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霧囲
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あの人はいないのに、と、女は呟いた。あの人はもういないのに、と。女の言う「あの人」の姿をしているハドリーを見る眼すら、空ろで冷たい。
「…この人?」
「僕以上に人じゃあないけど、これだね。いい感じに壊れちゃってまあ」
ハドリーの声にはやや呆れが混じっているが、それでもまだ、面白がっている感じが残っている。余計に逆上させるんじゃないかなあ、と、シュムはひっそりとはらはらした。
だが女には、もう何も届かないようだった。シュムと「ハドリー」がいることにすら、気付いていないのかもしれない。
「僕にはよくわからないな。自分じゃない誰かが死んだくらいで、壊れるもの? 自分自身は痛くも痒くもないのにね」
シュムにとって、親しい人の死はまだ少ない。幼い日の曾祖母と、師範と呼ぶ武術の師と。他には、付き合いのある者の死はあっても、亡くしたことを引きずるほどに親しかった、というわけではなかった。
一時は親しい者との死に別れに怯えていたが、想像であって体験していたわけではない。
おそらく、と、シュムは思う。
大丈夫なのではないかと、今では思う。カイがシュムを置いていかないだろうということは心強いが、それだけでなく、誰と別れることになっても、案外どうにかやっていける気がする。古来、誰もがそうやって生きてきた。
もっとも、そのことに耐えられない人たちがいたことも知っている。シュム自身、そうなるのではないかと怯えていたのだから。
「あたしにもわからないけど、わかるような気はするよ」
「それ、矛盾してないかな?」
「きっと、あたしはそうはなれない。でも、想像はできる。気がする」
「なるほど。それは、人が僕らよりも優れている数少ないものの一つだろうね。いいことなのか悪いことなのかは、わからないけれど」
ハドリーの口ぶりは、何かを観察する学者のようだった。
そのことに苦笑しながら、シュムは、ふらふらと歩みを止めない女から目を離せずにいた。向こうは、こちらには気付いていないといっていいほどに興味を示していない。本当に、わからないのかも知れない。
かつては「ハドリー」のものだったのか、多少大きな服をまとっている。肩にかけているくたびれた布は、ローブの代わりだろうか。
「彼女の名前は?」
「へ?」
「ハドリー魔導師は、彼女をどう呼んでいた?」
躊躇ったのか探したのか、間を挟み、ハドリーは短く告げた。
興味の籠もった視線を感じながら、シュムは、その名で女に呼びかける。「ハドリー」以外にそう呼ばれることに逆上するかもしれないと、手は意識するまでもなく、腰に佩いた剣に触れていた。
「アンジェ」
ぴくりと、女の動きが止まる。夢を引きずったまま目覚めたかのように視線を彷徨わせ、シュムと――ハドリーに、目を留める。
呆然と見開かれた金色の瞳の奥に、じわりと、何かがにじみ出てきた。
「…嬢ちゃん」
「うーん、まずかったかな?」
女が呪詛じみた金切り声を上げるのと、ハドリーがひらりと踵を返したのは、ほぼ同時だった。そのまま、これもほぼ同時に、走り出す。ハドリーはともかく、女は、それまでのふらふらとした足取りが嘘のようだ。
シュムは眼中にないらしく、突然の追いかけっこから放り出され、一人残された。が、半瞬置いて、慌てて二人を追いかける。このままハドリーを見送っては、あまりにも申し訳ない。
霧は薄れ、走っていく二人の背中を見失わずに済みそうだった。
「…この人?」
「僕以上に人じゃあないけど、これだね。いい感じに壊れちゃってまあ」
ハドリーの声にはやや呆れが混じっているが、それでもまだ、面白がっている感じが残っている。余計に逆上させるんじゃないかなあ、と、シュムはひっそりとはらはらした。
だが女には、もう何も届かないようだった。シュムと「ハドリー」がいることにすら、気付いていないのかもしれない。
「僕にはよくわからないな。自分じゃない誰かが死んだくらいで、壊れるもの? 自分自身は痛くも痒くもないのにね」
シュムにとって、親しい人の死はまだ少ない。幼い日の曾祖母と、師範と呼ぶ武術の師と。他には、付き合いのある者の死はあっても、亡くしたことを引きずるほどに親しかった、というわけではなかった。
一時は親しい者との死に別れに怯えていたが、想像であって体験していたわけではない。
おそらく、と、シュムは思う。
大丈夫なのではないかと、今では思う。カイがシュムを置いていかないだろうということは心強いが、それだけでなく、誰と別れることになっても、案外どうにかやっていける気がする。古来、誰もがそうやって生きてきた。
もっとも、そのことに耐えられない人たちがいたことも知っている。シュム自身、そうなるのではないかと怯えていたのだから。
「あたしにもわからないけど、わかるような気はするよ」
「それ、矛盾してないかな?」
「きっと、あたしはそうはなれない。でも、想像はできる。気がする」
「なるほど。それは、人が僕らよりも優れている数少ないものの一つだろうね。いいことなのか悪いことなのかは、わからないけれど」
ハドリーの口ぶりは、何かを観察する学者のようだった。
そのことに苦笑しながら、シュムは、ふらふらと歩みを止めない女から目を離せずにいた。向こうは、こちらには気付いていないといっていいほどに興味を示していない。本当に、わからないのかも知れない。
かつては「ハドリー」のものだったのか、多少大きな服をまとっている。肩にかけているくたびれた布は、ローブの代わりだろうか。
「彼女の名前は?」
「へ?」
「ハドリー魔導師は、彼女をどう呼んでいた?」
躊躇ったのか探したのか、間を挟み、ハドリーは短く告げた。
興味の籠もった視線を感じながら、シュムは、その名で女に呼びかける。「ハドリー」以外にそう呼ばれることに逆上するかもしれないと、手は意識するまでもなく、腰に佩いた剣に触れていた。
「アンジェ」
ぴくりと、女の動きが止まる。夢を引きずったまま目覚めたかのように視線を彷徨わせ、シュムと――ハドリーに、目を留める。
呆然と見開かれた金色の瞳の奥に、じわりと、何かがにじみ出てきた。
「…嬢ちゃん」
「うーん、まずかったかな?」
女が呪詛じみた金切り声を上げるのと、ハドリーがひらりと踵を返したのは、ほぼ同時だった。そのまま、これもほぼ同時に、走り出す。ハドリーはともかく、女は、それまでのふらふらとした足取りが嘘のようだ。
シュムは眼中にないらしく、突然の追いかけっこから放り出され、一人残された。が、半瞬置いて、慌てて二人を追いかける。このままハドリーを見送っては、あまりにも申し訳ない。
霧は薄れ、走っていく二人の背中を見失わずに済みそうだった。
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