまう。訝しげな顔をされたが、後には引けない、と思った。

『お、お父様のことです! お父様が、私の──』

 言いかけたところで、母はすごい形相をした。怒ったような、嫌悪のような、なんとも形容し難い表情だった。まだ事の全貌を言ってないうちからそんな顔をされると思わなくて、呆気に取られる。思わず手の力を緩めてしまうと、母が思い切りサラのことを振りほどき、サラを置いて部屋に戻ってしまった。

『……』

 一人取り残されて、サラは悟った。きっと母は、知っているのだ。この家の品格や世間体を一番に気にしている母。乱暴な話、性欲の処理なら女を雇えば済む話だ。外に女を作ることも可能なはずだ。しかし、母はそれを許さなかったのだろう。父のそんな行動が公に出たら困るのは母だ。だから知っていて黙っているのだ。家の中のことだったら外に出る前に揉み消せる。
 母は娘の私を犠牲にして、世間体を守っているのだ。

『……ふふ、ふふふ。あははははははは。あははははははははははは!』

 笑えば笑うほど、涙が零れた。

──私の意思なんて、どこにもなかったのだ。最初から。

 そう考えたら次から次へと涙が出て、止まらなくなった。


 * * *


 浴場で、サラは湯に浸かりながら考えていた。また、今日も父は部屋にやって来るだろう。真夜中にこっそりと、音を立てないように。どうしたらいいのだろう。抵抗したら殴られる。どうしたら……。
 ハッとした。浴場の窓。もともと換気用に作られた窓であるから小さいが、サラくらいの体格ならギリギリ通れるくらいの大きさだ。ゴクリ、と息を飲んだ。
 ここからなら、誰にも気づかれることなく、出られる──? 

 サラは、音を立てないようにその窓を開けた。夜の冷たい風が浴場を通り抜けて、ブルリと身震いした。脱衣所で身体を丁寧に拭いてから、さっと着替える。下着として何時も着ている白いワンピース一枚。心もとないが、いろいろ着込んだらあの窓は通れない。サラは脱衣所からワンピースのまま浴場に戻り、その窓から外に出た。外は真っ暗で、何も見えない。でも、行かなければ。

 サラは走った。裸足のまま、無我夢中で走った。小石で足が切れる。痛いが、父に殴られるのよりは痛くない。母に見捨てられた心よりは痛くない。とにかく遠くへ。走って、走って、あの家から逃げなければ。そうしないと、私は一生あのままだ。
 時折、追われてないか後ろを見ながら走った。見つかったらどうなるかわからない。怖い。怖い。でも、あのままあの家にいるのも怖い。フラフラの足で、時折転びながら、サラは走った。涙も出た。

 痛い。痛い。痛いのは身体? それとも──。
 そんなこともわからなくなるほど夢中でサラは夜の街を駆けた。走って、走って、のちに全てのことがわからなくなってしまうことなんて、この時はまだ知らないままで。


 * * *


 思い出した。全て。忌々しい記憶も、父の肌の感覚も。思い出してしまって、強烈な吐き気に襲われた。サラはそのままセンの部屋を飛び出した。ペパベールはそれを止めなかった。サラはとにかく駆けて、路地に入り込んで胃の中のものを全部吐いた。

「ぅえッ……ゲホッおぇっ……おぇぇ」

 気持ちが悪い。呼吸も荒く、嫌な汗が全身から吹き出して、身体の震えが止まらない。荒く深呼吸をしてから、サラは自分の記憶を一つ一つ確認していく。

「……私の名前はサラ。サラ・アルピナ。12歳。アルピナ財閥の一人娘だった……」

 全て思い出した。歳も、名前も、何故こんな格好でいるのかも、何故あんなに走っていたのかも。なくしていたピースの一欠片一欠片が、埋まっていく。サラに人形の声が聞こえた理由がようやくわかった。自分自身が、人形だったのだ。
 意思もなく、両親に言われるがまま、されるがまま生きて。でも糸が切られたら切られたでどうすることも出来ず、彷徨って。こんな姿、人形そのものじゃないか──。

『あなた、わたしと同じ匂いがするの。ねぇ、あなたも、わたしと同じなんでしょう?』

 その通りだったのだ。持ち主にされるがまま、時が過ぎるのをただ待つだけのラブドール。ペパベールはそれに納得していた。きっと彼女はこれからも、センの欲求をその身体で満たしていくのだろう。

──……じゃあ、私は? 

「……っふ、ううぅっ……!」

 涙が溢れた。記憶が戻れば、どうにかなると思っていた。でも、そうではなかったのだ。いよいよ進路も退路も塞がれて、どうすることも出来ない──。

「……私……どうしたらいいの……」

 涙で前も見えない。サラは歩き出すことも出来ず、その場で力なく膝をついた。泣き声だけが、この細い路地でこだましていた。 
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