台風の目(仮)

来条恵夢

文字の大きさ
208 / 229
霧囲

5-4

しおりを挟む
 あの人はいないのに、と、女は呟いた。あの人はもういないのに、と。女の言う「あの人」の姿をしているハドリーを見る眼すら、うつろで冷たい。 
「…この人?」
「僕以上に人じゃあないけど、これだね。いい感じに壊れちゃってまあ」
 ハドリーの声にはやや呆れが混じっているが、それでもまだ、面白がっている感じが残っている。余計に逆上させるんじゃないかなあ、と、シュムはひっそりとはらはらした。
 だが女には、もう何も届かないようだった。シュムと「ハドリー」がいることにすら、気付いていないのかもしれない。
「僕にはよくわからないな。自分じゃない誰かが死んだくらいで、壊れるもの? 自分自身は痛くも痒くもないのにね」
 シュムにとって、親しい人の死はまだ少ない。幼い日の曾祖母と、師範と呼ぶ武術の師と。他には、付き合いのある者の死はあっても、くしたことを引きずるほどに親しかった、というわけではなかった。
 一時は親しい者との死に別れに怯えていたが、想像であって体験していたわけではない。
 おそらく、と、シュムは思う。
 大丈夫なのではないかと、今では思う。カイがシュムを置いていかないだろうということは心強いが、それだけでなく、誰と別れることになっても、案外どうにかやっていける気がする。古来、誰もがそうやって生きてきた。
 もっとも、そのことに耐えられない人たちがいたことも知っている。シュム自身、そうなるのではないかと怯えていたのだから。
「あたしにもわからないけど、わかるような気はするよ」
「それ、矛盾してないかな?」
「きっと、あたしはそうはなれない。でも、想像はできる。気がする」
「なるほど。それは、人が僕らよりも優れている数少ないものの一つだろうね。いいことなのか悪いことなのかは、わからないけれど」
 ハドリーの口ぶりは、何かを観察する学者のようだった。
 そのことに苦笑しながら、シュムは、ふらふらと歩みを止めない女から目を離せずにいた。向こうは、こちらには気付いていないといっていいほどに興味を示していない。本当に、わからないのかも知れない。
 かつては「ハドリー」のものだったのか、多少大きな服をまとっている。肩にかけているくたびれた布は、ローブの代わりだろうか。
「彼女の名前は?」
「へ?」
「ハドリー魔導師は、彼女をどう呼んでいた?」
 躊躇ためらったのか探したのか、間を挟み、ハドリーは短く告げた。
 興味のもった視線を感じながら、シュムは、その名で女に呼びかける。「ハドリー」以外にそう呼ばれることに逆上するかもしれないと、手は意識するまでもなく、腰にいた剣に触れていた。
「アンジェ」
 ぴくりと、女の動きが止まる。夢を引きずったまま目覚めたかのように視線を彷徨さまよわせ、シュムと――ハドリーに、目をめる。
 呆然と見開かれた金色の瞳の奥に、じわりと、何かがにじみ出てきた。
「…嬢ちゃん」
「うーん、まずかったかな?」
 女が呪詛じゅそじみた金切り声を上げるのと、ハドリーがひらりときびすを返したのは、ほぼ同時だった。そのまま、これもほぼ同時に、走り出す。ハドリーはともかく、女は、それまでのふらふらとした足取りが嘘のようだ。
 シュムは眼中にないらしく、突然の追いかけっこから放り出され、一人残された。が、半瞬置いて、慌てて二人を追いかける。このままハドリーを見送っては、あまりにも申し訳ない。
 霧は薄れ、走っていく二人の背中を見失わずに済みそうだった。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

処刑された王女、時間を巻き戻して復讐を誓う

yukataka
ファンタジー
断頭台で首を刎ねられた王女セリーヌは、女神の加護により処刑の一年前へと時間を巻き戻された。信じていた者たちに裏切られ、民衆に石を投げられた記憶を胸に、彼女は証拠を集め、法を武器に、陰謀の網を逆手に取る。復讐か、赦しか——その選択が、リオネール王国の未来を決める。 これは、王弟の陰謀で処刑された王女が、一年前へと時間を巻き戻され、証拠と同盟と知略で玉座と尊厳を奪還する復讐と再生の物語です。彼女は二度と誰も失わないために、正義を手続きとして示し、赦すか裁くかの決断を自らの手で下します。舞台は剣と魔法の王国リオネール。法と証拠、裁判と契約が逆転の核となり、感情と理性の葛藤を経て、王女は新たな国の夜明けへと歩を進めます。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

【本編完結】転生したら第6皇子冷遇されながらも力をつける

そう
ファンタジー
転生したら帝国の第6皇子だったけど周りの人たちに冷遇されながらも生きて行く話です

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね

竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。 元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、 王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。 代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。 父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。 カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。 その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。 ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。 「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」 そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。 もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。 

処理中です...